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本田 ほんだ 増次郎 ますじろう (ほんだ ますじろう、1866年 ねん 1月 がつ 15日 にち (慶応 けいおう 2年 ねん 11月29日 にち )- 1925年 ねん 11月25日 にち )は、岡山 おかやま 県 けん 久米 くめ 郡 ぐん 美咲 みさき 町 まち 出身 しゅっしん のイギリス文学 ぶんがく 者 しゃ 、教育 きょういく 家 か 、ジャーナリスト 、民間 みんかん 外交 がいこう 家 か 。柔道 じゅうどう 3段 だん 。
岡山 おかやま 県 けん 久米 くめ 南条 なんじょう 郡 ぐん 打穴 うたの 村 むら (現 げん ・久米 くめ 郡 ぐん 美咲 みさき 町 まち 打穴 うたの )の農家 のうか の子 こ として生 う まれ、村 むら の小学校 しょうがっこう (2006年 ねん 3月 がつ 廃校 はいこう )卒業 そつぎょう 後 ご 、医学 いがく を志 こころざ し同 どう 県 けん 福渡 ふくわた の医師 いし 吉岡 よしおか 寛齋 かんさい (吉岡 よしおか 弘毅 こうき の兄 あに )のもとで2年 ねん 修業 しゅぎょう し、続 つづ いて上京 じょうきょう し高木 たかぎ 兼 けん 寛 ひろし の紹介 しょうかい で、井上 いのうえ 馨 かおる 外務 がいむ 大臣 だいじん の主治医 しゅじい などをしていた愛宕下 あたごした 田村 たむら 町 まち の医師 いし 松岡 まつおか 勇記 ゆうき の薬局 やっきょく 生 せい となる。高木 たかぎ らが設立 せつりつ した海軍 かいぐん 軍医 ぐんい 学校 がっこう への進学 しんがく を考 かんが え、試験 しけん に必要 ひつよう な英語 えいご を習得 しゅうとく するため三田 みた 英語 えいご 学校 がっこう に通 かよ い始 はじ めるが、1883年 ねん に柔道 じゅうどう を習 なら えば無料 むりょう で英語 えいご の授業 じゅぎょう を受 う けられるという嘉納 かのう 治五郎 じごろう の英語 えいご 学校 がっこう 「弘文 こうぶん 館 かん 」で英語 えいご を、講道館 こうどうかん で柔道 じゅうどう を学 まな びはじめ、在籍 ざいせき するうちに医学 いがく への熱意 ねつい を失 うしな う。また、1886年 ねん から1892年 ねん まで徴兵 ちょうへい 忌避 きひ が目的 もくてき かと思 おも われる養子 ようし 縁組 えんぐみ で、大倉 おおくら 姓 せい を名乗 なの っていた[1] 。
1889年 ねん の嘉納 かのう 外遊 がいゆう に際 さい して、講道館 こうどうかん ・寄宿舎 きしゅくしゃ の運営 うんえい 一切 いっさい を西郷 さいごう 四郎 しろう 、岩波 いわなみ 静 しず 弥 わたる と共 とも にまかせられるが、女性 じょせい 伝道 でんどう 師 し らから英語 えいご の個人 こじん 授業 じゅぎょう を受 う けはじめたことからキリスト教 きょう に傾倒 けいとう し、1890年 ねん に洗礼 せんれい を受 う ける。師範 しはん の留守 るす 中 ちゅう に、嘉納 かのう の忌 い み嫌 きら うクリスチャン (日本 にっぽん 聖 せい 公会 こうかい )になった上 うえ 、運営 うんえい 資金 しきん を巡 めぐ る不祥事 ふしょうじ に連座 れんざ したことから破門 はもん され、一旦 いったん は嘉納 かのう の下 した を離 はな れ米国 べいこく 聖 せい 公会 こうかい ヘーア主教 しゅきょう の秘書 ひしょ 兼 けん 通訳 つうやく となる。しかし、嘉納 かのう が文部省 もんぶしょう の命 いのち を受 う け熊本 くまもと の第 だい 五 ご 高等 こうとう 中学校 ちゅうがっこう 校長 こうちょう に赴任 ふにん するに伴 ともな い同校 どうこう 教授 きょうじゅ に招聘 しょうへい される。