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しょうむら省三しょうぞう

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しょうむら 省三しょうぞう(しょうむら しょうぞう、1821ねん文政ぶんせい4ねん〉 - 1903ねん明治めいじ36ねん〉)は、幕末ばくまつ肥後ひごはん明治めいじ政府せいふ官僚かんりょう通称つうしょう助右衛門すけえもんみぎ衛門えもんせい庄村しょうむらともく。
幕末ばくまつには肥後ひご熊本くまもとはん海軍かいぐん司令しれいかんつとめ、トーマス・グラバーより肥後ひごはんはつ汽船きせんとなる「万里ばんりまる」の購入こうにゅうや、坂本さかもと龍馬りょうま肥後ひごはん薩長さっちょう同盟どうめいくわえようと画策かくさくするなど活動かつどうした。佐久間さくま象山ぞうさん横井よこい小楠しょうなん門弟もんていであり、長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ1期生きせいとしてまなび、親交しんこうのあったかつ海舟かいしゅう横井よこいの「海軍かいぐん問答もんどうしょ」をおくしょしたほか、チャニング・ウィリアムズ立教大学りっきょうだいがく創設そうせつしゃ)の門弟もんていでもあり、せい公会こうかいとして日本にっぽんはつ受洗じゅせんしゃとしてもられる[1][2]長崎ながさき瓜生うりゅうとらさんとら)とも連携れんけいした。

人物じんぶつ経歴けいれき

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まれから江戸えど遊学ゆうがく

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1821ねん文政ぶんせい4ねん)、肥後ひご藩士はんししょうむらいちろうすけ長男ちょうなんとしてまれる。その横井よこい小楠しょうなん門弟もんていとなる[1]

1853ねんよしみなが6ねん)、佐久間さくま象山ぞうさん入門にゅうもんし、兵学へいがく砲術ほうじゅつまな[1]同年どうねん12がつには、のち助右衛門すけえもんきょうはたらけする坂本さかもと龍馬りょうま佐久間さくま象山ぞうさん私塾しじゅく入門にゅうもんしている。

同年どうねん11がつに、肥後ひごはんペリー来航らいこうけた江戸えどわん防衛ぼうえいとして「相州あいしゅう警備けいび」を江戸えど幕府ばくふからめいじられたが、助右衛門すけえもんは、1854ねん安政あんせい元年がんねん7がつ)に警備けいび一員いちいんとして派遣はけんされることとなり、海防かいぼう現場げんばいた[1]

同年どうねん吉田よしだ松陰しょういん肥後ひご熊本くまもと)をおとずれたさい横井よこい小楠しょうなんはぎあきらこく矢嶋やじまみなもとすけ横井よこい門下もんか高弟こうてい)とったさい助右衛門すけえもん松陰まつかげ面談めんだんした[1][2]

長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ、2度目どめ江戸えど遊学ゆうがく

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1855ねん安政あんせい2ねん)、池部いけべあきらふとししたが長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょまな[1]

1857ねん安政あんせい4ねん7がつ)、砲術ほうじゅつ研究けんきゅうのため江戸えどくようにめいじられた池部いけべしたがい、太田黒おおたぐろかずふとしふくめ3めいふたた江戸えどかう。江戸えど滞在たいざいちゅう蘭学らんがくしゃ川本かわもとみゆきみん入門にゅうもんしたとおもわれる[1]

1859ねん安政あんせい6ねん5がつ)、池部いけべとともに肥後ひご熊本くまもと)へ帰国きこく[1]

ふたた長崎ながさき遊学ゆうがく

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1861ねん文久ぶんきゅう元年がんねん7がつ)、ふたた池部いけべさんにんとともに砲術ほうじゅつ修得しゅうとくのために長崎ながさき遊学ゆうがくし、長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょまなぶ。これは佐賀さがはんつづきオランダじんから海軍かいぐん伝習でんしゅうけていることをった池部いけべみずか参加さんか希望きぼうし、助右衛門すけえもん遊学ゆうがくしたものであった[1]

1861ねん文久ぶんきゅう元年がんねん)9がつに、しょうむらは、以前いぜんすうかいたずねたことのあるグイド・フルベッキって、熊本くまもとかえるためにわかれをげ、フルベッキから聖書せいしょ新約しんやく聖書せいしょ1さつ)とはんダースばかりのしょう冊子さっしをもらい、これらを熊本くまもと友人ゆうじんませることを約束やくそくした[3][1]

