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現代げんだい英雄えいゆう

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現代げんだい英雄えいゆう
Герой нашего времени
『現代の英雄』第一部(1840年)
現代げんだい英雄えいゆうだい一部いちぶ(1840ねん)
著者ちょしゃ ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ
Михаил Юрьевич Лермонтов
発行はっこう 1840ねん単行たんこう本初ほんしょばん
発行はっこうもと イリヤ・グラズノフしゃ単行たんこう本初ほんしょばん
Типография Ильи Глазунова и Ко
ジャンル 小説しょうせつ
くに 帝政ていせいロシア
言語げんご ロシア
形態けいたい 文学ぶんがく作品さくひん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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現代げんだい英雄えいゆう』(ロシア Герой нашего времени)は、帝政ていせいロシアの詩人しじんミハイル・レールモントフ1840ねん発表はっぴょうした中編ちゅうへん小説しょうせつ。レールモントフの代表だいひょうさくであるのみならず、その端正たんせい上質じょうしつ文体ぶんたいは、近代きんだいロシア文学ぶんがくにおいてロシア文章ぶんしょう本格ほんかくてき確立かくりつした作品さくひんとして、プーシキン後期こうき作品さくひんぐんともたか評価ひょうかされている。

ツルゲーネフは、『現代げんだい英雄えいゆう』の文章ぶんしょう正確せいかくさと簡潔かんけつさに賛辞さんじしまなかった。また、チェーホフトルストイも、『タマーニ』をロシア散文さんぶん作品さくひん最高さいこう傑作けっさくかぞえている[1]

また、主人公しゅじんこうの「憎々にくにくしい」(ある意味いみでは近代きんだいてきな)人物じんぶつぞう[2]緻密ちみつ主人公しゅじんこう心理しんり描写びょうしゃ[3]従来じゅうらいのロシア文学ぶんがくにはられなかった画期的かっきてきなもので、作家さっかにも多大ただい影響えいきょうあたつづけた。

概要がいよう

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レールモントフ最初さいしょカフカース追放ついほうころ(1837ねんごろ)にはじめられ[4]雑誌ざっし断章だんしょう発表はっぴょうされたのち、1840ねん単行本たんこうぼんとして上梓じょうしされた。

主人公しゅじんこうペチョーリンのせいがロシアのペチョーラがわからられており、それがプーシキンオネーギンオネガ[5]オネガがわせつもあり[4])から命名めいめいしたパターンを踏襲とうしゅうしたことはられている。プーシキンを尊敬そんけいし、かれ決闘けっとうで斃れたときにはいかりをめて『詩人しじん』をいたレールモントフが、『現代げんだい英雄えいゆう執筆しっぴつさいしても、これをプーシキンへの挽歌ばんか[4]意識いしきしていたことは想像そうぞうかたくない。

オネーギンとペチョーリンは、いずれもロシア文学ぶんがくの「余計よけいしゃ」の典型てんけいとされ、よく比較ひかくされるが、タチヤーナの恋文こいぶみたいして分別ふんべつある善人ぜんにんとしてったオネーギンにくらべると、関心かんしんいた女性じょせいかなら不幸ふこうにしてしまうペチョーリンのほうが、はるかに冷酷れいこくである。

原題げんだいの герой(男性だんせい名詞めいし)には、「英雄えいゆう」のほか、「主人公しゅじんこう」の意味いみもある。日本にっぽんでは『現代げんだい英雄えいゆう』というわけ定着ていちゃくしているが、「われらの時代じだい主役しゅやく(ヒーロー)」の意味いみあわっている。

構成こうせい以下いかとおり。この区分くぶんは、最初さいしょ単行本たんこうぼんだい一部いちぶだい分冊ぶんさつ上梓じょうしされた名残なごりである。

  • 序文じょぶん Предисловие
  • だい一部いちぶ Часть первая
    • (1) ベラ Бэла
    • (2) マクシム・マクシームィチ Максим Максимыч
    • ペチョーリンの手記しゅき Журнал Печорина
      • 序文じょぶん Предисловие
    • (1)タマーニ Тамань
  • だい(ペチョーリンの手記しゅき終章しゅうしょうЧасть вторая (Окончание журнала Печорина)
    • (2) 公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー Княжка Мери
    • (3) 運命うんめいろんしゃ Фаталист
雑誌ざっし祖国そこく記録きろく』にった『タマーニ』の最初さいしょのページ (p.144)

(「ペチョーリンの手記しゅき」「だい一部いちぶ」「だい(ペチョーリンの日記にっき終章しゅうしょう)」は見出みだ(ヘッドライン)のみ。) 『ベラ』と『マクシム・マクシームィチ』は、カフカ―スの2とう大尉たいいマクシム・マクシームィチの将校しょうこうペチョーリンが三人称さんにんしょうえがかれ、『タマーニ』『公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』『運命うんめいろんしゃ』はペチョーリンの一人称いちにんしょうかたりである。いずれもカフカース地方ちほう舞台ぶたいとする。かくしょう独立どくりつした短篇たんぺん小説しょうせつ日記にっき形式けいしきの『公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』だけがややながい)としてめる。

また、かくしょう初出しょしゅつ以下いかとおり。

  • 『ベラ』(1838ねんだつ稿こう) - 雑誌ざっし祖国そこく記録きろく』(ロシア Отечественные записки) 1839ねん、т.2, No.3.(3がつ)
  • 運命うんめいろんしゃ』 - どう、1839ねん、т.6, No.11.
  • 『タマーニ』 - どう、1840ねん、т.8, No.2.
  • 『マクシム・マクシームィチ』 - 1840ねん単行たんこう本初ほんしょばん
  • 公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』 - 単行たんこう本初ほんしょばん
  • 序文じょぶん(1841ねんはるだつ稿こう、於・ペテルブルク) - 単行本たんこうぼんだい2はん

