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ほらいんじつなつ

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ほらいんじつなつ
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん 正和しょうわ4ねん1315ねん
死没しぼつ 貞治さだはる6ねん6月1にち1367ねん6月28にち
官位かんい したがえいち内大臣ないだいじん北朝ほくちょう
氏族しぞく ほらいん
父母ちちはは ちちほらいんおおやけけんはは粟田あわた光子みつこ粟田あわた光久みつひさむすめ
兄弟きょうだい じつじつなつまもりけん、慈昭、ていおおやけ徳大寺とくだいじこうきよししつ綸子りんず吉子よしこめぐみりん、徽安もんいんひがし御方おかた西園寺さいおんじみのるしゅんしつ久良ひさよし親王しんのうやしなえ兄弟きょうだい
養子ようし阿野あのれんじつもり
つま 花園はなぞのいん中納言ちゅうなごん典侍てんじ持明院じみょういんふじむすめ
粟田あわたひかりとおむすめ
公定こうていおおやけためおおやけよりゆきおおやけなつじつげんしん
養子ようしほらいんじつむすめほらいんじつむすめ
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ほらいん じつなつ(とういん さねなつ)は、南北なんぼくあさ時代じだい公卿くぎょう太政大臣だじょうだいじんほらいんおおやけけん次男じなん官位かんいしたがえいち内大臣ないだいじん北朝ほくちょう)。

経歴けいれき

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17さいしたがえじょせられ、もなく元服げんぷくして後醍醐天皇ごだいごてんのう侍従じじゅうひだり近衛このえ少将しょうしょうとなる。ひかりげん天皇てんのう治世ちせい一旦いったんしたがえよんにまで昇進しょうしんするが、1333ねん後醍醐天皇ごだいごてんのう復位ふくいともなって無効むこうとされる。だが、わずか4かげつもと復帰ふっきしてあらためてけん少納言しょうなごんにんじられた。そのたてたけし新政しんせいにおいて記録きろくしょ寄人よりうどとして所属しょぞくする。

足利尊氏あしかがたかうじ光明こうみょう天皇てんのう擁立ようりつして後醍醐天皇ごだいごてんのう吉野よしののがれたさいに、じつなつちちとも新帝しんていつかえるが、嫡男ちゃくなんであるあにじつ南朝なんちょう参加さんかしたために廃嫡はいちゃくとなり、次男じなんじつなつほらいん継承けいしょうすることになった。1337ねんちち右大臣うだいじん辞任じにんすると参議さんぎ昇進しょうしんし、そのとしのうちにしたがえさんとなって公卿くぎょうれつした。

以後いご1340ねんけん中納言ちゅうなごん1342ねんせいさん1346ねんしたがえ1347ねんけん大納言だいなごん1355ねんせいへと昇進しょうしんかさねる。

1352ねんかんおう擾乱じょうらん正平しょうへい一統いっとう混乱こんらんなか祖父そふじつやすし生前せいぜんおおやけけん後継こうけいしゃとしてさだめていた叔父おじじつもりおおやけけん異母弟いぼていでその養子ようしになっていた)が南朝なんちょうまいりこうしたのをじつもりはいされて、じつなつあたらしい後継こうけいしゃとなる[1]。ところが、かんおう擾乱じょうらん前後ぜんごする南朝なんちょう北朝ほくちょう京都きょうと争奪そうだつせんさいして中立ちゅうりつ路線ろせんろうとするおおやけけんたいし、じつなつはそれではれないとして北朝ほくちょう後光ごこうげん天皇てんのう)へのまいりこう決断けつだんし、南朝なんちょうぐんわれた後光ごこうげん天皇てんのう京都きょうと脱出だっしゅつ美濃みの行幸ぎょうこう同行どうこうしている[2]。これをきっかけに、おおやけけんじつなつほらいん故実こじつ研究けんきゅう不熱心ふねっしんであることに不満ふまんいだき、じつなつ1359ねんきょうかん除目じもくおおやけけんせつしたがった作法さほうもちいた西園寺さいおんじみのるしゅん批判ひはんする事件じけん[3]こした。すで出家しゅっけしていたおおやけけんじつもり北朝ほくちょう復帰ふっきさせて家督かとくゆずることを決意けついした[4]