1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)、しょうむら大砲たいほう火薬かやく研究けんきゅう必要ひつようせい家老がろうけんさくし、またも長崎ながさき遊学ゆうがくした。このとき幕末ばくまつ幕府ばくふ御用ごよう軍需ぐんじゅひん製造せいぞう従事じゅうじした武蔵むさしこく川口かわぐち増田ますだわたるろくはちじゅうろく)を熊本くまもとび、長崎ながさき帯同たいどうしている[1]

1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)8がつに、長崎ながさきいの日本人にっぽんじんからチャニング・ウィリアムズ立教大学りっきょうだいがく創設そうせつしゃ)を紹介しょうかいされ、立教大学りっきょうだいがく源流げんりゅうとなるウィリアムズの私塾しじゅくまなんだ。このとき、まずしょうむらはウィリアムズからなんさつかの宗教しゅうきょうしょり、1、2にちふたた前年ぜんねんにフルベッキからもらった聖書せいしょってウィリアムズのもとおとずれ、聖書せいしょ内容ないようについてりたいという希望きぼうべ、それから2週間しゅうかん毎晩まいばんのように私塾しじゅくてはかんやく聖書せいしょんだ。そのしょうむらは、熊本くまもともどることなるが、ウィリアムズがっていた書籍しょせきしょう冊子さっしうつし、宗教しゅうきょうしょってかえり、熊本くまもといえでも聖書せいしょまなぶことも約束やくそくした[1]

肥後ひごはん軍事ぐんじ司令しれいかんとして

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1864ねん1がつ以前いぜんには、肥後ひごはん軍事ぐんじ指揮しきかんとして、藩士はんし8000めいしたがえる立場たちばとなり、ウィリアムズにたのんで兵学へいがくしょ入手にゅうしゅするとともに、後述こうじゅつにある長州ちょうしゅうはん下関しものせき戦争せんそうでのえいべいあららぎふつよんこくがわかんがえや、アメリカの南北戦争なんぼくせんそうかんする情報じょうほう仕入しいれた[1]当時とうじ、ウィリアムズをおとずれる日本人にっぽんじん将校しょうこうなかには、公式こうしき訪問ほうもんけるために夜間やかんおとずれるなど、秘密裏ひみつり情報じょうほう交換こうかんをするものもおり、しょうむらはそのうちの一人ひとりであった[4]

同年どうねんえいべいあららぎふつよんこく長州ちょうしゅう攻撃こうげき延期えんきたのみに長崎ながさきおとずれていたかつ海舟かいしゅうと、肥後ひごはん横井よこい小楠しょうなん使者ししゃとして接触せっしょくした。このときおなじく横井よこい弟子でしであった河瀬かわせのり三村みつむらとともに、かち強力きょうりょく海軍かいぐん建設けんせついた横井よこい著書ちょしょ海軍かいぐん問答もんどうしょ」をおくっている[1]

1864ねん8がつ11にち元治もとはる元年がんねん7がつ10日とおか)に、しょうむら熊本くまもと出発しゅっぱつし、1864ねん8がつ13にち元治もとはる元年がんねん7がつ12にち)に長崎ながさき到着とうちゃくするが、同日どうじつ、フルベッキをたずねて会談かいだんするとともに、エイベル・ガウワージョン・F・ラウダーらの長崎ながさき英国えいこく領事りょうじとも面会めんかいし、会談かいだんおこなった。当時とうじ長州ちょうしゅうはんによる下関しものせき戦争せんそうけて、どうはんえいべいあららぎふつよんこく関係かんけい注目ちゅうもくされており、文久ぶんきゅう3ねん長州ちょうしゅうはんひそかに英国えいこく留学りゅうがくさせていた藩士はんしのうち、伊藤いとう博文ひろぶみらがよんこく報復ほうふく決議けつぎほうせっして、元治もとはる元年がんねん6がつ急遽きゅうきょ日本にっぽん帰国きこくする状況じょうきょうであった。しょうむらは、同日どうじつづけ(1864ねん8がつ13にち元治もとはる元年がんねん7がつ12にち)の報告ほうこくしょで、伊藤いとうらが豊後ぶんご姫島ひめしま英軍えいぐんかんおくとどけられたこと、よんこく長州ちょうしゅうとのたたかいが必至ひっし情勢じょうせいであることをつたえ、状況じょうきょう次第しだいでは、しょうむら自身じしん下関しものせき横浜よこはま出張しゅっちょうして情報じょうほう収集しゅうしゅうしたほうがよいとの意見いけんしるした[1]。1864ねん8がつ20日はつか元治もとはる元年がんねん7がつ19にち)には、ウィリアムズから、「よんカ国かこくがわがロンドンから帰国きこくした伊藤いとう博文ひろぶみらをつうじて、下関しものせき戦争せんそう反省はんせいするのであれば今後こんご親睦しんぼくむすびたいともうれたところ、長州ちょうしゅうはんから砲撃ほうげき本意ほんいではなく、ただ勅命ちょくめいしたがったもので、親睦しんぼくもうれについては京都きょうと相談そうだんしたいことから90にち猶予ゆうよしいと返答へんとうしたが、よんカ国かこくがわはこれを時間じかんかせぎだと判断はんだんし、出帆しゅっぱんする予定よていである」といたことを報告ほうこくしている[1]
しょうむら会談かいだんした英国えいこく領事館りょうじかん士官しかんのラウダーは、翌月よくげつ1864ねん9がつ元治もとはる元年がんねん8がつ)には、下関しものせき戦争せんそう講和こうわ談判だんぱんのため派遣はけんされ通訳つうやくかんつとめており、しょうむらは、どう1864ねん9がつ3にち元治もとはる元年がんねん8がつ3にち)にも、ふたたびウィリアムズからの長州ちょうしゅうはん砲撃ほうげきについてのききとりを報告ほうこくしている[1]