梗概こうがい

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カズビッチにさらわれるベラ
V.A.ポリャコフ(В.А.Поляков)

テレクかわほとり要塞ようさい[ちゅう 1]赴任ふにんした青年せいねん将校しょうこう[ちゅう 2]ペチョーリン Печорин は、帰順きじゅんしたチェルケスじん領主りょうしゅ長女ちょうじょこんえんせきで、16さいほどのいもうとむすめベラ Бэла をそめる。山賊さんぞくかおつしたたかな商売人しょうばいにん・カズビッチ Казбич[ちゅう 3]彼女かのじょおもいをせている。ベラのおとうとアザマート Азамат は、カズビッチの名馬めいばしくてたまらないが、はなから相手あいてにされない。そのことをったペチョーリンは、「おまえねえさんをさらっててくれれば、カズビッチのうまぬす機会きかいあたえてやろう」と取引とりひきちかけた。

かくしてベラは、あたまにチャドラ(ベール)をかぶせられりょう手足てあししばられてアザマートのくらよこざまにせられ、要塞ようさいのペチョーリンの宿舎しゅくしゃれてきたられた。が、ちちいましめにそむいたアザマートは集落しゅうらくから姿すがたし、愛馬あいばぬすまれたカズビッチは、報復ほうふくかれ父親ちちおやころした(ベラがこのことをるのはかなりである)。そしてベラは部屋へやすみにうずくまったまま、おびえてくちもきこうとしない。彼女かのじょしんひらかせようと、ペチョーリンはみずからもタタール[ちゅう 4]まなび、贈物おくりものやまかえるが、たいしてこうそうさない。万策ばんさくきたペチョーリンは最後さいご手段しゅだんた。たび支度じたくをし、おまえ自由じゆうだ、このいえぜん財産ざいさんもおまえのものだ、とやさしくいいのこし、きかけたところで、ベラはおとこくびりすがった。

ベラのしん射止いとめたペチョーリンは、最初さいしょのうちこそ、彼女かのじょ人形にんぎょうのように着飾きかざらせて可愛かわいがるが、4かげつほどつと、ふたた退屈たいくつ倦怠けんたいりつかれ、りでいえけることがおおくなった。そしてペチョーリンの留守るすそとたベラは、小川おがわのほとりで、うまったカズビッチにさらわれる。りのかえみちのペチョーリンらがつけい、銃弾じゅうだんうまのちあしつが、カズビッチはベラの背中せなか短剣たんけんしてげた。ベラはペチョーリンに看取みとられながら3にちんだ。その3かげつ、ペチョーリンはぼう連隊れんたい[ちゅう 5]転属てんぞくとなり、グルジアへとった。

マクシム・マクシームィチ

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ベラの物語ものがたりき、ペチョーリンなる人物じんぶつおおいに好奇心こうきしんをそそられた「わたし」は、ウラジカフカース宿やどで、かたマクシム・マクシームィチ[ちゅう 6]再会さいかいした。そこへ立派りっぱ馬車ばしゃ到着とうちゃくし、従僕じゅうぼくは、馬車ばしゃあるじはペチョーリンで、今日きょう主人しゅじんぼう大佐たいさたくまるという。M.M.にとっては4ねんぶり[ちゅう 7]再会さいかいで、すぐさま従僕じゅうぼく使つかいにし、かれがすぐにでもけつけてくれるものとしんおどらせるが、てどらせどペチョーリンはない。翌朝よくあさちくたびれたM.M.は仕事しごと司令しれいかったが、そこへようやくペチョーリンがあらわれたので、「わたし」はすぐさま司令しれい使つかいをやった。はじめてるペチョーリンは、体躯たいく容姿ようしなり、すべてもうぶんない好男子こうだんしで、上流じょうりゅう婦人ふじんにはモテそうだが、一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくには、どこか神経質しんけいしつで、周囲しゅういけぬ性格せいかく微妙びみょうにじている。そして、わらときだけはわらっておらず、眼光がんこうするどいがつめたい。

M.M.があせびっしょりでけつけたが、M.M.の感激かんげきぶりにくらべると、ペチョーリンの態度たいどつめたくよそよそしい。もるはなしもあろうM.M.の様子ようす無視むしし、ペチョーリンは「もう時間じかんですから」とってゆく。さきペルシャ、そしてさらにそのさきだという。M.M.は最後さいごに、馬車ばしゃとびらりすがりながら、「おまえいたもののこっているぞ」とさけぶが、「きにしてください」とないこたえかえってただけだった。あわれなろう2とう大尉たいい[ちゅう 8]は「旧友きゅうゆうわすれるようなものに、ろくなことはあるまい」となげく。

ペチョーリンののこしたノートは10さつあった。「わたし」はそれをM.M.からもらけた。

「ペチョーリンの手記しゅき」の序文じょぶん

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ペチョーリンがペルシャからの帰途きとくなったといたので、「わたし」はだれにも気兼きがねなくこの手記しゅき出版しゅっぱんることにした。かれ人生じんせい記録きろくした分厚ぶあついノートのなかから、カフカース滞在たいざいかんするもののみをえらんである。

タマーニ

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黒海こっかいのひなびた[ちゅう 9]港町みなとちょうタマーニロシアばん英語えいごばんで、おれはひどいった。

公務こうむ道中どうちゅうタマーニにったが、まるところがどこにもい。分隊ぶんたいちょうをどやしつけ、やっと案内あんないされたのが、海辺うみべのみすぼらしい小屋こやだった。母屋もや住人じゅうにんは、盲目もうもく少年しょうねん老婆ろうばだけだ。

うみとされかけるペチョーリン
V.A.ポリャコフ(В.А.Поляков)

