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習珍

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

めずらし(しゅう ちん、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだいしょくかん武将ぶしょう荊州じょうぐんひと

生涯しょうがい

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りゅう配下はいかれいりょう北部ほくぶじょう・裨将ぐんつとめていた。たてやすし24ねん12月(220ねん年始ねんし[1]りゅう備配せきはね樊城のたたかすえまごけん殺害さつがいされると、荊州のしょけんはこれに呼応こおうし、まごけんくみした。習珍だけは降伏ごうぶくこばもうとしたが、おとうとの習宏から「まもりは堅固けんごにあらず、兵士へいし精強せいきょうにあらず、成功せいこうむずかしいでしょう。しばらくはひざくっし、しかのち大功たいこうててかんしつむくいるべきです」と諫められると、これにしたがった。

そのたけりょうぐん従事じゅうじ樊冑むすぶ。樊冑はたけりょう挙兵きょへいしたが、はん攻撃こうげきけてはいした[2]

一方いっぽう、習珍は7けん占拠せんきょして挙兵きょへいし、邵陵太守たいしゅ[3]自称じしょうし、民族みんぞく土地とち駐屯ちゅうとんしてしょくかんくみした。はん濬がまた派遣はけんされるといたるところでこれをくだし、習珍はただすうひゃくにんれてやまのがれた。はん濬はみずか山麓さんろくまでおもむいて降伏ごうぶくびかけたが、習珍は「かんおにとなろうともしんにはならぬ。もうるでないぞ!」とこたえ、これを拒絶きょぜつした。

あらためてはん濬は攻撃こうげきをかけ、習珍は固守こしゅすること1ヶ月かげつあまりにおよんだが、兵糧ひょうろうてた。そこで部下ぶかたちに「かん厚恩こうおんけたからにはをもってむくいないわけにはいかない。諸君しょくんなにするものぞ?(しかし諸君しょくんはそこまでする必要ひつようはあるだろうか?)」とげると、けんって自害じがいした。りゅう備は習珍のはいるとはっし、習珍に邵陵太守たいしゅかん追贈ついぞうした[4]

自身じしん攻撃こうげきけてはいしたが、おとうとの習宏、習温つかえた。

正史せいし三国志さんごくし』、およ小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』には登場とうじょうしない。

出典しゅってん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ちん寿ひさしえらべ裴松ちゅう三国志さんごくししょ くれぬしでん
  2. ^ 三国志さんごくししょ はん濬伝ちゅうこうひょうでん』も参照さんしょう。そこでは樊冑の樊伷とする。
  3. ^ 実際じっさいにこのぐん設置せっちされたのは後年こうねんとなるくれたからかなえ元年がんねん266ねん)。『三国志さんごくししょ まごあきらつてより。
  4. ^ 習珍の没年ぼつねん不明ふめいだが、りゅう備が死去しきょしたあきら3ねん223ねん)4がつ以前いぜんとなる。