また、しょうむらは、ウィリアムズ門下もんかなにれいすけなにれい)とも交遊こうゆうし、どう時期じきである1864ねん8がつ21にちから1864ねん9がつ3にち元治もとはる元年がんねん7がつ20から元治もとはる元年がんねん8がつ3にち)にかけてのしょうむら複数ふくすう書簡しょかんなにれいたすから情報じょうほうしるされている[1]

肥後ひごはんはつ汽船きせん万里ばんりまる」の購入こうにゅう

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1864ねん9がつ17にち元治もとはる元年がんねん8がつ17にちづけのフルベッキの書簡しょかんには、しょうむらがフルベッキを訪問ほうもんし、肥後ひごこく熊本くまもと藩主はんしゅ細川ほそかわけいじゅんのためにいちそう汽船きせん購入こうにゅうする助言じょげんをしてほしいと依頼いらいしたことがしるされている。当時とうじ肥後ひご藩主はんしゅ汽船きせん長崎ながさき湾内わんないいち週間しゅうかんほど停泊ていはくしており、フルベッキは当初とうしょそのふね肥後ひごはんふねで、藩主はんしゅ細川ほそかわけいじゅん長崎ながさきにいたこともらなかったが、そのふね出帆しゅっぱんする2にちまえに、しょうむらがフルベッキを訪問ほうもんし、汽船きせん購入こうにゅうむね依頼いらいした。このとき長崎ながさきわん停泊ていはくしていたふねは、肥後ひご熊本くまもとはんはじめて購入こうにゅうした蒸気じょうきせん万里ばんりまる」であり、肥後ひごはんは1864ねん元治もとはる元年がんねん9がつ)にこのふね長崎ながさきトーマス・グラバーから12まん5せんドルで購入こうにゅうしている。万里ばんりまる原名げんめいは「コスモポライト」で、1859ねんフランスせい木製もくせい内輪うちわしき120馬力ばりきながさ222しゃくさん檣バーク、煙出けむだいちほん一時いちじ七里ななさとき、備筒よんていという仕様しようふねだった[3]

1865ねん5がつ26にち、27にち慶應けいおう元年がんねん5がつ2にち、3にち)には、2にちつづけてウィリアムズにって、そこで南北戦争なんぼくせんそう状況じょうきょう幕府ばくふないには将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち長州ちょうしゅう征討せいとう出陣しゅつじんにあたって、えいふつ援軍えんぐんもとめる意見いけんがあるが、えいふつことわるであろうといった情報じょうほう熊本くまもとほうじた。しょうむらは、軍事ぐんじ司令しれいかんとして、ウィリアムズのほかにも、前記ぜんき肥後ひごはん汽船きせん購入こうにゅうしたグラバーともふかいだっともみられ、1865ねん6がつ1にち慶應けいおう元年がんねん5がつ8にち)の書簡しょかんでグラバーから薩摩さつま長州ちょうしゅう協力きょうりょく関係かんけいむすぼうとする極秘ごくひ情報じょうほうたことをつたえている。これは1866ねん慶應けいおう2ねん1がつ)に薩長さっちょう盟約めいやくとして倒幕とうばくにむけ日本にっぽんだい転換てんかんしていく情報じょうほうであった。グラバーは五代ごだいともあつしともしたしく、薩摩さつまはん関係かんけいふかめていたが、両者りょうしゃむすびついたしょうむらだったからこそ、ることができた情報じょうほうであったとおもわれる[1]