真夜中まよなかひと気配けはいかんじたおれは、それをうようにそとた。れい少年しょうねんつつみをかかえてうみへとりてゆく。海岸かいがんにはおんながいて、なにはなはじめたが、昼間ひるまおれしょうロシア方言ほうげん使つかっていた少年しょうねんが、いまはきれいなロシアはなしている。おきから小舟こぶねちかづき、おとこった。ヤンコ[ちゅう 10]Янкоというらしい。3にん小舟こぶねからなにはこはじめた。

翌日よくじつれい夜中よなかつつみのことで、おれ少年しょうねん老婆ろうばまえめたが、これが命取いのちとりとなった。

神秘しんぴてきうたうたむすめあらわれた。おれは、昨夜さくや海岸かいがんおなこえていたのをおもした。おれ夜中よなか一部始終いちぶしじゅうむすめはなしてやったが、これも裏目うらめた。 少年しょうねんむすめ老婆ろうばも、密輸みつゆ業者ぎょうしゃ一味いちみだったのである。

そうともらぬおれは、さそわれるままに、よる海岸かいがんて、むすめ2人ふたり小舟こぶねった。が、沖合おきあいると、むすめあま言葉ことばささやきながら、おれこしのピストルをうみとした。おれおよげない! むすめおれとそうとする。必死ひっしでもみった挙句あげくおれむすめうみとし、這々のからだ岸辺きしべ辿たどいた。

むすめ海岸かいがんおよいていた。そこへ小舟こぶねちかづき、ヤンコがりてた。帽子ぼうしタタールぼうだが、髪型かみがたコサックふうだ。ベルトのしたにナイフがひかっている。むすめなにはなはじめた。「もうおしまいだよ」- られたんだよ、とはなしているらしい。しばらくすると少年しょうねんふくろ背負せおってあらわれ、3にん小舟こぶねみをはじめた。そしてヤンコは「これからは、よその土地とち商売しょうばいをするさ。もうここにはられないからな」と、少年しょうねんしょうぜにわたし、むすめ小舟こぶねせてちいさなげた。きしからのふうって、白帆しらほくら波間なみまへとみるみるとおざかってった。

小屋こやもどると、金入かねいばこから短剣たんけんいたるまで、おれ金目かねめものは、すべてえてくなっていた! みな夜中よなか少年しょうねんっていたのだ。

公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー

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鉱泉こうせん療法りょうほう[ちゅう 11]名高なだかピャチゴールスク滞在たいざいちゅうおれは、あし怪我けが療養りょうようちゅう戦友せんゆうグルシニツキー Грушницкий と再会さいかいした。

田舎いなか地主じぬし貴族きぞくはばかすこのまちで、モスクワからリウマチ治療ちりょうているリゴーフスカヤ公爵こうしゃく夫人ふじん княгиня Лиговская と、そのむすめメリー Мери[ちゅう 12]親子おやこは、洗練せんれんされてうつくしく、人目ひとめいた。が、グルシニツキーと令嬢れいじょうメリーとがいい雰囲気ふんいきなのが、おれには面白おもしろくない。しあわせなおとこちかくにいるだけで、うすらさむ気分きぶんになるのだ。こう不幸ふこうか、むかし関係かんけいのあったヴェーラ Вера もおっとともており、しかもいまおっと公爵こうしゃく夫人ふじんとは遠縁とおえんで、まいもとなり同士どうしだという。おれは、過去かこかんづかれないために、公爵こうしゃく令嬢れいじょうまわすことを約束やくそくする。

ペチョーリンとグルシニツキーの決闘けっとう
V.A.ポリャコフ(В.А.Поляков)

レストランのホールでの舞踏ぶとうかいはじまり、なにらないグルシニツキーと公爵こうしゃく夫人ふじんたくおとずれるなどして、おれはゆっくりと公爵こうしゃく令嬢れいじょうちかづく。周到しゅうとう計算けいさんされたおれまわりに、思惑おもわくどおり、令嬢れいじょうしん次第しだいにグルシニツキーからはなれてった。

おれ屈折くっせつした未練みれんのこるヴェーラは、「あなたが公爵こうしゃく夫人ふじんたくなければ、わたしはあなたにえない」と一方いっぽうで、おれのメリーへの態度たいどには嫉妬しっとかくせない。そんなあるヴェーラは、彼女かのじょおっと、そして公爵こうしゃく夫人ふじん親子おやこ近々ちかぢかキスロヴォーツク[ちゅう 13]うつ予定よていだとおしえてくれた。「あなたもいらして、となり部屋へやりてください」そしてどうけたのか、グルシニツキーも、おれの2にちに、仲間なかまれてキスロヴォーツクに到着とうちゃくした。

キスロヴォーツクで、おれ令嬢れいじょううまならべて郊外こうがいポドクーモクがわロシアばん英語えいごばんき、浅瀬あさせうまったまま令嬢れいじょうほお接吻せっぷんした。彼女かのじょとの距離きょり順調じゅんちょうちぢまっているかにえた。が、グルシニツキーとおれとの関係かんけいはますます険悪けんあくになり、ついには決闘けっとうするはこびとなった。

決闘けっとうあさはやく、キスロヴォーツク郊外こうがい峡谷きょうこくがけ頂上ちょうじょうおこなわれた。事態じたいおおやけになると厄介やっかいなので、転落てんらく事故死じこしへの偽装ぎそう容易よういにするために、たれるものがけっぷちの空地くうちつことになった。おれがピストルのがねくと、つぎ瞬間しゅんかんにはグルシニツキーの姿すがたはもう眼前がんぜんかった。

