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永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう

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ながくぼ しゅうじろう
ながくぼ ひでじろう[* 1]

えい久保くぼ しげる二郎じろう
60さいだい
生誕せいたん (1849-03-03) 1849ねん3月3にち
磐城いわきこく刈田かりたぐん宮村みやむら
洗礼せんれい 1892ねん5月1にち[3]
死没しぼつ (1924-02-24) 1924ねん2がつ24にち(74さいぼつ
北海道ほっかいどう釧路くしろ春採はるとり
記念きねん 永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう頌徳北海道ほっかいどう釧路くしろ 春採はるとり生活せいかつかん
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
活動かつどう期間きかん 1883ねん - 1920ねん
時代じだい 明治めいじ - 大正たいしょう
著名ちょめい実績じっせき 北海道ほっかいどう釧路くしろアイヌ児童じどう教育きょういく、アイヌ住民じゅうみん生活せいかつ環境かんきょう改善かいぜん
影響えいきょうあたえたもの 吉良きら平治郎へいじろう山本やまもと多助たすけ
活動かつどう拠点きょてん 北海道ほっかいどう釧路くしろ春採はるとり
後任こうにんしゃ 三浦みうら政治せいじ
宗教しゅうきょう キリスト教きりすときょうプロテスタント
栄誉えいよ 北海道庁ほっかいどうちょう長官ちょうかん表彰ひょうしょうしゃ1911ねん[4]
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えい久保くぼ しげる二郎じろう(ながくぼ しゅうじろう[5][6]、ながくぼ ひでじろう[7][8][* 1]1849ねんよしみひさし2ねん3月3にち[8][9] - 1924ねん大正たいしょう13ねん2がつ24にち[10][11])は、日本にっぽん教育きょういくしゃ北海道ほっかいどう先住民せんじゅうみんぞくであるアイヌのために建立こんりゅうされた釧路くしろ春採はるとり小学校しょうがっこうにおいて、開校かいこうあいだもないころからアイヌの児童じどうたちの教育きょういく心血しんけつそそいだ。また、アイヌを差別さべつ貧窮ひんきゅうから救済きゅうさいするために、児童じどう教育きょういく住民じゅうみんたちの生活せいかつ環境かんきょう双方そうほうから改善かいぜん目指めざし、アイヌたちの生活せいかつ向上こうじょう支援しえんした。その献身けんしんてき精神せいしんにより、春採はるとりのアイヌの人々ひとびとからの尊敬そんけい信頼しんらいあつめた[5]漢詩かんしじんでもあり、アイヌの儀式ぎしきイオマンテ)をもとにえがいた『おくくまゆき』はおおきな反響はんきょうんだ[12][13]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

誕生たんじょう - 教育きょういくみち[編集へんしゅう]

磐城いわきこく刈田かりたぐん宮村みやむら宮城みやぎけん蔵王ざおうまち[9][14])で誕生たんじょうした[15]大農だいのう長男ちょうなんであり、本来ほんらいならいえ跡継あとつぎとして安定あんていした未来みらい約束やくそくされているはずであった。しかし少年しょうねん時代じだい不慮ふりょ事故じこい、歩行ほこう支障ししょうをきたすほどの障害しょうがいみぎあしった[8][14]不自由ふじゆうあしでは農作業のうさぎょうもままならず、いえぐこともできず、永久えいきゅうはしばらくは悲嘆ひたんれていた[14]

しかし永久えいきゅう幼少ようしょうより読書どくしょきだったことで、やがて学問がくもんてることをかんがえて、教員きょういん志願しがんした。当時とうじおおくの村民そんみん教員きょういん目指めざして勉学べんがくはげんでおり、永久えいきゅうもリハビリにみつつ、勉学べんがくはげんだ。このころより漢学かんがくにも興味きょうみいだき、いえ宿やどねていたことから、いえまるたび僧侶そうりょたちから漢詩かんしおそわりはじめた[14]

じゅうだい後半こうはんころには、あし生活せいかつ支障ししょうのない程度ていど回復かいふくした。しかしむらでは教員きょういん志願しがんしゃおおく、教員きょういんになるゆめかなえられずにいた。永久えいきゅうはそれでも漢詩かんし勉強べんきょうつづけつつ、習字しゅうじ教室きょうしつひらいて、教員きょういんとなる機会きかいうかがっていた[14]。18さいのときには、じゅく師範代しはんだいつとめるほどの実力じつりょくにつけた[8]

