(Translated by https://www.hiragana.jp/)
桑江朝幸 - Wikipedia コンテンツにスキップ

桑江くわえちょうこう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
桑江くわえ ちょうこう
くわえ ちょうこう
生年月日せいねんがっぴ 1918ねん2がつ3にち
出生しゅっしょう 沖縄おきなわけん中頭なかがみぐん越来ごえくむら
ぼつ年月日ねんがっぴ (1993-12-16) 1993ねん12月16にち(75さいぼつ
死没しぼつ 沖縄おきなわけん沖縄おきなわ
出身しゅっしんこう 沖縄おきなわ県立けんりつ農林のうりん学校がっこう
親族しんぞく 桑江くわえあさせんおっと

越来ごえく村議そんぎ会議かいぎいん
当選とうせん回数かいすう 1
在任ざいにん期間きかん 1948ねん - 1950ねん

立法院りっぽういん議員ぎいん
当選とうせん回数かいすう 4
在任ざいにん期間きかん 1960ねん - 1972ねん

当選とうせん回数かいすう 3
在任ざいにん期間きかん 1978ねん - 1990ねん
テンプレートを表示ひょうじ

桑江くわえ ちょうこう(くわえ ちょうこう、1918ねん大正たいしょう7ねん2がつ3にち[1] - 1993ねん平成へいせい5ねん12月16にち[1])は、琉球りゅうきゅう政府せいふ沖縄おきなわけん政治せいじである。ぐん用地ようちおも団体だんたいである市町村しちょうそん土地とち特別とくべつ委員いいん連合れんごうかいげん沖縄おきなわけんぐん用地ようちとう地主じぬしかい連合れんごうかい通称つうしょう土地とちれん)の初代しょだい会長かいちょうとなった。1978ねんから1990ねんまで沖縄おきなわ市長しちょうつとめた。1989ねん泡瀬あわせ干潟ひがた事業じぎょうふく東部とうぶ海浜かいひん開発かいはつ計画けいかくあん発表はっぴょうする[2]。2014ねんから沖縄おきなわ市長しちょうつとめる桑江くわえあさせんおっとちちである。

琉球りゅうきゅう列島れっとうまい国民こくみん政府せいふ略称りゃくしょう:USCAR)については、「アメリカみん政府せいふ」と記述きじゅつする。また肩書かたがき施設しせつめい、その名称めいしょうについて、当時とうじのもので表記ひょうきする。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

1918ねん大正たいしょう7ねん)に沖縄おきなわけん中頭なかがみぐん越来ごえくむらげん沖縄おきなわ)にまれる[3]父親ちちおやは、大宜味おおぎみむら出身しゅっしん大工だいく(大宜味おおぎみ大工だいく)であった[3]

小学校しょうがっこう卒業そつぎょう両親りょうしん学費がくひせないとの理由りゆうから中学校ちゅうがっこう進学しんがくあきら[4]沖縄おきなわ県立けんりつ農林のうりん学校がっこうげん沖縄おきなわ県立けんりつ北部ほくぶ農林のうりん高等こうとう学校がっこう)にすすんだ[4]。1936ねん昭和しょうわ11ねん)、同校どうこう卒業そつぎょうした。卒業そつぎょう那覇なは小禄ころく蚕業さんぎょう試験場しけんじょう技術ぎじゅついん養成ようせいしょ[4]国立こくりつ熊本くまもと蚕業さんぎょう試験しけんしょ[4]長野ながのけん松本まつもと蚕業さんぎょう試験しけんしょ練習れんしゅうせい[4]中井なかい蚕種さんしゅ製造せいぞうしょ就職しゅうしょくした[5]

軍隊ぐんたい生活せいかつ[編集へんしゅう]

1938ねん昭和しょうわ13ねん)、徴兵ちょうへい検査けんさ合格ごうかくし、近衛このえあゆみへいだい3連隊れんたい入営にゅうえいした[5]。1940ねん昭和しょうわ15ねん近衛このえ捜索そうさく連隊れんたい転属てんぞくとなる[6]にちちゅう戦争せんそうにより、広東かんとんしょう中山ちゅうざんけん派兵はへいされた部隊ぶたいくわわることになった[7]