介添かいぞえじんけてくれた医師いしヴェルネル Вернер[ちゅう 14]が、グルシニツキーの遺体いたいがら弾丸だんがんり、事故死じこしへの偽装ぎそう一応いちおう成功せいこうした。が、グルシニツキーはメリーをめぐる決闘けっとうんだのだ、相手あいてはペチョーリンだ、といううわさは、たちまち町中まちなかひろまり、おれは N要塞ようさい転属てんぞく[ちゅう 15]になった。おれはげっそりとやつれた令嬢れいじょうメリーに、あなたと結婚けっこんするわけにはかない、とだけげ、キスロヴォーツクをった。

運命うんめいろんしゃ

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ヴーリッチの「け」
V.A.ポリャコフ(В.А.Поляков)

ぐん左翼さよくコサック[ちゅう 16]むらに2週間しゅうかんほど滞在たいざいしていたときのこと[ちゅう 17]

歩兵ほへい大隊だいたい将校しょうこうたちは、毎晩まいばん順番じゅんばんだれかの宿舎しゅくしゃあつまってはカードあそびをするのがつねだった。あるばん、S少佐しょうさ宿舎しゅくしゃで、ボストンあそにもきたころ人間にんげん運命うんめい天上てんじょうしるされている[ちゅう 18]、というのは本当ほんとうか、という議論ぎろん一座いちざがったが、各々おのおの自説じせつ披露ひろうするだけで結論けつろんない。そこへヴーリッチ中尉ちゅうい поручик Вулич[ちゅう 19]がり、「自由じゆう宿命しゅくめいか、ためしてみればいではないですか」とった。おれ最初さいしょ冗談じょうだんで「けでためしましょう。わたしは、宿命しゅくめいなどないほうけます」と金貨きんかすと、賭博とばくきのヴーリッチはってて、本当ほんとうけがはじまった。

ヴーリッチは少佐しょうさ寝室しんしつき、かべけられたいくつもの銃器じゅうきから、ランダムに1ていのピストルをつかみし、火薬かやくめた。そして一同いちどう別室べっしつのテーブルをかこんですわったときおれにはヴーリッチのかおに、あとすうあいだぬ、という予兆よちょうえ、「あなたは今日きょうにますよ」とおもわず口走くちばしってしまった。

ヴーリッチは自分じぶんがく銃口じゅうこうて、がねいた。- 不発ふはつだった。いで、まど上側うわがわかっている軍帽ぐんぼうねらってつと、今度こんど銃声じゅうせいひびき、帽子ぼうしかれた。ピストルは装填そうてんされていたのである。おれけにけた。

帰途きとぷたつにられたぶた死骸しがいが、月明つきあかりの路上ろじょうころがっていた。あいだもなく2人ふたりコサックはしってて、ぶたいかけるぱらいのコサックをなかったか、とく。おれぶた死骸しがい指差ゆびさすと、はやつかまえないと、と口々くちぐちいながら2人ふたりはしった。

翌朝よくあさ4に、おれは3にん将校しょうこうたたこされた。ヴーリッチがころされたという。よるかえみちれいぶたごろしのコサックとはちわせたのだ。おれ直感ちょっかんたっていた。そしてヴーリッチは臨終りんじゅうに「かれただしい」とったそうだ。殺人さつじんはんてこもったむらはずれのくと、おれ犯人はんにんりの陣頭じんとう指揮しきった。

ペチョーリンの特徴とくちょう

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ペチョーリンの性格せいかくてき特徴とくちょう

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有能ゆうのう職業しょくぎょう軍人ぐんじんであるペチョーリンは、無為むい徒食としょくゆるされる地主じぬし貴族きぞくがた余計よけいしゃオネーギンオブローモフなど)とは一線いっせんかくしているかにえる。にもかかわらず、ペチョーリンがつねにロシア文学ぶんがく余計よけいしゃ代表だいひょうげられる理由りゆうは、かれ意識いしき支配しはいする退屈たいくつ倦怠けんたいにある。『ベラ』でのマクシム・マクシームィチへの告白こくはくられるように、かねえる満足まんぞく上流じょうりゅう社交しゃこうかい美女びじょたちとのこい読書どくしょ学問がくもんいどんだものにはすべてきがて、「チェチェンじん弾丸だんがんしたには退屈たいくつはありまい」とはじまったカフカース生活せいかつも、1かげつもすると弾丸だんがんにも緊張きんちょうにもれ、期待きたいおおきかったぶん一層いっそう退屈たいくつがたいものとなる。異郷いきょう美少女びしょうじょベラでさえ、最初さいしょは「慈悲じひふか運命うんめい女神めがみにつかわされた天使てんし」であったものが、4かげつもすると「山出やまだしのむすめこいは、名門めいもん婦人ふじん[ちゅう 20]こいより、ほんのすこしましなだけです。片方かたがた無知むち純朴じゅんぼくさにも、もう片方かたがた嬌態きょうたいおなじくらい、きさせられます」と、倦怠けんたい支配しはいされている。そして、自分じぶん退屈たいくつからすくしてくれるものは、いまやとお異国いこくへのたびしかあるまい、と告白こくはくむすぶ。『公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』の最後さいごでも、ペチョーリンは、自分じぶんりくにいると退屈たいくつすることを宿命しゅくめいづけられ、むかえのふねっている船乗ふなのりのようなものだ、といてふでいている。ベラの臨終りんじゅうの3日間にちかんは、ペチョーリンはずっとっていたが、M.M.はいみじくも「ベラはてられるまえんでかったですよ」と「わたし」にかたっている。