北海道ほっかいどうわたる - キリストきょうとの出会であ[編集へんしゅう]

1883ねん明治めいじ16ねん)、函館はこだてにいる叔父おじから、「北海道ほっかいどう本州ほんしゅうからの移民いみんえたが、教員きょういんすくない」と、教員きょういんとして移住いじゅうさそいがあった。永久えいきゅうは、新天地しんてんち未来みらいにな子供こどもたちへの教育きょういくあらたな希望きぼう見出みいだして、北海道ほっかいどうわたった[14][16]

ウォルター・アンデレス

どう1883ねん永久えいきゅう函館はこだて上湯川かみゆかわ学校がっこうに、教員きょういんとしてつとめた[7][17]。ここで在日ざいにち宣教師せんきょうしであるウォルター・アンデレス出会であい、キリスト教きりすときょうれるきっかけとなった[16]わたり道前みちまえからキリストきょうれていたとのせつもあるが、本格ほんかくてきキリスト教きりすときょうんだのは、このアンデレスとの出会であいが契機けいきだった[9]とく聖書せいしょ一節いっせつかみともなる困苦こんく困苦こんくず」にれた永久えいきゅうは、あし障害しょうがいというだけで周囲しゅういあまえていた自身じしんじ、「みずからをえていきたい」とかんがはじめた。そして日本にっぽん古来こらい儒教じゅきょうしょくつよ漢学かんがくおさめていながらも、次第しだいキリスト教きりすときょうへと傾倒けいとうしていった[16]

当時とうじ日本にっぽんはまだ、国外こくがい文化ぶんかれることに消極しょうきょくてきだったために、永久えいきゅうキリスト教きりすときょうれることには、非難ひなんこえおおかった[16]家族かぞくからも非難ひなんされたため、やむなく江差えさし転任てんにんした。しかし永久えいきゅうした人々ひとびとわれ、湯川ゆかわもどった。湯川ゆかわ住人じゅうにんたちはそのおんむくいて、30アールの土地とち永久えいきゅうおくった[12]非難ひなんびながらも堂々どうどう教壇きょうだん永久えいきゅうおもいは、周囲しゅういつたわり、次第しだい生徒せいと保護ほごしゃからの信頼しんらいあつめるようになった[16]

釧路くしろでのアイヌ教育きょういく[編集へんしゅう]

1891ねん明治めいじ24ねんなつ永久えいきゅうはアンデレスから、釧路くしろ郊外こうがい春採はるとりコタン設立せつりつされたアイヌ学校がっこう校長こうちょうになることを依頼いらいされた。当時とうじまだ40さいだい永久えいきゅうが抜釘されたことには、同校どうこう赴任ふにんした教員きょういんが、春採はるとり土地とちアイヌ文化ぶんか馴染なじむことができず、わずか4かげつあいだ2人ふたり交替こうたいしたという事情じじょうがあった[12][18]。アンデレスは、「あし障害しょうがいえて教育きょういくしゃとなった永久えいきゅうならば、差別さべつくるしむアイヌたちにあたたかくせっすることができる」とかんがえたのである[18]。また永久えいきゅう教育きょういくしゃとしてすぐれ、キリスト教徒きりすときょうととしても信心しんじんふかいためでもあった[19]

このアンデレスの意見いけんたいして、永久えいきゅう周囲しゅういおおくの教員きょういん仲間なかま反対はんたいとなえた。永久えいきゅうはすでに学者がくしゃほどの漢学かんがくけており、「書家しょかとして中央ちゅうおうれば成功せいこう確実かくじつ」とのこえおおかった。しかし永久えいきゅうは「自分じぶんかかえる困難こんなんよりも、アイヌの貧困ひんこん差別さべつこそを困難こんなん」「それを手助てだすけすることこそが自身じしん使命しめい」と確信かくしんして、釧路くしろきを決心けっしんした[18]どう1891ねん7がつ永久えいきゅう妻子さいしともに、釧路くしろ郊外こうがい春採湖はるとりこほとり移住いじゅうして[19][20]、アイヌの学校がっこうである春採はるとり土人どじん学校がっこう春採はるとり小学校しょうがっこう)に赴任ふにんした[21]

