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ちょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ちょう

ちょう (ちょう き、150ねん - 219ねん)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっき官僚かんりょう医師いしちょうとも。なかけい荊州南陽なんようぐん涅陽けんひとちょうなかけいとしてられ、その功績こうせきからきよしとなえられている。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ちょう親孝行おやこうこう清廉せいれんであったため、こうれん推挙すいきょされてたてやすし年間ねんかん196ねん - 220ねん初期しょきにはちょうすな太守たいしゅであったという(なお、191ねんまではまごけんちょうすな太守たいしゅつとめ、198ねんにはちょうすな太守たいしゅちょうともりゅうひょう反乱はんらんこしている)。

青年せいねん時代じだい同郷どうきょうちょうはくから医術いじゅつまなんだ。こうかん末期まっき混乱こんらんとそれにちをかける疫病えきびょう(200にんいた親族しんぞくのうち3ぶんの2が10年間ねんかんのうちに疫病えきびょうによって死亡しぼうし、うち7わりが「傷寒しょうかんびょう」だったという)にしんいため、かん退しりぞいて医学いがく研鑽けんさんつとめることになった。

ちょう医学いがく医道いどう精通せいつうして治療ちりょうにあたると同時どうじに、謹厳きんげんさと柔軟じゅうなんせいつよ責任せきにんかんつことをむねとし、先人せんじん知識ちしき尊重そんちょうしつつも患者かんじゃ個々ここ症状しょうじょうおうじて独創どくそうてき治療ちりょうこころみたとわれている。

古代こだいからつたわる医学いがく知識ちしきみずからの経験けいけんをもとに『傷寒しょうかんざつびょうろん[1]』(のちに『傷寒しょうかんろん』と『きむ要略ようりゃくかたろん』に分割ぶんかつされた)をあらわし、後々あとあとまで漢方かんぽう医学いがくもっと重要じゅうよう文献ぶんけんとなった。

河南かなんしょう南陽なんようあてぐすく順治じゅんじ13ねん墓碑ぼひがあり、「ひがしかんちょうすな太守たいしゅきよしちょうなかけい先生せんせいはか」と大書たいしょされ、祠堂しどうてられている。全国ぜんこく重点じゅうてん文物ぶんぶつ保護ほご単位たんい

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ウィキソース出典 ちょうなかけい (中国ちゅうごく), 傷寒しょうかんざつびょうろん, ウィキソースより閲覧えつらん