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うみべに

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

うみべに(かいこう)は、1914ねん大正たいしょう4ねん)に正岡子規まさおかしき門下もんかしん傾向けいこう俳句はいく河東かわとう碧梧桐へきごとう主宰しゅさいした自由じゆうりつ俳句はいく結社けっしゃ。のちに碧梧桐へきごとう門下もんか中塚なかつか一碧楼いっぺきろうぎ、現在げんざいうみべにしゃより月刊げっかん自由じゆうりつ俳句はいくうみべに』および『うみべに文庫ぶんこ』などの句集くしゅう刊行かんこうしている。2015ねん3がつ創刊そうかん100周年しゅうねんむかえた。

歴史れきし

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1915ねん大正たいしょう4ねん)3がつ、それまでの俳句はいく形式けいしきにとらわれない、しん傾向けいこう俳句はいく目指めざ河東かわとう碧梧桐へきごとう創刊そうかん創刊そうかんにあたり碧梧桐へきごとうのスポンサーでもあった俳人はいじん塩谷しおや鵜平うへいの『みずのえしゅう』を合併がっぺいするかたちをとった。編集へんしゅうそう責任せきにんしゃ中塚なかつか一碧楼いっぺきろうつとめ、編集へんしゅうしゃとして瀧井たきい孝作こうさくおりしば)もくわわった。また安斎あんざいさくら磈子大須賀おおすが乙字おつじ小沢おざわ碧童へきどう水落みずおち露石ろせき喜谷きたに六花りっか兼崎地橙孫かねさきちとうそんもこれに参加さんかした。作家さっか芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ碧童へきどうつうじて一時いちじ参加さんかしていた。当時とうじ挿絵さしえ小穴おあな隆一りゅういちいちゆうちん)や細木原ほそきばら青起せいき担当たんとう。1922ねん碧梧桐へきごとう一碧いっぺきろううみべにゆず[1]一碧楼いっぺきろう主宰しゅさい自由じゆうりつ俳句はいく月刊げっかんとして継続けいぞく。しかし1944ねん戦時せんじ体制たいせい諸般しょはん事情じじょうにより2がつごうにて一時いちじ廃刊はいかん、1946ねん復刊ふっかん[2]、そのとし一碧いっぺきろう死後しご中塚なかつかまゆみ中塚なかつかゆいじん継承けいしょうされ、2004ねん4がつごう通巻つうかん1000ごう、2015ねん3がつには創刊そうかん100周年しゅうねんむかえた。100年余ねんよ現在げんざい結社けっしゃ存続そんぞくし、うみべにしゃとして月刊げっかんうみべに』および句集くしゅう刊行かんこうつづけている。

おもな関係かんけいしゃ

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のち離脱りだつしたものふくむ。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 上田うえだみやこ/編著へんちょ自由じゆうりつ俳句はいく文学ぶんがく』(1975ねん永田ながた書房しょぼう
  • 栗田くりたやすし/編著へんちょうみべにそう目録もくろくだい正篇せいへん)』(1979・東海学園女子短期大学とうかいがくえんじょしたんきだいがく国語こくご国文こくぶん学会がっかい
  • 中塚なかつかまゆみ/へんふゆうみ一碧楼いっぺきろうぜん句集くしゅう』(1987・うみべにしゃ
  • うみべに編集へんしゅう/へん『とっとうとり うみべにいちせんごう記念きねん句集くしゅう』(2004ねんうみべにしゃ
  • 中塚なかつかゆいじん/ちょ中塚なかつか一碧楼いっぺきろう物語ものがたりぜんまき』(2011・うみべにしゃ
  • 石割いしわりとおる/へん芥川あくたがわ竜之介りゅうのすけ随筆ずいひつしゅう』(2014・岩波いわなみ文庫ぶんこ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 碧梧桐へきごとう句集くしゅう中塚なかつかゆいじん日野ひの百草もぐさへんうみべにしゃ、2015ねん10がつ15にち)178ぺーじ
  2. ^ 中塚なかつか一碧樓いっぺきろう句集くしゅう ふゆうみ尾崎おざき騾子、中塚なかつかまゆみせん中塚なかつかゆいじん日野ひの百草もぐさへんうみべにしゃ、2015ねん12月31にち)320ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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