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木曾きそさんしゃ神社じんじゃ

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木曾きそさんしゃ神社じんじゃ
所在地しょざいち 群馬ぐんまけん渋川しぶかわ北橘きたたちばなまち下箱田しもはこだかぶと1番地ばんち[1]
位置いち 北緯ほくい3628ふん19.88びょう 東経とうけい13902ふん43.99びょう / 北緯ほくい36.4721889 東経とうけい139.0455528 / 36.4721889; 139.0455528 (木曾きそさんしゃ神社じんじゃ)座標ざひょう: 北緯ほくい3628ふん19.88びょう 東経とうけい13902ふん43.99びょう / 北緯ほくい36.4721889 東経とうけい139.0455528 / 36.4721889; 139.0455528 (木曾きそさんしゃ神社じんじゃ)
主祭しゅさいしん 戔嗚みこと彦火々いのち豊玉とよたまひめいのち宇気うけははしん[2]
社格しゃかくひとし きゅうけんしゃ[2]
創建そうけん もとこよみ年間ねんかん[2]
別名べつめい たきみや箱田はこだ明神みょうじん[2]
地図ちず
木曾三社神社の位置(群馬県内)
木曾三社神社
木曾きそさんしゃ神社じんじゃ
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木曾きそさんしゃ神社じんじゃ(きそさんじゃじんじゃ)は、群馬ぐんまけん渋川しぶかわ北橘きたたちばなまち下箱田しもはこだにある神社じんじゃである。しゃもん笹竜胆ささりんどう[3]

概要がいよう[編集へんしゅう]

文献ぶんけんによるともとこよみ元年がんねん1184ねん)、木曾きそ義仲よしなか滋賀しがけん粟津あわづ源義経みなもとのよしつねたれたのち、その遺臣いしんであった今井いまい高梨たかなし根井ねいだて町田まちだ小野沢おのざわ萩原はぎはら望月もちづきくしふち諸田もろたひとしが、義仲よしなかともえ御前ごぜんである三男さんなん木曾きそよしもとかくまい、群馬ぐんまけん渋川しぶかわ北橘きたたちばなむら箱田はこだびたとされる。義仲よしなか崇敬すうけいした信濃しなのこく長野ながのけん)の延喜えんぎ式内しきないしゃである筑摩つかまぐんさん岡田おかだすな阿礼あれい神社じんじゃ」を、群馬ぐんまけん渋川しぶかわ北橘きたたちばなむら下箱田しもはこだ勧請かんじょうして創建そうけんしたとつたえられるのが箱田はこだ神社じんじゃ後々あとあと木曾きそさんしゃ神社じんじゃである。たきみや木曽きそ明神みょうじんともしょうされている。その関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎや、白井しらいしろあるじ長尾ながお歴代れきだい前橋まえばしじょうおも崇敬すうけいあつく、神田かんだ寄進きしん社殿しゃでん修復しゅうふくとうがおこなわれる。 [4]

寛政かんせい元年がんねん1789ねん)に火災かさいにあい、どう8ねん1794ねん)に再建さいけん、さらに明治めいじ20年代ねんだいにはだい修復しゅうふくをしている。明治めいじ29ねん1896ねん)にはけんしゃれっせられたが、昭和しょうわ21ねん1946ねん)の法令ほうれい改正かいせいともな社格しゃかく改正かいせいされ、2017ねん3がつ現在げんざいでは、神社じんじゃ本庁ほんちょう所管しょかんとなっている。

境内けいだいには本殿ほんでん間口まぐち1あいだ奥行おくゆき1あいだはん)、拝殿はいでん間口まぐち3あいだはん奥行おくゆき2あいだ)、ぬさ殿どの間口まぐち1あいだはん奥行おくゆき2あいだ)があり、ゆうだま清泉きよいずみセキショウ群落ぐんらく中心ちゅうしんとした全域ぜんいきが、群馬ぐんまけん環境かんきょう保全ほぜん地域ちいき指定していされている。

境内けいだいには稲荷いなり大神だいじんほかおおくのいしほこら石碑せきひまつられている(恵原えばらさん大神だいじん御嶽山みたけさん大神だいじん武尊山ほたかやま大神おおがみさる田彦たびこ太神おおが芭蕉ばしょう句碑くひ)。

明治めいじ神社じんじゃりょう」には境内けいだいしゃとして以下いか列記れっきされている。

鹿島かしま神社じんじゃ神明しんめいみや菅原すがわら神社じんじゃ八幡やはた神社じんじゃ住吉すみよし神社じんじゃ愛宕あたご神社じんじゃはやとら稲荷いなり神社じんじゃ八坂神社やさかじんじゃくすりおう神社じんじゃ厳島いつくしま神社じんじゃだい山祇やまずみ神社じんじゃ