広東かんとんしょうでの作戦さくせん終了しゅうりょうふつしるし進駐しんちゅう動員どういんされた部隊ぶたいしたがい、サイゴン(現在げんざいホーチミン)に上陸じょうりくした[7]部隊ぶたいはサイゴンからプノンペンタケオ移動いどうする[8]。ここでじゅう暴発ぼうはつ事故じこにより左手ひだりて重傷じゅうしょうい、相模原さがみはら陸軍りくぐん病院びょういん移送いそうされた[9]

退院たいいん近衛このえ師団しだん兵器へいき板橋いたばし倉庫そうこ勤務きんむとなる[10]。1944ねん昭和しょうわ19ねん)、沖縄おきなわでの許嫁いいなずけ結婚けっこん[11]東京とうきょう世田谷せたがやいえりた[11]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)、本土ほんど空襲くうしゅう激化げきかのため、つま疎開そかいさせる[12]。また板橋いたばし倉庫そうこ空襲くうしゅう被害ひがいにあい、のこった物資ぶっし埼玉さいたまけん南埼玉みなみさいたまぐんにち勝村かつむらげん白岡しらおか)などへ疎開そかいすることが決定けっていした[12]桑江くわえもその作業さぎょう従事じゅうじした[12]

終戦しゅうせん直後ちょくご[編集へんしゅう]

8がつ15にち玉音ぎょくおん放送ほうそうは、部隊ぶたい宿舎しゅくしゃとなっていた埼玉さいたまけん勝村かつむら寺院じいん境内けいだいいた[13]。その部隊ぶたい解散かいさんし、軍籍ぐんせきはなれて、埼玉さいたまけん浦和うらわげんさいたま)の復員ふくいんしょう浦和うらわ支部しぶ勤務きんむとなった[14]。しかし、年末ねんまつには復員ふくいんしょう整理せいり縮小しゅくしょう対象たいしょうとなり[15]大宮おおみやにあった片倉工業かたくらこうぎょう臨時りんじ職員しょくいん採用さいようされる[15][注釈ちゅうしゃく 1]

その一方いっぽうで、東京とうきょう埼玉さいたま沖縄おきなわじん連盟れんめい活動かつどう参加さんかし、海外かいがいからの沖縄おきなわ出身しゅっしんしゃの引揚しゃ対応たいおう活動かつどうおこなった[16]。このころ、やはり沖縄おきなわ出身しゅっしん山城やましろ善光よしみつ[17]

帰郷ききょう[編集へんしゅう]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)12月、名古屋なごやこうからのふね沖縄おきなわもど[18]越来ごえくむらもどり、越来ごえくむら青年せいねんかい組織そしきする[19]。また山城やましろ善光よしみつとともに沖縄おきなわ民主みんしゅ同盟どうめい結党けっとう参加さんかする[20]

1948ねん越来ごえく村議そんぎ会議かいぎいん選挙せんきょ立候補りっこうほし、当選とうせんする[21]民主みんしゅ同盟どうめい機関きかんである『自由じゆう沖縄おきなわ新聞しんぶん』を発刊はっかんし、民政みんせい批判ひはん掲載けいさいする。8がつ20日はつか山城やましろ善光よしみつとも逮捕たいほされ、23日間にちかん知念ちねん警察けいさつしょ留置りゅうちされる[22]

土地とちれん初代しょだい会長かいちょう[編集へんしゅう]

1950ねん群島ぐんとう議会ぎかい議員ぎいん選挙せんきょ立候補りっこうほするが、落選らくせんする[23]

1951ねん8がつ桑江くわえ自費じひ沖縄おきなわタイムスに意見いけん広告こうこく掲載けいさいした[24][25]内容ないようは、ぐん用地ようち使用しようりょう支払しはらとうをアメリカ軍民ぐんみん政府せいふ群島ぐんとう政府せいふ陳情ちんじょうするための署名しょめいびかけをおこなうものであった[25][26]。さらに、11月、ぐん用地ようち所有しょゆうしゃ代表だいひょうしゃ会議かいぎひらくための告知こくち広告こうこくした[26]

