(Translated by https://www.hiragana.jp/)
荒木俊馬 - Wikipedia コンテンツにスキップ

荒木あらきしゅん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
あらき としま
荒木あらき しゅん
生誕せいたん 荒木あらき しゅんあらき としま
(1897-03-20) 1897ねん3がつ20日はつか
日本の旗 日本にっぽん 熊本くまもとけん
死没しぼつ (1978-07-10) 1978ねん7がつ10日とおか(81さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 京都きょうと京都きょうと
居住きょじゅう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
研究けんきゅう分野ぶんや
研究けんきゅう機関きかん
出身しゅっしんこう 京都大学きょうとだいがく
博士はかせ課程かてい
指導しどう教員きょういん
新城しんじょう新蔵しんくら
指導しどう教員きょういん アルベルト・アインシュタイン
おも指導しどう学生がくせい
おも受賞じゅしょうれき ポーランド最高さいこう功労こうろうじゅう勲章くんしょう
プロジェクト:人物じんぶつでん
テンプレートを表示ひょうじ

荒木あらき しゅん(あらき としま、1897ねん明治めいじ30ねん3がつ20日はつか - 1978ねん昭和しょうわ53ねん7がつ10日とおか)は、日本にっぽん天文学てんもんがくしゃ物理ぶつり学者がくしゃせんもん天体てんたい物理ぶつりがく理論りろん物理ぶつりがく宇宙うちゅうろん学位がくいは、理学りがく博士はかせ京都大学きょうとだいがく1929ねん)。京都大学きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく初代しょだい総長そうちょう

経歴けいれき[編集へんしゅう]

幼少ようしょう学生がくせい時代じだい[編集へんしゅう]

1897ねん荒木あらき竹次郎たけじろう寿ことぶき長男ちょうなんとして熊本くまもとけん鹿本かもとぐん来民くたみまち鹿本かもとまち現在げんざい山鹿やまが)にまれた。1903ねん来民くたみ尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがく。1906ねん熊本くまもと市立しりつせきだい尋常じんじょう小学校しょうがっこう転校てんこうし、よく1907ねん卒業そつぎょうした。1910ねん熊本くまもと県立けんりつ中学ちゅうがく済々黌せいせいこうげん熊本くまもと県立けんりつ済々黌せいせいこう高等こうとう学校がっこう)に入学にゅうがく。1915ねん済々黌せいせいこう卒業そつぎょうし、広島ひろしま高等こうとう師範しはん学校がっこう理科りか一部いちぶ入学にゅうがく。1919ねん同校どうこう卒業そつぎょう

1920ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく理学部りがくぶ物理ぶつり学科がっか進学しんがくした。京都きょうと大学だいがくでは新城しんじょう新蔵しんくら師事しじし、のちに新城しんじょうむすめ結婚けっこんしている。1921ねん宇宙うちゅう物理ぶつり学科がっかてん。1923ねん卒業そつぎょう

就職しゅうしょく以降いこう[編集へんしゅう]

卒業そつぎょうは1923ねんより京都きょうと帝国ていこく大学だいがく理学部りがくぶ講師こうし就任しゅうにん。1924ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく理学部りがくぶ助教授じょきょうじゅ昇進しょうしんし、またこのとし恩師おんしであった新城しんじょう新蔵しんくらむすめ京子きょうこ結婚けっこん京都きょうと大学だいがく助教授じょきょうじゅ時代じだいにドイツへ2ねんはん留学りゅうがくし、アルベルト・アインシュタイン直接ちょくせつおしえをけた。1929ねん学位がくい論文ろんぶんセフェイド変光星へんこうせい大気圏たいきけん圧力あつりょく変化へんかかんする高温こうおん電離でんり理論りろんによる研究けんきゅう』ほか参考さんこう論文ろんぶん4へん提出ていしゅつして理学りがく博士はかせごう取得しゅとく。1941ねんどう大学だいがく理学部りがくぶ教授きょうじゅ昇進しょうしん

戦後せんご[編集へんしゅう]

1945ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく退官たいかん。1947ねん戦時せんじちゅうだい日本にっぽん言論げんろんほう国会こっかい理事りじつとめていたことにより公職こうしょく追放ついほう対象たいしょうしゃとなる。1951ねん追放ついほう解除かいじょとなるが、京都大学きょうとだいがくには復帰ふっきしなかった。1954ねん大谷大学おおたにだいがく教授きょうじゅ就任しゅうにん。1964ねん大谷大学おおたにだいがく退職たいしょく。1965ねん京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく創設そうせつして初代しょだい学長がくちょう就任しゅうにん。1969ねん京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく初代しょだい総長そうちょう就任しゅうにん。1974ねん京都きょうと大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅとなった。学界がっかいでは、日本にっぽん天文てんもん学会がっかい名誉めいよ会員かいいんとなった。

