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平維良たいらのこれよし

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平維良たいらのこれよし
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 治安ちあん2ねん4がつ13にち1022ねん5月16にち[1]
別名べつめい だいじょう維良
官位かんい 鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん
氏族しぞく 桓武かんむたいらくにながれ常陸ひたちたいら
父母ちちはは ちちひらたけんただし
兄弟きょうだい 維良維茂?、こう
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ひら 維良(たいら の これよし)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき武将ぶしょうだいじょう維良ともばれる。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

ひらたけんただしだが『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』にはえない。

長保ながほ5ねん1003ねん下総しもうさ国府こくふ焼討やきうちしてかんぶつ掠奪りゃくだつしたかどで押領使藤原ふじわらおもんみふうついけ、越後えちごこく逃亡とうぼうした。その財力ざいりょくによって鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん任官にんかんされる。この背景はいけいとして、けんただし・維良父子ふし藤原ふじわら道長みちながちかく、襲撃しゅうげきされた下総しもうさまもるみや道義みちよしぎょう藤原ふじわらみのるちかかったことから、道長みちながじつ権力けんりょくあらそいのなか不問ふもんされた可能かのうせい指摘してきされている[2]

長和ながわ3ねん1014ねん)には鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん重任じゅうにんるため、藤原ふじわら道長みちながうま20疋他豪華ごうかみつものおこない、門前もんぜんにはそれをようとする見物人けんぶつにんれつをなしたという[3]

野口のぐちみのるは、『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうまきだい25だい4「平維茂たいらのこれもち郎党ろうとうころされはなし」、だい5「平維茂たいらのこれもち藤原ふじわらしょにんばっちたるかたり」に登場とうじょうする将軍しょうぐん平維茂たいらのこれもちけんちゅうどう一人物いちじんぶつとするせつ展開てんかいしている[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus
  2. ^ 加藤かとう友康ともやす平安へいあん時代じだい大隅おおすみ薩摩さつま-ひと交流こうりゅう交易こうえき情報じょうほう伝達でんたつ媒介ばいかいにしてかんがえる-」初出しょしゅつ:『黎明れいめいかん調査ちょうさ研究けんきゅう報告ほうこく』17ごう、2004ねん/所収しょしゅう:倉本くらもと一宏かずひろ へん王朝おうちょう時代じだい実像じつぞう1 王朝おうちょう再読さいどく』(臨川りんせん書店しょてん、2021ねんISBN 978-4-653-04701-8 2021ねん、P413-415.
  3. ^ しょう右記うき長保ながほ3ねん2がつ7にちじょう
  4. ^ 野口のぐちみのる平維茂たいらのこれもち平維良たいらのこれよし」『中世ちゅうせい東国とうごく武士ぶしだん研究けんきゅう高科たかしな書店しょてん、1994ねん