田辺 淳 吉
(田邊 淳 吉 から転送 )
1879 | |
1926 | |
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略歴
[- 1879
年 -東京 府 本郷 西片 町 生 まれ。父 の新 七 郎 は元 福山 藩士 で宮 内省 の役人 。兄 の協 一 は日本 画家 として知 られる。 - 1892
年 -高等 師範 学校 附属 小学校 高等 科 (現 ・筑波大学 附属 小学校 )卒業 - 1897
年 -高等 師範 学校 附属 中学校 (現 ・筑波大学 附属 中学校 ・高等 学校 )卒業 - 1900
年 -第一高等学校 卒業 後 、東京 帝国 大学 工科 大学 建築 学科 に入学 、辰野 金吾 に学 ぶ。同期 は佐野 利器 や佐藤 功一 、大熊 喜 邦 、北村 耕造 らで、同期 会 「丼 会 」を結成 している - 1903
年 -東京 帝国 大学 工科 大学 建築 学科 卒業 、北村 耕造 と清水 組 に入社 - 1909
年 -渋沢 栄一 らの訪欧 米 視察 団 に随行 員 として参加 - 1913
年 -清水 組 (現 清水建設 )技師 長 就任 - 1920
年 -清水 組 を退社 - 1921
年 -大学 時代 の恩師 中村 達太郎 (1920年 退官 )と中村 田辺 建築 事務所 開設 - 1923
年 -京都 府立 第 一 高等 女学校 (現 ・京都 府立 鴨 沂高等 学校 )講師 を嘱託 - 1924
年 -同 潤 会 評議 員 [2] - 1926
年 -死去 、享年 48
作品
[大阪瓦斯 会社 1905年 (明治 38年 )大阪 市 。現存 せず。
日本女子大学 成瀬 記念 講堂 1906年 (明治 39年 )東京 都 文京 区 目白台 。大学 の創始 者 成瀬 仁蔵 を記念 して、清水 組 設計 施工 で、豊明 図書館 兼 講堂 として建 てられたもの。竣工 時 は煉瓦 壁 だったが、関東大震災 で崩落 し、木造 に改 められた。内部 の意匠 や柱 ・トラス等 の部材 は明治 のものを残 している。1974年 文京 区 指定 有形 文化財 に指定 された。長 い間 、田辺 作品 と考 えられてきたが、近年 の研究 で北村 耕造 設計 とされており[3]、ステンドグラスが田辺 のデザインである。田辺 作品 のほとんどに見 られるステンドグラスの初期 の例 である。
東海銀行 本店 1909年 (明治 42年 )東京 都 中央 区 。現存 せず。
旧 高岡 共立 銀行 本店 1915年 (大正 4年 )富山 県 高岡 市 守山 町 。高岡 共立 銀行 本店 として田辺 の設計 により清水 組 が施工 。外壁 に赤 レンガ、柱 の基礎 部分 や窓 回 りに花崗岩 、屋根 に緑青 銅板 を使用 した辰野 式 の外観 を有 する。銀行 の統廃合 等 を経 て、2019年 まで富山銀行 が本店 として使用 、「赤 レンガの銀行 」と呼 ばれ市民 に親 しまれた。現在 は高岡 市 が管理 している。
誠之 堂 (せいしどう) 1916年 (大正 5年 )埼玉 県 深谷 市 起会 (移築 )。渋沢 栄一 の喜寿 を記念 し、世田谷 区 瀬田 にあった第 一 銀行 の保養 施設 「清和園 」内 に建 てられた。誠之 堂 という名前 は、中国 の四書 の1つ『中庸 』の一節 「誠 者 天 之 道也 、誠之 者 人 之 道也 」(誠 は天 の道 なり、これを誠 にするは人 の道 なり)に拠 り渋沢 自身 が命名 したものである。煉瓦 造 り平屋 建 ての建物 は、田辺 の代表 作 のひとつで、大正 ロマンの雰囲気 が漂 う。渋沢 から田舎 風 にという要望 を受 けて設計 したとされる。- 1996