当時とうじ釧路くしろには、ひゃく世帯せたいほどのアイヌが生活せいかつしていた。しかし釧路くしろこう特別とくべつ輸出ゆしゅつこう指定していされたばかりのうえに、釧路くしろ漁業ぎょぎょう鉱業こうぎょう発展はってんげ、和人わじん(アイヌ以外いがい日本人にっぽんじん大和やまと民族みんぞく)の人口じんこう増加ぞうかしていたため、アイヌは住処すみかいやられ、町外まちはずれの春採はるとりなどに移住いじゅういられていた。そのうえ仕事しごと教育きょういくもなく、食料しょくりょうとぼしく、差別さべつ貧困ひんこんあえいでいた。役場やくばではその救済きゅうさい措置そちとしてアイヌたちを農民のうみんする方向ほうこうであったが、もと狩猟しゅりょう漁労ぎょろう生業せいぎょうとしていたアイヌらに具体ぐたいてき農耕のうこうおしえることもなく、事実じじつじょう放置ほうち状態じょうたいであった。そのアイヌたちにべたのが、日本にっぽんキリスト教会きょうかいであり、まず文字もじおしえるためにつくられたのが、アイヌの学校がっこうであった[18]

アイヌ教育きょういく[編集へんしゅう]

当時とうじのアイヌのコタン集落しゅうらく)では、せっかくつくられたアイヌ学校がっこうが、教員きょういん皆無かいむのために休校きゅうこういられ、近寄ちかよものもおらず、ほこりにまみれていた。永久えいきゅうはアイヌの児童じどうたちにしんびつつ、学校がっこう掃除そうじした。永久えいきゅう春採はるとりについて4にち学校がっこう再開さいかいした。児童じどうたちはよろこんで登校とうこうした[18]普段ふだん家庭かてい手伝てつだいに多忙たぼうであり、また差別さべつにもかれらにとって、学校がっこう唯一ゆいいつたのしみの場所ばしょだったのである[18][22]

永久えいきゅうは、コタンを1けん1けんまわって、家庭かてい手伝てつだいに多忙たぼう児童じどうたちにも学校がっこうるようすすめた[22]児童じどうたちがきをにつけられるようにと、おや説得せっとくしたこともあった[23][24]。その運動うんどうのために、ときにはとお阿寒あかんまであしばすこともあった[22]昼食ちゅうしょく弁当べんとう持参じさんできない児童じどうのためには、にぎめしつくってあたえた[15]夜学やがくひらき、児童じどう勉学べんがくおくれをもどさせることもあった[15]りょういそがしいぶしには欠席けっせきしゃ続出ぞくしゅつしたが、就職しゅうしょく必要ひつようきや計算けいさん能力のうりょくにつけさせるために、作文さくぶん読書どくしょ習字しゅうじそろばんなどを熱心ねっしんおしえた[23]

授業じゅぎょうにおいても、和人わじん同様どうよう北海道庁ほっかいどうちょう規則きそく沿った普通ふつう教科書きょうかしょもちいた。経費けいひ不足ふそくしていて生徒せいと全員ぜんいんぶん教科書きょうかしょ用意よういできなかったため、みずか手書てがきで教科書きょうかしょ作成さくせいして、生徒せいと全員ぜんいんあたえた[25][26]永久えいきゅう給料きゅうりょう当時とうじ公立こうりつこうじゅん教員きょういんにもたないもので、自身じしん生活せいかつにもしらげいちはいであったが、永久えいきゅうのはアイヌの児童じどうたちに和人わじん同様どうよう教養きょうようけさせたい一心いっしんで、習字しゅうじ英語えいご聖書せいしょなどの授業じゅぎょうのために私費しひとうつづけた[26]

アイヌ住民じゅうみん生活せいかつ改善かいぜん[編集へんしゅう]

