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情緒じょうちょ主義しゅぎ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

情緒じょうちょ主義しゅぎ(じょうちょしゅぎ、えい: emotivism)は、倫理りんりてきぶん命題めいだいではなく、情緒じょうちょてき態度たいど表現ひょうげんすると主張しゅちょうするメタ倫理りんりがく見解けんかいである[1][2][3]。そのため、口語こうごてきには万歳ばんざい・くたばれせつとしてられている[4]各々おのおの道徳どうとく判断はんだん個々人ここじんこのみや感情かんじょう表明ひょうめいぎないとする立場たちばであるため、道徳どうとく客観きゃっかんてき合理ごうりせいつものではないとして、理性りせい把握はあくするような道徳どうとく法則ほうそく想定そうていしていない。20世紀せいきにおける分析ぶんせき哲学てつがく論理ろんり実証じっしょう主義しゅぎ成長せいちょう影響えいきょうけ、この理論りろんアルフレッド・エイヤーによって1936ねんかれ著書ちょしょ言語げんご真理まり論理ろんり』であざやかに表現ひょうげんされたが[5]、 その発展はってんチャールズ・スティーブンソンによるものがおお[6]

情緒じょうちょ主義しゅぎ認知にんち主義しゅぎあるいは表現ひょうげん主義しゅぎ英語えいごばんいち形態けいたいなすことができる。それは認知にんち主義しゅぎ形態けいたい擬似ぎじ現実げんじつ主義しゅぎ英語えいごばん[7][8]普遍ふへんてき指令しれい主義しゅぎ)と、すべての認知にんち主義しゅぎ形態けいたい道徳どうとくてき現実げんじつ主義しゅぎ倫理りんりてき主観しゅかん主義しゅぎ英語えいごばんふくむ)と対立たいりつしている[よう出典しゅってん]

1950年代ねんだいに、情緒じょうちょ主義しゅぎリチャード・マーヴィン・ヘア普遍ふへんてき指令しれい主義しゅぎ修正しゅうせいされたかたちあらわれた[9][10]

歴史れきし

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デイヴィッド・ヒューム倫理りんりかんする発言はつげんは、20世紀せいき情緒じょうちょ主義しゅぎしゃたちのそれを先取さきどりしたものであった。

情緒じょうちょ主義しゅぎは20世紀せいき初頭しょとう隆盛りゅうせいきわめたが、その起源きげんなに世紀せいきまえさかのぼる。1710ねんに、ジョージ・バークリーは、言語げんご一般いっぱん感情かんじょう喚起かんきするだけでなく、アイデアを伝達でんたつする手段しゅだんとしてよく使つかわれるとべた[11]なにじゅうねんになって、デイヴィッド・ヒュームはスティーブンソンがしたのちのアイデアにかんがえを主張しゅちょうした[12]かれの1751ねん著書ちょしょ道徳どうとく原理げんり研究けんきゅう英語えいごばん』では、ヒュームは道徳どうとく事実じじつとは関連かんれんがないものとし、「感情かんじょうによって決定けっていされる」とかんがえた。

道徳どうとく議論ぎろんにおいて、我々われわれはすべての対象たいしょうとそれらの相互そうご関係かんけい事前じぜんっていなければならない。そして全体ぜんたい比較ひかくし、選択せんたくみとめどうさだめる。…我々われわれがそのひと攻撃こうげきしゃかどうかをらないのであれば、そのひところしたひと犯罪はんざいしゃ無実むじつかをどのように決定けっていすることができるだろう?しかし、すべての状況じょうきょう、すべての関係かんけいあきらかになったのち理解りかいがさらにはたら余地よちはなく、それが作用さようする対象たいしょうもない。そのつづみとめどうまたは非難ひなんは、判断はんだん仕事しごとではなく、しん仕事しごとであり、それは推測すいそくてき命題めいだい主張しゅちょうではなく、活動かつどうてき感情かんじょう感情かんじょうである[13]

ジョージ・エドワード・ムーアは1903ねんに『倫理りんりがく原理げんり』を発表はっぴょうし、倫理りんりてき自然しぜん主義しゅぎしゃ英語えいごばんたちが倫理りんりてき用語ようご(「い」や「わるい」など)を倫理りんりてき用語ようご(「よろこばせる」や「落胆らくたんさせる」など)に翻訳ほんやくしようとするこころみは「自然しぜん主義しゅぎ誤謬ごびゅう」をおかしていると主張しゅちょうした。ムーアは認知にんち主義しゅぎしゃだったが、かれ倫理りんりてき自然しぜん主義しゅぎへの反論はんろん哲学てつがくしゃたちを認知にんち主義しゅぎとく情緒じょうちょ主義しゅぎへとかわせた[14]

20世紀せいき初頭しょとう論理ろんり実証じっしょう主義しゅぎ興隆こうりゅうと、その意味いみ検証けんしょう可能かのうせい基準きじゅん英語えいごばん出現しゅつげんは、一部いちぶ哲学てつがくしゃに、経験けいけんてき検証けんしょうができない倫理りんりてき主張しゅちょう認知にんちてき意味いみがないと結論けつろんけさせた。この基準きじゅんは、アルフレッド・エイヤーが『言語げんご真理まり論理ろんり』で実証じっしょう主義しゅぎ擁護ようごし、情緒じょうちょ主義しゅぎかれ主張しゅちょうべたものにとって基本きほんてきなものだった[15]。しかし、情緒じょうちょ主義しゅぎ自体じたいには実証じっしょう主義しゅぎ必要ひつようというわけではなく、とくにエイヤーのかたちではそうでもない[16]、そしてエイヤーにおおきな影響えいきょうあたえたウィーンがくだん一部いちぶ実証じっしょう主義しゅぎしゃ情緒じょうちょ主義しゅぎしゃ見解けんかいっていた[17]

