(Translated by https://www.hiragana.jp/)
本田増次郎 - Wikipedia コンテンツにスキップ

本田ほんだ増次郎ますじろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

本田ほんだ 増次郎ますじろう(ほんだ ますじろう、1866ねん1がつ15にち慶応けいおう2ねん11月29にち)- 1925ねん11月25にち)は、岡山おかやまけん久米くめぐん美咲みさきまち出身しゅっしんイギリス文学ぶんがくしゃ教育きょういくジャーナリスト民間みんかん外交がいこう柔道じゅうどう3だん

経歴けいれき[編集へんしゅう]

岡山おかやまけん久米くめ南条なんじょうぐん打穴うたのむらげん久米くめぐん美咲みさきまち打穴うたの)の農家のうかとしてまれ、むら小学校しょうがっこう(2006ねん3がつ廃校はいこう卒業そつぎょう医学いがくこころざどうけん福渡ふくわた医師いし吉岡よしおか寛齋かんさい吉岡よしおか弘毅こうきあに)のもとで2ねん修業しゅぎょうし、つづいて上京じょうきょう高木たかぎけんひろし紹介しょうかいで、井上いのうえかおる外務がいむ大臣だいじん主治医しゅじいなどをしていた愛宕下あたごした田村たむらまち医師いし松岡まつおか勇記ゆうき薬局やっきょくせいとなる。高木たかぎらが設立せつりつした海軍かいぐん軍医ぐんい学校がっこうへの進学しんがくかんがえ、試験しけん必要ひつよう英語えいご習得しゅうとくするため三田みた英語えいご学校がっこうかよはじめるが、1883ねん柔道じゅうどうならえば無料むりょう英語えいご授業じゅぎょうけられるという嘉納かのう治五郎じごろう英語えいご学校がっこう弘文こうぶんかん」で英語えいごを、講道館こうどうかん柔道じゅうどうまなびはじめ、在籍ざいせきするうちに医学いがくへの熱意ねついうしなう。また、1886ねんから1892ねんまで徴兵ちょうへい忌避きひ目的もくてきかとおもわれる養子ようし縁組えんぐみで、大倉おおくらせい名乗なのっていた[1]

1889ねん嘉納かのう外遊がいゆうさいして、講道館こうどうかん寄宿舎きしゅくしゃ運営うんえい一切いっさい西郷さいごう四郎しろう岩波いわなみしずわたるともにまかせられるが、女性じょせい伝道でんどうらから英語えいご個人こじん授業じゅぎょうけはじめたことからキリストきょう傾倒けいとうし、1890ねん洗礼せんれいける。師範しはん留守るすちゅうに、嘉納かのうきらクリスチャン日本にっぽんせい公会こうかい)になったうえ運営うんえい資金しきんめぐ不祥事ふしょうじ連座れんざしたことから破門はもんされ、一旦いったん嘉納かのうしたはな米国べいこくせい公会こうかいヘーア主教しゅきょう秘書ひしょけん通訳つうやくとなる。しかし、嘉納かのう文部省もんぶしょういのち熊本くまもとだい高等こうとう中学校ちゅうがっこう校長こうちょう赴任ふにんするにともな同校どうこう教授きょうじゅ招聘しょうへいされる。しん校長こうちょう赴任ふにんすると退職たいしょくうながされ、大阪おおさかせい公会こうかいけい英語えいご学校がっこう高等こうとうえい学校がっこう新制しんせい桃山ももやま学院がくいん高等こうとう学校がっこう前身ぜんしん)へ転任てんにん、4ねん東京とうきょうもどり、帝国ていこく教育きょういくかい全国ぜんこく教育きょういくしゃ団体だんたい会長かいちょうつじ新次しんじ)で機関きかん編集へんしゅうたずさわる。嘉納かのうまねきで高等こうとう師範しはん学校がっこう新制しんせい東京教育大学とうきょうきょういくだいがく前身ぜんしん)にうつり、東京とうきょう外国がいこく学校がっこう新制しんせい東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく前身ぜんしん)、立教りっきょう女学校じょがっこう立教女学院りつきょうじょがくいん)、女子じょし英学えいがくじゅく新制しんせい津田塾大学つだじゅくだいがく前身ぜんしん)、早稲田大学わせだだいがく教鞭きょうべんをとり、英語えいご教育きょういく貢献こうけんする一方いっぽう嘉納かのう清国きよくに留学生りゅうがくせい教育きょういくのためにげた「またらく書院しょいん」の教育きょういく主任しゅにんとなり[2]、ハンナ・リデルの回春かいしゅん病院びょういん開設かいせつへの協力きょうりょく動物どうぶつ虐待ぎゃくたい防止ぼうしかい運動うんどうなどにちからそそぐ。アンナ・シューウェルの『くろ物語ものがたり』 (Black Beauty) の邦訳ほうやくもこの動物どうぶつ愛護あいご運動うんどう一環いっかんとしてなされたものである。ラフカディオ・ハーン(小泉こいずみ八雲やくもとは、熊本くまもとだか早稲田大学わせだだいがく同僚どうりょうだった。

