毘伽あせ

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毘伽あせ呉音ごおん:びがかがん、漢音かんおん:ひきゃかがん、拼音:Pígā kĕhàn、683ねん - 734ねん)は、ひがし突厥だいあせこくあせおもねこつ咄禄長男ちょうなんせいおもねだまとげれん(ぼくきょくれん)という。あせごうである毘伽あせビルゲ・カガンテュルク: - Bilgä qaγがんまan)[1]漢字かんじひょう記名きめい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

おもねこつ咄禄のとしてまれる。

おもねこつ咄禄が天授てんじゅ690ねん - 692ねん)のはじめに病死びょうしすると、そのだまとげれんはまだおさなかったので、おとうとおもねだますすわってあせいた。

ひらきもと4ねん716ねん)6がつおもねだますすきゅうせい(トクズ・オグズ)の抜曳かた(抜野いにしえ、バイルク)ころされると、しょうころせ(しょうシャド:かんめい)であっただまとげれんいでだいあせとなり、毘伽あせ(ビルゲ・カガン)とごうした。この即位そくいさいして、毘伽あせおとうとである闕特つとむ(キュル・テギン:かんめい)はきゅう糾合きゅうごうし、おもねだますすしょうあせおよしょおとうところすなどして、毘伽あせ即位そくい重要じゅうよう役割やくわりたした。このとき毘伽あせは闕特つとむゆずろうとしたが、闕特つとむ固辞こじしたため、かれひだりけんおうふうじ、ひがし突厥ぐん兵馬へいば統帥とうすいさせることにした。また、だますすときの衙官であった暾欲だにトニュクク英語えいごばん)を任用にんようし、かれむすめであるばば匐をあつし(カトゥン:皇后こうごう)とした。

あるときくだ[2]おもね悉爛らが帰順きじゅんしてきたので、毘伽あせとう北辺ほくへんおかそうとした。しかし、暾欲だにが「いまはそのときではありません」と毘伽あせを諫めた。また、毘伽あせ城壁じょうへき修復しゅうふくと、仏教ぶっきょう道教どうきょう寺院じいん建築けんちく提案ていあんしたときも、暾欲だには「遊牧民ゆうぼくみんがすることではありません」と諫めた。このようにして暾欲だには毘伽あせ政権せいけんブレーンてき存在そんざいとなり、毘伽あせもまたかれ献策けんさくしたがった。

ひらけもと8ねん720ねん)9がつ、暾欲だにあましゅうりょうしゅうあだし、りょうしゅうみやこただし楊敬じゅつ敗走はいそうさせ、ちぎり部落ぶらくかすめてかえった。11月、突厥はりょうしゅうあだし、ひところしてひつじすうまんけいかすめてった。ひらけもと9ねん721ねんあき、これにたいとうは抜悉みつバシュミル)・ちぎりへいはっし、ひがし突厥へ進軍しんぐんし、毘伽あせとらえようとした。

ひらけもと14ねん726ねん)11月、ひがし突厥は使つかいおくってとう入朝にゅうちょうした。

ひらけもと15ねん727ねん)9がつ、毘伽あせ大臣だいじんうめろくすす(ブイルク・チュル)をとう入朝にゅうちょうさせた。閏月じゅんげつ突騎ほどこせ(テュルギシュ)のろく吐蕃さん安西あんざい包囲ほういし、ふくだいみやこまもるちょう頤貞はこれをって敗走はいそうさせる。

ひらけもと22ねん734ねん)、毘伽あせ大臣だいじんうめろくすすどくられるが、すぐにはななかったので、うめろくすすり、その一味いちみほろぼしたうえでんだ。国人くにびとは毘伽あせててしかあせ(イネル・カガン)とした。

妻子さいし[編集へんしゅう]

あつし(カガトゥン:皇后こうごう
  • ほね咄禄ばば匐可あつし…暾欲だにむすめ
むすめ
  • だいらく公主こうしゅ

毘伽あせ碑文ひぶん[編集へんしゅう]

毘伽あせ死後しごかれおいであるヨルリグ・テギンによってオルホン河畔かはんのホショ・ツァイダムに碑文ひぶんてられた。これを『ビルゲ・カガン碑文ひぶん』といい、その発見はっけんから『ホショ・ツァイダム碑文ひぶん』・『オルホン碑文ひぶん』ともばれる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ビルゲ・カガンとは「賢明けんめいなるあせ」の
  2. ^ 咸亨年間ねんかん670ねん - 674ねん)に、ひがし突厥しょ部落ぶらくくだしゃおおくは、ゆたかしゅうかつしゅうれいしゅうなつしゅうついたちしゅうだいしゅうろくしゅう移住いじゅうさせられた。これをくだう。

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]