たまき歌子うたこ

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たまき うたこ
たまき 歌子うたこ
環 歌子
りょ』(1925ねん
本名ほんみょう 河野こうの ツネ
旧姓きゅうせい青木あおき[1]
べつ名義めいぎ 玉木たまき 悦子えつこ
生年月日せいねんがっぴ (1901-10-28) 1901ねん10月28にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1983-09-05) 1983ねん9月5にち(81さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 北海道庁ほっかいどうちょう函館はこだて
げん北海道ほっかいどう函館はこだて[1]
身長しんちょう 5しゃく2すんやく157.6cm)[2]
職業しょくぎょう 女優じょゆう
ジャンル 映画えいが舞台ぶたい
活動かつどう期間きかん 1921ねん - 1924ねん
1926ねん - 1929ねん
1930ねん - 1932ねん
1935ねん - 1956ねん
おも作品さくひん
りょ
テンプレートを表示ひょうじ

たまき 歌子うたこ(たまき うたこ、1901ねん10月28にち[1] - 1983ねん9月5にち)は、日本にっぽん映画えいが女優じょゆうである。日本にっぽん映画えいが最初さいしょサイレント映画えいが時代じだいにデビューし、若手わかて時代じだい剣戟けんげき映画えいがスター・ばんひがしつま三郎さぶろうおお共演きょうえんした[1]一時いちじ玉木たまき 悦子えつこ(たまき えつこ)を名乗なのった[3]本名ほんみょう青木あおき ツネ(あおき つね、旧姓きゅうせい[1]

身長しんちょう5しゃく2すんやく157.6センチ)、体重たいじゅう12かんやく45キロ)[2]当時とうじ成人せいじん女性じょせいとしては長身ちょうしんであった。

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

1901ねん明治めいじ34ねん10月28にち北海道庁ほっかいどうちょう函館はこだて現在げんざい北海道ほっかいどう函館はこだて[1])にまれる。1918ねん大正たいしょう7ねん)、北海道庁ほっかいどうちょうりつ函館はこだて高等こうとう女学校じょがっこう現在げんざい北海道ほっかいどう函館はこだて西高にしこうとう学校がっこう)を卒業そつぎょう[1]して上京じょうきょう、「浅草あさくさオペラ」のアサヒ歌劇かげきだん入団にゅうだん浅草あさくさ公園こうえんろくの「駒形こまがた劇場げきじょう」で初舞台はつぶたいんだ[3]

1921ねん大正たいしょう10ねん[1]7がつ国際こくさいかつうつ新派しんぱ田村たむら宇一郎ういちろう監督かんとく作品さくひん[どれ?]のロケーションにエキストラ出演しゅつえんしたところ、田村たむらみとめられ、同社どうしゃ巣鴨すがも撮影さつえいしょ入社にゅうしゃした。ここから「たまき歌子うたこ」を名乗なのる。同年どうねん9月17にち公開こうかいの『秩父ちちぶあらし』で二枚目にまいめ俳優はいゆう葛木かつらぎいち相手あいてやくをつとめ、スクリーンデビューをたす[1]。このように、はじめは現代げんだいげき女優じょゆうであった。

1923ねん大正たいしょう12ねん)4がつ京都きょうと設立せつりつされた牧野まきの省三しょうぞうの「マキノ映画えいが製作所せいさくしょ」にかれる。同年どうねん牧野ぼくやみずからの監督かんとくさく加賀かが若殿わかとの』ではじめて時代じだいげき出演しゅつえん従来じゅうらいマキノでは、おんなやく女形おんながた花柳はなやぎ紫紅しこうがつとめており、同社どうしゃはつ時代じだいげき女優じょゆうとなった。このときの仲間なかま大部屋おおべや時代じだいばんひがしつま三郎さぶろうがいた。このため、後年こうねんまでばんひがしを「つまちゃん[3]」とべる数少かずすくない人物じんぶつとなった。ばんひがしつまさんろうだいいちかい主演しゅえん作品さくひん鮮血せんけつ手形てがた前後ぜんこうへんでも大役たいやくをこなす。ほんさくばんひがししたのは、脚本きゃくほん寿ことぶき喜多きたりょ九平くへいのみならず、たまき推薦すいせんおおきかった。ばんひがしほんさく一躍いちやくスターとなる。やがてたまきは『雲母うんもざか』などでばんひがし次々つぎつぎコンビをみ、マキノのトップ女優じょゆうあつかいとなる[3]。またこのころびと俳優はいゆうすぎきょうがいた。