また、どう箱田はこだには木曾きそさんはしら神社じんじゃ(きそみばしらじんじゃ)が存在そんざいする。文献ぶんけんによると安政あんせいねん1855ねん)、滝之たきのみや下箱田しもはこだ木曾きそさんしゃ神社じんじゃ)の神主かんぬしになった高梨たかなしみやあきら養子ようし)はやしなえ祖父そふ高梨たかなし八千穂やちほわず(みやあきら社殿しゃでん荒廃こうはいさせる)、このあらそいが北橘きたたちばなむら箱田はこだ下箱田しもはこだりょうむらあらそいに発展はってんした。みやあきら実家じっかかえり、八千穂やちほ箱田はこだむら今井いまい直系ちょっけい子孫しそん守護しゅごしてきた箱田はこだ将軍しょうぐんづか古墳こふん木曾きそ義仲よしなか遺品いひんしゅづかじょういちしゃ創設そうせつした。拝殿はいでんしょうして箱田はこだ村民そんみんはここでかみはいはじめた。のち箱田はこだむら新宮しんぐう建立こんりゅうした。滝之たきのみやより分立ぶんりつ木曾きそさんはしら神社じんじゃ創設そうせつした。 [5]

  • 祭神さいじん須佐すさおとこいのち・彦火いのち豊玉とよたまひめいのち宇気うけははさとしかみ
  • 例祭れいさい:4がつ15にち・10月15にち

境内けいだい由緒ゆいしょしょ[編集へんしゅう]

当社とうしゃは、後鳥羽ごとば天皇てんのう御代みよもとこよみ元年がんねん(1184ねん)の創立そうりつつたえられる。延喜えんぎ式内しきない信濃しなの筑摩つかまぐんさん岡田おかだ神社じんじゃすなでん(いさごだ)神社じんじゃ阿礼あれい神社じんじゃさんしゃは、木曾きそ義仲よしなかあつ崇敬すうけいした神社じんじゃであるが、もとこよみ元年がんねん正月しょうがつ義仲よしなか没落ぼつらくおよんで、その遺臣いしん今井いまい高梨たかなし町田まちだ小野沢おのざわ萩原はぎはら諸田もろたくしふちとう神託しんたくほうじて、このうつしたものである。[6]

木曾きそ神社じんじゃ遷宮せんぐう鎮座ちんざかんして『平成へいせいさいデータ』に以下いかはなしっている。木曾きそ義仲よしなか没後ぼつご、その遺臣いしんらは一時いちじ木曾きそたににいたが、みなもと頼朝よりとも詮議せんぎきびしいので、木曾きそけっして安全あんぜんかく場所ばしょではなくなった。このとき木曾きそ信仰しんこうしていたさんしゃ神社じんじゃ神官しんかんであった高梨たかなしみなみ学院がくいん[7]というひとは、さんつづけて不思議ふしぎゆめをみた。それははやくこのかみひがしほう安全あんぜんうつせよという神託しんたくだった。そこで遺臣いしんらが相談そうだんした結果けっか神体しんたいななじゅうはこにおさめて東国とうごくへと旅立たびだつことになった。和田わだ碓氷うすいとうげえて利根川とねがわあたりまでたどりいたとき、ある平和へいわむらがあった。そこにかみをまつろうとすると土地とちひとあやしんで「そのはこなにだ。」とたずねると、「ただはこだ。」とのみこたえた。いま、その土地とち箱田はこだう。しかし、かみ御告おつげさらこんいちここをるようにとしただった。そして、また人々ひとびとたびたが今度こんど半日はんにちにして利根川とねがわ東岸とうがん山中さんちゅうのあるきよいずみところいた。ここで人々ひとびといちいこいしたが、そのとき神体しんたいはこをとあるいしうえろした。すると不思議ふしぎなことに人々ひとびとふたたかけようとするとはこいしかたいてしまってうごかなくなった。大騒おおさわぎしてちあげようとしたが無駄むだだった。ここにまつられたのが箱田はこだ神社じんじゃ木曾きそさんしゃ神社じんじゃである。いまでも神社じんじゃまえ高梨たかなし石像せきぞうと、木曾きそ三郎さぶろうもと腰掛こしかけせきとがある。遺臣いしんたちはここに土着どちゃくして四方しほうひろがっていった。[8]

爾来じらい[編集へんしゅう]

