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月形つきがたきよし

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つきがた きよし

月形つきがた きよし
280PX
生誕せいたん 直吉なおきち幼名ようみょう)、修平しゅうへい
ひろし4ねん6月27にち1847ねん8がつ7にち
日本の旗筑前ちくぜんこく遠賀おんがぐん中底井野なかそこいのむらげん福岡ふくおかけん中間なかま中底井野なかそこいの
死没しぼつ 明治めいじ27ねん1894ねん1がつ8にち
日本の旗福岡ふくおかけん那珂なかぐん住吉すみよしむらげん福岡ふくおかけん福岡ふくおか博多はかた中洲なかす
別名べつめい たかむら邨(ごう
職業しょくぎょう 福岡ふくおか藩士はんし福岡ふくおかはんけんしょう参事さんじ福岡ふくおかけんてんごと司法省しほうしょうしょう検事けんじ樺戸かばとしゅうかん典獄てんごく九州きゅうしゅう鉄道てつどう社員しゃいん
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月形つきがた きよし(つきがた きよし、ひろし4ねん6月27にち1847ねん8がつ7にち) - 明治めいじ27ねん1894ねん1がつ8にち)は[1]江戸えど時代じだい末期まっき福岡ふくおか藩士はんし明治めいじ時代じだい官僚かんりょう北海道ほっかいどう樺戸かばとしゅうかん典獄てんごく樺戸かばと雨竜うりゅう上川かみかわさんぐんぐんちょうとして北海道ほっかいどう開拓かいたくたずさわる。樺戸かばとぐん月形つきがたまち町名ちょうめいかれせい由来ゆらいしている。

生涯しょうがい

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幼少ようしょう

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ひろし4ねん(1847ねん)、筑前ちくぜんこく遠賀おんがぐん中底井野なかそこいのむらげん福岡ふくおかけん中間なかま中底井野なかそこいの)であさひむかいどうひらいていた儒学じゅがくしゃでもある福岡ふくおか藩士はんし月形つきがたけん春耕しゅんこう)と伊藤いとうつねあし門人もんじん宮崎みやざきしょうあんむすめたけとのあいだまれ、直吉なおきち名付なづけられる。

よしみひさし3ねん1850ねん鞍手くらてぐん植木うえきむらげん福岡ふくおかけん直方のうがた)に伯父おじちち長兄ちょうけい)の月形つきがたふかしぞう(漪嵐)が隠居いんきょして教授きょうじゅしょひらき、直吉なおきちふかぞうもとあししげくかよい、朱子学しゅしがく剣術けんじゅつまなぶ。また、ふかぞう次男じなん月形つきがたさとし鞍手くらてぐん木屋瀬こやのせむらげん福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう八幡西やはたにし)に滞留たいりゅうしていたさいあにのようにしたい、詩文しぶんなどをおそわる。その伯父おじちちさん番目ばんめあに)の長野ながのまこと経学けいがく史学しがく軍学ぐんがく剣術けんじゅつなど文武両道ぶんぶりょうどうまなんだ。

万延まんえん元年がんねん1860ねん)、桜田さくらだ門外もんがいへん福岡ふくおかはんないでも勤王きんのううごきが活発かっぱつになり、脱藩だっぱんして京都きょうとにいた平野ひらの国臣くにおみ中村なかむらまどかふとしから情勢じょうせいったふかぞう長男ちょうなんである月形つきがたあらいぞう藩主はんしゅ黒田くろだちょう参勤交代さんきんこうたいめるように建議けんぎしょ提出ていしゅつした。連日れんじつ謁見えっけんのち延期えんきまったがあらいぞう参勤さんきん中止ちゅうしせまり、保守ほしゅ家老がろうたち藩政はんせい批判ひはん人事じんじあらためるように要求ようきゅうしたためにあらいぞうをはじめとする月形つきがた一門いちもん中村なかむらまどかふとしらを謹慎きんしん処分しょぶんとなる。

文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)、参勤さんきんえた黒田くろだちょう溥は月形つきがた一門いちもん流罪るざい6にんふく処分しょぶんくだした(からしとりごく)。このとし直吉なおきち元服げんぷくして名前なまえ修平しゅうへいあらためた。

藩士はんし時代じだい

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文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)、伯父おじふかぞう自宅じたく謹慎きんしんのまま病死びょうしした。修平しゅうへいはその中底井野なかそこいのむらはなれ、須恵すえむら翌年よくねんには武丸たけまるむらげん福岡ふくおかけん宗像むなかた)にうつっていった。

文久ぶんきゅう4ねん1864ねん)、勤王きんのうとう行動こうどうともにしていた修平しゅうへい福岡ふくおかはんおとずれていた、きょう三条さんじょう実美みみ使者ししゃ土方ひじかた久元ひさもとい、恩赦おんしゃによって自宅じたくもどったがいまだに蟄居ちっきょにある従兄じゅうけいあらいぞう状況じょうきょうつたえた。

