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しゅじょ

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しゅ じょ(しゅ じょ、生年せいねんしょう - 393ねん)は、中国ちゅうごくあずますすむ軍人ぐんじんりんほんぬきぐんちち西にし蛮校じょうえきしゅう刺史しし歴任れきにんしたしゅははかんしゅりゃくがいる。淝水のたたかにおいてあずますすむぐん勝利しょうりみちびいた立役者たてやくしゃである。

経歴けいれき

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順調じゅんちょう出世しゅっせ

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かれ一族いちぞく代々だいだい名将めいしょう排出はいしゅつする家柄いえがらであった。

わかいころから朝廷ちょうていつかえ、やがて鷹揚おうよう将軍しょうぐん江夏えなつそう累進るいしんした。

きょうやすし3ねん365ねん)10がつやなしゅう刺史しし司馬しばいさおかんちゅうにおいて反乱はんらんこし、はりえきしゅうまき成都せいとおう自称じしょうした。11月、司馬しばいさおけんかくより侵攻しんこうして涪城とすと、さらに成都せいとすすんでえきしゅう刺史しししゅうすわえ包囲ほういした。だい司馬しば桓温上表じょうひょうにより、しゅじょ征討せいとうまもるにんじられ、成都せいと救援きゅうえんかった。

ふとし元年がんねん366ねん)5がつしゅじょしゅうすわえとも司馬しばいさおやぶり、そのへいことごと潰滅かいめつさせた。司馬しばいさおはじめとして、そのである司馬しば隴子・ちょうはりはばか司馬しばきんいちらをらえると、まとめて桓温のしたおくった。功績こうせきによりせいとりこ将軍しょうぐんにんじられ、じょう平子ひらこふうじられた。

ふとやわ4ねん369ねん)4がつ、桓温がきた敢行かんこうし、5まんへいひきいてぜんつばめ侵攻しんこうすると、しゅじょもまたこれに従軍じゅうぐんした。6月、しゅじょは鄧遐ととも別働隊べつどうたいひきいてはやしなぎさすすむと、ぜんつばめ将軍しょうぐんでんがお撃破げきはした。

ふとやわ5ねん370ねんごろ兗州刺史ししにんじられ、任地にんちおもむきいた。

やすしやすし2ねん374ねん)、長城ちょうじょうけん出身しゅっしんせんひろしという人物じんぶつが100にんあまりの衆人しゅうじんあつめて原郷はらごうさん割拠かっきょしており、しゅじょ朝廷ちょうていよりなかぐん司馬しばおきぐん太守たいしゅにんじられると、せんひろし討伐とうばつめいじられた。ぐん到着とうちゃくすると、その勢力せいりょく撃破げきはしてせんひろし身柄みがらおさえた。らんしずまったのちふたたび兗州刺史ししとして任地にんち帰還きかんした。

ふともと元年がんねん376ねん)8がつぜんはた君主くんしゅ苻堅ぜんりょう侵攻しんこうし、しゅうとしろとして君主くんしゅちょうたかしすず降伏ごうぶくさせた。9月、ぜんりょう侵攻しんこうけたとのほう朝廷ちょうていとどくと、くるま将軍しょうぐん桓沖いのちにより、しゅじょしゅう刺史しし桓石しゅう荊州とくまもる桓羆ともに沔・かんとおって救援きゅうえんかうようめいじられた。だが、すでぜんりょう敗北はいぼくしたとき、進軍しんぐん中止ちゅうしして撤兵てっぺいした。

じょうたたか

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ふともと2ねん377ねん[1]なつごろせい西にし大将軍だいしょうぐん桓豁上表じょうひょうにより、しゅじょ使つかいぶしかん沔中しょ軍事ぐんじ南中なんちゅうろうしょうやなしゅう刺史ししにんじられ、じょう駐屯ちゅうとんした。

