(Translated by https://www.hiragana.jp/)
小貫頼久 - Wikipedia コンテンツにスキップ

小貫おぬきよりゆきひさ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小貫おぬきよりゆきひさ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん13ねん1544ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう8ねん1603ねん3がつ
改名かいめい よりゆきやすよりゆきひさ
別名べつめい 通称つうしょう清三郎せいさぶろう
官位かんい 佐渡さわたりまもる大蔵おおくらすすむ
主君しゅくん 佐竹さたけ義重よししげ義宣よしのぶ
はん 出羽でわ久保田くぼたはん家老がろう
氏族しぞく 小貫おぬき
父母ちちはは ちち小貫おぬきよりゆきしゅん
つま 正室せいしつ:おかめ大和田おおわだしげるきよしむすめ
養子ようし:たよおも和田わだあきらため
テンプレートを表示ひょうじ

小貫おぬき よりゆきひさ(おぬき よりひさ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう佐竹さたけ家臣かしん出羽でわこく久保田くぼたはん家老がろう義弟ぎてい須田すだもりひさ

出自しゅつじ

[編集へんしゅう]

小貫おぬき鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん藤原ふじわらしげるきょうより20代目だいめにあたる小野崎おのざき13だい当主とうしゅ小野崎おのざきとおるはる次男じなんしょう貫通かんつうはくとする武門ぶもん末裔まつえい小野崎おのざきが2だい小野崎おのざきとおるちょうより佐竹さたけ臣従しんじゅうして以来いらい佐竹さたけ重臣じゅうしん一門いちもんである。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

義重よししげ時代じだい

[編集へんしゅう]

天文てんもん13ねん1544ねん)、小貫おぬきよりゆきしゅんとして誕生たんじょうえいろく12ねん1569ねん)、常陸ひたちこく南部なんぶ国境こっきょうさかい敵対てきたいする北条ほうじょう氏政うじまさ同盟どうめいした上杉うえすぎ謙信けんしんたいし(えつしょう同盟どうめい)、よりゆきひさたい北条ほうじょう政策せいさくとして謙信けんしんとの交渉こうしょうまかされる。これにより義重よししげは、もとかめ3ねん1572ねん)2がつ謙信けんしん和平わへいむすぶことに成功せいこうするが、上杉うえすぎ同盟どうめいむすんだことで佐竹さたけ甲斐かい武田たけだとのあいだ政治せいじてき緊張きんちょうまれる。そこで義重よししげは、同年どうねん12がつふたたよりゆきひさ(このときよりゆきやす)を使者ししゃとして甲斐かいつかわし、武田たけだ信玄しんげんとの交際こうさい復活ふっかつさせることにも成功せいこうした。

佐竹さたけ重要じゅうよう外交がいこう交渉こうしょうまかされていたよりゆきひさだが、軍事ぐんじめんでは佐竹さたけみなもとけい)がだいじょうたいらけい諸氏しょしほろぼし、常陸ひたち南部なんぶ軍事ぐんじ経済けいざい要衝ようしょうとして築城ちくじょうした堀之内ほりのうち大台おおだいじょう城代じょうだいまかされている。大台おおだいじょうだいじょうおよ南方なんぽうさんじゅうさんかん国人くにびとしゅ拠点きょてんたいする前線ぜんせん基地きちとしての機能きのうそなえており、佐竹さたけつねみなみ支配しはいのための巨大きょだい拠点きょてん城郭じょうかくであった。よりゆきひさだいじょう遺臣いしん家臣かしんれつくわえるなど苦心くしんするも、大台おおだいじょう佐竹さたけ秋田あきたてんふうだいじょう遺臣いしんきゅう領民りょうみん破壊はかいされている。

