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山崎やまざき保代やすよ

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山崎やまざき 保代やすよ
生誕せいたん 1891ねん10月17にち
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく,山梨やまなしけん
死没しぼつ (1943-05-29) 1943ねん5月29にち(51さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく,アッツとう
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1913 - 1943
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう
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山崎やまざき 保代やすよ(やまざき やすよ、1891ねん10月17にち - 1943ねん5月29にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん中将ちゅうじょう太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそうちゅうアッツとうたたか指揮しきし17日間にちかんはげしい抗戦こうせんのち戦死せんしした。

経歴けいれき

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山梨やまなしけん南都留みなみつるぐん禾生むらげん都留つる出身しゅっしん[1]現在げんざい都留つるよんにち市場いちば寿ことぶきいん住職じゅうしょく山崎やまざきげんほら二男じなんとしてうまれる。日川にっかわ中学校ちゅうがっこう名古屋なごや陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこうて、1913ねん大正たいしょう2ねん)5がつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(25)を卒業そつぎょう同年どうねん12がつ陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょうい任官にんかん歩兵ほへいだい15連隊れんたいつけとなる。1918ねん大正たいしょう7ねん)4がつから1920ねん大正たいしょう9ねん)12がつまでシベリア出兵しゅっぺい従軍じゅうぐんどう連隊れんたい大隊だいたい副官ふっかん中隊ちゅうたいちょうつとめ、1928ねん昭和しょうわ3ねん)5がつすみみなみ事変じへん出動しゅつどう以後いごどう連隊れんたい沼田ぬまた中学校ちゅうがっこう配属はいぞく将校しょうこう大隊だいたいちょう歴任れきにんし、歩兵ほへいだい50連隊れんたい補充ほじゅう隊長たいちょうだい36師団しだん兵器へいき部長ぶちょうなどを歴任れきにん1940ねん昭和しょうわ15ねん)3がつ陸軍りくぐん歩兵ほへい大佐たいさ進級しんきゅう歩兵ほへいだい130連隊れんたいちょう拝命はいめい

1943ねん昭和しょうわ18ねん)2がつ北海ほっかい守備しゅびだい2地区ちく隊長たいちょう任命にんめいされ31アッツとう着任ちゃくにんした。

アッツとうたたかでは2,650めい守備しゅびたい指揮しき水際みずぎわ防御ぼうぎょではなく、のちのペリリューとうたたか硫黄いおうとうたたかおなじくてきしま内部ないぶ高地こうち戦略せんりゃく採用さいよう陣地じんち構築こうちくした。これに、もともとの険阻けんそ地形ちけい濃霧のうむだしがちな気象きしょう条件じょうけんとあいまって、戦闘せんとう過酷かこくなものとなった[2]上陸じょうりくしたアメリカぐんとの戦闘せんとうは、日本にっぽんぐんがわからの攻撃こうげき最後さいご自殺じさつてき突撃とつげきのようなかたちおわるまでつづけられ、一般いっぱんにはこれが最初さいしょ日本にっぽんぐん玉砕ぎょくさいとしてかたられ、太平洋戦争たいへいようせんそう激戦げきせんのひとつとして記憶きおくされることとなった。

山崎やまざき歩兵ほへい1個いっこ大隊だいたいはん援軍えんぐん弾薬だんやく食糧しょくりょうとう物資ぶっし支援しえん要請ようせい上級じょうきゅう北方ほっぽうぐん司令しれいかん樋口ひぐちいちろう中将ちゅうじょう大本営だいほんえいにかけい、いったんは増援ぞうえん約束やくそくけたものの、悪天候あくてんこう海軍かいぐんがわ消極しょうきょく姿勢しせい結果けっか大本営だいほんえい最終さいしゅうてきにこれを実行じっこうすることは困難こんなん判断はんだん増援ぞうえん計画けいかく中止ちゅうしされ、日本にっぽんぐん守備しゅびたい孤立こりつによる食糧しょくりょう兵力へいりょく不足ふそくおちいった。5月20にち北方ほっぽうぐん樋口ひぐち司令しれいかんから山崎やまざき部隊ぶたいちょう支援しえん中止ちゅうし謝罪しゃざい連絡れんらくが、ついで同月どうげつ23にちには北方ほっぽうぐんから玉砕ぎょくさい覚悟かくごのぞむとの電文でんぶんまではいることとなった[3]