リチャード・マーヴィン・ヘアは1952ねんの「道徳どうとく言語げんご」でかれ倫理りんり学理がくりろんである普遍ふへんてき指示しじせつ展開てんかい[18]、スティーヴンソンがときには道徳どうとくてき論争ろんそう心理しんりてきでなく理性りせいてきであるとかんがえていた「プロパガンダ」にたいする合理ごうりてき道徳どうとくてき論争ろんそう重要じゅうようせい弁護べんごしようとした[19]。しかし、ヘアの反対はんたい普遍ふへんてきなものではなく、かれ認知にんちろんてき理論りろん情緒じょうちょ主義しゅぎろんてきなものとのあいだにある類似るいじせいとくかれとスティーヴンソンの主張しゅちょう、すなわち道徳どうとくてき判断はんだん命令めいれいふくんでおり、したがって純粋じゅんすい記述きじゅつてきではないという事実じじつは、一部いちぶ人々ひとびとかれ情緒じょうちょ主義しゅぎしゃとみなす原因げんいんとなった。これはかれ否定ひていした分類ぶんるいである。

わたしは、事実じじつ情緒じょうちょ主義しゅぎしゃたちが記述きじゅつ主義しゅぎ否定ひていするところについてはかれらに賛同さんどうしてきた。しかし、わたし情緒じょうちょ主義しゅぎしゃではない。が、よくそうばれてきた。しかし、かれらの反対はんたいしゃ大半たいはんとはことなり、わたしかれらの記述きじゅつ主義しゅぎではなく、かれらの非合理ひごうり主義しゅぎあやまりであると認識にんしきしていた。だから、わたしおも課題かだいは、命令めいれいがた、つまりもっと簡単かんたん種類しゅるい規定きていが、記述きじゅつてきではない一方いっぽう論理ろんりてき制約せいやくけることができるという合理ごうり主義しゅぎてき記述きじゅつ主義しゅぎつけることだった[20]

支持しじしゃ

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情緒じょうちょ主義しゅぎ影響えいきょうりょくのある論述ろんじゅつは、チャールズ・ケイ・オグデンアイヴァー・リチャーズが1923ねん言語げんごについての書籍しょせき意味いみ意味いみ英語えいごばん』で、そして1934ねんW. H. F. バーンズA. ダンカン-ジョーンズ独立どくりつした倫理りんりかんする作品さくひんべた[21]。しかしながら、エイヤーやとくにスティーブンソンののち作品さくひんが、この理論りろんもっと発展はってんした議論ぎろん擁護ようごとなっている。

アルフレッド・エイヤー

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アルフレッド・エイヤー情緒じょうちょ主義しゅぎのバージョンは、『言語げんご真理まり論理ろんり』のだい6しょう倫理りんり神学しんがく批判ひはん」にしるされている。このしょうでエイヤーは「通常つうじょう倫理りんりシステム」を4つのクラスにけている[22]

  1. 倫理りんりてき用語ようご定義ていぎ表現ひょうげんする命題めいだい、または特定とくてい定義ていぎ正当せいとうせい可能かのうせいについての判断はんだん
  2. 道徳どうとく体験たいけん現象げんしょうとその原因げんいん記述きじゅつする命題めいだい
  3. 道徳どうとくてき美徳びとくへの励行れいこう
  4. 実際じっさい倫理りんり判断はんだん

かれだいいちクラスの命題めいだい、すなわち道徳どうとく判断はんだん焦点しょうてんてていて、だいクラスの命題めいだい科学かがくぞくし、だいさんクラスの命題めいだいたんなる命令めいれいであり、だいよんクラスの命題めいだいは(規範きはん倫理りんりがく対照たいしょうてきメタ倫理りんりがく考察こうさつされる)倫理りんり哲学てつがくにとっては具体ぐたいてきすぎる。だいさんクラスの命題めいだいはエイヤーの情緒じょうちょ主義しゅぎには無関係むかんけいであったが、のちにスティーブンソンのなか重要じゅうよう役割やくわりたすことになる。

エイヤーは、道徳どうとく判断はんだん倫理りんりてき経験けいけんてき用語ようご翻訳ほんやくすることができず、したがって検証けんしょうすることができないと主張しゅちょうする。これにおいてかれ倫理りんりてき直観ちょっかん主義しゅぎしゃ英語えいごばんどう意見いけんである。しかし、かれは「価値かちな」直観ちょっかんうったえることを放棄ほうきするため、直観ちょっかん主義しゅぎしゃとはことなる[23]。なぜならば一人ひとり人間にんげん直観ちょっかんはしばしばひとのそれと矛盾むじゅんするからである。わりに、エイヤーは倫理りんりてき概念がいねんは「たんなる擬似ぎじ概念がいねん」であると結論けつろんづけている。

倫理りんりてき記号きごう存在そんざいは、命題めいだい事実じじつてき内容ないようなにくわえない。だから、もしわたしだれかに「そのおかねぬす行為こうい間違まちがっていた」とったとしたら、わたしは「おかねぬすんだ」とだけった場合ばあい以上いじょうのことはべていない。その行為こうい間違まちがっているという追加ついかてきなことをうことで、わたしはそれについてさらになにかをべているわけではない。わたしはただ、それにたいする道徳どうとくてき非難ひなん表明ひょうめいしているだけだ。それはわたし特別とくべつ恐怖きょうふ調子ちょうしで「おかねぬすんだ」とったか、あるいはなに特別とくべつ感嘆かんたん追加ついかしてそれをいたかのようなものだ。…もしわたし以前いぜん発言はつげん一般いっぱんして「おかねぬすむことは間違まちがっている」とったとしたら、わたし事実じじつてき意味いみたないぶんす—それは、しんにせかを表現ひょうげんできる命題めいだい表現ひょうげんしていない。…わたしたん特定とくてい道徳どうとくてき感情かんじょう表現ひょうげんしているだけだ[24]