永久えいきゅうは、児童じどうたちのためには、まずおやたちの生活せいかつ基盤きばん整理せいり必要ひつようかんがえて、児童じどうたちの教育きょういくと、住民じゅうみんたちの生活せいかつ改善かいぜん両面りょうめんから改革かいかくすすめた。永久えいきゅう春採はるとり赴任ふにんした当時とうじ、アイヌの住民じゅうみんたちにあたえらえた土地とちは、農作のうさくにはあたいしない不毛ふもうなもので、生活せいかつ和人わじんとは非常ひじょうにかけはなれたものであり、その食料しょくりょう衣類いるい粗末そまつさには、永久えいきゅう愕然がくぜんとするほどであった[22]

永久えいきゅうは、コタンの住民じゅうみんたちにただしい農業のうぎょうおしえた。それまではたん地面じめんあなってたねえるだけであったかれらに、肥料ひりょうによる農業のうぎょう指導しどうした[19]清潔せいけつみずませるために、井戸いどった[22]

また永久えいきゅう着任ちゃくにんしてあいだもない時期じきに、春採はるとりでは天然痘てんねんとう流行りゅうこうして、コタンで8にん死者ししゃていたことから、「天然痘てんねんとうかぎらず病気びょうき予防よぼうには清潔せいけつだいいち」とうったえた。しかしアイヌの人々ひとびとは、からだあらうためには行水ぎょうずいをするのみで、和人わじんのようにかして入浴にゅうよくする習慣しゅうかんかった。永久えいきゅうは、「かれらに入浴にゅうよく無理むりすすめることは和人わじん習慣しゅうかん強制きょうせいしたことになる」との苦悩くのうすえ学校がっこう浴場よくじょう設置せっちし、まず児童じどうたちに入浴にゅうよくたのしさをってもらうことをかんがえた[22]

1895ねん明治めいじ28ねん)、学校がっこう浴場よくじょう完成かんせいした。児童じどうたちはれない入浴にゅうよくこわがっていたものの、永久えいきゅうみずかはだかとなり、児童じどう1にん1人ひとりいて入浴にゅうよくさせた。児童じどうたちはやがて、よろこんで入浴にゅうよくするようになった。永久えいきゅうはじめて児童じどう一緒いっしょ入浴にゅうよくしたときのたのしそうな様子ようすは、日誌にっしに「彼等かれらさんにんよくセシメ、また而シテはだあかあらいレリ。最初さいしょ容易よういニ沈浴セズ」とかれている[20]。コタンの住民じゅうみんたちも永久えいきゅうおもいをり、次第しだい入浴にゅうよく文化ぶんかがコタンにひろまっていった[22]。こうした永久えいきゅうのアイヌにたいする献身けんしんは、キリストきょう信仰しんこうにより人間にんげんあい確信かくしんたかめた結果けっかであった[19]

小学校しょうがっこうれい公布こうふ[編集へんしゅう]

春採はるとり尋常じんじょう小学校しょうがっこう

小学校しょうがっこうれい公布こうふの1906ねん明治めいじ39ねん)、春採はるとりしょう官立かんりつ尋常じんじょう小学校しょうがっこうあらためられた[27]永久えいきゅうもそれまでの功績こうせきみとめられて、北海道庁ほっかいどうちょうより正式せいしき校長こうちょうとして任命にんめいされた[26]。しかし、これらは形式けいしきじょうのものにぎず、アイヌヘの差別さべつ依然いぜんとしてつづいており、春採はるとりしょう通学つうがくする生徒せいともアイヌのみであった。永久えいきゅうはそれでも、「自分じぶんがいるかぎ生徒せいとたちにつらおもいはさせない」とちかって、生徒せいとたちに勉学べんがくはげませた。教員きょういんとしてのみならず、人権じんけん問題もんだい土地とち問題もんだい解決かいけつのための奔走ほんそう病人びょうにんけば医者いしゃ斡旋あっせんなど、地域ちいきのためにそのささげる永久えいきゅうは、地域ちいき住民じゅうみんにとってなくてはならない存在そんざいとなっていた[26]