瓜生うりゅうとらとの協同きょうどう

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1865ねん9がつ16にち慶應けいおう元年がんねん7がつ27にち)に長州ちょうしゅうはん伊藤いとう博文ひろぶみかつら小五郎こごろう木戸きど孝允たかよし)におくった書簡しょかんに、瓜生うりゅうとらさんとら)としょうむら助右衛門すけえもん協同きょうどうしていることをつたえており、ともにウィリアムズ門下もんかであった瓜生うりゅうしょうむら長崎ながさきにて連携れんけい活動かつどうしていた。同年どうねん10がつ旧暦きゅうれき)、瓜生うりゅう英国えいこく海軍かいぐん艦長かんちょうからききとって和訳わやくした越前えちぜんはんへの報告ほうこくしょを、しょうむらまるごとうつって熊本くまもとほうじ、11月にも、おなじく瓜生うりゅう翻訳ほんやくした兵庫ひょうご開港かいこうについての神奈川かながわけん発行はっこう英字えいじ新聞しんぶん記事きじを、しょうむら熊本くまもとおくるなど、瓜生うりゅう英語えいごりょく自由じゆう活用かつようしており、両者りょうしゃふか関係かんけいにあったことがかっている[1]。またしょうむら前年ぜんねんの1864ねん8がつ21にち元治もとはる元年がんねん7がつ20日はつか)、1864ねん8がつ23にち元治もとはる元年がんねん7がつ22にちづけくわえて、同年どうねん1865ねん慶應けいおう元年がんねん5がつづけ書簡しょかんにも、瓜生うりゅうえつ前生ぜんしょう)から情報じょうほうしるされている[1]

ウィリアムズより洗礼せんれいける

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1866ねん慶應けいおう2ねん)2がつ上海しゃんはい経由けいゆ米国べいこく帰国きこくするまえのウィリアムズより洗礼せんれいけ、せい公会こうかい信徒しんととなった[1][5][6]。クリスチャンネームはコルネリウス[3]

パークスの鹿児島かごしま訪問ほうもんさいして

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しょうむらは1866ねん7がつ22にち慶應けいおう2ねん6がつ11にち)、ハリー・パークスちゅうにち英国えいこく公使こうし)とジョージ・キングイギリス海軍かいぐん提督ていとく東洋とうよう艦隊かんたい司令しれいかん)が、ラウダ―やグラバーらと鹿児島かごしま訪問ほうもんする予定よていであるというフルベッキの談話だんわ肥後ひごはん奉行ぶぎょう道家みちやすみ左衛門さえもん報告ほうこくする[3]。このパークスの鹿児島かごしま訪問ほうもんにより、パークスは西郷さいごう隆盛たかもりからの詳細しょうさい説明せつめい薩摩さつまはんかんがえに納得なっとくすることとなった。パークスは島津しまつ久光ひさみつ茂久しげひさ藩主はんしゅ父子ふしのもてなしもけ、さらには薩摩さつま英国えいこく双方そうほう軍事ぐんじ演習えんしゅう見学けんがくするなど薩摩さつまとイギリスの関係かんけい修復しゅうふくされるにいたっており、このしょうむら報告ほうこくした情報じょうほう上述じょうじゅつ薩長さっちょう同盟どうめい情報じょうほう同様どうよう今後こんご倒幕とうばくへとつながる重要じゅうよう情報じょうほうであった[7]

慶応けいおうねん1866正月しょうがつ探索たんさくしょ
(りゃく)昨夜さくやフルベッキよりうちばなしごくみつうけたまわこうだんみぎ二奉録上候
ななにち大軍たいぐんかん薩州へ出船しゅっせん期日きじつアトミラール、ミニストルの両人りょうにんよりぬのるいべついく(以下いかフルベッキ)へ書状しょじょうさるえつざるこうおもむきしゃ同人どうじん日本にっぽんとしひさじきやめざい多分たぶん日本にっぽん士人しじんあいまじこう事故じこ当時とうじ形勢けいせい二付承居候次第もゆう諸事しょじうけたまわたびとの旨趣ししゅさるえつこうよし フルベッキより返答へんとう致候おもむきしゃそんよせ次第しだいゆうひさし々と事情じじょうしょうみとめちょく英国えいこく女王じょおう殿下でんかていしょしょう含候とくどもこん暫時ざんじ形勢けいせい観察かんさつうえそん差控さしひかえきょさるこうもとじょう見聞けんぶん次第しだいゆうこうあいだ此方こちら罷越まかりこうけたまわこうさま返答へんとう及候ゆかりどうはちにちミニストル、アトミラ-ル并領事館りょうじかんうけたまわこうあいだフルベッキえんじした大概たいがいひだりこれどおり(りゃく)
六月ろくがつじゅういちにち
道家みちやすみ左衛門さえもんさま — しょうむら助右衛門すけえもん肥後ひごはん国事こくじ史料しりょうまきろく


