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おうねんまご

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おうねんまご
人物じんぶつ情報じょうほう
別名べつめい おうせき
生誕せいたん (1744-04-25) 1744ねん4がつ25にち
清の旗 きよし江蘇ちぁんすーしょうあげしゅうこう郵州
死没しぼつ 1832ねん2がつ25にち(1832-02-25)(87さいぼつ
子供こども おう引之
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 儒学じゅがく中国ちゅうごく思想しそう
テンプレートを表示ひょうじ

おう ねんまご(おう ねんそん、いぬいたかし9ねん3月13にち1744ねん4がつ25にち) - みちこう12ねん1がつ24にち1832ねん2がつ25にち))は、中国ちゅうごくきよしだい学者がくしゃふところごういし先生せんせい江蘇ちぁんすーしょうあげしゅうこう郵州出身しゅっしん吏部尚書しょうしょおう安国やすくにであり、おう引之ちちでもある。

経歴けいれき

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いぬいたかし36ねん1766ねん)のかいためしかう途中とちゅうんだこうひさしいん標準ひょうじゅん』によって音韻おんいん訓詁くんこ関心かんしんいだく。いぬいたかし40ねん1775ねん)の進士しんしであり、庶吉となる。えいじょうかわどう長官ちょうかんとなり、名声めいせいたかかった。のちに官職かんしょくして郷里きょうりかえり、ひろしなかりゅうたいほどようなどと交友こうゆうむすぶ。ふたたび朝廷ちょうていされてこう主事しゅじとなり、治水ちすい工事こうじ貢献こうけんした。よしみけい15ねん1810ねん)に引退いんたいして以後いご学問がくもん専念せんねんし、89さいぼっする。

学術がくじゅつ業績ぎょうせき

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戴震とし、だんだまさいあつし賈田ひろしちゅうりゅうたい拱・ほどようともとし、清朝せいちょう学術がくじゅつ正統せいとうといわれ、とく音韻おんいん訓詁くんこふか考究こうきゅうし、しかみやびせつぶんながじていた。いんけて21とし、古書こしょ伝書でんしょあやまりをただした。とくに『かん』・『ぼく』・『淮南ワイナン』などのしょほんはじめてめるかたち復元ふくげんし、古代こだい中国ちゅうごく思想しそう研究けんきゅう重要じゅうよう役割やくわりたした。

著作ちょさく

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  • こうみやび疏証』23かん
  • 読書どくしょざつこころざし』82かん
  • おうせき先生せんせい遺文いぶん』4かんたま編修へんしゅう

参考さんこう

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  • 清史きよし稿こう』487
  • 清史きよし列伝れつでん』68
  • くにあささきせいことりゃく』16
  • くにあさ漢学かんがく師承ししょう』5
  • りゅう盼遂『おうせき先生せんせい年譜ねんぷ
  • 吉田よしだじゅんおうねんまご」『歴史れきしがく事典じてん 5 歴史れきしとその作品さくひん』(弘文こうぶんどう、1997ねんISBN 978-4-335-21035-8

脚注きゃくちゅう

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