1907ねん明治めいじ40ねん)、小学校しょうがっこうれい改正かいせいにより、尋常じんじょう小学校しょうがっこう修業しゅうぎょう年限ねんげんが6年間ねんかんとなった[20]。しかしアイヌ学校がっこうは1916ねん大正たいしょう5ねん)の道庁どうちょうれいで、「心性しんせい発達はったつ和人わじんノ如クナラザルきゅう土人どじん」として就学しゅうがくおくらせて、修業しゅうぎょう年限ねんげんを4ねん短縮たんしゅくすると決定けっていされた。永久えいきゅうはこれをかなアイヌ差別さべつとみて、文部省もんぶしょうとくがくかん視察しさつのため来校らいこうしたさい永久えいきゅう撤回てっかいもとめて、アイヌ民族みんぞく児童じどう修業しゅうぎょう年限ねんげんを6ねんとするよう抗議こうぎした[20][28]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1916ねん大正たいしょう5ねん[27]永久えいきゅう勤続きんぞく25周年しゅうねんむかえた67さいころには、すでに最初さいしょおし和人わじんじって成功せいこうしているものもいた[27]永久えいきゅう自分じぶん仕事しごと区切くぎりをつけて引退いんたいし、のち後任こうにんものまかせようとかんがえていた[27]。そんなおりに、おしたちが永久えいきゅう勤続きんぞくしゅくして肖像しょうぞうおくり、しんからの日頃ひごろ感謝かんしゃべた[27]永久えいきゅうは、教育きょういくしゃとなってから最大さいだいといってよいほどのよろこびをかんじ、みなおもいにこたえて「もうすこしだけがんばろう」と、仕事しごとつづけた[26]

1920ねん大正たいしょう9ねん)12月、病気びょうきのために退職たいしょくした[4][7]。その春採はるとり生活せいかつ[20]、アイヌ民族みんぞくとの交流こうりゅうつづけた[23]。アイヌ集落しゅうらくでの民族みんぞく文化ぶんか保存ほぞんにもつと[28]釧路くしろ白糠しらぬか厚岸あっけしの4にんのアイヌの長老ちょうろうからアイヌをききとり、それを『アイヌ雑録ざつろく』としてあらわした[28][29]。1923ねん大正たいしょう12ねん)には春採はるとり尋常じんじょう小学校しょうがっこうしん校長こうちょうとして、同郷どうきょう三浦みうら政治せいじ赴任ふにんするにあたり、三浦みうら世話せわおおがけた[30]

翌年よくねんの1924ねん大正たいしょう13ねん)2がつ24にち春採はるとり自宅じたく[11]病気びょうきにより死去しきょした[15]。その間際まぎわには家族かぞくかみふで用意よういさせて辞世じせいき、そのなかでアイヌの児童じどうたちに「如何いかなる困難こんなんにもかう勇気ゆうきってきてほしい」と、最期さいごまでアイヌの児童じどうたちへの愛情あいじょういだつづけた[11][31]

漢学かんがく漢詩かんし[編集へんしゅう]

釧路くしろきを周囲しゅういから反対はんたいされた逸話いつわにもあるように、永久えいきゅうとく漢学かんがく素養そようふかく、つく漢詩かんしすぐれたものであった[32]釧路くしろ移住いじゅうは、「春湖しゅんこ(しゅんこ)」「春湖しゅんこ山人さんじん」「こう読庵(こうどくあん)」「なに陋堂(かろうどう)」「かんしおろう主人しゅじん(かんちょうろうしゅじん)」などのごう名乗なのり、中国ちゅうごくからせた特殊とくしゅ色紙いろがみ用紙ようしに、漢詩かんしのこした。とくに1895ねん明治めいじ28ねんあきに、春採はるとりのアイヌの儀式ぎしきをもとに制作せいさくした、16れんからなる長編ちょうへんおくくまゆき』は、グマ捕獲ほかくから飼育しいく、そして大勢おおぜいのアイヌたちが見守みまもなかくま霊魂れいこんかみくにおくかえすまでの一連いちれん儀式ぎしきイオマンテ」の様子ようすえがいたものであり[13]当時とうじ一流いちりゅう詩人しじん学者がくしゃたちから絶賛ぜっさんけて、日本にっぽん全国ぜんこく紹介しょうかいされた[12]春採はるとりしょう退職たいしょくも、「春湖しゅんこ」のごう詩作しさくたのしんでいた[10]

