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瑠璃るり明王みょうおう

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瑠璃るり明王みょうおう だかるい
高句麗こうくり
だい2だいおう
王朝おうちょう 高句麗こうくり
在位ざいい期間きかん 紀元前きげんぜん19ねん - 紀元きげん18ねん
都城みやこのじょう ますこつじょう国内こくないじょう
せいいみな こうるい
諡号しごう 瑠璃るり明王みょうおう
生年せいねん 紀元前きげんぜん38ねん
没年ぼつねん 紀元きげん18ねん10月
ちち 東明とうめい聖王せいおう
はは あや夫人ふじん
おうきさきおうはい まつ
禾姫
雉姫
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瑠璃るり明王みょうおう(るりめいおう、ユリミョンワン、韓国かんこく: 유리명왕, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Yuri-myeongwang)は、高句麗こうくりだい2だいおう在位ざいいぜん19ねん - こう18ねん)であり、せいこういみなるい(るいり、ユリ)、またはかい儒留。初代しょだい東明とうめい聖王せいおう朱蒙チュモン)の長子ちょうしであり、『さん国史こくし百済くだら本紀ほんぎによれば、異母弟いぼていにえりゅう百済くだら始祖しそとなるゆたかとがいる。『さん国史こくし高句麗こうくり本紀ほんぎでは琉璃おう琉璃明王みょうおう[1]、『さんこくのこことおうれきでは瑠璃るりおう広開土王こうかいどおうぶんでは儒留おう、『しょ高句麗こうくりでんでは閭達(ろたつ、リョダル)と表記ひょうきされる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

即位そくいまで[編集へんしゅう]

ちち朱蒙チュモンがまだ扶余にいるころあやとのあいだにできたである。朱蒙チュモンが扶余からそつほん朝鮮ちょうせんばん亡命ぼうめいしていたため、扶余にいるるい自分じぶんちちらなかった。幼少ようしょうころ路上ろじょうすずめってあそんでいるときに、あやまってみずみにきた婦人ふじん水甕みずがめってしまった。婦人ふじんののしって「このちちがいないので、こんなにもかたくななのだろう」といったため、るいっていえかえり、ははに「わたしちちだれで、いまどこにいるのですか」とたずねた。ははは「おまえちち普通ふつうひとではありません。このくにれられず、みなみのがれてくにひらき、おうとなりました。のがれるさいわたしに、『おまえがもしもおとこんだら、わたし朱蒙チュモン)があるものをなな角形かくがたいしうえまつしたにしまってあるので、それをつけせればそのこそがわがである、といなさい』とわれました」とこたえた。そこでるいはあちこちをさがしたが、ある朝家ちょうかにいるとはしら礎石そせきあいだおとがするのをき、それをたよりにてみると礎石そせきなな角形かくがたであったので、はしらしたさがしたところ、けん欠片かけらた。そこでその欠片かけらってさとし鄒・ら3にんとともにそつほんき、ちちである東明とうめい聖王せいおうした。おうっているけん一部いちぶわせたところ、つながっていちけんになったので、おうはこれに満足まんぞくしてるい太子たいしとした。おう死後しごるい王位おういいだ。ちなみに、このはなしの「瑠璃るりおうけん」は、東明とうめい聖王せいおう朱蒙チュモン)の「ラッパと太鼓たいこ」、だい武神ぶしんおう恤)の「かなえ」ととも朝鮮ちょうせん神話しんわ三種さんしゅ神器じんぎになっている。

治世ちせい[編集へんしゅう]

ぜん9ねんには扶芬やつさくもちいて鮮卑ち、属国ぞっこくとした[2]ぜん6ねん、扶余のおびもとおう国交こっこうひら人質ひとじち交換こうかんすることをもとめてきたので、太子たいしであった次男じなんきり朝鮮ちょうせんばん人質ひとじちそうとしたが、きりおそれてかなかった。これにおこったおびもとが5まんへいひきいて侵入しんにゅうしてきたが、大雪おおゆきために扶余へいげたという。こののちも扶余とは対立たいりつし、こう13ねんにも扶余にめられることとなった。このときに三男さんなん恤(だい武神ぶしんおう)が扶余を撃退げきたいしたため、こう14ねん1がつ恤を太子たいしてて軍事ぐんじ国政こくせい委任いにんした。同年どうねん8がつがらすはなれめいじてはり貊国を討滅させ、さらにへいすすめてかんげんうさぎぐん高句麗こうくりけん奪取だっしゅした。