エイヤーは主観しゅかん主義しゅぎしゃ英語えいごばん同様どうように、倫理りんりてき発言はつげん必然ひつぜんてき個々ここ態度たいどと「関連かんれんしている」と主張しゅちょうするが、それらはそれらの態度たいどかんする「命題めいだい」として適切てきせつ理解りかいされることができないため、真理しんりいているとかれう。エイヤーは倫理りんりてき文章ぶんしょう承認しょうにんの「表現ひょうげん」であり、「主張しゅちょう」ではないとかんがえている。承認しょうにん主張しゅちょうつね承認しょうにん表現ひょうげんともなっておこなわれるかもしれないが、主張しゅちょうをせずに表現ひょうげんおこなうことができる。エイヤーのれい退屈たいくつで、これは明示めいじてき主張しゅちょうである「わたし退屈たいくつしている」として、またはこえ調子ちょうし体言たいげん、およびのさまざまな口頭こうとう発言はつげんふく主張しゅちょうつうじて表現ひょうげんすることができる。かれ倫理りんりてき発言はつげん後者こうしゃ種類しゅるい表現ひょうげんなしており、したがって「ぬすみは間違まちがっている」というフレーズは、「わたしぬすみを承認しょうにんする」という命題めいだい等価とうかではないが、不承認ふしょうにん表現ひょうげんである命題めいだいてきぶんである。

かれ倫理りんり理論りろん認識にんしきてきであり、主観しゅかんてきではないと主張しゅちょうしたのち自身じしん立場たちば主観しゅかん主義しゅぎジョージ・エドワード・ムーア主張しゅちょう、つまり倫理りんりてき論争ろんそうあきらかにしん論争ろんそうであり、たんなる反対はんたい感情かんじょう表現ひょうげんではないという主張しゅちょうおなさま直面ちょくめんしているとれる。エイヤーの擁護ようごは、すべての倫理りんりてき論争ろんそう価値かち体系たいけい適用てきようかんする「事実じじつ」についてであり、価値かち体系たいけい自体じたいについてではない、ということである。なぜなら、価値かちかんする任意にんい論争ろんそうは、ひとつの価値かち体系たいけいのものよりすぐれていると判断はんだんすることによってのみ解決かいけつでき、この判断はんだん自体じたい共有きょうゆうされた価値かち体系たいけい前提ぜんていとしているからである。もしムーアが「価値かち」の実際じっさい意見いけん相違そういについて間違まちがっているなら、わたしたちは「事実じじつ」の実際じっさい意見いけん相違そういがあるという主張しゅちょう直面ちょくめんしており、エイヤーはこれを躊躇ちゅうちょなくれる。

もし我々われわれたい特定とくていのタイプ「t」にたいする道徳どうとくてき承認しょうにん我々われわれとも表現ひょうげんするならば、我々われわれはAがタイプtであるとしめ議論ぎろん提出ていしゅつすることで、かれ特定とくてい行動こうどうAを非難ひなんさせることができる。なぜならAがそのタイプにぞくしているかどうかは明確めいかく事実じじつ問題もんだいだからだ[25]

チャールズ・スティーブンソン

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スティーブンソン作品さくひんは、エイヤーの見解けんかい発展はってんとして、また、「2つの広範こうはん倫理りんりてき情緒じょうちょ主義しゅぎかた」のひとつの代表だいひょうとしてられてきた[26][27]分析ぶんせき哲学てつがくしゃであるスティーブンソンは、かれの1937ねんのエッセイ「倫理りんり用語ようご情緒じょうちょてき意味いみ」で、任意にんい倫理りんり理論りろんが3つのことを説明せつめいすべきだと提案ていあんした。道徳どうとくてきいにたいする知的ちてき意見いけん相違そういこること、い」のような道徳どうとくてき用語ようご行動こうどう奨励しょうれいする「磁石じしゃく」であること、そして科学かがくてき方法ほうほう道徳どうとくてき主張しゅちょう検証けんしょうするのに不十分ふじゅうぶんであることである[28]。スティーブンソン自身じしん理論りろんは、かれの1944ねん書籍しょせき倫理りんり言語げんご英語えいごばん」で完全かんぜん展開てんかいされた。そのなかで、かれはエイヤーと同様どうように、倫理りんりてき文章ぶんしょうはな感情かんじょう表現ひょうげんすると同意どういし、しかし、それらはまたききて感情かんじょうえることを意図いとした命令めいれいがた要素ようそっており、この要素ようそはより重要じゅうようであるとかれ主張しゅちょうする[29]。エイヤーが価値かちかん基本きほんてき心理しんりてき傾向けいこうについてかたるが、スティーブンソンは態度たいどについてかたり、エイヤーが事実じじつ意見いけん相違そうい、つまり、特定とくていのケースに特定とくてい価値かちかん適用てきようすることについての合理ごうりてき論争ろんそうについてかたるが、スティーブンソンは信念しんねんちがいについてかたっている。これらの概念がいねん同一どういつである[30]用語ようごのぞけば、スティーブンソンは倫理りんりてき主張しゅちょうを2つの分析ぶんせきパターンにしたがって解釈かいしゃくする。