ふともと3ねん378ねん)2がつぜんしん君主くんしゅ苻堅はじょう攻略こうりゃく目論もくろみ、長楽ながらこう苻丕尚書しょうしょ司馬しば慕容暐たけまもる将軍しょうぐん苟萇・荊州刺史しし楊安らに7まん軍勢ぐんぜいあたえて長安ながやすより出撃しゅつげきさせた。また、せいとりこ将軍しょうぐん石越いしこしには騎兵きへい1まんあたえて魯陽せきより、きょうちょういん慕容たれあげ武将ぶしょうぐん姚萇には5まんへいあたえて南郷なんごうより、りょうぐん将軍しょうぐん苟池みぎ将軍しょうぐんもうとう強弩きょうど将軍しょうぐんおうあらわには精鋭せいえい4まんあたえてたけとうより各々おのおの出撃しゅつげきさせ、苻丕ぐん合流ごうりゅうさせた。

4がつぜんしんぐんかんにおいて合流ごうりゅうすると、沔北までぐんすすめた。しゅじょぜんしんぐんふねことから、当初とうしょはこれを危惧きぐしていなかったが、石越いしこしぐんかんすいうま渡河とかするのを驚愕きょうがくし、すぐさま中城なかしろじょうじょう内郭ないかく)のまもりをかためた。石越いしこしぐん渡河とか完了かんりょうさせると、いきおいのままにじょうじょう外郭がいかくとしてふねひゃくそうあまりを鹵獲ろかくし、そのふね使つかってのこりのぜんぐん渡河とかさせた。苻丕はしょしょう統率とうそつして中城なかしろ攻撃こうげきするとともに、苟池・石越いしこしもうとうにはへい5まんあたえてこうりょうかわせた。

しゅじょははであるかんみずか城上じょうかみのぼると、しろ西北せいほく一角いっかくもろくなっていることづいた。そのためひゃくにんあまりの婢(女性じょせい奴隷どれい)や城中じょうちゅうおんな子供こども動員どういんし、20たけあまりの城郭じょうかくをきずきあげた。そのぜんしんぐん攻勢こうせいると、たして西北せいほくついえてしまったが、しゅじょへいあらたにきずかれたしろまもったので、抗戦こうせんつづけること出来できた。じょうみんはこのしろ夫人ふじんじょうんだという。

くるま将軍しょうぐん桓沖はへい7まんようしてしゅじょ救援きゅうえんかおうとしたが、こうりょうさえていた苟池ぐんおそれをなしてすすこと出来できず、うえあきらとどまっていた。そのためしゅじょ孤立こりつ無援むえんのまま防戦ぼうせんいられることとなったが、ぜんしんぐんきゅうおさむせずに兵糧ひょうろうめを選択せんたくし、しゅじょもまたたくみにしろまもったので、その包囲ほうい長期ちょうきおよんだ。

ふともと4ねん379ねん)1がつかんむりぐん将軍しょうぐんりゅうなみは8せんへいひきいてじょう救援きゅうえんかったが、かれもまたぜんしんぐんおそれて進軍しんぐんめてしまった。

ぜんしんぐん食料しょくりょう次第しだいはじめ、またじょう攻略こうりゃくおくれについて苻堅から叱責しっせきけたこともあり、包囲ほういつよめてそう攻撃こうげき開始かいしした。しゅじょみずか出撃しゅつげきしてぜんしんぐん交戦こうせんすると、幾度いくどもこれをやぶった。これにより、ぜんしんぐんぐんをややとおくに後退こうたいさせた。だが、これをじょうへい安心あんしんしてしまい、そなえをややゆるめてしまったという。

2がつじょうとくまもるはくまもるひそかにみずからのぜんしん陣営じんえいおくり、ぜんしんぐん攻勢こうせいけるならばうちからおうじること約束やくそくした。これをけ、苻丕はしょぐん一斉いっせい攻撃こうげきめいじると、約束やくそくどおはくまもるはこれに呼応こおうした。内外ないがいからめられたしゅじょはこれにこうすること出来できず、ついじょう陥落かんらくしてしまった。しゅじょらわれのとなって長安ながやすおくられた。苻堅はしゅじょがよくふしまもったことたたえる一方いっぽうぎゃくはくまもるちゅうくさなかったこととがめて斬首ざんしゅした。