新 しん 校長 こうちょう が赴任 ふにん すると退職 たいしょく を促 うなが され、大阪 おおさか の聖 せい 公会 こうかい 系 けい 英語 えいご 学校 がっこう の高等 こうとう 英 えい 学校 がっこう (新制 しんせい 桃山 ももやま 学院 がくいん 高等 こうとう 学校 がっこう の前身 ぜんしん )へ転任 てんにん 、4年 ねん 後 ご 東京 とうきょう に戻 もど り、帝国 ていこく 教育 きょういく 会 かい (全国 ぜんこく 教育 きょういく 者 しゃ 団体 だんたい 。会長 かいちょう 辻 つじ 新次 しんじ )で機関 きかん 誌 し の編集 へんしゅう に携 たずさ わる。嘉納 かのう の招 まね きで高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう (新制 しんせい 東京教育大学 とうきょうきょういくだいがく の前身 ぜんしん )に移 うつ り、東京 とうきょう 外国 がいこく 語 ご 学校 がっこう (新制 しんせい 東京外国語大学 とうきょうがいこくごだいがく の前身 ぜんしん )、立教 りっきょう 女学校 じょがっこう (立教女学院 りつきょうじょがくいん )、女子 じょし 英学 えいがく 塾 じゅく (新制 しんせい 津田塾大学 つだじゅくだいがく の前身 ぜんしん )、早稲田大学 わせだだいがく で教鞭 きょうべん をとり、英語 えいご 教育 きょういく に貢献 こうけん する一方 いっぽう 、嘉納 かのう が清国 きよくに 留学生 りゅうがくせい 教育 きょういく のために立 た ち上 あ げた「亦 また 楽 らく 書院 しょいん 」の教育 きょういく 主任 しゅにん となり[2] 、ハンナ・リデルの回春 かいしゅん 病院 びょういん 開設 かいせつ への協力 きょうりょく 、動物 どうぶつ 虐待 ぎゃくたい 防止 ぼうし 会 かい の運動 うんどう などに力 ちから を注 そそ ぐ。アンナ・シューウェルの『黒 くろ 馬 ば 物語 ものがたり 』 (Black Beauty ) の邦訳 ほうやく もこの動物 どうぶつ 愛護 あいご 運動 うんどう の一環 いっかん としてなされたものである。ラフカディオ・ハーン(小泉 こいずみ 八雲 やくも ) とは、熊本 くまもと の五 ご 高 だか と早稲田大学 わせだだいがく で同僚 どうりょう だった。
日 にち 露 ろ 戦争 せんそう を契機 けいき に平和 へいわ 運動 うんどう を志 こころざ し、つぶさに平和 へいわ 運動 うんどう を学 まな ぶため、1905年 ねん 、単身 たんしん 渡米 とべい する。それは過労 かろう により悪化 あっか していた結核 けっかく の転地 てんち 療養 りょうよう も兼 か ねていた。時 とき はちょうどポーツマス で講和 こうわ 会議 かいぎ が開 ひら かれる直前 ちょくぜん に当 あ たり、爾後 じご 、日本 にっぽん の立場 たちば や日本 にっぽん 文化 ぶんか などを題材 だいざい にした講演 こうえん 活動 かつどう を行 おこな う傍 かたわ ら、桜井 さくらい 忠温 ただよし (ただよし)のHuman Bullets (『肉弾 にくだん 』)の英訳 えいやく を手 て がける。講演 こうえん 活動 かつどう は英国 えいこく にも及 およ ぶが、1909年 ねん からは、ニューヨーク に居 きょ を定 さだ め、日本 にっぽん 政府 せいふ の広報 こうほう 誌 し 『オリエンタル・エコノミック・レビュー』(後 のち に『オリエンタル・レビュー』に誌 し 名 めい 変更 へんこう )の発刊 はっかん に携 たずさ わる。当初 とうしょ は馬場 ばば 恒吾 つねご と共 とも に副 ふく 編集 へんしゅう 長 ちょう を務 つと めるが、編集 へんしゅう 長 ちょう の頭 あたま 本元 ほんもと 貞 さだ がジャパンタイムズ の経営 けいえい 立 た て直 なお しのため帰国 きこく した後 のち は編集 へんしゅう 長 ちょう を引 ひ き継 つ ぐ。この出版 しゅっぱん 活動 かつどう と講演 こうえん 活動 かつどう により日米 にちべい の相互 そうご 理解 りかい に貢献 こうけん したとのことから、1911年 ねん 、コネチカット州 しゅう トリニティ・カレッジ から名誉 めいよ 人 じん 文学 ぶんがく 博士 はかせ 号 ごう を授与 じゅよ された。