だいいちパターンの分析ぶんせき

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かれだいいちパターンの分析ぶんせきによれば、倫理りんりてき声明せいめいには2つの部分ぶぶんがある。はな態度たいど宣言せんげんとそれを反映はんえいするための命令めいれいであるため、「『これはい』はわたしはこれを承認しょうにんする。おなじようにせよ」意味いみする[31]ぶん前半ぜんはん部分ぶぶん命題めいだいであるが、命令めいれいがた半分はんぶんはそうではないため、スティーブンソンの倫理りんりてきぶん翻訳ほんやく認識にんしきろんてきなものとなる。

命令めいれいがた証明しょうめいされることはできないが、それでも支持しじされることはできるため、ききてはそれらがまった恣意しいてきではないことを理解りかいすることができる。

ドアをめるようにわれた場合ばあい、「なぜ?」とたずねて、「ふうつよすぎる」や「おとになる」などの理由りゆうることがある。… これらの理由りゆうを「証明しょうめい」とぶことは、危険きけんなほど広範こうはん意味いみ拡大かくだいした意味いみでしかなく、また、それらは命令めいれいがたたいして演繹えんえきてきまたは帰納的きのうてき関連かんれんしているわけではないが、それらはあきらかに命令めいれいがたを「支持しじ」する。それらはそれを「裏付うらづける」または「確立かくりつする」、または「事実じじつかんする具体ぐたいてき参照さんしょうもとづいてそれを立証りっしょうする」[32]

これらの支持しじ目的もくてきは、ききてかれらがめいじられている行動こうどう結果けっか理解りかいさせることである。一旦いったんかれらがその命令めいれい結果けっか理解りかいすれば、その命令めいれいしたがうことがのぞましい結果けっかをもたらすかどうかを判断はんだんすることができる。

命令めいれいがたは、ききて態度たいど行動こうどうえるために使つかわれる。… それにつづ理由りゆうは、命令めいれいがたえようとする状況じょうきょう、あるいは命令めいれいがたがもたらそうとするあらたな状況じょうきょうべるものである。そして、これらの事実じじつあらたな状況じょうきょうがききて願望がんぼうだい部分ぶぶん満足まんぞくさせるものであることをしめせば、かれはもはや命令めいれいしたがうことをためらうことはない。一般いっぱんてきに、理由りゆうは、命令めいれいしたが意思いしえる可能かのうせいがある信念しんねんえることによって、命令めいれい支持しじする[33]

だいのパターンの分析ぶんせき

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スティーブンソンのだいのパターンの分析ぶんせきは、特定とくてい行動こうどうではなく、行動こうどうタイプについての声明せいめい使用しようされる。このパターンでは、

「これはい」は「これは品質ひんしつ関係かんけいX、Y、Z …をっている」という意味いみつ。ただし、「い」は賞賛しょうさん意味いみっているため、はな承認しょうにん表現ひょうげんし、ききて承認しょうにん傾向けいこうがある[34]

だいパターンの分析ぶんせきでは、はな行動こうどう直接ちょくせつ判断はんだんするのではなく、一般いっぱんてき原則げんそくもとづいて評価ひょうかする。「殺人さつじん間違まちがっている」とひとは、「殺人さつじん全体ぜんたいてき幸福こうふく減少げんしょうさせる」と意味いみするかもしれない。これは、だいパターンの声明せいめいからだいいちパターンの声明せいめいへとみちびくものである。つまり、「わたし全体ぜんたいてき幸福こうふく減少げんしょうさせるものをすべ承認しょうにんしない。おなじようにせよ」ということである[35]

議論ぎろん方法ほうほう

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スティーブンソンにとって、道徳どうとくてき不一致ふいっちは、基本きほんてき態度たいどちがい、特定とくていのケースについての道徳どうとくてき信念しんねんちがい、あるいはその両方りょうほうからしょうじる可能かのうせいがある。かれ提案ていあんした道徳どうとくてき議論ぎろん方法ほうほうは、論理ろんりてき理性りせいてき心理しんりがくてき、および理性りせいてき心理しんりがくてき議論ぎろん形式けいしきという3つのグループにけられている[36]

論理ろんりてき方法ほうほうは、ひと基本きほんてき態度たいどとその特定とくてい道徳どうとくてき信念しんねんとのあいだ矛盾むじゅんしめ努力どりょくふくむ。たとえば、「エドワードはひとだ」といつつ、「エドワードは泥棒どろぼうだ」と「泥棒どろぼうひとではない」と以前いぜんっていたひとは、ひとつの発言はつげん撤回てっかいするまで矛盾むじゅんしているとされる。同様どうように、「うそつきはつね間違まちがっている」とひとが、ある状況じょうきょうではうそ道徳どうとくてきゆるされるとかんがえるかもしれない。そのような状況じょうきょうれいしめすことができれば、かれ見解けんかい論理ろんりてき一貫いっかんしていないことをしめすことができる[37]

理性りせいてき心理しんりがくてき方法ほうほうは、基本きほんてき態度たいど特定とくてい道徳どうとくてき信念しんねんとをむすびつける事実じじつ調査ちょうさする[38]目的もくてきは、論理ろんりてき方法ほうほうのようにだれかが矛盾むじゅんしていることをしめすのではなく、かれらの態度たいど信念しんねんむすびつける事実じじつについて間違まちがっているだけである。まえれい修正しゅうせいしてかんがえてみよう、すべての泥棒どろぼう悪人あくにんだとかんがえているひとが、エドワードが公共こうきょうつけた財布さいふをポケットにれるのをたとしよう。彼女かのじょかれ泥棒どろぼうだと結論けつろんづけ、その態度たいど泥棒どろぼう悪人あくにんだ)と信念しんねん(エドワードは泥棒どろぼうだから悪人あくにんだ)とのあいだ矛盾むじゅんはないだろう。しかし、エドワードは財布さいふ友人ゆうじんのものと認識にんしきし、すぐにそれをかえしたのかもしれない。このような事実じじつあきらかになることは、観察かんさつしゃのエドワードについての信念しんねんえる可能かのうせいたかく、たとえそれがわらなくても、そのような事実じじつあきらかにしようとするこころみは、道徳どうとくてき議論ぎろん理性りせいてき心理しんりがくてき形式けいしきとしてかぞえられるだろう[39]