これとならんで、周囲しゅうい人間にんげんへのエゴイスティックでつめたい態度たいども、ペチョーリンの主要しゅよう特徴とくちょうである。これも「民衆みんしゅうらないために現実げんじつから遊離ゆうりし、活動かつどう地盤じばんたない根無ねなぐさのような存在そんざい[10]という余計よけいしゃ特徴とくちょうかさなる。『マクシム・マクシームィチ』での M.M.への態度たいど、そして『公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』でのグルシニツキーへの態度たいどはしてきあらわれているが、『ベラ』で M.M.に退屈たいくつ倦怠けんたい告白こくはくする場面ばめんでも、「自分じぶんだれかの不幸ふこう原因げんいんになっているときには、自分じぶんもそれにおとらず不幸ふこうなのです」という自己じこ正当せいとう論理ろんりられ、冷酷れいこく冷笑れいしょうてきなエゴイストという描写びょうしゃは、ぜんへん随所ずいしょりばめられている。

ペチョーリンの女性じょせいへの態度たいどさら破滅はめつてきである。『公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』では『ベラ』のはるじょうき、最初さいしょから「誘惑ゆうわくするければ結婚けっこんするい」(『公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』6がつ3にち)メリーに、グルシニツキーやヴェーラとの力学りきがく、そして彼女かのじょ自分じぶんになびくという確信かくしん(5がつ23にち)だけで接近せっきんし、かかわった人間にんげんはみな不幸ふこうになる。この悲劇ひげきかえしには伏線ふくせん存在そんざいする。ペチョーリンがあかぼうころ母親ははおやうらないの老婆ろうばに「この悪妻あくさい原因げんいんぬ」と予言よげんされており(6がつ14にち)、それゆえ「おんなのほかにはこの何一なにひとあいしたものがく、おんなのためならなにもかも犠牲ぎせいにする覚悟かくごでいる」(6がつ11にち)にもかかわらず、「結婚けっこんすこしでも意識いしきすると、えるようなこいもたちまちめてしまう」(6がつ14にち)。

なお、ベラを拉致らちしたばかりのペチョーリンが、M.M.に「かれらの習慣しゅうかんによれば、わたし彼女かのじょ亭主ていしゅなのですよ」とこたえる場面ばめんを、「善悪ぜんあく区別くべつ麻痺まひした傲岸ごうがん不遜ふそんなエゴイズム」と解釈かいしゃくすることは、半分はんぶんたっている。イスラーム遊牧民ゆうぼくみん山地さんちみんには、カーリム(イスラームしき結納ゆいのう[ちゅう 21]マフル)の相場そうばたかすぎるときには誘拐ゆうかい結婚けっこん風習ふうしゅうられたが、「こうした誘拐ゆうかい当然とうぜんに、関係かんけいする集団しゅうだんによる復讐ふくしゅう発展はってんしたり、それに応酬おうしゅうする血塗ちまみれの騒動そうどうをともなったので、いくら遊牧民ゆうぼくみんのあいだとはいえ、らずの集団しゅうだんのあいだで、それほど頻繁ひんぱん誘拐ゆうかい結婚けっこんおこなわれたとはかんがえにくい。実際じっさいには、カーリムをはらえないひとびとがあらかじめ合意ごういうえおこなったのであろう。それは、彼女かのじょ両親りょうしんまえもってあつめた親族しんぞく一同いちどう面前めんぜん騎馬きば若者わかもの女性じょせいをさらう儀礼ぎれいから由来ゆらいするのであろう」[11]勿論もちろん、ペチョーリンが「かれらの習慣しゅうかん」(原文げんぶん по-ихнему)をそこまでふかまなんでいた形跡けいせきい。

ペチョーリンをした作家さっか時代じだい

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ペチョーリンの人物じんぶつぞうは、作者さくしゃミハイル・レールモントフ自身じしんくらちによる個人こじんてき資質ししつ、そしてニコライ1せい時代じだいという執筆しっぴつ当時とうじ時代じだい背景はいけい不可分ふかぶんとされる。

名門めいもん自負じふする母方ははかた祖母そぼは、むすめ結婚けっこん最初さいしょから反対はんたいだったため、ミハイルがおさなときから両親りょうしん不和ふわであった。そしてミハイルがまん3さいにもたぬときはは死去しきょすると、母方ははかた祖母そぼ実父じっぷとの不和ふわなが確執かくしつはじまった。詩人しじん裕福ゆうふく母方ははかた祖母そぼのもとで溺愛できあいされてそだち、最高さいこう教育きょういくけたが、えず孤独こどくかげとしていた。

そして詩人しじんは、1830ねんから31ねんにかけて、モスクワのげき作家さっかイワーノフロシアばんむすめナターリヤ・フョードロヴナ・イワーノワロシアばん裏切うらぎりにい、ひどい痛手いたでっている。(実名じつめい時期じきは、文芸ぶんげい評論ひょうろんアンドロニコフ英語えいごばんロシアばん(1908ねん‐1990ねん)の入念にゅうねん調査ちょうさによってめられた。)この時期じきにレールモントフは、こい心変こころがわりをテーマとする一連いちれんき、31ねんには戯曲ぎきょくわりものСтранный человекで、「ナターリヤ・フョードロヴナ」というむすめ親友しんゆううばわれ、彼女かのじょ結婚式けっこんしき悶死もんしする青年せいねんアルベーニンをえがいている。そして裏切うらぎりによるしんきず終生しゅうせいえることがく、実生活じっせいかつでのレールモントフも、ペチョーリンのように、女性じょせいなく口説くどいては征服せいふくきる、というパターンをかえしていた[12]

ニコライ1せい在位ざいい1825ねん‐1855ねん)のきびしい反動はんどう政治せいじという時代じだい背景はいけい無視むしできない要因よういんである。デカブリストのらん首謀しゅぼうしゃ極刑きょっけいしょせられ、プーシキン仕組しくまれた決闘けっとうころされ、レールモントフ自身じしんカフカース追放ついほうされた[ちゅう 22]。エゴイズムとニヒリズムの権化ごんげのような主人公しゅじんこうは、知識ちしきじん自由じゆうものえず、なにをなすべきかという方向ほうこうせいまった見出みだせず、希望きぼうちた行動こうどうなにこせない、という時代じだいした必然ひつぜん[3]でもあった。