1913年 ねん 、帰国 きこく 後 ご は、ジャパンタイムズ、ヘラルド・オブ・エイシアの編集 へんしゅう に携 たずさ わる一方 いっぽう 、東京 とうきょう 外国 がいこく 語 ご 学校 がっこう へ一 いち 時 じ 出 で 講 こう もするが、主要 しゅよう な公務 こうむ は外務省 がいむしょう や宮 みや 内省 ないせい にかかわる外交 がいこう 関連 かんれん の仕事 しごと であった。パリ講和 こうわ 会議 かいぎ に際 さい しての外遊 がいゆう 、英国 えいこく のエドワード8世 せい (当時 とうじ は王 おう 太子 たいし )や英国 えいこく の新聞 しんぶん 王 おう ノースクリフ卿 きょう 来日 らいにち 時 じ の接 せっ 遇 ぐう 役 やく などが特筆 とくひつ される。英国 えいこく 大使 たいし カニンガム・グリーン 、ジャパン・アドバタイザー の主筆 しゅひつ ヒュー・バイアスとも親交 しんこう を結 むす んだ。また、外国 がいこく 雑誌 ざっし 、英字 えいじ 新聞 しんぶん 、英語 えいご 雑誌 ざっし 、婦人 ふじん 雑誌 ざっし 、新聞 しんぶん などへの寄稿 きこう を多数 たすう 行 おこな っており、特 とく に『英語 えいご 青年 せいねん 』に寄稿 きこう した語源 ごげん に関 かん する記事 きじ (「連想 れんそう 語学 ごがく 」連載 れんさい 13回 かい 、「外国 がいこく 語 ご 雑 ざつ 爼」連載 れんさい 15回 かい 、「語学 ごがく 雑 ざつ 爼」連載 れんさい 30回 かい )は、本田 ほんだ 独特 どくとく の語 かた り口 くち もあって、連載 れんさい を重 かさ ねた。大正 たいしょう 12年 ねん (1923年 ねん )の関東大震災 かんとうだいしんさい を境 さかい に一時 いちじ 回復 かいふく を見 み ていた結核 けっかく が悪化 あっか 、その2年 ねん 後 ご に他界 たかい した。井岡 いおか ふでとの間 あいだ に一女 いちじょ はながあり、作家 さっか 山本 やまもと 有三 ゆうぞう に嫁 とつ いだ。
かつての講道館 こうどうかん 関係 かんけい 史 し では初期 しょき の重要 じゅうよう 人物 じんぶつ ではあるものの、嘉納 かのう から一時 いちじ 破門 はもん されたこと、柔道 じゅうどう 家 か ではなく英学 えいがく 者 しゃ となったこと、講道館 こうどうかん 在籍 ざいせき 時 じ に別姓 べっせい を名乗 なの っていたことなどからその存在 そんざい が明 あき らかとならず、本田 ほんだ 存 そん (1871年 ねん -1949年 ねん 、講道館 こうどうかん 8段 だん 、東京 とうきょう 高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう 水練 すいれん 師範 しはん 、東京 とうきょう 外国 がいこく 語 ご 学校 がっこう 韓 かん 語 ご 教授 きょうじゅ )と混同 こんどう されることが多 おお かった[3] 。
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう と回春 かいしゅん 病院 びょういん [ 編集 へんしゅう ]