そのしゅじょ脱走だっそうはかってむべけん潜伏せんぷくすると、なつ揆という人物じんぶついえかくまわれた。だが、なつ揆がうたがわれて収監しゅうかんされると、しゅじょ洛陽らくよう鎮守ちんじゅする平原ひらはらこう苻暉のもとにおもむいて自首じしゅした。苻堅はその帰順きじゅんよろこんで一切いっさいざいにはわず、ささえ尚書しょうしょ抜擢ばってきした。

苻堅に従軍じゅうぐん

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ふともと8ねん383ねん)8がつ、苻堅はあずますすむ征伐せいばつ決行けっこうすると、陽平ようへいおおやけ苻融に驃騎将軍しょうぐんちょうなでぐん将軍しょうぐん苻方まもるぐん将軍しょうぐんりょうしげるひらみなみ将軍しょうぐん慕容暐・かんむりぐん将軍しょうぐん慕容たれぜん将軍しょうぐん乞伏こくひとしりゅう驤将ぐん姚萇らをはじめとした総勢そうぜい25まんあたえて出撃しゅつげきさせた。また、ほかにもりょうしゅうえきしゅうやなしゅうかそけしゅう・冀州をはじめ、全国ぜんこく各地かくちよりぐん出撃しゅつげきさせた。苻堅みずからもまた総勢そうぜい87まんえる大軍たいぐんひきいて長安ながやす出発しゅっぱつし、しゅじょもこれに従軍じゅうぐんした。

9月、苻堅の本隊ほんたいこうじょう到達とうたつし、苻融ひきいるぜんほこさきぐんは潁口へ到達とうたつした。たいするあずますすむ征討せいとうだいとくしゃせきぜんほこさきとくしゃげん・輔国将軍しょうぐんしゃ西中にしなかろうしょう桓伊らがへい8まんひきいてこれをむかった。

10月、苻融らは寿ことぶきはる陥落かんらくさせ、慕容たれは鄖城を攻略こうりゃくした。りょうしげるらはへい5まんひきいてらく澗にすすみ、幾度いくどあずますすむぐんやぶった。しゃせきしゃげんらはらく澗から25さとところまで進軍しんぐんしたが、りょうしげるぐんいきおいをはばかり、これ以上いじょうすすめなくなった。

苻堅は大軍たいぐんこうじょうめ、騎兵きへいはちせんのみをひきいて寿ことぶきはるかった。また、あずますすむぐん降伏ごうぶくうながそうとかんがえ、しゅじょをその使者ししゃ抜擢ばってきした。しゅじょはこれにしたがってしゃせきらの陣営じんえいおもむくと、苻堅からの伝言でんごんとして「強弱きょうじゃくいきおいはあきらかである。すみやかにるべきである」とげた。だが、しゅじょしんいまあずますすむにあったので、かれ私的してきにおいてしゃせきらへ「もしはたひゃくまんしゅうことごといたったならば、これにたいするのはまことにむずかしいかとぞんじます。いましょぐんいまつどっておりませんから、すみやかにこれをつべきです。もしそのぜんほこさきやぶれれば、士気しきうばこと出来できやぶこと可能かのうかと」とすすめた。しゃせきすでに苻堅が寿ことぶきはる到達とうたつしているとらなかったので、しゅじょ発言はつげんいてはなはおそれ、たたかわずしてぜんしんぐん消耗しょうもうとうとかんがえたが、しゃ琰はしゅじょ進言しんげんしたがうようすすめて決戦けっせんうたので、しゃせきもこれをみとめた。