ペチョーリンへの評価ひょうか

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主人公しゅじんこうペチョーリンへの評価ひょうかは、刊行かんこう当初とうしょからぷたつにれた。批評ひひょうベリンスキー代表だいひょうされる擁護ようごは、『現代げんだい英雄えいゆう』を偽善ぎぜんてき既成きせい道徳どうとくへの挑戦ちょうせんなし、その批判ひはん精神せいしん具現ぐげんしゃとしてペチョーリンを絶賛ぜっさんしたが、保守ほしゅ論評ろんぴょう(ニコライ1せいもこちらにぞくする)は、ペチョーリンの不道徳ふどうとくせいつよ非難ひなんした[13]


カフカース地方ちほう描写びょうしゃ

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現代げんだい英雄えいゆう』におけるカフカース地方ちほう地理ちり自然しぜん描写びょうしゃ秀逸しゅういつである。

グルジアぐんどう(あか太線ふとせん) トビリシは19世紀せいきは「チフリス」。
コビ付近ふきん峡谷きょうこくより十字架じゅうじかとうげ(クレストヴァヤさん)をのぞ
(レールモントフ、1837ねん)
アラグワロシアばん英語えいごばん河畔かはん廃墟はいきょ(レールモントフ)

『ベラ』- グルジアぐんどう

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『ベラ』では、「わたし」とマクシム・マクシームィチの山越やまごえの場面ばめんと、M.M.のベラにかんする昔語むかしがたりとが交互こうご登場とうじょうするが、時々ときどきはさまれる「いま」の描写びょうしゃは、ときとしてベラの物語ものがたりすら圧倒あっとうする。ふか峡谷きょうこくてん銀嶺ぎんれいよるあさ天界てんかい地上ちじょうかい変化へんかなどの荘厳そうごん描写びょうしゃは、同時どうじに、視覚しかく聴覚ちょうかく皮膚ひふ感覚かんかく平衡へいこう感覚かんかくなどを総動員そうどういんした正確せいかく無比むひ描写びょうしゃでもあり、読者どくしゃは、あたかも自分じぶんがその居合いあわせてやま冷気れいきびているような体感たいかん再現さいげんさせられる。

物語ものがたりは「わたし」が「チフリス(げんトビリシ)から」えき馬車ばしゃいでのたびじょう、とはじまるので、つづ登場とうじょうする地名ちめいから、グルジアぐんどう(チフリス - ウラジカフカースむすぶ)を北上ほくじょうするたびかる。

作品さくひんちゅう登場とうじょうする(みなみからじゅんに)十字架じゅうじかとうげ(=クレストーヴィとうげ作中さくちゅうでは「クレストーヴァヤさん」、標高ひょうこう2,379m)・コビ標高ひょうこう1,970m)は、ひだり地図ちずグダウリロシアばん英語えいごばん(グダウル、標高ひょうこう2,196m)とカズベギロシアばん英語えいごばん[ちゅう 23]標高ひょうこう1,750m)とのあいだ位置いちする。また作品さくひんちゅうのコイシャウールとは、ひだり地図ちずじょうパサナウリロシアばん英語えいごばん(パサナウル、標高ひょうこう1,050m)のことである。十字架じゅうじかとうげは、グルジアぐんどうもっと標高ひょうこうたか地点ちてんで、このとうげえは最大さいだい難所なんしょである[14]

ロシアは、1801ねんひがしグルジア併合へいごう直後ちょくごにこのぐんどう建設けんせつはじめ、1814ねんには一応いちおう完成かんせいたが、カズベクさんいただき標高ひょうこう5,047m)の氷河ひょうが起因きいんする雪崩なだれ山崩やまくずれが頻発ひんぱつし、とくに1832ねん山崩やまくずれは、テレク渓谷けいこくふかさ100m、ながさ3kmにもわたってくすほどであった。道路どうろ完全かんぜん整備せいびは19世紀せいき後半こうはんのことである[15]

公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』- ピャチゴールスクとカフカース鉱泉こうせん

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ピャチゴールスク(「5つのやま」)の語源ごげんとなったやまベシュ・タウロシアばん英語えいごばん
(レールモントフ、1837ねん)
ピャチゴールスク
(レールモントフ、1837ねん)

公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』のピャチゴールスク描写びょうしゃ丁寧ていねいである。みどりなす山々やまやまがすぐちかくにせまった市街地しがいち起伏きふくんだ地形ちけい洞窟どうくつ石灰岩せっかいがんしつがけ鉱泉こうせん井戸いど葡萄ぶどう菩提樹ぼだいじゅ並木道なみきみちなど、カフカ―ス連峰れんぽう北側きたがわ鉱泉こうせん特有とくゆう地相ちそう正確せいかくに、かつ初夏しょか空気くうきつたわってるかのようにさわやかにかれ、200ねん今日きょうでもそのままピャチゴールスクの案内あんない使つかえそうな筆致ひっちである。

物語ものがたり後半こうはんキスロヴォーツクも、ピャチゴールスクからわずか33kmのカフカース鉱泉こうせんまちで、名物めいぶつ「ナルザンすい」にも言及げんきゅうされているが、最後さいご決闘けっとう場面ばめんひとらない峡谷きょうこくがけうえおこなわれる)にクライマックスをくという構造こうぞうじょうまち地理ちりてき描写びょうしゃはかなり淡泊たんぱくである。

