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小浜おばまけいたかし

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小浜おばま けいたかし
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん9ねん1540ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう2ねん9月7にち1597ねん10月17にち
別名べつめい 通称つうしょう:みん左衛門さえもん伊勢いせまもる
主君しゅくん 北畠きたばたけきょう武田たけだ信玄しんげん勝頼かつより徳川とくがわ家康いえやす
氏族しぞく 小浜おばま
光隆みつたか
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小浜おばま けいたかし(おはま かげたか)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての海賊かいぞく志摩しまこく出身しゅっしんで、のち武田たけだ信玄しんげん徳川とくがわ家康いえやすつかえた水軍すいぐんしょうである。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

小浜おばましゅはもと答志とうしぐん小浜おばまむら現在げんざい鳥羽とっぱ小浜おばままち)に本拠ほんきょき、伊勢湾いせわん勢力せいりょくっていた海賊かいぞく頭目とうもくで、伊勢いせ国司こくし北畠きたばたけぞくした。けいたかし大型おおがた軍船ぐんせんである安宅あたかせんち、北畠きたばたけ海賊かいぞくしゅうたばねていたが、織田おだ信長のぶなが援助えんじょけて志摩しまこく統一とういつねら九鬼くき嘉隆よしたかやぶれ、伊勢湾いせわんわれた。

もとかめ2ねん1571ねん)、武田たけだ水軍すいぐん創設そうせつにあたって武田たけだ信玄しんげん家臣かしん土屋つちやさだつな招聘しょうへいされ、信玄しんげん家臣かしんとしてつかえる。安宅あたかせん1そう小舟こぶね15そうもちふね大将たいしょうとなる。信玄しんげんぼつ武田たけだ勝頼かつよりつかえた。天正てんしょう10ねん1582ねん)3がつ武田たけだ滅亡めつぼうすると、徳川とくがわ家康いえやすふね大将たいしょうとしてつかえ、駿河するがこくうちで1500せきあたえられた。その向井むかいただしつな間宮まみやだかそくとらとともに本多ほんだ重次しげつぐ指揮しきにあって水陸すいりくりょうせん活躍かつやくし、とく小牧こまき長久手ながくてたたかでは海上かいじょうから羽柴はしば秀吉ひでよしくるしめた。天正てんしょう18ねん(1590ねん)の家康いえやす関東かんとううつりふう相模さがみ上総かずさで3000せきあたえられるとともに、江戸えどわんへの入口いりくちである相模さがみこく三浦みうらぐん三崎みさきむら現在げんざい神奈川かながわけん三浦みうら三崎みさきまち三崎みさき)に駐屯ちゅうとんし、三崎さんざきよんにんしゅ筆頭ひっとうとして、向井むかい間宮まみや千賀ちかとともにおもきをなした。向井むかいただしつな知行ちぎょうが2000せきであるから、小浜おばまけいたかし三崎みさきしゅう筆頭ひっとうとしてむかえられたとみてよい。ところがけいたかしさんさきよんにんしゅなかもっとはやぼっし、関ヶ原せきがはらたたか参戦さんせんしたのは光隆みつたかである。小浜おばまけいたかし三崎みさきていは、きゅう三崎みさきしろあるじ北条ほうじょう氏規うじのり家臣かしん南条なんじょう昌治しょうじ[1]南条なんじょう)のやしきで、現在げんざい曹洞宗そうとうしゅうほんみずてら[2]つたえる[3]慶長けいちょう2ねん(1597ねん)に死去しきょした。享年きょうねん58。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 南条なんじょう昌治しょうじ披露ひろうじょう本光寺ほんこうじ文書ぶんしょ), 南条なんじょう昌治しょうじ披露ひろうじょう, 戦国せんごく相模さがみ国人くにびとめい事典じてん
  2. ^ 三浦みうら市三いちぞうさき1丁目ちょうめほんみずてら
  3. ^ 鈴木すずきかほる『史料しりょうかた向井むかい水軍すいぐんとその周辺しゅうへん新潮社しんちょうしゃ図書としょ編集へんしゅうしつ 2014ねん 168ぺーじ