11月、りゅう驤将ぐんりゅうろうらく澗に駐屯ちゅうとんしていたりょうしげるぐん撃破げきはし、1まん5せんへいった。これにより、しゃせき水陸すいりく両方りょうほうから進軍しんぐん開始かいししたが、淝水のみなみにおいてぜんしんの驃騎将軍しょうぐんちょう蚝にやぶれた。そのぜんしんぐんきたいて淝水のちかくにじんいたので、りょうぐんは淝水をはさんでにらみいの状態じょうたいとなった。

淝水のたたか

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しゃげんは苻融のした使者ししゃ派遣はけんして「きみ敵陣てきじんふかはいんでおり、水辺みずべちかくにじんいている。これは持久じきゅうけいであり、はやせんではないぞ。もしぐんすこき、将士しょうしじんうつすようめいじたならば、すすむへい渡河とかすること出来でき勝負しょうぶけっすること出来できよう。なんとことではないか!」とべ、あずますすむぐん渡河とかたすまで攻撃こうげきをしないようぜんしんけた。苻融はもうけるべきか苻堅にうと、苻堅はこのもう表向おもてむきはおうじ、しょしょうへ「へいいてすこしだけ退却たいきゃくし、てきなかばまでわたったところで鉄騎てっきをもってせまり、これを撃破げきはするのだ。これでてないわけがなかろう!」とめいじた。苻融もまたこの意見いけん同意どういし、ぐん退却たいきゃくめいじた。

こうしてぜんしんぐんさそいにって退却たいきゃくはじめたが、頃合ころあいを見計みはからってしゅじょじん後方こうほうより大声おおごえげて「しんへいやぶれた!」とさけまわった。これにより、あずますすむぐんちかづいても後退こうたい歯止はどめがかなくなってしまい、しゃげんしゃ琰・桓伊らは攻撃こうげきけること無事ぶじへいひきいて渡河とかたすと、苻融の陣営じんえい突撃とつげきした。苻融はうませて戦場せんじょうまわったが、ぐん退却たいきゃくなみまれてうま転倒てんとうしたところをすすむへいころされた。これによりぐん崩壊ほうかいし、しゃげんらは追撃ついげきをかけてぜんしんぐん散々さんざんやぶった。ぜんはた記録きろくてき大敗たいはいきっし、混乱こんらんにより味方みかたつぶされた死体したいおおかわいだ(淝水のたたか)。しゅじょはこの混乱こんらんじょうじてしゃげん陣営じんえいおもむき、降伏ごうぶくした。

あずますすむぐんたてやすし凱旋がいせんすると、しゅじょ今回こんかい功績こうせきによりりゅう驤将ぐん琅邪うちにんじられた。

反乱はんらん鎮圧ちんあつ

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のちみやこただしあげしゅうしゅうぐんしょ軍事ぐんじしゅう刺史ししにんじられ、洛陽らくよう駐屯ちゅうとんした。

ふともと11ねん386ねん)1がつちょうれい首長しゅちょう翟遼あずますすむそむいてはじむ占拠せんきょすると、しゅじょ将軍しょうぐんはたわらわあきら派遣はけんし、淮・泗のしょぐんともにこれを討伐とうばつさせた。8月、翟遼が侵攻しんこうしてくると、しゅじょはこれをかえちにし、翟遼を敗走はいそうさせた。

ふともと12ねん387ねん)1がつかんあおしゅうしょ軍事ぐんじあおしゅう刺史ししにんじられ、将軍しょうぐんについては以前いぜんどおりとされた。また、しゃげんわって彭城を鎮守ちんじゅするようめいじられたが、しゅじょは淮陰を鎮守ちんじゅすることをうと、みとめられた。

同月どうげつ、翟遼がみずからのである翟釗派遣はけんしてひね・穎へ侵攻しんこうさせると、しゅじょ将軍しょうぐんしん膺を派遣はけんしてこれを撃退げきたいした。功績こうせきによりせいとりこ将軍しょうぐんにんじられた。また上表じょうひょうして、しゅうこめ10まんせきぬの5せんひきはこんで軍費ぐんぴてたいと要請ようせいすると、みことのりによりききいれられた。