1953ねん大宜味おおぎみむら村長そんちょうであった大工だいくまわりちょうもりなどの意向いこう立法院りっぽういん土地とち委員いいん議員ぎいんとの懇談こんだんかい出席しゅっせき[27]沖縄おきなわ市町村しちょうそんぐん用地ようちとう地主じぬし連合れんごうかいげん沖縄おきなわけんぐん用地ようちとう地主じぬしかい連合れんごうかい以後いご土地とちれん」と記述きじゅつ)の発足ほっそくまり、桑江くわえ会長かいちょうされ、初代しょだい会長かいちょうについた[27]

1954ねん、アイゼンハワー大統領だいとうりょう年頭ねんとう一般いっぱん教書きょうしょ演説えんぜつで「沖縄おきなわのアメリカぐん基地きち期限きげん使用しようする」と発言はつげんした。さらに3がつ18にち沖縄おきなわタイムスが「べいぐん当局とうきょく沖縄おきなわで45,000エーカー(やく20,000ha)の土地とち購入こうにゅうし、3,500家族かぞく住民じゅうみん八重山やえやま移住いじゅうさせるための資金しきん獲得かくとくするだろう」というワシントンでん情報じょうほう報道ほうどうした[28]。この計画けいかくたいして琉球りゅうきゅう政府せいふ行政ぎょうせい主席しゅせきであった比嘉ひか秀平しゅうへい賛意さんい表明ひょうめいした[28]

これにたいして、土地とちれん計画けいかく反対はんたいした[29]琉球りゅうきゅう政府せいふぐん用地ようち問題もんだい解決かいけつはかるため、ワシントンに施設しせつだんおくりアメリカ本国ほんごく直接ちょくせつ折衝せっしょうをすることになった。使節しせつだん行政ぎょうせい主席しゅせき比嘉ひか秀平しゅうへい団長だんちょうとし、立法院りっぽういん議員ぎいんからは大山おおやまちょうつね、そして土地とちれん会長かいちょうであった桑江くわえくわわった[30]

使節しせつだん帰国きこく、アメリカぐんぐん用地ようち接収せっしゅうおこなうと通知つうちしてきた[31]桑江くわえ土地とちれん会長かいちょうとして断固だんこ反対はんたい立場たちばととった[31]

だい2渡米とべい使節しせつだん派遣はけんし、ぐん用地ようち問題もんだい解決かいけつのためにアメリカ本国ほんごく政府せいふふたた直接ちょくせつ折衝せっしょうをすることになった。代表だいひょうとうあいだ桑江くわえ土地とちれん会長かいちょうとして使節しせつだんくわわった。使節しせつだんは1958ねん6がつ10日とおか出発しゅっぱつした[32]

立法院りっぽういん議員ぎいん時代じだい[編集へんしゅう]

1956ねんだい3かい立法院りっぽういん議員ぎいん選挙せんきょ民主みんしゅ同盟どうめい推薦すいせん立候補りっこうほするが、落選らくせんとなる[24]。1960ねんだい5かい立法院りっぽういん議員ぎいん選挙せんきょはつ当選とうせんする[33]沖縄おきなわ自由民主党じゆうみんしゅとうとう組織そしき委員いいんちょう就任しゅうにんする。1962ねん立法院りっぽういん議員ぎいん再選さいせん。1965ねん立法院りっぽういん議員ぎいんに3せん

1966ねん10がつ7にち、アメリカ上院じょういんは、アメリカ政府せいふ沖縄おきなわ講話こうわぜん補償ほしょうとして2,104まんドルを支払しはら法案ほうあん可決かけつした[34]

講話こうわぜん補償ほしょう支払しはら成立せいりつけて、土地とちれん会長かいちょう辞任じにん。1968ねん立法院りっぽういん議員ぎいんに4せんたし、本土ほんど復帰ふっきむかえた。