一方いっぽうで、関東かんとう東北とうほく情勢じょうせいは、陸奥みちのくこくあしめい盛氏もりうじ下総しもうさこく結城ゆうき晴朝はるとも相模さがみこく武蔵むさしこく北条ほうじょう氏政うじまさ氏直うじなお父子ふしなどの従来じゅうらいしょ勢力せいりょくくわえ、陸奥みちのく伊達だてまさしむね台頭たいとう看過かんかできないほどに影響えいきょうりょくし、義重よししげ奥州おうしゅうしょ大名だいみょう連合れんごうぐん参加さんか跡継あとつぎのえたあしめい次男じなんあしめい義広よしひろ養子ようしとしてれるなど、外交がいこう政策せいさくはんせいむね体制たいせい重視じゅうし移行いこうするにいたる。

天正てんしょう17ねん1589ねん)、あしめい義広よしひろすり上原うえはらたたかにおいて伊達だて大敗たいはいきっし、白河しらかわ結城ゆうき石川いしかわといった陸奥むつ南部なんぶしょ大名だいみょう伊達だて寝返ねがえる。これにより佐竹さたけみなみから北条ほうじょう氏直うじなおきたから伊達だてまさしそうという2だい勢力せいりょくはさまれ、滅亡めつぼう危機ききたされた。ここにあって同年どうねん義重よししげ長男ちょうなん義宣よしのぶ家督かとくゆずって隠居いんきょした。が、なおも実権じっけんにぎったままであった。

義宣よしのぶ時代じだい

[編集へんしゅう]

このころ中央ちゅうおうでは豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる天下てんか統一とういつ事業じぎょうがほぼ完成かんせいており、天正てんしょう18ねん1590ねん)、かねてから懇意こんいにしていた豊臣とよとみ秀吉ひでよしたい北条ほうじょうせん小田原おだわら征伐せいばつはじまると、義重よししげ義宣よしのぶとも小田原おだわら秀吉ひでよしさんじんし、石田いしだ三成みつなりによる武蔵むさしにんじょうくわわった。その奥州おうしゅう仕置しおきにもしたがったことから、義重よししげ秀吉ひでよしから常陸ひたち54まん5000せき支配しはいけんみとめられ、一気いっき状況じょうきょう挽回ばんかいすることに成功せいこうした。直後ちょくご秀吉ひでよし後押あとおしもあって常陸ひたち国内こくない反乱はんらん分子ぶんし一挙いっきょ駆逐くちくし、常陸ひたち統一とういつげる。常陸ひたち平定へいていよりゆきひさぶんろくやくにも参戦さんせん渡海とかいした。

ぶんろく4ねん1595ねん)の知行ちぎょうわりがえ佐竹さたけさん奉行ぶぎょう一人ひとり選任せんにんよりゆきひさは、和田わだあきらため同族どうぞく人見ひとみふじみちとも義宣よしのぶさん奉行ぶぎょうとして佐竹さたけささえ、よりゆきひさ自身じしんとく外交がいこうめんにおいて才能さいのう発揮はっきした。

久保田くぼたはん時代ときよ

[編集へんしゅう]

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかでは、義宣よしのぶはかねてから懇意こんいにあった石田いしだ三成みつなり西にしぐんこうとしたが、時流じりゅうていたちち義重よししげ徳川とくがわ家康いえやすひがしぐんくみするようにべ、父子ふし対立たいりつする。このため、義宣よしのぶはどちらにもくともいえない曖昧あいまい態度たいどり、戦後せんご慶長けいちょう7ねん1602ねん)に佐竹さたけ出羽でわ久保田くぼた20まん5000せきげんてんふうされた。このげんてんふうともない、よりゆきひさ秋田あきたおもむいた。そのため、小貫おぬき小野崎おのざき茨城いばらきけん秋田あきたけんおおいといわれ、茨城いばらきけんには小貫おぬき地名ちめいかんした土地とち建物たてものおおく、また秋田あきたはんには小貫おぬきれつめいしている。

慶長けいちょう8ねん1603ねん)、死去しきょ佐竹さたけ義重よししげとはほぼどう時期じき生誕せいたん死去しきょしており、佐竹さたけ全盛期ぜんせいきをきずきあげた義重よししげ行跡ぎょうせきとも経験けいけんした。