年 から翌年 にかけて大 ばらし工法 で解体 し、渋沢 栄一 の生誕 地 ・深谷 市 (大寄 公民館 敷地 内 )に移築 復原 された(解体 と復元 工事 はかつて田辺 淳 吉 が所属 した清水建設 )。2003年 に国 の重要 文化財 に指定 された。使 われている煉瓦 は当時 の記録 から、深谷 で生産 された可能 性 が高 い。なお、大寄 公民館 には、同 じく清和園 から移築 された清風 亭 がある。渋沢 栄一 を補佐 した当時 の第 一 銀行 頭取 ・佐々木 勇 之 助 の古稀 を記念 した建物 で、設計 は西村 好 時 である。
旧 渋沢 家 飛鳥山 邸 「晩 香 廬 」 1917年 (大正 6年 )[4]東京 都 北 区 西ヶ原 飛鳥山 公園 内 にある。2005年 (平成 17年 )国 の重要 文化財 に指定 された。木造 瓦葺 き平屋 建 。渋沢 栄一 の喜寿 祝 いで合資 会社 清水 組 清水 満之 助 が贈 った洋風 の小 亭 である。和洋折衷 の建物 で、田辺 のデザインの資質 を今 に伝 える。小 さな建物 で、さまざまなデザイン・装飾 のほか内部 の家具 も田辺 のデザインで細 かい配慮 が行 き届 いている。大正 期 の名 建築 として評価 が高 い。
第 一 銀行 京都 支店 増築 1919年 (大正 8年 )京都 市 中京 区 烏丸 三条 交差点 南西 角 。元 は三条 通 り側 が正面 で、辰野 葛西 建築 事務所 設計 、清水 組 施工 により1906年 (明治 39年 )竣工 。烏丸 通 り側 を正面 とする増築 部分 を清水 組 が設計 施工 (田辺 が担当 )。構造 はレンガ造 二 階 建 [5]。1999年 に取 り壊 され、2003年 、同 じ外観 のRC造 で再現 された(みずほ銀行 京都 中央 支店 )。
日本 倶楽部 1921年 (大正 10年 )東京 都 千代田 区 。現存 せず。
東京 會 舘 1922年 (大正 11年 )東京 都 千代田 区 。現存 せず。
旧 第 一 銀行 小樽 支店 (三菱銀行 小樽 支店 ) 1924年 (大正 13年 )所在地 は北海道 小樽 市 色内 。中村 田辺 建築 事務所 時代 の設計 で、構造 は鉄筋 コンクリート造 4階 地下 1階 建 て。
旧 渋沢 家 飛鳥山 邸 「青 淵 文庫 」 1925年 (大正 14年 )[4]- 「
晩 香 廬 」と同 じく飛鳥山 公園 内 にある。中村 田辺 建築 事務所 の作品 。鉄筋 コンクリート・煉瓦 造 、2階 建 て。国 の重要 文化財 )[4]。渋沢 栄一 の傘寿 (80歳 )と子爵 の祝 いに建 てられた)[4]。2階 書庫 に栄 一 の収集 した論語 関係 の書籍 が収蔵 されている。建設 途中 で関東大震災 に遭 い完成 が遅 れたという。
その
参考 文献
[建築 家 武田 五 一 ・田邊 淳 吉 の親 たち、園 尾 裕 、福山 誠之 館 同窓会 編 刊 武田 五 一 ・田辺 淳 吉 ・藤井 厚 二 日 本 を意匠 した近代 建築 家 たち、ふくやま美術館 編 - 「
新 指定 の文化財 」『月刊 文化財 』478号 、第 一 法規 、2003(誠之 堂 の説明 あり) - 「
新 指定 の文化財 」『月刊 文化財 』507号 、第 一 法規 、2005(晩 香 廬 、青 淵 文庫 の説明 あり)