本土ほんど復帰ふっき国政こくせい進出しんしゅつ[編集へんしゅう]

沖縄おきなわ本土ほんど復帰ふっき桑江くわえ衆議院しゅうぎいん議員ぎいんへの立候補りっこうほめ、準備じゅんびはいる。1972ねん自由民主党じゆうみんしゅとう公認こうにん候補こうほとしてだい33かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ沖縄おきなわけん全県ぜんけんから立候補りっこうほするが落選らくせん[35]1976ねんだい34かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでも沖縄おきなわけん全県ぜんけんから立候補りっこうほするが落選らくせんする[35]

沖縄おきなわ市長しちょう時代じだい[編集へんしゅう]

1978ねん衆議院しゅうぎいん議員ぎいんに3かい立候補りっこうほ準備じゅんびすすめていたが、自由民主党じゆうみんしゅとう沖縄おきなわ県連けんれん説得せっとくけ、沖縄おきなわ市長しちょう選挙せんきょへの立候補りっこうほすることになった[36]もとコザ市長しちょうであった大山おおやまちょうつね支持しじけて、再選さいせん目指めざしていた現職げんしょく町田まちだ宗徳むねのりやぶり、保守ほしゅけいとしてはつ沖縄おきなわ市長しちょう当選とうせんした[36][注釈ちゅうしゃく 2]

しかし、市議会しぎかい桑江くわえ支持しじ保守ほしゅけい議員ぎいん過半数割かはんすうわれで少数しょうすう与党よとう[37]くわえて職員しょくいん労働ろうどう組合くみあい桑江くわえ即時そくじ辞任じにん要求ようきゅうして対決たいけつ姿勢しせい鮮明せんめいにした[37]労使ろうし協議きょうぎかさね、1981ねん10がつ労使ろうしども争訟そうしょう案件あんけんすべげることで合意ごういした[38]

1982ねん4がつ沖縄おきなわ市長しちょうせん再選さいせん。1986ねん5がつ、3せん

1987ねん3がつ泡瀬あわせ干潟ひがたてをふくむ「東部とうぶ海浜かいひん地区ちく埋立うめたて構想こうそう」を策定さくていする[39]西側にしがわ嘉手納かでな基地きち北側きたがわ嘉手納かでな弾薬だんやく土地とちめられているため、としての開発かいはつ空間くうかん泡瀬あわせ海岸かいがん拡張かくちょうもとめ、当初とうしょは239.5haの広大こうだい計画けいかくであり、以後いご市内しないがいおおきな議論ぎろんむこととなった。

1990ねん、4せん目指めざして沖縄おきなわ市長しちょう選挙せんきょ立候補りっこうほしたが革新かくしん推薦すいせんけた新川しんかわしげるきよしやぶれた。桑江くわえは312年間ねんかん沖縄おきなわ市長しちょうつとめたが、市長しちょう時代じだいおも業績ぎょうせきは、だい42かい国民こくみん体育たいいく大会たいかい(海邦かいほう国体こくたい)の秋季しゅうきメイン会場かいじょう誘致ゆうち沖縄おきなわ市役所しやくしょ総合そうごう庁舎ちょうしゃ建設けんせつ[40]沖縄おきなわ職業能力開発大学校しょくぎょうのうりょくかいはつだいがくこう誘致ゆうちである[注釈ちゅうしゃく 3]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

土地とちへの信仰しんこう[編集へんしゅう]

自伝じでんの「あとがき」に土地とち所有しょゆうしていることの重要じゅうようせいについて、以下いかのようにべている。自伝じでんのタイトルも「がある明日あしたがある」としている。

いのちあるものすべてのかてである。このちいさいしま沖縄おきなわで、土地とちうしなえばきるかてうしなうにひとしい。あたたかい沖縄おきなわでは、土地とちさえあればえること生活せいかついとなむことができ、大地だいちをしっかりみしめて前進ぜんしんすれば目指めざすかなたに到達とうたつする。 (中略ちゅうりゃく)