理性りせいてき心理しんりがくてき方法ほうほうは、ききて態度たいどたいしてかならずしも論理ろんりてきむすびつきをたない、しかし心理しんりてき影響えいきょうりょく言葉ことば中心ちゅうしん展開てんかいされる。スティーブンソンはこのような方法ほうほう主要しゅようなものを「説得せっとく」とび、「ある程度ていど広義こうぎ意味いみで」といている。

説得せっとく」は、言葉ことばのまっすぐで、直接的ちょくせつてき感情かんじょうてき影響えいきょう依存いぞんしている—感情かんじょうてき意味いみ修辞しゅうじてき節奏せっそう適切てきせつ隠喩いんゆ力強ちからづよい、刺激しげきてきな、または懇願こんがんてきこえ調子ちょうし劇的げきてきなジェスチャー、ききて観客かんきゃくとの「共感きょうかん」を確立かくりつするための注意ちゅうい、など。…ききて態度たいどさい指向しこうは、かれ信念しんねんえるという間接かんせつてきなステップによってではなく、「うったえ」によってもとめられる。これはあきらかであるか微妙びみょうであるか、粗野そやであるか洗練せんれんされているかにかかわらない[40]

説得せっとくは、「民主みんしゅ主義しゅぎ」や「独裁どくさいしゃ」のような特定とくてい情緒じょうちょてき言葉ことば使用しようふくむかもしれない[41]。あるいは、「もし全員ぜんいんがあなたのようにかんがえたらどうなるか?」や「もしあなたがかれらの立場たちばにいたらどうかんじるか?」のような仮定かていてき質問しつもんふくむかもしれない[42]

批判ひはん

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功利こうり主義しゅぎしゃ哲学てつがくしゃリチャード・ブラントは、1959ねん著書ちょしょ倫理りんり理論りろん』で情緒じょうちょ主義しゅぎたいするいくつかの批判ひはんをもたらした。かれ最初さいしょ批判ひはんは、「倫理りんりてき発言はつげんあきらかに感情かんじょう理論りろんっているようなものではなく、はつみるでは英語えいごばんすくなくとも声明せいめいなされるべきだ」というものである[43]かれ情緒じょうちょ主義しゅぎが、なぜほとんどの人々ひとびとが、歴史れきしてきて、倫理りんりてきぶんを「事実じじつべるもの」となし、ただ情緒じょうちょてきなものとはなさなかったのかを説明せつめいできないとかんがえている。さらに、かれは、道徳どうとくてき見解けんかいえた人々ひとびとが、自分じぶんたちの以前いぜん見解けんかいたんことなるものではなく、間違まちがっていたとなすと主張しゅちょうし、それはかれらの態度たいどわっただけであれば意味いみをなさないと主張しゅちょうする。

たとえば、子供こどもころにエンドウまめべるのがいやだったひとかんがえてみよう。大人おとなになったかれはこれをおもしてたのしみ、このみが年齢ねんれいとともにわることにづく。しかし、かれは、以前いぜん態度たいどが「あいだちがっていた」とはわない。一方いっぽうかれ宗教しゅうきょう離婚りこん邪悪じゃあくとみなしていたことをおもし、いまはそうはおもわないなら、かれ以前いぜん見解けんかいあやまったもので根拠こんきょのないものとみなす。…倫理りんりてき発言はつげんは、感情かんじょう理論りろんっているようなものにはえない。[44]

ジェームズ・アームソンの1968ねん著書ちょしょ情緒じょうちょ主義しゅぎ倫理りんりろん』では、かれが「おおいに価値かちある作品さくひん」である『倫理りんり言語げんご』におけるスティーブンソンのおおくのてんに「かれ貴重きちょう洞察どうさつ一貫いっかんしてゆがめるような数少かずすくない深刻しんこくあやまりがあった」として反対はんたいしている[45]

磁気じきてき影響えいきょう

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ブラントは、倫理りんりてき発言はつげん聴取ちょうしゅしゃ態度たいど影響えいきょうあたえることを意図いとしているというスティーブンソンのかんがえを「磁気じきてき影響えいきょうろん」と名付なづけて批判ひはんした[44]。ブラントは、聴取ちょうしゅ範囲はんいがい人々ひとびと判断はんだんふくむほとんどの倫理りんりてき発言はつげんが、他人たにん態度たいどえる意図いとってはっせられるものではない主張しゅちょうする。20ねんまえウィリアム・デイビッド・ロス英語えいごばんは、かれ著書ちょしょ倫理りんり基礎きそ』でほぼおな批判ひはん提供ていきょうした。ロスは、情緒じょうちょ主義しゅぎ理論りろん一貫いっかんせいっているのは、推奨すいしょう命令めいれい、またはおな発話はつわ時点じてんなにかを判断はんだんするといった単純たんじゅん言語げんご行為こういあつか場合ばあいだけであるようにおもわれる、と示唆しさする。