明治 めいじ 24年 ねん から26年 ねん 4月 がつ の短 みじか い熊本 くまもと 滞在 たいざい 時 じ に、ハンナ・リデル に会 あ い、患者 かんじゃ 救済 きゅうさい のために病院 びょういん 建設 けんせつ したいという理想 りそう に共鳴 きょうめい し、(日本 にっぽん 聖 せい 公会 こうかい はリデルの考 かんが えに前向 まえむ きでなかった)御殿場 ごてんば にある神山 かみやま 復 ふく 生 なま 病院 びょういん 訪問 ほうもん やベルツ博士 はかせ の助言 じょげん をえたり、外国 がいこく 人 じん は土地 とち を得 え ることができなかったので、リデルに代 か わり土地 とち 購入 こうにゅう に協力 きょうりょく したりしている。回春 かいしゅん 病院 びょういん の評議 ひょうぎ 員 いん として生涯 しょうがい 協力 きょうりょく している。彼 かれ の娘 むすめ の名 な 、はなはハンナ・リデル から取 と ったといわれている。結婚 けっこん 後 ご 、はなは山本 やまもと の助言 じょげん により華子 はなこ と名前 なまえ を変 か えているが、ハンナ・リデル の後継 こうけい 者 しゃ のライトに悩 なや みを相談 そうだん した手紙 てがみ が残 のこ っている。
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 訳 やく 『こがねと乳香 にゅうこう (敬神 けいしん 知足 ちそく 良 りょう 婦美 ふみ 譚 たん )』日本 にっぽん 聖 せい 公会 こうかい 出版 しゅっぱん 社 しゃ 明治 めいじ 29年 ねん (1896年 ねん )12月
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 訳 やく 『こどもかたぎ かたみのボタン』育成 いくせい 会 かい 明治 めいじ 34年 ねん (1901年 ねん )12月
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 訳 やく 『処世 しょせい 要 よう 訓 くん 』文武 ぶんぶ 堂 どう 明治 めいじ 35年 ねん (1902年 ねん )7月 がつ
E・P・ヒューズ 、本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 、棚橋 たなはし 源太郎 げんたろう 共 ども 訳 やく 『教授 きょうじゅ 法 ほう 講義 こうぎ 』山海 さんかい 堂 どう 書店 しょてん 明治 めいじ 35年 ねん (1902年 ねん )8月 がつ
E・P・ヒューズ、A・C・ハーツホン 、本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 共著 きょうちょ 『家庭 かてい の模範 もはん 』育成 いくせい 会 かい 明治 めいじ 35年 ねん (1902年 ねん )12月
A・C・ハーツホン編 へん 、本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 注解 ちゅうかい Thoughts on Ethics Selected from the Writings of John Ruskin (『ラスキン倫理 りんり 思想 しそう 』) 英学 えいがく 新報 しんぽう 社 しゃ 明治 めいじ 36年 ねん (1903年 ねん )1月 がつ
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 著 ちょ 『犬 いぬ の世界 せかい 』明治 めいじ 36年 ねん (1903年 ねん )7月 がつ (発行 はっこう 者 しゃ も本田 ほんだ 増次郎 ますじろう )
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 訳 やく 『驪語(くろうまものがたり)』内外 ないがい 出版 しゅっぱん 協会 きょうかい 明治 めいじ 36年 ねん (1903年 ねん )9月 がつ
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 編 へん 『カーライル英雄 えいゆう 論 ろん 詳解 しょうかい 』内外 ないがい 出版 しゅっぱん 協会 きょうかい 明治 めいじ 37年 ねん (1904年 ねん )12月