戦前せんぜん資産しさん土地とちってしまって、いま路頭ろとうまよっているひとがいるかとおもうと、さんはん百姓ひゃくしょうといわれ細々こまごまらしていたひとさん反歩たんぶちいさい土地とちっていたおかげで、いま悠々ゆうゆう余生よせいおくっているれいわたし周辺しゅうへんでも数多かずおおくある。まさしく「あれば万物ばんぶつそこに生存せいぞんし、明日あした目指めざしてそこにさかえる」である。 — 桑江くわえちょうこうがある明日あしたがある[42]

大山おおやまちょうつねとの関係かんけい[編集へんしゅう]

コザ市長しちょうつとめた大山おおやまちょうつねとは、おな越来ごえくむらまれで、沖縄おきなわ県立けんりつ農林のうりん学校がっこう卒業そつぎょうし、その近衛このえ師団しだん入営にゅうえいしているところまで経歴けいれき一致いっちしている。桑江くわえ自伝じでんによれば、大山おおやまとは越来ごえくむら村会そんかい議員ぎいんときだれ議長ぎちょうにするかという問題もんだいから軋轢あつれきがうまれ[43]、1950ねん群島ぐんとう議会ぎかい選挙せんきょで「桑江くわえ立候補りっこうほしなければ、大山おおやま先生せんせい当選とうせんできたのに」と大山おおやま支持しじしゃから批判ひはんされ[24]大山おおやまさししならぬ関係かんけいになったとべている[24]

1974ねんに、沖縄おきなわへの合併がっぺいにコザ市長しちょう退任たいにんした大山おおやまちょうつねは、後任こうにんとして町田まちだ宗徳むねのり支持しじしていた[44]。しかし、町田まちだ市政しせい運営うんえい放漫ほうまん財政ざいせいまねき、また中城湾なかぐすくわん港湾こうわん設備せつび開発かいはつ積極せっきょくてきでないという理由りゆうから、1978ねん選挙せんきょ桑江くわえ支持しじにまわった[45]

アメリカみん政府せいふとの関係かんけい[編集へんしゅう]

桑江くわえは、しばしばアメリカみん政府せいふたいして、コザ行政ぎょうせいについて進言しんげん要請ようせいおこなっていたことが公文書こうぶんしょからあきらかになっている[46]桑江くわえ対立たいりつ関係かんけいにあり、コザ市長しちょうにあった大山おおやまたいしてアメリカみん政府せいふ渉外しょうがいきょくには大山おおやまの「反米はんべい言動げんどう報告ほうこくする文書ぶんしょがいくつかあり、大山おおやま言動げんどう監視かんししていた[47]。このような状況じょうきょうから、アメリカみん政府せいふ保守ほしゅけい有力ゆうりょく政治せいじとして桑江くわえ立場たちば配慮はいりょしていたとかんがえられる[46]たとえば、桑江くわえはあるAサイン業者ぎょうしゃ反米はんべいてき人物じんぶつであると指摘してきし、Aサインをげるように要請ようせいおこない、アメリカみん政府せいふ渉外しょうがいきょく陸軍りくぐん参謀さんぼうたいして、Aサインしを提言ていげんしていた[46]

スキャンダル[編集へんしゅう]

ぐん用地ようち問題もんだい[編集へんしゅう]

1954ねんに、アメリカぐん基地きち地代じだいについて地主じぬしから計画けいかくあかるみにた。このとき琉球りゅうきゅう政府せいふは、使節しせつだん派遣はけんし、アメリカ政府せいふ直接ちょくせつ折衝せっしょうおこなうことになった。使節しせつだんは「全員ぜんいん地代じだい一括いっかつ支払しはら反対はんたい」で統一とういつされていたと桑江くわえ自伝じでん土地とちれん公式こうしき文書ぶんしょではしめされているが、大山おおやまはこれを否定ひていしており、「自分じぶん以外いがい賛成さんせいであった」としている[48]。1956ねん3がつだい3かい立法院りっぽういん議員ぎいんそう選挙せんきょおこなわれた。この選挙せんきょには桑江くわえ立候補りっこうほしていたが、大山おおやまは、桑江くわえが「地代じだい一括払いっかつばらい」について賛成さんせいしたことを暴露ばくろした[49]。この選挙せんきょ大山おおやまは、有力ゆうりょく対立たいりつ候補こうほであった琉球りゅうきゅう民主党みんしゅとう桑江くわえやぶ当選とうせんしている。