1866ねん9がつ慶應けいおう2ねん8がつ)にしょうむら作成さくせいした書簡しょかんには、佐賀さがはん副島そえじま種臣たねおみ大隈おおくま重信しげのぶから情報じょうほうしるしており、ウィリアムズのじゅく門下生もんかせいであった副島そえじま大隈おおくまとも関係かんけいせいがあったことがかっている[1]

1866ねん12月31にち慶應けいおう2ねん11月25にち)のアーネスト・サトウ(イギリスの外交がいこうかんちゅうにち公使こうし)の日記にっきでは、グラバーと夕食ゆうしょくをともにしたさいしょうむらい、しょうむら藩主はんしゅイギリス海軍かいぐんジョージ・キング提督ていとく訪問ほうもんするため長崎ながさき予定よていだとはなしたことがしるされている。また、しょうむらはサトウの質問しつもんに、日本にっぽんふたた将軍しょうぐん出現しゅつげんすることはなく、天皇てんのう本来ほんらい地位ちい復帰ふっきすることになるとこたえ、この時点じてん肥後ひごはん海軍かいぐん士官しかんとして、将軍しょうぐんから天皇てんのうへの主権しゅけん交代こうたいおこなわれることを正確せいかく見抜みぬいていた[1]

1867ねん2がつ25にち慶應けいおう3ねん1がつ21にち)には、かつら小五郎こごろう木戸きど孝允たかよし)に書状しょじょうで、肥後ひごはんだい長州ちょうしゅう戦争せんそう長州ちょうしゅうめにくわわったことをびた[1]

同年どうねん5がつから、坂本さかもと龍馬りょうまとともに肥後ひごはん薩長さっちょう同盟どうめい参加さんかさせようと画策かくさくした。龍馬りょうまは1867ねん7がつ11にち慶應けいおう3ねん6がつ10日とおか)に、木戸きどたいしてしょうむら助右衛門すけえもん紹介しょうかいする書状しょじょうおくり、しょうむら面会めんかいするようにうながし、その理由りゆううみ援隊石田いしだ英吉えいきちから内密ないみつ口頭こうとう木戸きどつたえた[1][8]結果けっかてきには肥後ひごはん同盟どうめい参加さんか実現じつげんしなかったものの、しょうむらはこの時期じき長崎ながさきだけでなく江戸えど京都きょうと大阪おおさか熊本くまもとへとまわり、活動かつどうつづけた[1]

1868ねん慶應けいおう4ねん)8がつ17にちづけのフルベッキの書簡しょかんでは、しょうむら肥後ひごはん渡米とべい留学生りゅうがくせいで、日本にっぽん政府せいふ最初さいしょ官費かんぴ留学生りゅうがくせいとなった横井よこいひだり平太へいた横井よこい太平たへい兄弟きょうだい横井よこい小楠しょうなんおい)の留学りゅうがく費用ひよう委託いたくきん資金しきん調達ちょうたつについてすべてをフルベッキにはなしたことがしるされている[3]

明治維新めいじいしん

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明治維新めいじいしんこうは、明治めいじ政府せいふ太政官だじょうかんしょうとなり、太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう実美みみ秘書ひしょとして政治せいじ社会しゃかい状況じょうきょう探索たんさく調査ちょうさをするなどの諜報ちょうほう活動かつどうやくになった[5]同時どうじに、キリストきょう知識ちしきひろげようとする姿勢しせいつづけた。しょうむらにとって、キリスト教きりすときょう西洋せいよう文明ぶんめい根幹こんかんをなすものとしてとらえ、西洋せいようについてまなうえ理解りかいすることは不可欠ふかけつであるという側面そくめんつよかったとおもわれる[2][9]

1870ねん明治めいじ3ねん)には、省三しょうぞう改名かいめいした[1]