今日きょういたるまで木曾きそ一族いちぞく祈願きがんしょであるは勿論もちろん所縁しょえんある武将ぶしょう崇敬すうけいもあつく、かんおう年間ねんかん管領かんりょう上杉うえすぎ憲顕のりあき社外しゃがい寄進きしんし、上杉うえすぎ謙信けんしん武運ぶうん長久ちょうきゅう誓書せいしょまつり、白井しらい城主じょうしゅ長尾ながおまたあつ崇敬すうけいしたという。徳川とくがわ幕府ばくふとなっても、領主りょうしゅ尊崇そんすうわらず、社地しゃち修復しゅうふくしょうして、前橋まえばし城主じょうしゅ代々だいだい公費こうひを以って営繕えいぜんをしていたが、寛政かんせい元年がんねんろくがつ火災かさいにあったとき領主りょうしゅ松平まつだいらたけしゅう川越かわごえにありうつりふうせつもあったため造営ぞうえい沙汰さた遷延せんえんしてしまった。よってどうろくねん氏子うじこ信徒しんとしょうはかって社殿しゃでん建築けんちくした。 文化ぶんかななねんぜん領主りょうしゅ酒井さかい播州ばんしゅう姫路ひめじから重臣じゅうしんつかわし、ほこいちくちおよかね若干じゃっかんけんじた。どうじゅうねんさらしたがえよん雅楽ががくあたま忠道ちゅうどう酒井さかいただしどう)は自筆じひつかみごうがくその献納けんのうした。前橋まえばし城主じょうしゅ松平まつへいまた崇敬すうけいあつく、入城にゅうじょう当時とうじ、たまたま拝殿はいでん再建さいけんさいであったのでかねじゅうりょう寄進きしんし、落成らくせいしきのち明治めいじさんねんしたがえ大和やまとまもる直方ちょくほうしゃさんして、弓矢ゆみや奉納ほうのうし、つづいて伯爵はくしゃく松平まつだいらはじめのり信徒しんととしてつる料金りょうきん若干じゃっかんけんじた。

  • どうじゅうきゅうねんろくがつけんしゃれっせられた。
  • どうさんじゅういちねんきゅうがつさだみや多喜子たきこ内親王ないしんのうより幣帛へいはくりょう掛物かけものいちぶくえ、木曽きそひのきななかぶ下賜かし
  • どうさんじゅうよんねんはちがつ北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう成久なりひさおう輝久てるひさおうおよあら芳之よしゆき参拝さんぱい幣帛へいはく料金りょうきん千疋せんびきおさめ、かつ社頭しゃとう若松わかまついちつい手植てうえした。
  • どうさんじゅうねんはちがつ有栖川ありすがわみやたけしじん親王しんのう慰子戴仁親王しんのう実枝子みえこより幣帛へいはくりょう千疋せんびき
  • どうさんじゅうろくねん有栖川ありすがわみやたけしひとしより幣帛へいはくりょうよん千疋せんびきすすむおさめがあった。
  • 明治めいじさんじゅうろくねんきゅうがつしゃいき宮城みやぎ遥拝ようはいしょ設置せっちのことが明治天皇めいじてんのうみみたっ内意ないいもっ黒田くろだまちしたがえ差遣さしつかわして、さらさんじゅうきゅうねん十二月じゅうにがつには神饌しんせん幣帛へいはくりょうきょうしん指定していとなった。
  • 大正たいしょうじゅうさんねんはちがつ山階やましなみやきく麿まろ王妃おうひ常子つねこ参拝さんぱい幣帛へいはくりょういち千疋せんびきおさめ、かつひのきいちつい手植てうえした。
  • 昭和しょうわじゅうななねんろくがつだい東亜とうあ戦争せんそう祈念きねんのため、昭和しょうわ天皇てんのうよりかねじゅうえん下賜かしされた。
  • 戦争せんそう終了しゅうりょう昭和しょうわじゅういちねんがつ法令ほうれい改正かいせいによりけんしゃ社格しゃかく改正かいせいされ、神社じんじゃ本庁ほんちょう所管しょかんとなる。[8]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 今井いまいよし兵衛ひょうえ更生こうせい農村のうそん : 北橘きたたちばなむら実情じつじょう日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1935ねん 
  • 今井いまい善一郎ぜんいちろう赤城あかぎかみ煥乎どう、1974ねん 
  • 今井いまい善一郎ぜんいちろう習俗しゅうぞく歳時記さいじき煥乎どう、1975ねん 
  • 群馬ぐんまけんへんさん委員いいんかい へん群馬ぐんまけん群馬ぐんまけん、1989ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]