1978ねん昭和しょうわ53ねん)7がつ10日とおか急性きゅうせい心不全しんふぜんのため京都きょうと左京さきょう自宅じたく死去しきょ[1]葬儀そうぎ同年どうねん7がつ22にち相国寺しょうこくじ京都産業大学きょうとさんぎょうだいがくそうとしておこなわれた[2]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

研究けんきゅう内容ないよう業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

著書ちょしょ訳書やくしょ[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 観測かんそく機械きかい天文台てんもんだい世界せかい天文台てんもんだい』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 図説ずせつ天文てんもん講座こうざ 1937ねん
  • 銀河ぎんが宇宙うちゅう宇宙うちゅうかん』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 圖説ずせつ天文てんもん講座こうざ 1937ねん
  • 恒星こうせい星辰せいしんスペクトル』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 圖説ずせつ天文てんもん講座こうざ 1937ねん
  • 天文てんもん宇宙うちゅう』(恒星こうせいしゃ 1937ねん
  • 東西とうざい天文學てんもんがく西洋せいよう天文學てんもんがく』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 圖説ずせつ天文てんもん講座こうざ 1940ねん
  • ときこよみ』(羽田はた書房しょぼう 生活せいかつ科學かがく新書しんしょ 1942ねん
  • 雨夜あまよゆめばなし』(日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱんかい 1942ねん
  • 日本にっぽん暦學れきがく概説がいせつ』(山口やまぐち書店しょてん 自然しぜん科學かがく叢書そうしょ 1943ねん
  • 天文學てんもんがく概観がいかん』(恒星こうせいしゃ 1943ねん
  • 科学かがくろん籔』(恒星こうせいしゃ 1943ねん
  • 日本にっぽん暦學れきがく概説がいせつ』(たていのちかん出版しゅっぱん部会ぶかい 自然しぜん科學かがく叢書そうしょ 1944ねん
  • 球面きゅうめん天文學てんもんがく』(宇宙うちゅう物理ぶつりがく研究けんきゅうかい天文てんもん宇宙うちゅう物理ぶつりがく總論そうろん 1 1947ねん
  • はか暦法れきほう』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1947ねん
  • 四季しき星座せいざ』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1948ねん
  • 『エネルギーのはなし』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1948ねん
  • 天體てんたい力學りきがく』(宇宙うちゅう物理ぶつりがく研究けんきゅうかい天文てんもん宇宙うちゅう物理ぶつりがく總論そうろん 3A 1949ねん
  • 太陽系たいようけい』(宇宙うちゅう物理ぶつりがく研究けんきゅうかい天文てんもん宇宙うちゅう物理ぶつりがく總論そうろん 4 1949ねん
  • 恒星こうせい物理ぶつりがく恒星こうせいかい』(宇宙うちゅう物理ぶつりがく研究けんきゅうかい天文てんもん宇宙うちゅう物理ぶつりがく總論そうろん 7 1949ねん
  • 銀河系ぎんがけい』(宇宙うちゅう物理ぶつりがく研究けんきゅうかい天文てんもん宇宙うちゅう物理ぶつりがく總論そうろん 10 1949ねん
  • 質点しつてん力學りきがくようろん』(宇宙うちゅう物理ぶつりがく研究けんきゅうかい 1949ねん
  • だい宇宙うちゅうたび』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1950ねん2006ねん国土こくどしゃ 1964ねん[3]
  • 天文てんもん年代ねんだいがく講話こうわ』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1951ねん
  • 吾輩わがはいみずである』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1951ねん
  • つきのみちかけの研究けんきゅう』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく たのしい理科りか教室きょうしつ 1 1952ねん
  • 昼夜ちゅうやながさとぶし』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく たのしい理科りか教室きょうしつ 2 1952ねん
  • 黄道こうどうをさまよう天体てんたい』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく たのしい理科りか教室きょうしつ 3 1952ねん
  • 星雲せいうん宇宙うちゅう』(宇宙うちゅう物理ぶつりがく研究けんきゅうかい天文てんもん宇宙うちゅう物理ぶつりがく總論そうろん 11 1952ねん
  • 太陽たいよう黒点こくてん研究けんきゅう』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく たのしい理科りか教室きょうしつ 4 1953ねん
  • 日食にっしょく月食げっしょく』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく たのしい理科りか教室きょうしつ 5 1953ねん
  • 地球ちきゅう歴史れきし』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 中学ちゅうがく天文てんもん教室きょうしつ 1953ねん
  • れんぼし』(宇宙うちゅう物理ぶつりがく研究けんきゅうかい天文てんもん宇宙うちゅう物理ぶつりがく總論そうろん 8 1954ねん
  • 現代げんだい天文學てんもんがく事典じてん』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1956ねん
  • 日本にっぽん暦學れきがく概説がいせつ』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1960ねん
  • 西洋せいよう占星術せんせいじゅつ』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1963ねん
  • 天文学てんもんがく歴史れきし西洋せいよう天文学てんもんがく』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく しん天文学てんもんがく講座こうざ12 新版しんぱん 1964ねん
  • 西洋せいよう天文學てんもんがく』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1965ねん
  • 銀河系ぎんがけい宇宙うちゅう宇宙うちゅうろん現状げんじょう』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく しん天文学てんもんがく講座こうざ8 新版しんぱん 1966ねん
  • 四季しき星座せいざ』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1967ねん
  • 相對性原理そうたいせいげんり概論がいろん』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1969ねん
  • 宇宙うちゅう物理ぶつりがく』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1970ねん
  • 宇宙うちゅう構造こうぞうかん』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1973ねん
  • 狐狸こりくつひさごろん』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1979ねん
  • 荒木あらき駿馬しゅんめろん文集ぶんしゅう』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1979ねん
  • 實地じっち天文學てんもんがく
  • 太陽たいよう物理ぶつりがく
  • 太陽系たいようけいはんなりろん
  • 天體てんたい力學りきがく』(恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1980ねん
  • 『疇山たび日記にっき』(荒木あらきつよしごう 1984ねん
  • 荒木あらき駿馬しゅんめ留学りゅうがく日記にっきぜん4かん京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく 2002ねん
  • 荒木あらき駿馬しゅんめ日記にっきぜん4かん京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく 2003ねん
  • 京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく 教学きょうがく源流げんりゅう』(京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく 2004ねん