「あなたはこうするべきだ」というような言葉ことばが、あるひと特定とくてい方法ほうほう行動こうどうさせるための手段しゅだんとして使つかわれることは間違まちがいない。しかし、「ただしい」や「べき」の意味いみ正当せいとう考慮こうりょするためには、「かれはこうするべきだ」「あなたはこうすべきだった」「もしこれとそれが事実じじつであるならば、あなたはこうすべきだった」「もしこれとそれが事実じじつであるならば、あなたはこうするべきだ」「わたしはこうするべきだ」といった表現ひょうげん考慮こうりょしなければならない。義務ぎむ判断はんだんが、はなでない第三者だいさんしゃ、または過去かこ、またはたされなかった過去かこ条件じょうけん、またはたん可能かのうとされる未来みらい、またははな自身じしん参照さんしょうしている場合ばあい、その判断はんだん命令めいれい記述きじゅつすることにはなん妥当だとうせいもない[46]

この視点してんによれば、「ガリレオ地動説ちどうせつ撤回てっかいするように強制きょうせいされるべきではなかった」という声明せいめい命令めいれい命令めいれいがた、または推奨すいしょう翻訳ほんやくすることはほとんど意味いみがない。そうすれば、これらの倫理りんりてき声明せいめい意味いみ根本こんぽんてきえることが必要ひつようになるかもしれない。この批判ひはんによれば、情緒じょうちょ主義しゅぎ理論りろん規範きはん主義しゅぎ理論りろんは、すべての倫理りんりてき主張しゅちょう比較的ひかくてきちいさな部分ぶぶん集合しゅうごうだけを命令めいれい変換へんかんする能力のうりょくしかっていないようにおもわれる。

ロスとブラントと同様どうように、アームソン英語えいごばんはスティーブンソンの「情緒じょうちょてき意味いみ因果いんが理論りろん」(道徳どうとくてき発言はつげん聴取ちょうしゅしゃ態度たいどえるためにおこなわれたときにだけ情緒じょうちょてき意味いみつという理論りろん)に異議いぎとなえ、それは「評価ひょうかりょく純粋じゅんすい因果いんがてき用語ようご説明せつめいするのはあやまっている」と指摘してきする。これがアームソンの根本こんぽんてき批判ひはんであり、かれはスティーブンソンが「態度たいど喚起かんきするちから」ではなく、「態度たいど称賛しょうさんし、推奨すいしょうする」観点かんてんから情緒じょうちょてき意味いみ説明せつめいすれば、より強力きょうりょく議論ぎろんができただろうと示唆しさしている[47]

ロスのほんかれたのち、しかしブラントやアームソンのまえかれたスティーブンソンの『倫理りんり言語げんご』では、情緒じょうちょてき用語ようごは「つねはげましの目的もくてき使用しようされるわけではない」とべている[48]たとえば、「古代こだいローマでは奴隷どれい制度せいどかった」というぶんでは、スティーブンソンは「ほとんど純粋じゅんすい記述きじゅつてきな」意味いみ過去かこ態度たいどべているとかんがえる[48]。そして、現在げんざい態度たいどについての議論ぎろんでは、「態度たいどについての同意どうい当然とうぜんとされている」ので、「かれかれらをころすことは間違まちがいだった」という判断はんだんは、自分じぶん態度たいどあらわすかもしれないが、「情緒じょうちょてきには活性かっせい」であり、実質じっしつてき情緒じょうちょてき(あるいは命令めいれいてき)な意味いみはない[49]。スティーブンソンは、そのような文脈ぶんみゃくでのぶん規範きはんてき倫理りんりてきぶんとして適格てきかくであるかどうかに疑問ぎもんっており、規範きはん倫理りんりもっと典型てんけいてき文脈ぶんみゃくにおいては、「倫理りんりてき語彙ごい情緒じょうちょてきであり記述きじゅつてきであるというじゅう機能きのうっている」と主張しゅちょうする[49]

フィリッパ・フットの道徳どうとくてき実在じつざいろん

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フィリッパ・フット道徳どうとくてき実在じつざいろん立場たちばり、評価ひょうか事実じじつかさねられるときにあたらしい次元じげんでの約束やくそくがなされたというかんがえを批判ひはんする[50]。「傷害しょうがい」の言葉ことば使つかうことの実際じっさいてき意味いみを、類推るいすいによって紹介しょうかいする。なんでもかんでもが傷害しょうがいとしてカウントされるわけではなく、なんらかの障害しょうがいがなければならない。傷害しょうがいによってれられなくなったものを、そのひとしがるとすると、わたしたちはふる自然しぜん主義しゅぎ誤謬ごびゅうおちいっていないだろうかと指摘してきしている。

傷害しょうがい」がけるべきものと「必要ひつようなつながり」を唯一ゆいいつ方法ほうほうは、それがはなけるつもりのものに適用てきようされたときにだけ「行動こうどう指導しどうする意味いみ」で使つかわれるということだとおもわれるかもしれない。しかし、わたしたちはその論争ろんそう決定的けっていてきうごきを注意深ちゅういぶかて、必要ひつようとしないなにかがこるかもしれないという提案ていあん疑問ぎもんていすべきである。は、みみあしのように、おおくの操作そうさ関与かんよしているので、かれまったなにのぞまない場合ばあいでなければ、かれがそれらを必要ひつようとしないとうことはできない[51]

フットは、この類推るいすいでの同様どうように、美德びとく非常ひじょうおおくの操作そうさおおきな役割やくわりたしているので、それらのさをしめすために自然しぜん主義しゅぎ次元じげんでの約束やくそく必要ひつようとすると仮定かていすることはしんじがたいと主張しゅちょうする。