議員ぎいん買収ばいしゅう疑惑ぎわく[編集へんしゅう]

立法院りっぽういん議員ぎいん時代じだい沖縄おきなわ時報じほう桑江くわえちょうこうはいった封筒ふうとうに5ドルがはいっている写真しゃしん掲載けいさいされ、議員ぎいん買収ばいしゅうほうじられた[50]桑江くわえ名誉めいよ毀損きそん裁判さいばんうったえた[50]。また沖縄おきなわ時報じほうがわ主張しゅちょうによれば、桑江くわえがアメリカみん政府せいふ高等こうとう弁務べんむかんに、この写真しゃしん撮影さつえいした奄美あまみ群島ぐんとう出身しゅっしんしゃ記者きしゃ強制きょうせい送還そうかんせよと依頼いらいしたとしている[50]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 民族みんぞくえて : 民族みんぞく支配しはい闘争とうそう裏面りめん新星しんせい図書としょ、1972ねん10がつ10日とおかNDLJP:12188338 
  • 沖縄おきなわ戦後せんごはまだおわらない』 沖縄おきなわ政治せいじ経済けいざい研究所けんきゅうじょ 1973
  • がある明日あしたがある』 沖縄おきなわタイムスしゃ 1991
  • 沖縄おきなわそだちのしんのうたたびのうた』 1993 (自費じひ出版しゅっぱん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 片倉工業かたくらこうぎょうは、当時とうじ蚕業さんぎょう大宮おおみや製糸せいしじょうおこなっており、桑江くわえ若年じゃくねんのときにまなんだ蚕業さんぎょう経験けいけんわれたものであった
  2. ^ 大山おおやまちょうつねは、1974ねん沖縄おきなわ市長しちょう選挙せんきょでは町田まちだ宗徳むねのり支持しじし、これをけて町田まちだ市長しちょうについた。
  3. ^ 大学だいがく誘致ゆうち多方面たほうめん実施じっしした。東海大学とうかいだいがく野球やきゅう監督かんとくであったはらみつぐつうじて東海大学とうかいだいがく海洋かいよう学科がっかのキャンパス誘致ゆうちおこなったが、失敗しっぱいわったと自伝じでん回想かいそうしている[24][41]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 全国ぜんこく歴代れきだい知事ちじ市長しちょう総覧そうらん日外にちがいアソシエーツ、2022ねん、451ぺーじ
  2. ^ 沖縄おきなわ「2015ねん沖縄おきなわ市勢しせい要覧ようらん」(平成へいせい27ねん4がつ1にち)
  3. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 16.
  4. ^ a b c d e 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 17.
  5. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 18.
  6. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 19.
  7. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 20.
  8. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 22.
  9. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 23.
  10. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 25.
  11. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 26.
  12. ^ a b c 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 30.
  13. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 33.
  14. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 34.
  15. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 37.
  16. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 41.
  17. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 40.
  18. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 49.
  19. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 53.
  20. ^ 沖縄大おきなわだい百科ひゃっか事典じてん じょう 1983, p. 586.
  21. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 58.
  22. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 276.
  23. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 147.
  24. ^ a b c d e 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 62.
  25. ^ a b 土地とちれんのあゆみ 創立そうりつさんじゅうねん 通史つうしへん 1989, p. 49.
  26. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 63.
  27. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 66.
  28. ^ a b 平良たいら戦後せんご沖縄おきなわべいぐん基地きち 2012, p. 105.