1360ねんちちおおやけけんぼっすると京都きょうともどっていたじつもりおおやけけんっていたはずほらいん文庫ぶんこしるし鎰をって後継こうけいしゃとして名乗なのりをげたことからそうろんとなる。後光ごこうげん天皇てんのうじつもり故実こじつじつなつ忠節ちゅうせつあいだ判断はんだんくるしみ、6月25にちいえりょう分割ぶんかつめいじて両者りょうしゃ共存きょうぞんはかる。ところが、室町むろまち幕府ばくふ天皇てんのうへの忠節ちゅうせつ自己じこへの支持しじとみなす立場たちばからこの問題もんだい介入かいにゅう最終さいしゅうてきには2だい将軍しょうぐん足利あしかが義詮よしあきら武家ぶけ執奏しっそうけてこのとしの9がつ29にちみことのりさいによってようやく後継こうけいしゃとしての地位ちいみとめられ、つづいてひだり近衛このえ大将たいしょうひだりりょうかん兼任けんにんする(その勅命ちょくめいによってじつもりっていたほらいん文庫ぶんこしるし鎰は没収ぼっしゅうされてじつなつあたえられている)。1362ねん南朝なんちょうぐんふたた京都きょうとはいって後光ごこうげん天皇てんのうふたた行幸ぎょうこうせまられたときじつなつ天皇てんのう同行どうこうして近江おうみこくはいり、じつもり南朝なんちょう再度さいどさんこうしたことから、後光ごこうげん天皇てんのうじつもりあたえたいえりょう没収ぼっしゅうしてじつなついちえん安堵あんどした。ところが、このとしふゆになって幕府ばくふおおやけけん自分じぶん後継こうけいしゃにしようとしていたと主張しゅちょうした正親町おおぎまちみのるつなとのあいだほらいん家門かもんいえりょう分割ぶんかつ要請ようせいする武家ぶけ執奏しっそうおこなわれて正親町おおぎまちいえりょう半分はんぶんうばわれてしまった[5][6]

1363ねんには内大臣ないだいじんのぼったが、1364ねんには病気びょうき理由りゆう役職やくしょく退しりぞき、わりにしたがえいちあたえられてその3ねん死去しきょしている。晩年ばんねん嫡男ちゃくなん公定こうてい不仲ふなかになり、これを義絶ぎぜつしてそのおとうとおおやけよりゆき後継こうけいしゃ指名しめいしたところ、じつなつ死去しきょ直前ちょくぜんの5がつ10日とおか急死きゅうししてしまう。そのため、再度さいど家督かとくねらじつもり公定こうていあいだ家督かとくあらそいが再発さいはつした。

参議さんぎ就任しゅうにん翌年よくねん1338ねん)から14ねんにわたってかれた日記にっきじつなつおおやけ』がつたわっている。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ えんたいれき目録もくろく文和ふみかず元年がんねん8がつ22にちじょう
  2. ^ えんたいれき文和ふみかず4ねん正月しょうがつ3にちじょう
  3. ^ ふかこころいん関白かんぱくのべぶん4ねん11月22にちじょう
  4. ^ えんたいれきのべぶん4ねん12月21にちじょう
  5. ^ 愚昧ぐまい貞治さだはる2ねん正月しょうがつ1にちじょう
  6. ^ ももさきゆう一郎いちろうほらいん故実こじつめぐ確執かくしつからじつなつへの相続そうぞく不安ふあんおぼえたおおやけけん家督かとくじつつなゆずったとする。これにたいして松永まつなが和浩かずひろはそもそもじつつな主張しゅちょう自体じたい事実じじつではなく、おおやけけん家督かとくゆずった相手あいてはあくまでもじつまもりであり、じつつなちち以来いらい北朝ほくちょうへの忠節ちゅうせつ足利あしかが義詮よしあきらいえれいとしての立場たちば利用りようしてほらいんいえりょう獲得かくとくはかったものであるとする(ももさきほらいん家門かもんわりぶん〉と正親町おおぎまち成立せいりつ」『年報ねんぽう三田みた中世ちゅうせい研究けんきゅう』10ごう(2003ねん)/松永まつながひだりりょうりょうてん室町むろまち殿どの」『室町むろまち公武こうぶ関係かんけい南北なんぼく朝内あさうちらん』)。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 松永まつなが和浩かずひろひだりりょうりょうてん室町むろまち殿どの」『室町むろまち公武こうぶ関係かんけい南北なんぼく朝内あさうちらん』 吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2013ねん ISBN 978-4-642-02911-7
先代せんだい
ほらいんおおやけけん
ほらいん
5だい
次代じだい
ほらいん公定こうてい