当時とうじ漢詩かんしゆうとされるもり槐南かいなんとも交友こうゆうがあり[12]もり槐南かいなん主催しゅさいする随鴎ずいおうしゃにも所属しょぞく[3]同社どうしゃ漢詩かんしじんである野口のぐち寧斎ねいさい大久保おおくぼ湘南しょうなん宮崎みやざき晴瀾せいらん[11]のちには前田まえだ曙山しょざん大町おおまち桂月けいげつといった文人ぶんじんたちとも交友こうゆうをもった[3][32]とく大町おおまち桂月けいげつは、釧路くしろ永久えいきゅうのもとをおとずれては、漢詩かんしのやりりをたのしんだ[9]永久えいきゅうはまったくさけまないにもかかわらず、だいさけきである桂月けいげつ相手あいてに、よるかして漢詩かんしきょうじていた[12]。1921ねん大正たいしょう10ねん)には桂月けいげつは、敬愛けいあいじょう漢詩かんしたくして永久えいきゅうおくった[9]

石川いしかわ啄木たくぼく釧路くしろ新聞しんぶん記者きしゃとしてつとめていたころ永久えいきゅうのことを「春採はるとりにいる漢文かんぶん先生せんせいってみたい」と日記にっきいており[32]のちにアイヌ研究けんきゅう第一人者だいいちにんしゃとなる親友しんゆう金田一きんだいち京助きょうすけに「とおざからず訪問ほうもんしてるつもり」と手紙てがみいていたが、実際じっさい機会きかいはなかった[33]

没後ぼつご[編集へんしゅう]

頌徳[編集へんしゅう]

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わがまち遺産いさん アイヌ民族みんぞく教育きょういく尽力じんりょく30ねん 春採はるとり地区ちく永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう石碑せきひ - 朝日新聞あさひしんぶん
地図
永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう頌徳」の位置いち釧路くしろ春採はるとり生活せいかつかん

永久えいきゅうしたおしたちや地元じもと名士めいしたちの協力きょうりょくにより[31]、1935ねん昭和しょうわ10ねん[* 2]春採はるとりしょう廃校はいこう跡地あとちに「永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう頌徳」が建立こんりゅうされた[11][35]どう1935ねん8がつ10日とおか除幕じょまくしきでは、多数たすうのアイヌ民族みんぞく釧路くしろ市民しみん[14]おし名士めいしたちが参列さんれつした[11]

2015ねん平成へいせい27ねん)9がつ台風たいふう影響えいきょういしぶみ倒壊とうかい[20]釧路くしろアイヌ協会きょうかい再建さいけん目指めざしたものの、費用ひよう目途もくとたずにいた[36]。そこへ釧路くしろ市内しない石材せきざい業者ぎょうしゃが「いしぶみ再建さいけんして永久えいきゅう功績こうせき後世こうせいつたえたい」とのどうかいおもいをれて協力きょうりょくもうて、倒壊とうかいしたいしぶみ石材せきざいさい利用りようにより工事こうじ費用ひようおさえ、再建さいけん決定けっていした[36]。アイヌ料理りょうりてん店主てんしゅげた「永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう石碑せきひ再建さいけん応援おうえんするかい」による寄付きふ[34]釧路くしろアイヌ協会きょうかいがイベントでしたアイヌ料理りょうり売上うりあげきん[20]おし子孫しそんらからの協力きょうりょくもあり、2019ねんれい元年がんねんまつ再建さいけん完了かんりょうした[20][37]いしぶみには永久えいきゅう雅号がごうから「春湖しゅんこおきな」ときざまれ、経歴けいれきともに「やくさんじゅうねんわたあい根差ねざした教育きょういくつらぬ退職たいしょく」としるされている[20]釧路くしろアイヌ協会きょうかいによれば、再建さいけんちゅう永久えいきゅうについての問合といあわせもあり、関心かんしんたかさをかんじたという[37]

著作ちょさくぶつ[編集へんしゅう]