1943ねん5がつ29にち日本にっぽんぐん野戦やせん病院びょういんうごけないもの自決じけつさせられるか処分しょぶんされることとされ、山崎やまざき部隊ぶたいちょう守備しゅびたい生存せいぞんしゃ本部ほんぶまえあつまるよう命令めいれい最後さいごあさひわんマサカーわんちかくの臥牛山がぎゅうさん附近ふきんのアメリカぐん陣地じんち攻撃こうげきおこなった。山崎やまざき右手みぎて軍刀ぐんとう左手ひだりてまるぬのって攻撃こうげき部隊ぶたい先頭せんとうち、満身まんしん創痍そうい将兵しょうへいやく300~400めいのちつづいた[4]やま斜面しゃめんすすみ、当初とうしょきりまぎれてアメリカぐん哨戒しょうかいせんなかすすみ、スピーカーからながれる降伏ごうぶく勧告かんこく無視むしして突撃とつげきし、アメリカぐん陣地じんち白兵戦はくへいせんいどもうとした[4]。アメリカぐんにおける報告ほうこくによれば、ほとんど全員ぜんいんなんらかの負傷ふしょうっているらしく、日本にっぽんへいらはあしきずるかひざをするようにして、ゆっくりとしかちかづいてれなかったとされている[4]。いずれにせよ、降伏ごうぶく勧告かんこく銃撃じゅうげきにもにもかかわらず次第しだいちかづいてくる日本にっぽんぐん将兵しょうへいらにアメリカぐんはついに砲火ほうか集中しゅうちゅう攻撃こうげき部隊ぶたい壊滅かいめつ山崎やまざき戦死せんしし、アッツとう守備しゅびたい玉砕ぎょくさいした[4]

死後しごかいきゅう特進とくしんし、陸軍りくぐん中将ちゅうじょう進級しんきゅう[5]援軍えんぐん要請ようせいしていた山崎やまざきであったが、大本営だいほんえいからは「山崎やまざき大佐たいさはただのいちへい援軍えんぐんもとめませんでした」と発表はっぴょうされた。なお、戦後せんご遺骨いこつ収集しゅうしゅうさい攻撃こうげき部隊ぶたい一番いちばん先頭せんとう遺品いひん遺骨いこつ確認かくにんされたのは山崎やまざきである。[よう出典しゅってん]

保代やすよぼつ1954ねん昭和しょうわ29ねん)には、父親ちちおや山崎やまざきげんほらにより生家せいか寿ことぶきいん境内けいだいに「アッツ観音かんのん」が建立こんりゅうされる。1994ねん平成へいせい6ねん)にはさらに石碑せきひ建立こんりゅうされている。

せいかたは「やまざき」で次男じなん保之やすゆきちち保代やすよ戦死せんしから2週間しゅうかん学生がくせい航空こうくうたい宣誓せんせい映像えいぞうにて確認かくにんれる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ山崎やまざき軍神ぐんしん部隊ぶたい朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1944ねん5がつ20日はつか、62ぺーじ 
  2. ^ 日本にっぽんぐんの4ばい以上いじょう兵力へいりょくでアメリカぐんがアッツとう上陸じょうりくはげしい抵抗ていこうもむなしく日本にっぽんぐん玉砕ぎょくさい! | 歴史れきしじん”. 株式会社かぶしきがいしゃABCアーク. 2023ねん8がつ13にち閲覧えつらん
  3. ^ 118.アッツとう玉砕ぎょくさい(8) それはおおうばかりの残酷ざんこくで、悲惨ひさんで、恐怖きょうふちていた”. midway25. 2023ねん8がつ13にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d 戦争せんそう研究けんきゅう国際こくさいフォーラム                       16”. 防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ. p. 16. 2023ねん8がつ15にち閲覧えつらん
  5. ^ 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ山崎やまざき軍神ぐんしん部隊ぶたい朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1944ねん5がつ20日はつか、95ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 水島みずしま周平しゅうへい松下まつした芳男よしお山崎やまざき部隊ぶたいちょう内外ないがい書房しょぼう、1944ねん
  • はたいくへん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん
  • 福川ふくかわ秀樹ひでき日本にっぽん陸軍りくぐん将官しょうかん辞典じてん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、2001ねん
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねん
  • 東雲しののめくによし『陸軍りくぐん中将ちゅうじょう 樋口ひぐちいちろう決断けつだん』WAC、2024ねん

関連かんれん項目こうもく

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