にち戦争せんそう契機けいき平和へいわ運動うんどうこころざし、つぶさに平和へいわ運動うんどうまなぶため、1905ねん単身たんしん渡米とべいする。それは過労かろうにより悪化あっかしていた結核けっかく転地てんち療養りょうようねていた。ときはちょうどポーツマス講和こうわ会議かいぎひらかれる直前ちょくぜんたり、爾後じご日本にっぽん立場たちば日本にっぽん文化ぶんかなどを題材だいざいにした講演こうえん活動かつどうおこなかたわら、桜井さくらい忠温ただよし(ただよし)のHuman Bullets(『肉弾にくだん』)の英訳えいやくがける。講演こうえん活動かつどう英国えいこくにもおよぶが、1909ねんからは、ニューヨークきょさだめ、日本にっぽん政府せいふ広報こうほう『オリエンタル・エコノミック・レビュー』(のちに『オリエンタル・レビュー』にめい変更へんこう)の発刊はっかんたずさわる。当初とうしょ馬場ばば恒吾つねごともふく編集へんしゅうちょうつとめるが、編集へんしゅうちょうあたま本元ほんもとさだジャパンタイムズ経営けいえいなおしのため帰国きこくしたのち編集へんしゅうちょうぐ。この出版しゅっぱん活動かつどう講演こうえん活動かつどうにより日米にちべい相互そうご理解りかい貢献こうけんしたとのことから、1911ねんコネチカットしゅうトリニティ・カレッジから名誉めいよじん文学ぶんがく博士はかせごう授与じゅよされた。

1913ねん帰国きこくは、ジャパンタイムズ、ヘラルド・オブ・エイシアの編集へんしゅうたずさわる一方いっぽう東京とうきょう外国がいこく学校がっこういちこうもするが、主要しゅよう公務こうむ外務省がいむしょうみや内省ないせいにかかわる外交がいこう関連かんれん仕事しごとであった。パリ講和こうわ会議かいぎさいしての外遊がいゆう英国えいこくエドワード8せい当時とうじおう太子たいし)や英国えいこく新聞しんぶんおうノースクリフきょう来日らいにちせっぐうやくなどが特筆とくひつされる。英国えいこく大使たいしカニンガム・グリーンジャパン・アドバタイザー主筆しゅひつヒュー・バイアスとも親交しんこうむすんだ。また、外国がいこく雑誌ざっし英字えいじ新聞しんぶん英語えいご雑誌ざっし婦人ふじん雑誌ざっし新聞しんぶんなどへの寄稿きこう多数たすうおこなっており、とくに『英語えいご青年せいねん』に寄稿きこうした語源ごげんかんする記事きじ(「連想れんそう語学ごがく連載れんさい13かい、「外国がいこくざつ爼」連載れんさい15かい、「語学ごがくざつ爼」連載れんさい30かい)は、本田ほんだ独特どくとくかたくちもあって、連載れんさいかさねた。大正たいしょう12ねん1923ねん)の関東大震災かんとうだいしんさいさかい一時いちじ回復かいふくていた結核けっかく悪化あっか、その2ねん他界たかいした。井岡いおかふでとのあいだ一女いちじょはながあり、作家さっか山本やまもと有三ゆうぞうとついだ。

かつての講道館こうどうかん関係かんけいでは初期しょき重要じゅうよう人物じんぶつではあるものの、嘉納かのうから一時いちじ破門はもんされたこと、柔道じゅうどうではなく英学えいがくしゃとなったこと、講道館こうどうかん在籍ざいせき別姓べっせい名乗なのっていたことなどからその存在そんざいあきらかとならず、本田ほんだそん1871ねん-1949ねん講道館こうどうかん8だん東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう水練すいれん師範しはん東京とうきょう外国がいこく学校がっこうかん教授きょうじゅ)と混同こんどうされることがおおかった[3]

本田ほんだ増次郎ますじろう回春かいしゅん病院びょういん[編集へんしゅう]