い」という評価ひょうか真剣しんけんおこなわれるには実際じっさい行動こうどう必要ひつようだとかんがえていた哲学てつがくしゃたちは、意志いしよわさについて困難こんなんおちいってきた。そして、かれらはだれもが美德びとく目指めざし、悪徳あくとくける理由りゆうがあることをしめすだけで十分じゅうぶんだとみとめるべきである。しかし、それが非常ひじょうむずかしいことだとはえない。美德びとく悪徳あくとくとがなに意味いみするのかをかんがえてみれば。たとえば、主要しゅよう美德びとく、つまり賢明けんめいさ、節制せっせい勇気ゆうき正義せいぎかんがえてください。あきらかに、どの男性だんせい賢明けんめいさが必要ひつようだが、がい関与かんよするときに快楽かいらく誘惑ゆうわく抵抗ていこうする必要ひつようはないのだろうか。そして、なんらかのぜんのためにおそろしいものに直面ちょくめんする必要ひつようがないとかれ主張しゅちょうすることはどういうことなのだろうか。節制せっせい勇気ゆうき品質ひんしつでないとったときにかれなに意味いみしているのかはあきらかではない。そして、これはこれらの言葉ことばの「賞賛しょうさん」の意味いみではなく、節制せっせい勇気ゆうきなにであるかによるものだ[52]

基準きじゅん使用しよう基準きじゅん設定せってい

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スティーブンソンの磁気じきてき影響えいきょうろんへの基本きほんてき批判ひはん一部いちぶとして、アームソンは倫理りんりてき発言はつげんにはふたつの機能きのうがあるとべた。ひとつは「基準きじゅん使用しよう」、すなわち、特定とくていのケースにたいするれられた価値かちかん適用てきよう。そしてふたは「基準きじゅん設定せってい」、すなわち、れられるべきだという価値かちかん提案ていあんである。そして、スティーブンソンはこれらを混同こんどうしたという。「わたしはこれを承認しょうにんする。おなじように行動こうどうせよ」というスティーブンソンの発言はつげん基準きじゅん設定せっていするものであるが、ほとんどの道徳どうとくてき発言はつげん実際じっさいには基準きじゅん使用しようするものであるため、スティーブンソンの倫理りんりてきぶんたいする説明せつめい不十分ふじゅうぶんであるとアームソンは指摘してきした[53]。コリン・ウィルクスは、スティーブンソンのいち発言はつげん発言はつげん区別くべつがこの問題もんだい解決かいけつすると反論はんろんした。「共有きょうゆうい」とひとは、「共有きょうゆうはコミュニティによって承認しょうにんされている」という発言はつげんをしているかもしれない。これはアームソンが道徳どうとくてき議論ぎろんもっと典型てんけいてきなものとして指摘してきした基準きじゅん使用しようする発言はつげんるいである。同時どうじに、その発言はつげんいちてきな、基準きじゅん設定せっていするぶん簡略かんりゃくすることができる。「わたしはコミュニティが承認しょうにんするものをなんでも承認しょうにんする。おなじように行動こうどうせよ」[54]