1924ねん大正たいしょう13ねん)、映画えいが女優じょゆう人気にんき投票とうひょう[どれ?]において、6まん2,674ひょうで1獲得かくとくしている。同年どうねん6がつのマキノと東亜とうあキネマ合併がっぺいで、現代げんだいげき東亜とうあキネマきのえよう撮影さつえいしょ移籍いせきする。よく1925ねん大正たいしょう14ねん)3がつ東亜とうあ退社たいしゃしたばんひがし同行どうこうばんひがしつま三郎さぶろうプロダクション入社にゅうしゃ寿ことぶき喜多きた脚本きゃくほん二川ふたかわ文太郎ぶんたろう監督かんとくさくりょ』で、ばんひがしえんじる主人公しゅじんこう久利くり富平とみひら三郎さぶろう破滅はめつ原因げんいんとなるおんなえんじる。どうさく撮影さつえい結婚けっこんし、それを退社たいしゃする[3]。このとき24さいであった。

芝居しばいとキネマ』1929ねん1がつごう付録ふろく。27さい洋装ようそうである。

1926ねん大正たいしょう15ねん)9がつマキノ・プロダクション御室おむろ撮影さつえいしょ入社にゅうしゃして最初さいしょ復帰ふっき。このとき「玉木たまき悦子えつこ」に改名かいめいした。吉川よしかわ英治えいじ原作げんさくの『鳴門なるとじょう』(日活にっかつ東亜とうあキネマとの競作きょうさく)では、日活にっかつ酒井さかい米子よねこ東亜とうあはら駒子こまこと「見返みかえりおつなやくきそった[3]

1928ねん昭和しょうわ3ねん)7がつに「たまき歌子うたこ」にもどし、同年どうねん9がつ河合かわいプロダクション移籍いせき時代じだいげき現代げんだいげきおお出演しゅつえんする。よく1929ねん昭和しょうわ4ねん)6がつ河合かわい退社たいしゃ休養きゅうよう期間きかんて、1930ねん昭和しょうわ5ねん)5がつ松竹しょうちく下加茂したかも撮影さつえいしょ入社にゅうしゃ1932ねん昭和しょうわ7ねん)にふたたび引退いんたい[1]

引退いんたいから3ねん1935ねん昭和しょうわ10ねん)8がつ、33さいのころに日活にっかつ京都きょうと撮影さつえいしょ入社にゅうしゃして女優じょゆう復帰ふっきする。1941ねん稲垣いながきひろし監督かんとく作品さくひん江戸えど最後さいご』で、ばんひがしえんじるかつ海舟かいしゅうつまやくとして久々ひさびさ共演きょうえんすることとなり、スタジオにはいるなり、当時とうじだいスターとなっていたばんひがしに「つまちゃん、しばらく」といいはなって、スタッフ一同いちどうおどろかせたという[3]1942ねん昭和しょうわ12ねん)、映画えいが業界ぎょうかい再編さいへんともな大映だいえい移籍いせき[1]

戦後せんごマキノ雅弘まさひろ監督かんとくの『佐平次さへいじ捕物とりものひかえむらさき頭巾ずきん』(1949ねん CAC[1]および小林こばやしかつら三郎さぶろう監督かんとくの『おんな船頭せんどううた』(1956ねん 日活にっかつ)に出演しゅつえんして以降いこう出演しゅつえん作品さくひんえた。テレビドラマの出演しゅつえんはなかった[4]

晩年ばんねん東京とうきょう葛飾かつしか花茶屋はなぢゃやえきほどちかくにんでいた[3]1983ねん昭和しょうわ58ねん9月5にち死去しきょ。81さいぼつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l たまき 歌子うたこ』 - コトバンク
  2. ^ a b 昭和しょうわ4年度ねんど日本にっぽん俳優はいゆう名鑑めいかん映画えいが俳優はいゆう』(『芝居しばいとキネマ』、1929ねん1がつごう新春しんしゅん付録ふろく)の記述きじゅつ参照さんしょう
  3. ^ a b c d e f g h 日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう全集ぜんしゅう女優じょゆうへん』(キネマ旬報きねまじゅんぽう、1980ねん)の「たまき歌子うたこ」のこう記述きじゅつ(pp.436-437)を参照さんしょうどうこう執筆しっぴつもりない政志まさし
  4. ^ テレビドラマデータベース全文ぜんぶん検索けんさく確認かくにん[リンク]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]