明治めいじ24ねんから26ねん4がつみじか熊本くまもと滞在たいざいに、ハンナ・リデルい、患者かんじゃ救済きゅうさいのために病院びょういん建設けんせつしたいという理想りそう共鳴きょうめいし、(日本にっぽんせい公会こうかいはリデルのかんがえに前向まえむきでなかった)御殿場ごてんばにある神山かみやまふくなま病院びょういん訪問ほうもんやベルツ博士はかせ助言じょげんをえたり、外国がいこくじん土地とちることができなかったので、リデルにわり土地とち購入こうにゅう協力きょうりょくしたりしている。回春かいしゅん病院びょういん評議ひょうぎいんとして生涯しょうがい協力きょうりょくしている。かれむすめ、はなはハンナ・リデルからったといわれている。結婚けっこん、はなは山本やまもと助言じょげんにより華子はなこ名前なまええているが、ハンナ・リデル後継こうけいしゃのライトになやみを相談そうだんした手紙てがみのこっている。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 本田ほんだ増次郎ますじろうやく『こがねと乳香にゅうこう敬神けいしん知足ちそくりょう婦美ふみたん)』日本にっぽんせい公会こうかい出版しゅっぱんしゃ 明治めいじ29ねん(1896ねん)12月
  • 本田ほんだ増次郎ますじろうやく『こどもかたぎ かたみのボタン』育成いくせいかい 明治めいじ34ねん(1901ねん)12月
  • 本田ほんだ増次郎ますじろうやく処世しょせいようくん文武ぶんぶどう 明治めいじ35ねん(1902ねん)7がつ
  • E・P・ヒューズ本田ほんだ増次郎ますじろう棚橋たなはし源太郎げんたろうどもやく教授きょうじゅほう講義こうぎ山海さんかいどう書店しょてん 明治めいじ35ねん(1902ねん)8がつ
  • E・P・ヒューズ、A・C・ハーツホン本田ほんだ増次郎ますじろう共著きょうちょ家庭かてい模範もはん育成いくせいかい 明治めいじ35ねん(1902ねん)12月
  • A・C・ハーツホンへん本田ほんだ増次郎ますじろう注解ちゅうかいThoughts on Ethics Selected from the Writings of John Ruskin(『ラスキン倫理りんり思想しそう』) 英学えいがく新報しんぽうしゃ 明治めいじ36ねん(1903ねん)1がつ
  • 本田ほんだ増次郎ますじろうちょいぬ世界せかい明治めいじ36ねん(1903ねん)7がつ発行はっこうしゃ本田ほんだ増次郎ますじろう
  • 本田ほんだ増次郎ますじろうやく『驪語(くろうまものがたり)』内外ないがい出版しゅっぱん協会きょうかい 明治めいじ36ねん(1903ねん)9がつ
  • 本田ほんだ増次郎ますじろうへん『カーライル英雄えいゆうろん詳解しょうかい内外ないがい出版しゅっぱん協会きょうかい 明治めいじ37ねん(1904ねん)12月
  • 本田ほんだ増次郎ますじろうへん泰西たいせいおんなくん内外ないがい出版しゅっぱん協会きょうかい 明治めいじ38ねん(1905ねん)4がつ
  • 本田ほんだ増次郎ますじろうへん英文えいぶん詳解しょうかい内外ないがい出版しゅっぱん協会きょうかい 明治めいじ38ねん(1905ねん)12月
  • HUMAN BULLETS:A SOLDIER’S STORY OF PORT ARTHUR BY TADAYOSHI SAKURAI TRANSLATED BY MASUJIRO HONDA EDITED BY ALICE MABEL BACON HOUGHTON MIFFLIN COMPANY October 1907
  • 本田ほんだ増次郎ますじろうちょ『イートン学校がっこうおよび其校ふう内外ないがい出版しゅっぱん協会きょうかい 明治めいじ43ねん(1910ねん)4がつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 長谷川はせがわ勝政かつまさ英学えいがくしゃ本田ほんだ増次郎ますじろう改姓かいせいをめぐって』日本にっぽんえいがく学会がっかい英学えいがく研究けんきゅうだい41ごう、2008ねん
  2. ^ ろうまつ信一しんいち嘉納かのう治五郎じごろう中国人ちゅうごくじん留学生りゅうがくせい教育きょういく」『武道ぶどうがく研究けんきゅうだい8かんだい2ごう日本にっぽん武道ぶどう学会がっかい、1976ねん、27-28ぺーじdoi:10.11214/budo1968.8.2_27ISSN 0287-9700NAID 130004574469 
  3. ^ あずま憲一けんいち 嘉納かのう治五郎じごろう本田ほんだそんについて』講道館こうどうかん柔道じゅうどう科学かがく研究けんきゅうかい だいじゅうろく輯、2017ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽん力行りっこうかいへん現今げんこん名家めいか列伝れつでん』1903ねん