物語ものがたり冒頭ぼうとうで、ペチョーリンはピャチゴールスクのマシュークさんロシアばん英語えいごばんみなみふもと部屋へやりているが、実生活じっせいかつのレールモントフも『公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』発表はっぴょう翌年よくねん、1841ねん7がつに、マシューク山麓さんろく決闘けっとう落命らくめいしている。しかも相手あいてぐんともという状況じょうきょうも、『メリー』の設定せっていそのままである。この作品さくひんは、ピャチゴールスクの入念にゅうねん描写びょうしゃともに、結果けっかとして、詩人しじん最期さいご予言よげんする作品さくひんとなった。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 中村なかむらとおるやく現代げんだい英雄えいゆう』(岩波いわなみ文庫ぶんこ、1981ねん4がつ)
  • このほかの『現代げんだい英雄えいゆう日本語にほんごやくについてはミハイル・レールモントフ#日本語にほんごやく参照さんしょう
  • 金子かねこ幸彦さちひこ『ロシヤ文学ぶんがく案内あんない』(岩波いわなみ文庫ぶんこ別冊べっさつ2、1961ねん10がつ)
  • 明治めいじ書院しょいん『ロシア文学ぶんがく』(木村きむら彰一しょういち北垣きたがき信行のぶゆき池田いけだ健太郎けんたろうへん、1972ねん4がつ)
  • 山内やまうち昌之まさゆき『ラディカル・ヒストリー ロシアとイスラムのフロンティア』(中公新書ちゅうこうしんしょ、1991ねん1がつ)
  • 山川やまかわ 詳説しょうせつ世界せかい図録ずろく(だい2はん)』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2017ねん1がつ)

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』の最後さいごで、ペチョーリンはN要塞ようさい転属てんぞくになり、そこでマクシム・マクシームィチと出会であうことになっている。
  2. ^ ペチョーリンの階級かいきゅう呼称こしょう)は、『現代げんだい英雄えいゆう全般ぜんぱんでは「将校しょうこう(офицер)」だが、『ベラ』では「少尉しょうい殿どの(прапорщик)」ともばれている。
  3. ^ 中村なかむらとおるは「カズビーチ」としているが[6]江川えがわたくは「カーズビチ」と力点りきてんっている[7]
  4. ^ ベラはチェルケスじんだが、ロシアの「タタールじん」は、「チュルクけい言語げんごはなすロシア周辺しゅうへん内外ないがい異教徒いきょうとムスリム)」全般ぜんぱんかたりとして使つかわれる。が、チェルケスじんはムスリムだが、北西ほくせいコーカサス語族ごぞく分類ぶんるいされるチェルケスは、チュルク(トルコ)けい言語げんごではない。
  5. ^ 原文げんぶんは в е...й полк。е...й は енский とむ。これは、неизвестный(不明ふめいの)、некий(どこぞの)などの略号りゃくごう(頭文字かしらもじ)である н(n)を ен, эн(エン、en)とみ、それを形容詞けいようししたもの[8]したがって、意味いみは「E連隊れんたいに」ではなく「ぼう連隊れんたいに」となる。
  6. ^ 正式せいしきには「マクシム・マクシーモヴィチ(Максим Максимович)」だが、口語こうごてきな「マクシム・マクシームィチ(Максим Максимыч)」も、はな言葉ことば言葉ことばわずひろ使つかわれる。前者ぜんしゃかたすぎる印象いんしょうあたえることが多々たたあるからである。同様どうようれいとして、チェーホフの『ヨーヌイチ』(Ионыч)←(Домитрий Ионович)、『いぬれたおくさん』(Дама с собачкой)のぶんでの主人公しゅじんこう「ドミートリー・ドミートリチ・グーロフ(Дмитрий Дмитрич Гуров)」←(Дмитрий Дмитриевич Гуров)などがある。
  7. ^ 『ベラ』によると、ペチョーリンはこの5ねんまえにM.M.の要塞ようさいて、1年間ねんかん勤務きんむしたことになっている。
  8. ^ 「2とう大尉たいい」は штабс-капитан。
  9. ^ 原文げんぶんは、現代げんだいのタマーニ住民じゅうみんいかりそうな侮蔑ぶべつてき表現ひょうげんである。
  10. ^ ウクライナじんせい
  11. ^ 鉱泉こうせん飲用いんよう鉱泉こうせんよく両方りょうほう作品さくひんちゅうには登場とうじょうする。
  12. ^ ロシアじんだが、おや趣味しゅみ英国えいこくふうにメリーとばれている。
  13. ^ ピャチゴールスク - キスロヴォーツクあいだ直線ちょくせん距離きょりやく33km。
  14. ^ ドイツふうせいだがロシアじん
  15. ^ この N要塞ようさいとは、『ベラ』の舞台ぶたいとなった要塞ようさいにほかならない。日記にっき形式けいしきの『公爵こうしゃく令嬢れいじょうメリー』の終盤しゅうばんは、リアルタイムの執筆しっぴつ決闘けっとうぜんばんまり、その詳細しょうさい事件じけんの1かげつはんされたことになっているが、要塞ようさいにはマクシム・マクシームィチがいる。
  16. ^ ロシアでは「カザーク казак」。
  17. ^ この作品さくひん最後さいごに「おれ要塞ようさいかえるとすぐ、マクシム・マクシームィチにこのけんかせた」とあるので、『運命うんめいろんしゃ』は、ペチョーリンが『ベラ』の舞台ぶたい要塞ようさいに1年間ねんかん勤務きんむしていたとき出来事できごとであるとかる。ただし、『運命うんめいろんしゃ』の事件じけんが『ベラ』の事件じけんのどの時点じてんにかぶるかは、小説しょうせつ文章ぶんしょうからはせない。
  18. ^ 将校しょうこうたちは「ムスリム迷信めいしん」としているが、もちろん間違まちがいで、このたね運命うんめいろん fatalism(ダフル dahr信仰しんこう)は、イスラーム以前いぜんすなわち「無道むどう時代じだい」(ジャーヒリーヤ jāhilīyah)の古代こだいアラビアで支配しはいてきだった世界せかいかんである[9]
  19. ^ セルビアじん
  20. ^ 令嬢れいじょう」という翻訳ほんやくられるが、原文げんぶんは барыня(奥様おくさま)。
  21. ^ 日本にっぽんでの訳語やくごは、20世紀せいきまつまでは「カーリム」であったが、今日きょう(2021ねん現在げんざい)では「マフル」が主流しゅりゅうである。『ベラ』で、ペチョーリンがアザマートをそそのかす場面ばめん台詞せりふ「カラギョース(カズビッチのうま)が結納ゆいのうだ」では、チュルクからの借用しゃくよう「カルィム(калым)」が使つかわれている。
  22. ^ レールモントフの「流刑りゅうけい」は、軍人ぐんじんであったかれをカフカースに転属てんぞくさせるかたちおこなわれた。つねかれ最前線さいぜんせんくようにとの皇帝こうてい密命みつめいがあったともつたえられている[4]
  23. ^ カズベギ Kazbegiは、2006ねんにステパンツミンダ Stepantsmindaと改称かいしょうした。

