曹寅

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とら(そう いん、1658ねん - 1712ねん[1])は、中国ちゅうごくきよしはつ政治せいじ文人ぶんじん蔵書ぞうしょ出版しゅっぱんきよしごうおうちてい(れんてい)[2]ちちは曹璽。叔父おじは曹爾ただし異母弟いぼていは曹荃(もとのは曹宣)。従弟じゅうてい(曹爾せい)は曹宜。実子じっしは曹顔。猶子ゆうし(曹荃の)は曹顒・曹頫。したがえ(曹荃の)は曹順・曹頔・曹頎。まご猶子ゆうしの曹頫の)に『べにろうゆめ』の作者さくしゃとしてられる曹霑(曹雪せり)がいる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

曹家は内務ないむつつみころもただし白旗はっき旗鼓きこりょう皇帝こうてい奉仕ほうしする内務ないむつつみころものうち、かんじん構成こうせいされたりょう)に所属しょぞくしており、せき北方ほっぽうだが、代々だいだい南京なんきんこうやすしみやつこをつとめた。

実母じつぼは顧氏。嫡母ちゃくぼまごかん熙帝乳母うばであり[1]、曹寅はかん熙帝の寵臣ちょうしんとして重用じゅうようされ、くらいつうせい使にのぼった。かん熙帝が江南こうなん巡行じゅんこうしたとき、4かいまでもみやつこしょ行在所あんざいしょになる栄誉えいよかがやいた[3]

曹寅の没後ぼつご猶子ゆうしの曹顒(そうぎょう)は1715ねんぼっし、曹寅のおとうとの曹荃の猶子ゆうしになっていた曹頫(そうふ)があとをいだ。しかし、かん熙帝がくずれじて雍正みかど即位そくいすると曹家はうとまれ、公金こうきん接待せったい穴埋あなうめをしていたつみ家産かさん没収ぼっしゅうされた[3]。曹頫のが曹雪せりである。

出版しゅっぱんぶつ著作ちょさく[編集へんしゅう]

曹寅は1705ねんあげしゅうきょくという出版しゅっぱんきょく設立せつりつし、かん熙帝勅撰ちょくせんの『ぜん唐詩とうし』をかんこくした。『佩文いん』のかんこく作業さぎょうおこなったが、完成かんせいまえぼっした[1][4]

おうちていしゅ』はそう字書じしょ韻書いんしょである『大広だいこうえきかいだまへん』『こういん』『つけしゃくぶん互注れいいんりゃく』『しゅういん』『るいへん』からなる。

叢書そうしょおうちていじゅうしゅ』は『ろくおに簿』などの文学ぶんがく芸術げいじゅつ関係かんけい書物しょもつふくむ。

詩集ししゅうに『おうちてい詩鈔ししょう』がある[5][6]

べにろうゆめだい54かい言及げんきゅうされていることを根拠こんきょしゅうなんじあきら戯曲ぎきょくぞく琵琶びわ』(蔡文ひめ曹操そうそう主人公しゅじんこうとした伝奇でんき部分ぶぶんてき現存げんそんする)を曹寅のさくとする[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d しゅうなんじあきらべにろうゆめしんあかしだい7しょう年譜ねんぷによる
  2. ^ 清史きよし稿こう』などではおうちていとするが、しゅうなんじあきらきよしで茘軒・おうちていごうとする
  3. ^ a b 伊藤いとう漱平概説がいせつ曹雪せり」『伊藤いとう漱平全集ぜんしゅうだい2かん汲古書院しょいん、2008ねん、7-10ぺーじISBN 9784762927522 (もと1958ねん
  4. ^ 曹雪せり祖父そふ曹寅確定かくてい かいひらけひゃくねん疑団ぎだんしんはなもう、2010ねん4がつ29にちhttp://news.xinhuanet.com/politics/2010-04/29/c_1264028.htm 
  5. ^ おうちてい詩鈔ししょうhttp://ctext.org/library.pl?res=3981 
  6. ^ おうちていべつしゅうhttp://ctext.org/library.pl?res=3985 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]