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茨木いばらぎ杉風さんぷう

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茨木いばらぎ 杉風さんぷう(いばらぎ さんぷう、明治めいじ31ねん1898ねん2がつ8にち - 昭和しょうわ51ねん1976ねん8がつ12にち)は、近藤こんどう浩一路こういちろ師事しじした水墨すいぼくいえ日本にっぽん美術びじゅついんいんともし『新興しんこう美術びじゅついん』を創設そうせつした。

略歴りゃくれき

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茨木いばらぎ杉風さんぷうは、明治めいじ31ねん(1898ねん)2がつ8にち滋賀しがけん蒲生がもうぐん八幡やはたまちげん滋賀しがけん近江八幡おうみはちまん)の商家しょうかまれた。嫡男ちゃくなんとして家業かぎょうである海産物かいさんぶつしょうぐところ、幼少ようしょうよりきで大林おおばやしせんまん入門にゅうもんのち大林おおばやしより近藤こんどう浩一路こういちろ紹介しょうかいされ、大正たいしょう9ねん1920ねん同人どうじん師事しじした。近藤こんどう師事しじするととも太平洋たいへいよう洋画ようがかい研究所けんきゅうじょにもはいり、洋学ようがく勉強べんきょうをした[1]同年どうねん院展いんてんに『八木やぎたかし』を出展しゅってんはつ入選にゅうせん昭和しょうわ5ねん日本にっぽん美術びじゅついんいんともとなり、翌年よくねん2がつである近藤こんどうともわたりおう毛筆もうひつでスケッチをしてまわったとつたえられる[1]

昭和しょうわ12ねん1937ねん院展いんてん文展ぶんてん参加さんかしたことに反発はんぱつし、いんとも10にんともあたらしい公募こうぼ団体だんたい新興しんこう美術びじゅついん』を創設そうせつした。昭和しょうわ51ねん(1978ねん)に死去しきょするまで新興しんこう美術びじゅついん役員やくいんとして活動かつどうし、昭和しょうわ33ねん1958ねん日本学士院にほんがくしいんのアカデミアしょう受賞じゅしょうした[1]杉風さんぷう故郷こきょう近江おうみ琵琶湖びわこ風物ふうぶつあい画題がだいによくもちいた[1]昭和しょうわ18ねん1943ねん新興しんこう美術びじゅつ院展いんてん出展しゅってんさく近江おうみ八景はっけい』(ろくきょくよんそう屏風びょうぶ)は代表だいひょうさくひとつ。中央ちゅうおう画壇がだんでの栄達えいたつもとめず故郷こきょういた画家がかであった。

関連かんれん事項じこう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d 近江おうみじんたち」 P144「茨木いばらぎ杉風さんぷう」のこう石丸いしまるただしうんちょ サンブライト出版しゅっぱん 1980ねん