出典しゅってん

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  1. ^ 山内やまうち昌之まさゆき『ラディカル・ヒストリー ロシアとイスラムのフロンティア』(中公新書ちゅうこうしんしょ、1991ねん1がつ)、p.117-118。
  2. ^ 明治めいじ書院しょいん『ロシア文学ぶんがく』(木村きむら彰一しょういち北垣きたがき信行のぶゆき池田いけだ健太郎けんたろうへん、1972ねん4がつ)、p.116。
  3. ^ a b 金子かねこ幸彦さちひこ『ロシヤ文学ぶんがく案内あんない』(岩波いわなみ文庫ぶんこ別冊べっさつ2、1961ねん10がつ)、p.106。
  4. ^ a b c d 江川えがわたく「レールモントフと『現代げんだい英雄えいゆう』」‐『NHKラジオ・ロシア講座こうざ』1980ねん4がつごう(日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい)、p.46-47。ラジオ講座こうざ応用おうようへん同年どうねん4がつ‐9月、江川えがわが『ベラ』の講読こうどく担当たんとうした)の解説かいせつ
  5. ^ はら卓也たくや「ロシア文学ぶんがくえがかれた女性じょせいぞう ベーラ ‐不幸ふこうこいいのちとした野生やせい少女しょうじょ‐」‐『NHKラジオ・ロシア講座こうざ』1977ねん5がつごう(日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい)、p.60-63より、p.60。
  6. ^ 岩波いわなみ文庫ぶんこ現代げんだい英雄えいゆう中村なかむらとおるわけ、1981ねん4がつだい1さつ
  7. ^ 日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい『NHKラジオ・ロシア講座こうざ』1980ねん5がつ・6月・8がつ・9がつごう
  8. ^ 日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい『NHKラジオ・ロシア講座こうざ』1980ねん9がつごう、p.68-69(江川えがわたくによる『ベラ』講読こうどくテキスト解説かいせつ)。
  9. ^ 井筒いづつ俊彦としひこ『「コーラン」をむ』(岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ、2013ねん2がつだい1さつ)だいさんこうかみさん」より、p.99-100。
  10. ^ 平凡社へいぼんしゃ『ロシア・ソ連それん事典じてん』(初版しょはんだい5さつ(増補ぞうほばん)、1994ねん4がつ)p.613「余計よけいしゃ」(ぶん工藤くどう精一郎せいいちろう)。
  11. ^ 山内やまうち昌之まさゆき『ラディカル・ヒストリー ロシアとイスラムのフロンティア』(中公新書ちゅうこうしんしょ、1991ねん1がつ)、p.197。
  12. ^ はら卓也たくや「ロシア文学ぶんがくえがかれた女性じょせいぞう ベーラ ‐不幸ふこうこいいのちとした野生やせい少女しょうじょ‐」‐『NHKラジオ・ロシア講座こうざ』1977ねん5がつごう(日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい)、p.60-63。レールモントフの実生活じっせいかつでの女性じょせいたいする態度たいど文学ぶんがく史家しかマーク・スローニム英語えいごばんロシアばん(1894ねん‐1976ねん)の『ロシア文学ぶんがく』に指摘してきあり。
  13. ^ 中村なかむらとおるやく現代げんだい英雄えいゆう』(岩波いわなみ文庫ぶんこ、1981ねん4がつ巻末かんまつ解説かいせつ」(ぶん中村なかむらとおる)より p.287。
  14. ^ 江川えがわたく「カフカースのこと」日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい『NHKラジオ ロシア講座こうざ』1980ねん5がつごう、p.44-45。(標高ひょうこう数字すうじのみ、当時とうじのものではなく最新さいしんのデータを引用いんようした)
  15. ^ 江川えがわたく「カフカースのこと」日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい『NHKラジオ ロシア講座こうざ』1980ねん5がつごう、p.44-45。

関連かんれん項目こうもく

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  • アレクセイ・ペトローヴィチ・エルモーロフロシアばん英語えいごばん - 『ベラ』の導入どうにゅうで、マクシム・マクシームィチが「エルモーロフさまころから」10ねん以上いじょうカフカース勤務きんむだ、とかた場面ばめんがあるが、エルモーロフ将軍しょうぐんがカフカースそう司令しれいかんつとめたのは1816ねん(1815ねんせつもあり) ‐ 1826ねん(1827ねんせつもあり)。1824ねんにエルモーロフのいのちにより十字架じゅうじかとうげ(クレストーヴァヤさん)の頂上ちょうじょうてられた「いし十字架じゅうじか」が、山越やまごえの場面ばめんでも登場とうじょうする。