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 編 へん 『泰西 たいせい 女 おんな 訓 くん 』 内外 ないがい 出版 しゅっぱん 協会 きょうかい 明治 めいじ 38年 ねん (1905年 ねん )4月 がつ
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 編 へん 『英文 えいぶん 詳解 しょうかい 』 内外 ないがい 出版 しゅっぱん 協会 きょうかい 明治 めいじ 38年 ねん (1905年 ねん )12月
HUMAN BULLETS:A SOLDIER’S STORY OF PORT ARTHUR BY TADAYOSHI SAKURAI TRANSLATED BY MASUJIRO HONDA EDITED BY ALICE MABEL BACON HOUGHTON MIFFLIN COMPANY October 1907
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 著 ちょ 『イートン学校 がっこう 及 およ び其校風 ふう 』内外 ないがい 出版 しゅっぱん 協会 きょうかい 明治 めいじ 43年 ねん (1910年 ねん )4月 がつ
日本 にっぽん 力行 りっこう 会 かい 編 へん 『現今 げんこん 名家 めいか 列伝 れつでん 』1903年 ねん 。
HONDA NUMBER『英語 えいご 青年 せいねん 』第 だい 54巻 かん 第 だい 9号 ごう 、1926年 ねん 。
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 氏 し 追悼 ついとう 号 ごう 『英語 えいご 青年 せいねん 』第 だい 54巻 かん 第 だい 10号 ごう 、1926年 ねん 。
永野 ながの 賢 けん (まさる)『山本 やまもと 有三 ゆうぞう 正伝 せいでん (上 うえ )』未來社 みらいしゃ 、1987年 ねん 。
日本 にっぽん キリスト教 きりすときょう 歴史 れきし 大 だい 事典 じてん 編集 へんしゅう 委員 いいん 会 かい 『日本 にっぽん キリスト教 きりすときょう 歴史 れきし 大 だい 事典 じてん 』教 きょう 文 ぶん 館 かん 、1988年 ねん 。
勝浦 かつうら 吉雄 よしお 「語学 ごがく の逸材 いつざい :本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 」名著 めいちょ 普及 ふきゅう 会 かい 『名著 めいちょ サプリメント』第 だい 1巻 かん 第 だい 3号 ごう 、1988年 ねん 。
中村 なかむら 浩 ひろし 路 ろ 「今 いま よみがえる英語 えいご と人生 じんせい の達人 たつじん :本田 ほんだ 増次郎 ますじろう (1) 」『岡山 おかやま 商 しょう 大 だい 論叢 ろんそう 』第 だい 36巻 かん 第 だい 1号 ごう 、岡山商科大学 おかやましょうかだいがく 学会 がっかい 、2000年 ねん 5月 がつ 、125-145頁 ぺーじ 、ISSN 02868652 、NAID 40000321051 。
中村 なかむら 浩 ひろし 路 ろ 「資料 しりょう 今 いま よみがえる英語 えいご と人生 じんせい の達人 たつじん :本田 ほんだ 増次郎 ますじろう (2)」『岡山 おかやま 商 しょう 大 だい 論叢 ろんそう 』第 だい 36巻 かん 第 だい 2号 ごう 、岡山商科大学 おかやましょうかだいがく 学会 がっかい 、2000年 ねん 10月 がつ 、211-233頁 ぺーじ 、ISSN 02868652 、NAID 40000321064 。
中村 なかむら 浩 ひろし 路 ろ 「資料 しりょう 今 いま よみがえる英語 えいご と人生 じんせい の達人 たつじん :本田 ほんだ 増次郎 ますじろう (3)」『岡山 おかやま 商 しょう 大 だい 論叢 ろんそう 』第 だい 36巻 かん 第 だい 3号 ごう 、岡山商科大学 おかやましょうかだいがく 学会 がっかい 、2001年 ねん 2月 がつ 、161-187頁 ぺーじ 、ISSN 02868652 、NAID 40000321074 。