元治もとはる元年がんねん(1864ねん)、禁門きんもんへんのち長州ちょうしゅう征討せいとうまると、黒田くろだちょう溥は長州ちょうしゅう周旋しゅうせん決定けっていし、勤王きんのう周旋しゅうせんにあたることになった。 あらいぞう勤王きんのうはさらに薩長さっちょう融和ゆうわきょう移転いてん説得せっとくなどに尽力じんりょくしたことにより、長州ちょうしゅう征討せいとう中止ちゅうしさせることに成功せいこうする。

慶応けいおう元年がんねん1865ねん)6がつ幕府ばくふだいせいちょう決定けっていし、勤王きんのう征討せいとう中止ちゅうし否定ひていされており、さらに勤王きんのう内部ないぶ穏健おんけん加藤かとう司書ししょ過激かげき月形つきがたあらいぞう分裂ぶんれつし、同志どうしちがこっていた。勤王きんのう内部ないぶにより「加藤かとう司書ししょ首領しゅりょうとする勤王きんのう優柔不断ゆうじゅうふだん藩主はんしゅちょう溥を犬鳴いぬなき別館べっかん幽閉ゆうへいして、世子せいしちょうとも擁立ようりつして藩政はんせい改革かいかくおこな計画けいかくをしている」ということをみみにしたちょう溥は勤王きんのう協力きょうりょくしゃ投獄とうごく修平しゅうへい瀬口せぐちさん兵衛ひょうえとも喜多きたおか勇平ゆうへい暗殺あんさつ嫌疑けんぎ逮捕たいほされる。 修平しゅうへい嫌疑けんぎれて釈放しゃくほうされるが、10がつ 従兄じゅうけいあらいぞう斬首ざんしゅけいしょされた(おつうしごく)。

慶応けいおう3ねん1867ねん)12月、修平しゅうへいあらいぞう盟友めいゆうだった早川はやかわようけいだしろう出迎でむかえている

維新いしん

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維新いしんこうは、しん政府せいふやとわれ福岡ふくおかはんけんしょう参事さんじとして勤務きんむする。きよしはこのときはん組織そしきてきっていた太政官だじょうかんさつ贋造がんぞう事件じけん調査ちょうさめいぜられる。事件じけんそのものは政治せいじ決着けっちゃくにより片付かたづけられたが、このときはたらきが評価ひょうかされ1877ねん明治めいじ10ねん警察けいさつ巡査じゅんさ隊長たいちょう任命にんめいされ西南せいなん戦争せんそう鎮圧ちんあつたる。その司法省しほうしょうはちとう出仕しゅっし東京とうきょう裁判所さいばんしょしょう検事けんじ内務省ないむしょう御用ごようかけ歴任れきにんする。

西南せいなん戦争せんそうわったころから政府せいふ相次あいついでこった内乱ないらん逮捕たいほしゃ収監しゅうかんする施設しせつ建設けんせつ急務きゅうむとなった。本来ほんらい危険きけん分子ぶんし隔離かくり目的もくてきであったが、当時とうじ政府せいふロシア南下なんかそなえるため北海道ほっかいどう開拓かいたくすすきたまもりをかためる方針ほうしんをとっていた。しかし、北海道ほっかいどう開拓かいたく遅々ちちとしてすすまないことから内務ないむきょう伊藤いとう博文ひろぶみ囚人しゅうじん安価あんか使つかえる労働ろうどうしゃとみたて囚人しゅうじん開拓かいたくにあたらせることを発案はつあんし、監獄かんごく北海道ほっかいどう建設けんせつする方針ほうしんかためる。政府せいふ開拓かいたく長官ちょうかん黒田くろだ清隆きよたか監獄かんごく候補こうほ推挙すいきょもとめ、この現地げんち調査ちょうさにかねてから官吏かんりとして評価ひょうかたかかったきよしら7にん抜擢ばってきされる。伊藤いとう博文ひろぶみ山縣やまがた有朋ありとも信頼しんらいしてのものだった。