  29. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 74.
  30. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 78.
  31. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 84.
  32. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 127.
  33. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 146.
  34. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 142.
  35. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 204.
  36. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 206.
  37. ^ a b 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 217.
  38. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 228.
  39. ^ これまでの経緯けいい | 東部とうぶ海浜かいひん開発かいはつ事業じぎょうについて | 東部とうぶ海浜かいひん開発かいはつ計画けいかく | 沖縄おきなわ情報じょうほう | 沖縄おきなわ市役所しやくしょ”. www.city.okinawa.okinawa.jp. 2021ねん2がつ20日はつか閲覧えつらん
  40. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, pp. 252.
  41. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 254.
  42. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 300.
  43. ^ 桑江くわえがある明日あしたがある 1991, p. 59.
  44. ^ 藤崎ふじさき基地きちまちコザにきて(した) 1980, p. 298.
  45. ^ 藤崎ふじさき基地きちまちコザにきて(した) 1980, p. 299.
  46. ^ a b c 山崎やまざき戦後せんご沖縄おきなわにおけるべいぐん統治とうち実態じったい地方ちほう政治せいじ形成けいせいかんする政治せいじ地理ちりがくてき研究けんきゅう 2007, pp. 13–14.
  47. ^ 山崎やまざき大山おおやまコザ市政しせい琉球りゅうきゅう列島れっとうまい国民こくみん政府せいふ 2001, p. 123.
  48. ^ 大山おおやま沖縄おきなわ独立どくりつ宣言せんげん 1997, p. 145.
  49. ^ 新崎あらさき戦後せんご沖縄おきなわ 1976, p. 134.
  50. ^ a b c 沖縄おきなわ 土着どちゃく解放かいほう 1969, p. 34.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 桑江くわえちょうこうがある明日あしたがある』沖縄おきなわタイムスしゃ、1991ねんNCID BN07318568 
  • 新崎あらさき もりあきら戦後せんご沖縄おきなわ日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1976ねんNCID BN00940635 
  • 石田いしだ郁夫いくお沖縄おきなわ 土着どちゃく解放かいほう合同ごうどう出版しゅっぱん、1969ねん、34ぺーじNCID BN07816645 
  • 沖繩大おきなわだい百科ひゃっか事典じてん刊行かんこう事務じむきょく へん沖縄大おきなわだい百科ひゃっか事典じてん じょう沖縄おきなわタイムスしゃ、1983ねん5がつ30にちNCID BN00422696NDLJP:12193837 
  • 土地とちれんさんじゅう周年しゅうねん記念きねん編集へんしゅう委員いいんかい へん土地とちれんのあゆみ 創立そうりつさんじゅうねん 通史つうしへん沖縄おきなわけんぐん用地ようちとう地主じぬしかい連合れんごうかい、1989ねんNCID BN05624053 
  • 藤崎ふじさき 康夫やすお基地きちまちコザにきて--"市長しちょう"大山おおやまあさつね回想かいそう」『中央公論ちゅうおうこうろんだい95かんだい10ごう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、1980ねん8がつ、282-297ぺーじISSN 0529-6838 
  • 藤崎ふじさき 康夫やすお基地きちまちコザにきて--"市長しちょう"大山おおやまあさつね回想かいそう-つづけ」『中央公論ちゅうおうこうろんだい95かんだい12ごう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、1980ねん9がつ、288-299ぺーじISSN 0529-6838 
  • 佐藤さとう 俊一しゅんいち日本にっぽん地方ちほう自治じち群像ぐんぞう』 3かん成文せいぶんどう、2012ねんISBN 978-4-7923-3307-2 
  • 山崎やまざき 孝史たかし大山おおやまコザ市政しせい琉球りゅうきゅう列島れっとうまい国民こくみん政府せいふ地域ちいき社会しゃかい軍事ぐんじいち局面きょくめん−』大阪市立大学おおさかいちりつだいがく人権じんけん問題もんだい研究けんきゅうかい、2001ねんNCID AA11571246 
  • 山崎やまざき 孝史たかし戦後せんご沖縄おきなわにおけるべいぐん統治とうち実態じったい地方ちほう政治せいじ形成けいせいかんする政治せいじ地理ちりがくてき研究けんきゅう大阪市立大学おおさかいちりつだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう地理ちりがく教室きょうしつ、2007ねんNCID BA81889667