中村 なかむら 浩 ひろし 路 ろ 「資料 しりょう 今 いま よみがえる英語 えいご と人生 じんせい の達人 たつじん :本田 ほんだ 増次郎 ますじろう (4)」『岡山 おかやま 商 しょう 大 だい 論叢 ろんそう 』第 だい 37巻 かん 第 だい 1号 ごう 、岡山商科大学 おかやましょうかだいがく 学会 がっかい 、2001年 ねん 5月 がつ 、109-132頁 ぺーじ 、ISSN 02868652 、NAID 40000321083 。
中村 なかむら 浩 ひろし 路 ろ 「資料 しりょう 今 いま よみがえる英語 えいご と人生 じんせい の達人 たつじん :本田 ほんだ 増次郎 ますじろう (5)」『岡山 おかやま 商 しょう 大 だい 論叢 ろんそう 』第 だい 37巻 かん 第 だい 2号 ごう 、岡山商科大学 おかやましょうかだいがく 学会 がっかい 、2001年 ねん 10月 がつ 、133-164頁 ぺーじ 、ISSN 02868652 、NAID 40000321093 。
中村 なかむら 浩 ひろし 路 ろ 「資料 しりょう 今 いま よみがえる英語 えいご と人生 じんせい の達人 たつじん :本田 ほんだ 増次郎 ますじろう (6)〔本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 文献 ぶんけん 目録 もくろく 〕」『岡山 おかやま 商 しょう 大 だい 論叢 ろんそう 』第 だい 37巻 かん 第 だい 3号 ごう 、岡山商科大学 おかやましょうかだいがく 学会 がっかい 、2002年 ねん 2月 がつ 、235-254頁 ぺーじ 、ISSN 02868652 、NAID 40000321108 。
長谷川 はせがわ 勝政 かつまさ 「本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 自叙伝 じじょでん 「ある日本人 にっぽんじん コスモポリタンの物語 ものがたり 」("The Story of a Japanese Cosmopolite" As told by himself)の紹介 しょうかい (1) 」『桃山 ももやま 学院 がくいん 年 ねん 史 し 紀要 きよう 』第 だい 23号 ごう 、桃山 ももやま 学院 がくいん 、2004年 ねん 3月 がつ 、202-131頁 ぺーじ 、ISSN 02851725 、NAID 40006303405 。
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう , 長谷川 はせがわ 勝政 かつまさ 「本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 自叙伝 じじょでん 「ある日本人 にっぽんじん コスモポリタンの物語 ものがたり 」の紹介 しょうかい (2)」『桃山 ももやま 学院 がくいん 年 ねん 史 し 紀要 きよう 』第 だい 24号 ごう 、桃山 ももやま 学院 がくいん 、2005年 ねん 3月 がつ 、286-208頁 ぺーじ 、ISSN 02851725 、NAID 40007044973 。
本田 ほんだ 増次郎 ますじろう , 長谷川 はせがわ 勝政 かつまさ 「本田 ほんだ 増次郎 ますじろう 自叙伝 じじょでん 「ある日本人 にっぽんじん コスモポリタンの物語 ものがたり 」("The Story of a Japanese Cosmopolite" As told by himself)の紹介 しょうかい (3)」『桃山 ももやま 学院 がくいん 年 ねん 史 し 紀要 きよう 』第 だい 25号 ごう 、桃山 ももやま 学院 がくいん 、2006年 ねん 3月 がつ 、246-160頁 ぺーじ 、ISSN 02851725 、NAID 40015193057 。