樺戸かばとしゅうかん典獄てんごく

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開拓かいたく使によるしゅうかん候補こうほ十勝とかちがわ沿岸えんがん有珠うすぐんおく後志しりべ山麓さんろく羊蹄山ようていざん)、石狩川いしかりがわ上流じょうりゅう方面ほうめんさん箇所かしょで、月形つきがたらは3はんかれ調査ちょうさおこなった。月形つきがた調査ちょうさおこなった石狩いしかり川沿かわぞえ上流じょうりゅうは「シベツブト(うえシベツあたりとも)」とばれる土地とちで、樹木じゅもくしげせい原生げんせいりんそのものであったという。候補こうほくら石狩川いしかりがわという水上すいじょう交通こうつう利用りようでき、札幌さっぽろちかいことからこのめ、1881ねん明治めいじ14ねん)に建設けんせつされた。建設けんせつされた樺戸かばとしゅうかん初代しょだい典獄てんごく刑務所けいむしょちょう)に月形つきがた就任しゅうにんし、2000にんもの囚人しゅうじん収容しゅうようされた。月形つきがたはまず戸籍こせき福岡ふくおかから樺戸かばとうつし、率先そっせんして開拓かいたくにあたった。月形つきがた指揮しきする囚人しゅうじんたち効率こうりつよく開拓かいたくすすめ、のち国道こくどう12ごうとう北海道ほっかいどう主要しゅよう道路どうろとされるものの原型げんけいかれらがつくった。1884ねん明治めいじ17ねんきたすすむてらかり御堂みどうとう建設けんせつする。当時とうじ樺戸かばとしゅうかんには官舎かんしゃがなかったため月形つきがた典獄てんごくといえども囚人しゅうじんおな場所ばしょ起居ききょしたという。月形つきがた典獄てんごくつとめたこのころしゅうかんには「五寸釘ごすんくぎ寅吉とらきち」でられる西川にしかわ寅吉とらきち贋札にせさつづくりの名人めいじん熊坂くまさかちょうあんひとし収監しゅうかんされていた。熊坂くまさか樺戸かばとにいるあいだ村人むらびとおしえていたという。また、当時とうじ小樽おたる在住ざいじゅうだった新撰しんせんぐみのこりの永倉ながくら新八しんぱち依頼いらいして明治めいじ15ねんから4年間ねんかんどうしゅうかん剣術けんじゅつ師範しはんまねき、看守かんしゅらに剣術けんじゅつ指導しどうけさせた。村人むらびと月形つきがたのこれらの功績こうせきとな同地どうちを「月形つきがたむら」と提案ていあんし、内務省ないむしょうもまた認可にんかあた樺戸かばとぐん月形つきがたむらとなった。

1885ねん明治めいじ18ねん)にきよしはいわずら郷里きょうり福岡ふくおか静養せいようする。1886ねん明治めいじ19ねん)4がつ2にちには樺戸かばとしゅうかん需要じゅようひんおよ運搬うんぱん費用ひよう業者ぎょうしゃ貸与たいよおこなわれるも償却しょうきゃく目途もくとたなくなったことで銀行ぎんこう株券かぶけん抵当ていとうとして貸付かしつけ払下はらいさきん一部いちぶ納入のうにゅう延期えんきみとめたこと、官舎かんしゃを24新築しんちくどうかん官吏かんりから資金しきんして会議かいぎしょ建設けんせつ計画けいかくするも費用ひようらず官費かんぴから拠出きょしゅつもとめるといったことを上位じょうい組織そしき申請しんせいせず独断どくだんおこなったことでめん本官ほんかんせいなな返上へんじょうめいじられる[2][3]

1894ねん明治めいじ27ねん死去しきょ

樺戸かばとしゅうかんのその

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月形つきがたったのち囚人しゅうじんたち開拓かいたくすすみ、1886ねん明治めいじ19ねん)には日本にっぽんはじめてといわれる上水道じょうすいどう建設けんせつする。これは月形つきがた水道すいどうあるいは監獄かんごく水道すいどうばれる。1896ねん明治めいじ29ねん)には円福寺えんぷくじ建築けんちくする。住民じゅうみん囚人しゅうじんとのあいだでも交流こうりゅうがすすみ、囚人しゅうじん住民じゅうみんいえてることもあったという。1909ねん明治めいじ42ねん)にはさきかり御堂みどう建築けんちくしたきたやや寺本てらもとどう完成かんせいさせる。1919ねん大正たいしょう8ねん)に樺戸かばとしゅうかんはいかんとなったが、その1973ねん昭和しょうわ48ねん)まで月形つきがたむら役場やくばとして活用かつようされた。月形つきがたには以後いご監獄かんごくはなくなったが1970年代ねんだい刑務所けいむしょ誘致ゆうち運動うんどうおこる。おりしも東京とうきょうゆたか多摩たま刑務所けいむしょ移転いてん検討けんとうされていたこともあり、運動うんどう甲斐かいあって1983ねん昭和しょうわ58ねん)に月形つきがた刑務所けいむしょ設置せっちされた。

1973ねん昭和しょうわ48ねん)に月形つきがたまち役場やくば(1953ねん昭和しょうわ28ねん)に町制ちょうせい施行しこう)がしん庁舎ちょうしゃうつるときゅう樺戸かばとしゅうかんあらたに「北海道ほっかいどう行刑ぎょうけい資料しりょうかん」としてまれわり、1996ねん平成へいせい8ねん同館どうかん月形つきがた樺戸かばと博物館はくぶつかん名称めいしょう変更へんこうする。月形つきがたまちには月形つきがたきよし銅像どうぞう建立こんりゅうされている。

出典しゅってん

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  1. ^ 比呂子ひろこ北海道ほっかいどうひらいた福岡ふくおか藩士はんし 評伝ひょうでん 月形つきがたきよし西にし俊明としあき、2014ねん9がつ1にち、228,238ぺーじISBN 9784874159118 
  2. ^ 非職ひしょく典獄てんごく月形つきがたきよし免官めんかんけん
  3. ^ 官報かんぽう 1886ねん4がつ5にち ろくきゅうぺーじ

関連かんれん作品さくひん

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外部がいぶリンク

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