ふともと13ねん388ねん)4がつとく雍梁しんよんしゅうしょ軍事ぐんじ・雍州刺史ししにんじられた。しゅじょしょである洛陽らくよう赴任ふにんすると、山陵さんりょう守備しゅびたった。こうたけみかどこう将軍しょうぐん河南かなんぐん太守たいしゅ楊佺南陽なんようぐん太守たいしゅちょうあつし派遣はけんし、各々おのおのへいせんにんひきいさせてしゅじょ配下はいかにつけた。またしゅじょ上表じょうひょうして、以前いぜんの荊州刺史しし桓石せいにある田畑たはたひゃくごろ穀物こくもつ8まんせきもとめると、これを支給しきゅうされた。

ふともと15ねん390ねん)1がつ西燕にしつばめ君主くんしゅ慕容ひさしへいひきいて洛陽らくよう襲来しゅうらいした。しゅじょ河陰かいんからきた黄河こうがわたると、沁水において西燕にしつばめ将軍しょうぐんおうらと交戦こうせんとなったが、てきぐん撃破げきはしてその配下はいかである勿支った。また、さんぐんちょうあつし江夏えなつしょう不才ふさいめいじて慕容ひさし追撃ついげきさせ、たいゆきにおいてこれを撃破げきはした。慕容ひさし長子ちょうしへと敗走はいそうした。

このとき楊楷という人物じんぶつすうせんしゅうしたがえてみずうみ陝に割拠かっきょしていたが、かれは慕容なが敗戦はいせんくやいなみずからの人質ひとじちとして降伏ごうぶくうた。

しゅじょは慕容なが追撃ついげきつづけて白水しろみずまで到達とうたつし、てきぐん20日はつかわたって対峙たいじした。だが、翟遼がきむ墉(洛陽らくようじょう一角いっかく)へ進出しんしゅつしようとしているとき、ぐん転進てんしんさせて石門せきもんにいる翟釗を撃破げきはし、さらにさんぐんちょうしげるなつけけん派遣はけんして翟遼をやぶった。これにより翟遼は宵闇よいやみじょうじて逃走とうそうした。そのしゅじょ洛陽らくよう撤退てったいすると、鷹揚おうよう将軍しょうぐんしゅとう石門せきもんまもらせた。また、しゅりゃく洛陽らくようじょうとくまもるとすると、さんぐんちょうしげる補佐ほさやくとしてのこしたうえで、みずからはじょう帰還きかんした。宰相さいしょうかい稽王司馬しば道子みちこしゅじょ功績こうせきいたらぬてんともにあったことから、褒賞ほうしょう叱責しっせきもしなかったという。

そのぜんしんひがし羌校じょう竇衝かんがわ進出しんしゅつしようとすると、安定あんていひとであるすめらぎはじめきょうちょうひとであるしゅういさおらは反乱はんらんこして竇衝をむかれようとたくらんだ。やなしゅう刺史しししゅうともえ西三にしさんぐんうしなっており、これにあらがへいがいなかったことから、しゅじょ危急ききゅうげた。しゅじょはこれにおうじ、将軍しょうぐんすめらぎはじめさだへいあたえて救援きゅうえんかわせた。その、竇衝は長安ながやすひがしったが、すめらぎはじめ釗・しゅういさおりになって逃走とうそうした。

以前いぜんより、しゅじょいとやまい理由りゆう幾度いくどしょくすることねがていたが、許可きょかられなかった。そのためかれみことのり拒絶きょぜつしてにんはなれてしまった。かずじゅうにち、廷尉に出頭しゅっとうしてつみうたがみことのりにより不問ふもんとされた。

ふともと17ねん392ねん)10がつしゅじょあらためて老病ろうびょう理由りゆう解職かいしょくうとついみとめられ、太子たいしみぎまもるりつ郗恢が雍州刺史ししとしてしゅじょわってじょうまもこととなった。

ふともと18ねん(393ねん)、このった。ひだり将軍しょうぐんつねさむらい追贈ついぞうされた。

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ すすむしょ』には372ねんこととある