訳書やくしょ[編集へんしゅう]

  • 宇宙うちゅうろん』(イマヌエル・カントちょ 恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1952ねん
  • 『カント・宇宙うちゅうろん』(イマヌエル・カントちょ 恒星こうせいしゃ厚生こうせいかく 1954ねん

参考さんこう文献ぶんけん出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • がく荒木あらき駿馬しゅんめ先生せんせい京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく』(永田ながたたかし執筆しっぴつ 京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく 2001ねん
  •  がく 荒木あらきしゅん先生せんせいけんがくしんたずねて(京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく https://x.gd/a7f9d

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • 松本まつもとれい - 直接ちょくせつ面識めんしきはないが、荒木あらきいた書籍しょせきだい宇宙うちゅうたび』は松本まつもと自身じしん代表だいひょうさくひとつである『銀河ぎんが鉄道てつどう999』を創作そうさくする原点げんてんとなった書籍しょせきである[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 訃報ふほうらん 荒木あらき しゅん(あらき・としま=京都産業大きょうとさんぎょうだい総長そうちょう京大きょうだい名誉めいよ教授きょうじゅ)『朝日新聞あさひしんぶん』1978ねん昭和しょうわ53ねん)7がつ11にち朝刊ちょうかん、13はん、23めん
  2. ^ 訃報ふほうらん 荒木あらきしゅん告別こくべつしき京都産業大学きょうとさんぎょうだいがくそう朝日新聞あさひしんぶん』1978ねん昭和しょうわ53ねん)7がつ12にち朝刊ちょうかん、13はん、23めん
  3. ^ 中学校ちゅうがっこういち年生ねんせい天文てんもんきの少年しょうねん星野ほしのちゅういちが、エンケ彗星すいせい架空かくうの「星野ほしの彗星すいせい」・女神めがみフォトン(光子こうし)ととも宇宙うちゅうたびする物語ものがたり形式けいしき天文学てんもんがく入門にゅうもんしょ国土こくどしゃ改訂かいていばんでは「人工じんこう衛星えいせいはなし」が追加ついかされた。
  4. ^ だい宇宙うちゅうたび』の作中さくちゅう星野ほしのちゅういち人物じんぶつ登場とうじょうし『銀河ぎんが鉄道てつどう999』の主人公しゅじんこうである星野ほしの鉄郎てつおとはおなじ「星野ほしのせいである。これ自体じたい松本まつもと偶然ぐうぜんであるとかたっているものの「偶然ぐうぜんとはいえ、おな苗字みょうじけることになったのも、このほん存在そんざい自分じぶんなかふかきざまれているからそのようにみちびかれたのかもしれない」ともべている。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
設立せつりつ
学校がっこう法人ほうじん京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく学長がくちょう
初代しょだい: 1965ねん - 1978ねん
次代じだい
かしわゆうけん