永久えいきゅう釧路くしろおとずれて以来いらい、1にちやすむことなく日記にっきいており[31]永久えいきゅう釧路くしろ生活せいかつした33年間ねんかん学校がっこう社会しゃかいでの出来事できごとや、明治めいじから大正たいしょう地域ちいき貴重きちょう資料しりょうとして、釧路くしろ文化財ぶんかざい指定していされている[7][38]。しかし研究けんきゅう成果せいかとしてすぐれている反面はんめんふで原本げんぽんはくせみにくく、資料しりょう活用かつよう困難こんなん状態じょうたいであったため[38]釧路くしろ文芸ぶんげい釧路くしろ春秋しゅんじゅう』のもと編集へんしゅうちょう永田ながた秀郎ひでお中心ちゅうしんとし、活字かつじへの取組とりくみ開始かいしされた。永田ながた没後ぼつご釧路くしろ市内しないもと高校こうこう教員きょういんらによる「永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう日誌にっしかい」がその活動かつどう[24]、2012ねん平成へいせい24ねん)2がつ書籍しょせきとして刊行かんこうされた[39]発行はっこうすう上下じょうげまきかく100すくなかったが[40]釧路くしろ市立しりつ釧路くしろ図書館としょかん館長かんちょう新谷しんたに良文よしふみの「ひろ世界せかいに、もっとむべきひとがたくさんいる」とのかんがえにより[41]、2015ねん平成へいせい27ねん)にデジタルされ[24][42]閲覧えつらん容易ようい環境かんきょう整備せいびされた[40]。「永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう日誌にっしかい」は、郷土きょうど研究けんきゅう振興しんこうへの貢献こうけん評価ひょうかされ、2019年度ねんど釧路くしろ文化ぶんか奨励しょうれいしょう受賞じゅしょうした[24][43]

『アイヌ雑録ざつろく』もまた、書式しょしきがメモふうで読にくい難点なんてんがあったため、釧路くしろアイヌ文化ぶんか懇話こんわかい会員かいいんである郷土きょうど研究けんきゅう中村なかむら一枝かずえわけさい検証けんしょうして辞典じてんふうにまとめ、『永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろうの『アイヌ雑録ざつろく』をひもとく』として出版しゅっぱんし、これまで資料しりょうすくなかった釧路くしろ地方ちほうのアイヌかりやすくまとめた資料しりょうとなった[44]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

北海道教育大学ほっかいどうきょういくだいがく名誉めいよ教授きょうじゅである鈴木すずき史朗しろうは、永久えいきゅうがアイヌにたいしてたした役割やくわりについて「アイヌ文化ぶんか保存ほぞんやアイヌ記述きじゅつおおきな足跡あしあとのこしている」とひょうした[28]中村なかむら一枝かずえ永久えいきゅう最期さいごを「クリスチャンとしてのしん平安へいあんそのものであった」と自著じちょしるしている[45][46]釧路くしろアイヌ文化ぶんか懇話こんわかいからは「あつくてやさしいひとだった。あの時代じだい抵抗ていこうしていてはアイヌのひとたちはきていけぬとっているから、どもたちに社会しゃかいきるじゅつおしえたのだろう。地域ちいき住民じゅうみん相談役そうだんやく役所やくしょとの橋渡はしわたやくになっていて、地域ちいきからも信頼しんらいされていた」との評価ひょうかがっている[20]おしのちにエカシ(長老ちょうろう)となったものは、「一生懸命いっしょうけんめいやってこられたのは、先生せんせいはげましがわすれられないから。先生せんせいは『勉強べんきょう大切たいせつだ。実力じつりょくけて自立じりつすることが必要ひつようだ』とわれた[* 3]」とかたっている[46]。その一方いっぽうでは、「結果けっかとしてアイヌ民族みんぞく同化どうか政策せいさくささえた」との批判ひはんこえもある[20]

永久えいきゅう日記にっきは、明治めいじから大正たいしょう地域ちいき貴重きちょう資料しりょうとされる[38]永久えいきゅう民族みんぞく境遇きょうぐう同情どうじょうしていく心境しんきょうや、地域ちいきおこなわれたイオマンテ(ヒグマをとむら儀式ぎしき)の様子ようす頻繁ひんぱん学校がっこう視察しさつがあったことがうかがえるほか釧路くしろ日本にっぽん国内こくない事件じけん災害さいがい釧路くしろ花鳥かちょう歳時記さいじきなどが丹念たんねんまれており、「釧路くしろ立体りったいてきとらえるうえおおきな示唆しさ[39]」「教育きょういく郷土きょうど研究けんきゅうかせない資料しりょう」「郷土きょうどうらづけにも活用かつようできる貴重きちょう資料しりょう」とのこえもある[47]先述せんじゅつ中村なかむら一枝かずえ永久えいきゅう研究けんきゅうられ、この日記にっきを「釧路くしろ歴史れきし災害さいがい天気てんき気温きおんなども事細ことこまかにしるしてあり、当時とうじ様子ようすがよくかるきた郷土きょうど」と評価ひょうかした[39]