  • HONDA NUMBER『英語えいご青年せいねんだい54かんだい9ごう、1926ねん
  • 本田ほんだ増次郎ますじろう追悼ついとうごう英語えいご青年せいねんだい54かんだい10ごう、1926ねん
  • 永野ながのけん(まさる)『山本やまもと有三ゆうぞう正伝せいでんうえ)』未來社みらいしゃ、1987ねん
  • 日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてん編集へんしゅう委員いいんかい日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてんきょうぶんかん、1988ねん
  • 勝浦かつうら吉雄よしお語学ごがく逸材いつざい本田ほんだ増次郎ますじろう名著めいちょ普及ふきゅうかい名著めいちょサプリメント』だい1かんだい3ごう、1988ねん
  • 中村なかむらひろしいまよみがえる英語えいご人生じんせい達人たつじん:本田ほんだ増次郎ますじろう(1)」『岡山おかやましょうだい論叢ろんそうだい36かんだい1ごう岡山商科大学おかやましょうかだいがく学会がっかい、2000ねん5がつ、125-145ぺーじISSN 02868652NAID 40000321051 
  • 中村なかむらひろし資料しりょう いまよみがえる英語えいご人生じんせい達人たつじん:本田ほんだ増次郎ますじろう(2)」『岡山おかやましょうだい論叢ろんそうだい36かんだい2ごう岡山商科大学おかやましょうかだいがく学会がっかい、2000ねん10がつ、211-233ぺーじISSN 02868652NAID 40000321064 
  • 中村なかむらひろし資料しりょう いまよみがえる英語えいご人生じんせい達人たつじん:本田ほんだ増次郎ますじろう(3)」『岡山おかやましょうだい論叢ろんそうだい36かんだい3ごう岡山商科大学おかやましょうかだいがく学会がっかい、2001ねん2がつ、161-187ぺーじISSN 02868652NAID 40000321074 
  • 中村なかむらひろし資料しりょう いまよみがえる英語えいご人生じんせい達人たつじん:本田ほんだ増次郎ますじろう(4)」『岡山おかやましょうだい論叢ろんそうだい37かんだい1ごう岡山商科大学おかやましょうかだいがく学会がっかい、2001ねん5がつ、109-132ぺーじISSN 02868652NAID 40000321083 
  • 中村なかむらひろし資料しりょう いまよみがえる英語えいご人生じんせい達人たつじん:本田ほんだ増次郎ますじろう(5)」『岡山おかやましょうだい論叢ろんそうだい37かんだい2ごう岡山商科大学おかやましょうかだいがく学会がっかい、2001ねん10がつ、133-164ぺーじISSN 02868652NAID 40000321093 
  • 中村なかむらひろし資料しりょう いまよみがえる英語えいご人生じんせい達人たつじん:本田ほんだ増次郎ますじろう(6)〔本田ほんだ増次郎ますじろう文献ぶんけん目録もくろく〕」『岡山おかやましょうだい論叢ろんそうだい37かんだい3ごう岡山商科大学おかやましょうかだいがく学会がっかい、2002ねん2がつ、235-254ぺーじISSN 02868652NAID 40000321108 
  • 長谷川はせがわ勝政かつまさ本田ほんだ増次郎ますじろう自叙伝じじょでん「ある日本人にっぽんじんコスモポリタンの物語ものがたり」("The Story of a Japanese Cosmopolite" As told by himself)の紹介しょうかい(1)」『桃山ももやま学院がくいんねん紀要きようだい23ごう桃山ももやま学院がくいん、2004ねん3がつ、202-131ぺーじISSN 02851725NAID 40006303405 
  • 本田ほんだ増次郎ますじろう, 長谷川はせがわ勝政かつまさ本田ほんだ増次郎ますじろう自叙伝じじょでん「ある日本人にっぽんじんコスモポリタンの物語ものがたり」の紹介しょうかい(2)」『桃山ももやま学院がくいんねん紀要きようだい24ごう桃山ももやま学院がくいん、2005ねん3がつ、286-208ぺーじISSN 02851725NAID 40007044973 
  • 本田ほんだ増次郎ますじろう, 長谷川はせがわ勝政かつまさ本田ほんだ増次郎ますじろう自叙伝じじょでん「ある日本人にっぽんじんコスモポリタンの物語ものがたり」("The Story of a Japanese Cosmopolite" As told by himself)の紹介しょうかい(3)」『桃山ももやま学院がくいんねん紀要きようだい25ごう桃山ももやま学院がくいん、2006ねん3がつ、246-160ぺーじISSN 02851725NAID 40015193057 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]