出典しゅってん

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  1. ^ Garner and Rosen, Moral Philosophy, chapter 13 ("Noncognitivist Theories") and Brandt, Ethical Theory, chapter 9 ("Noncognitivism") regard the ethical theories of Ayer, Stevenson and Hare as noncognitivist ones.
  2. '^ Ogden and Richards, Meaning, 125: "'Good' is alleged to stand for a unique, unanalyzable concept … [which] is the subject matter of ethics. This peculiar ethical use of 'good' is, we suggest, a purely emotive use. … Thus, when we so use it in the sentence, This is good,' we merely refer to this, and the addition of "is good" makes no difference whatever to our reference … it serves only as an emotive sign expressing our attitude to this, and perhaps evoking similar attitudes in other persons, or inciting them to actions of one kind or another." This quote appears in an extended form just before the preface of Stevenson's Ethics and Language.
  3. ^ Emotivism | philosophy” (英語えいご). Encyclopedia Britannica. 2020ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  4. ^ Philosophy of Meaning, Knowledge and Value in the Twentieth Century: Routledge History of Philosophy. Routledge. (2012). ISBN 9781134935727 
  5. ^ Pepper, Ethics, 277: "[Emotivism] was stated in its simplest and most striking form by A. J. Ayer."
  6. ^ Brandt, Ethical Theory, 239, calls Stevenson's Ethics and Language "the most important statement of the emotive theory", and Pepper, Ethics, 288, says it "was the first really systematic development of the value judgment英語えいごばん theory and will probably go down in the history of ethics as the most representative for this school ."
  7. ^ quasi-realism” (英語えいご). Oxford Reference. 2020ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  8. ^ Zangwill, Nick (1993). “Quasi-Realist Explanation”. Synthese 97 (3): 287–296. doi:10.1007/BF01064071. ISSN 0039-7857. JSTOR 20117846. 
  9. ^ Brandt, Ethical Theory, 221: "A recent book [The Language of Morals] by R. M. Hare has proposed a view, otherwise very similar to the emotive theory, with modifications …"
  10. ^ Wilks, Emotion, 79: "… while Hare was, no doubt, a critic of the [emotive theory], he was, in the eyes of his own critics, a kind of emotivist himself. His theory, as a consequence, has sometimes been depicted as a reaction against emotivism and at other times as an extension of it."
  11. ^ Berkeley, Treatise, paragraph 20: "The communicating of Ideas marked by Words is not the chief and only end of Language, as is commonly supposed. There are other Ends, as the raising of some Passion, the exciting to, or deterring from an Action, the putting the Mind in some particular Disposition …"
  12. ^ Stevenson, Ethics, 273: "Of all traditional philosophers, Hume has most clearly asked the questions that here concern us, and has most nearly reached a conclusion that the present writer can accept."
  13. ^ Hume, Enquiry, "Appendix I. Concerning moral sentiment"
  14. ^ Moore, Ethics, x: "Although this critique [of ethical naturalism] had a powerful impact, the appeal of Moore's nonnaturalistic cognitivism was, by contrast, relatively weak. In the decades following Principia, many philosophers who were persuaded by the former ended up abandoning cognitivism altogether in favor of the position that distinctively ethical discourse is not cognitive at all, but rather an expression of attitude or emotion."
  15. ^ Wilks, Emotion, 1: "… I do not take Ayer's ethical theory to hinge in any necessarily dependent sense upon his verificationist thesis … I take his ethical theory to hinge upon his verificationist thesis only to the extent that it assumes logic and empirical verification (and combinations thereof) to be the only means of firmly establishing the truth or falsity of any claim to knowledge."
  16. ^ Wilks, Emotion, 1: "… I do not take Ayer's ethical theory to hinge in any necessarily dependent sense upon his verificationist thesis … I take his ethical theory to hinge upon his verificationist thesis only to the extent that it assumes logic and empirical verification (and combinations thereof) to be the only means of firmly establishing the truth or falsity of any claim to knowledge."
  17. ^ Satris, Ethical Emotivism, 23: "Utilitarian, rationalist and cognitivist positions are in fact maintained by the members of the Vienna Circle who wrote in the fields of ethics, social theory and value theory英語えいごばん, namely, Moritz Schlick, Otto Neurath, Viktor Kraft and Karl Menger."
  18. ^ Ethics - Existentialism” (英語えいご). Encyclopedia Britannica. 2020ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  19. ^ Hare, Language, 14–15: "The suggestion, that the function of moral judgments was to persuade, led to a difficulty in distinguishing their functions from that of propaganda. … It does not matter whether the means used to persuade are fair or foul, so long as they do persuade. And therefore the natural reaction to the realization that someone is trying to persuade us is 'He's trying to get at me; I must be on my guard …' Such a reaction to moral judgments should not be encouraged by philosophers." After Pepper, Ethics, 297.
  20. ^ Seanor et al., Hare and Critics, 210. After Wilks, Emotion, 79.
  21. ^ Urmson, Emotive Theory, 15: "The earliest statement of the emotive theory of value英語えいごばん terms in the modern British-American tradition (as opposed to statements in such continental writers as Haegerstroem, which became known to English-speaking philosophers only comparatively late and had no early influence) was, so far as I know, that given by I. A. Richards in a general linguistic and epistemological work, The Meaning of Meaning …"; Urmson, Emotive Theory, 16–17; Brandt, Ethical Theory, 206: "The earliest suggestions of the theory in the [20th] century have been made by W. H. F. Barnes and A. Duncan-Jones."
  22. ^ Ayer, Language, 103
  23. ^ Ayer, Language, 106
  24. ^ Ayer, Language, 107
  25. ^ Ayer, Language, 111
  26. ^ Wilks, Emotion, 1: "Stevenson's version, which was intended to qualify the earlier views of Ayer (and others) … will then be treated as an elaboration of Ayer's."
  27. ^ Satris, Ethical Emotivism, 25: "It might be suggested that there are two broad types of ethical emotivism. The first, represented by Stevenson, is well grounded in philosophical and psychological theory relating to ethics … The second, represented by Ayer, is an unorthodox spin-off of logical positivism."
  28. ^ Stevenson, Facts, 15; Hudson, Modern Moral Philosophy, 114–15
  29. ^ Stevenson, Facts, 21: "Both imperative and ethical sentences are used more for encouraging, altering, or redirecting people's aims and conduct than for simply describing them."
  30. ^ Wilks, Emotion, 20
  31. ^ Stevenson, Ethics, 21
  32. ^ Stevenson, Ethics, 27
  33. ^ Stevenson, Ethics, 27–28
  34. ^ Stevenson, Ethics, 207
  35. ^ Wilks, Emotion, 15, gives a similar example
  36. ^ Hudson, Modern Moral Philosophy, 130–31; Wilks, Emotion, 25–26
  37. ^ Stevenson, Ethics, 115–18
  38. ^ Wilks, Emotion, 25: "These are methods in which we scrutinise the factual beliefs that mediate between our fundamental and our derivative moral attitudes; where we argue about the truth of the morally relevant facts that are called upon in support of our or other people's derivative moral attitudes, eg. as when we argue about whether or not there is a causal connection between pornography and sexual violence." The moral "beliefs" Stevenson spoke of are referred to as "derivative moral attitudes" by Wilks in an attempt to avoid confusion between moral beliefs and "factual beliefs".
  39. ^ Stevenson, Ethics, 118–29
  40. ^ Stevenson, Ethics, 139–40
  41. ^ Stevenson, Ethics, 141
  42. ^ Wilks, Emotion, 26
  43. ^ Brandt, Ethical Theory, 225
  44. ^ a b Brandt, Ethical Theory, 226
  45. ^ Urmson, Emotive Theory, 38
  46. ^ Ross, Foundations, 33–34
  47. ^ Urmson, Emotive Theory, 38–40, 64
  48. ^ a b Stevenson, Ethics, 83
  49. ^ a b Stevenson, Ethics, 84
  50. ^ Philippa Foot, "Moral Beliefs," Proceedings of the Aristotelian Society, vol. 59 (1958), pp. 83-104.
  51. ^ ibid., p. 96.
  52. ^ ibid., p. 97.
  53. ^ Urmson, Emotive Theory, 64–71
  54. ^ Wilks, Emotion, 45–46

参考さんこう文献ぶんけん

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