『アイヌ雑録ざつろく』は後年こうねん、アイヌ使つかひとがほとんどいなくなった近世きんせいにおいては、非常ひじょう貴重きちょう資料しりょうとされている[25][29]。しかし永久えいきゅう言語げんご学者がくしゃではなく、ききとった言葉ことばをそのままカタカナにしているのみのため、一部いちぶ間違まちがいも散見さんけんされるが、中村なかむら一枝かずえによる『永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろうの『アイヌ雑録ざつろく』をひもとく』では原典げんてん尊重そんちょうした表記ひょうきとなっている[23]

著名ちょめい生徒せいと[編集へんしゅう]

大正たいしょう釧路くしろ郵便ゆうびんきょくつとめていた吉良きら平治郎へいじろうは、永久えいきゅうおし1人ひとりである。吉良きら配達はいたつちゅう吹雪ふぶき遭難そうなんしたが、はこんでいた郵便ゆうびんぶつ自身じしんふくまもいており[48]、こうした精神せいしん責任せきにんかんは、永久えいきゅうによってはぐくまれたものとられている[11][31]

アイヌ文化ぶんか伝承でんしょうしゃ山本やまもと多助たすけは、8さいのときに春採はるとり小学校しょうがっこう入学にゅうがくし、永久えいきゅうまなんだ[10][49]永久えいきゅう漢学かんがく歴史れきしがくけていたことから、当時とうじ放課後ほうかご頻繁ひんぱん児童じどうたちに歴史れきしかたった。山本やまもとはこれが契機けいきとなって歴史れきし興味きょうみいだき、アイヌの伝説でんせつ関心かんしんいだくようになり、アイヌ研究けんきゅうへの根本こんぽんてき動機どうきとなった[10][50]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 釧路くしろ教育きょういく委員いいんかい生涯しょうがい学習がくしゅうによれば、したの「しゅう二郎じろう」のみは「ひでじろう」と「しゅうじろう」の2とおりがあるが、近年きんねん研究けんきゅうしゃ一般いっぱんてきに「しゅうじろう」を使つかっており、今後こんごは「しゅうじろう」に統一とういつされると推測すいそくされている[1][2]
  2. ^ 頌徳建立こんりゅうは1937ねん昭和しょうわ12ねん)とのせつもある[20][34]
  3. ^ 椎名しいな 2020, p. 6より引用いんよう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  10. ^ a b c d 福島ふくしま 1985, pp. 94–95
  11. ^ a b c d e f g 北海道ほっかいどう総務そうむ文書ぶんしょ 1967, pp. 176–177
  12. ^ a b c d e f 北海道ほっかいどう総務そうむ文書ぶんしょ 1967, pp. 166–167
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  45. ^ 椎名しいなひろしさとし釧路くしろ出身しゅっしん 中村なかむら一枝かずえさん死去しきょ 永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう研究けんきゅう 88さい」『北海道新聞ほっかいどうしんぶん』、2019ねん12月28にち、釧A朝刊ちょうかん、12めん
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  50. ^ 松本まつもと 1977, p. 138

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう日誌にっしじょう下巻げかんえい久保くぼ修二郎しゅうじろう日誌にっしかい、2012ねん2がつNCID BB08590587 
  • 中村なかむら一枝かずえ永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろう研究けんきゅう釧路くしろ釧路くしろ叢書そうしょ〉、1991ねん3がつNCID BN06556924 
  • 中村なかむら一枝かずえ永久えいきゅう保秀やすひで二郎じろうの『アイヌ雑録ざつろく』をひもとく』寿郎としおしゃ、2014ねん12月。 NCID BB17975833