このあいだこう3ねん10月には女山おんなやまから国内こくないじょう現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく吉林きつりんしょうあつまりやす)にうつしてじょう巌城いわき築城ちくじょうしたという。これには、ひがしめいさい[3]使つかぶたがいなくなって国家こっか総出そうででそのぶたさがし、じょういわお家臣かしんつけたこと、その家臣かしんじょういわお素晴すばらしさと遷都せんとすすめたため、実際じっさい瑠璃るり明王みょうおう視察しさつして、遷都せんと決定けっていしたという説話せつわされている。

18ねん7がつまめだに行幸ぎょうこうし、10月にその離宮りきゅう(10ねん7がつ造営ぞうえい)で死去しきょした。まめだに東原ひがしはら埋葬まいそうされ、瑠璃るり明王みょうおうおくりなされた。

中国ちゅうごく史書ししょ記述きじゅつ[編集へんしゅう]

漢書かんしょまき99・おう莽伝には高句麗こうくりこう中国語ちゅうごくごばん(すう)という人物じんぶつ登場とうじょうする。

はじめ建国けんこく4ねんこう12ねん)、しんおう匈奴きょうど征伐せいばつのため高句麗こうくり援軍えんぐん要請ようせいした。はこれをこばつづけたが、おう莽は脅迫きょうはくして高句麗こうくり援軍えんぐんさせた。いざ決戦けっせんとなったとき高句麗こうくりへい逃亡とうぼうほうおかした。おう莽は高句麗こうくりへいつみ責任せきにんだとして追及ついきゅうし、処刑しょけいされ、高句麗こうくりしたうらら改名かいめいさせられた。高句麗こうくりこう瑠璃るり明王みょうおう関係かんけい不明ふめいである。年代ねんだいてきには瑠璃るり明王みょうおう相当そうとうするが、からはむしろ始祖しそ東明とうめい聖王せいおう別名べつめいの鄒牟)につうじるものともかんがえられている。

黄鳥こうちょう[編集へんしゅう]

瑠璃るり明王みょうおうの3ねんぜん17ねん)、王妃おうひまつくなり、あらたに鶻川じん禾姫漢人かんど雉姫をそれぞれ後妻ごさいむかえた[4]二人ふたりちょうあらそ仲良なかよくしなかったため、おう二人ふたり別々べつべつまわせた。あるときおう箕山みのやまりょうにいったときにんあらそい、禾姫が雉姫をののしって「おまえ漢人かんどの婢なのに、なんと無礼ぶれいなことでしょう」とったので、雉姫はうらんで実家じっかかえってしまった。おうはこれをいてうまはしらせて雉姫をったが、雉姫はおこってかえらなかった。あるときおう黄鳥こうちょうコウライウグイス)のつどぶのをて、雉姫をしの

翩翩黄鳥こうちょうらくしげに黄色おうしょくとりは)

雌雄しゆうしょう (つがいとなって相寄あいよう)

ねんどく自分じぶんかえりみればわたしひとりである)

だれ其與だれとともにかえればよいのだろう)

といううたんでなげいた。これを黄鳥こうちょうといい、かめむねうみ歌詞かしとともに古代こだい朝鮮ちょうせんのもっともふる詩歌しかのひとつとしてられる[5]

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 井上いのうえ秀雄ひでお東洋文庫とうようぶんこの『さん国史こくし』の注釈ちゅうしゃくで、原本げんぽん高句麗こうくり本紀ほんぎだいいち表題ひょうだいでは琉璃おうどうまき末尾まつびでは琉璃明王みょうおう文中ぶんちゅうでは瑠璃るり明王みょうおうとあるとしるしているが、中国ちゅうごくばんウィキソースでは文中ぶんちゅうでも「琉璃明王みょうおう」となっている。
  2. ^ さん国史こくし高句麗こうくり本紀ほんぎ瑠璃るり明王みょうおう11ねんじょうるが、かならずしも歴史れきしてき事象じしょうとはえない。
  3. ^ 高句麗こうくりつたわるあき10がつまつりたかしのことであり、農耕のうこう主体しゅたいとしていた高句麗こうくりぞく収穫しゅうかくさいすとみられている。
  4. ^ 치희(雉姬)韓国かんこく民族みんぞく文化ぶんかだい百科ひゃっか事典じてんhttp://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E00584152022ねん7がつ8にち閲覧えつらん 
  5. ^ 치희 雉姬斗山とさん世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんhttps://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=1010130009010442022ねん7がつ8にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 金富かなとみ軾撰 しる井上いのうえ秀雄ひでお へんさん国史こくしだい2かん平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ425〉、1983ねんISBN 4-582-80425-X