1871ねん明治めいじ4ねん)、後藤ごとう新平しんぺいしょうむら門番もんばんけん雑用ざつようやく食客しょっきゃく)をつとめるが、客人きゃくじん新平にっぺいを「奥羽おうう朝敵ちょうてき」と紹介しょうかいされ、新平しんぺいおこって翌年よくねん1がつ帰郷ききょうしている[10]

教育きょういくしゃとして

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長崎ながさきでは、肥後ひごはん遊学ゆうがくしゃ監督かんとくはん子弟してい教育きょういく総監そうかん)もつとめていた[2]

海外かいがい新聞しんぶん定期ていき購読こうどく

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しょうむらは、1864ねん7がつ31にち元治もとはる元年がんねん6がつ28にち)に浜田はまだ彦蔵(ジョセフ・ヒコ)が創刊そうかんした日本にっぽん最初さいしょ民間みんかん邦字ほうじ新聞しんぶんとされる「海外かいがい新聞しんぶん[注釈ちゅうしゃく 1]定期ていき購読こうどくしていたことでられている[1]


脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 日本にっぽん新聞しんぶんはじまりは、江戸えど時代じだい以前いぜんから存在そんざいしていた「瓦版かわらばん」とされるが、近代きんだいてきなジャーナリズムとしての日本にっぽんはつ邦字ほうじ新聞しんぶんは1862ねん文久ぶんきゅう2ねん正月しょうがつ幕府ばくふ公刊こうかんした『かんばんバタビヤ新聞しんぶん』とされる[11][12]
    日本にっぽんはつ民間みんかん邦字ほうじ新聞しんぶんは、浜田はまだ彦蔵(ジョセフ・ヒコ)が発行はっこうした『海外かいがい新聞しんぶん』とされ、横浜よこはま入港にゅうこうする英国えいこくせんなどがもたらす新聞しんぶんから海外かいがい情報じょうほうを、ジョセフ・ヒコが翻訳ほんやくして岸田きしだ吟香ぎんこう本間ほんませんぞう清雄きよお)らが日本にっぽんぶんしるしたもので、慶応けいおう元年がんねん(1865ねん)5がつからよく2ねん12がつまで26ごう発行はっこうされた[13][14]
    日本にっぽんはつ邦字ほうじ日刊にっかん新聞しんぶんは、1871ねん明治めいじ3ねん)に創刊そうかんされた『横浜よこはま毎日新聞まいにちしんぶん』とされる[11][15]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 中島なかじま一仁かずひと日本にっぽんにおけるせい公会こうかいはつ受洗じゅせんしゃしょうむら助右衛門すけえもん : その人物じんぶつぞうとウィリアムズとの交友こうゆうをめぐって」『立教りっきょう学院がくいん研究けんきゅうだい16ごう立教大学りっきょうだいがく立教りっきょう学院がくいん資料しりょうセンター、2019ねん、2-20ぺーじdoi:10.14992/00018017ISSN 1884-1848NAID 120006715214 
  2. ^ a b c d 松平まつだいら信久のぶひさ『ウィリアムズ主教しゅきょう生涯しょうがいどうをめぐる人々ひとびとだい5かいすずかけセミナー 2019ねん11月28にち
  3. ^ a b c d e 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 長崎ながさき親善しんぜん協会きょうかい しょうむら助右衛門すけえもん(省三しょうぞう)』 2016ねん11月27にち,長崎ながさきフルベッキ研究けんきゅうかいレポート
  4. ^ Welch, Ian Hamilton (2013-12-11). “The Protestant Episcopal Church of the United States of America, in China and Japan, 1835-1870. 美國びくにせい公會こうかい With references to Anglican and Protestant Missions”. ANU Research Publications 1. https://hdl.handle.net/1885/11074. 
  5. ^ a b 世界せかい宗教しゅうきょう用語ようごだい辞典じてんちゅうけい出版しゅっぱんしょうむらすけえもん【しょうむら助右衛門すけえもん
  6. ^ 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 長崎ながさき親善しんぜん協会きょうかい 『2016ねん11月7にち 長崎ながさきフルベッキ研究けんきゅうかいレポート
  7. ^ 町田まちだ 明広あきひろ慶応けいおうねん政局せいきょくにおける薩摩さつまはん動向どうこう藩政はんせい改革かいかくと薩英関係かんけい伸展しんてん」『神田外語大学かんだがいごだいがく日本にっぽん研究所けんきゅうじょ紀要きようだい13ごう神田外語大学かんだがいごだいがく日本にっぽん研究所けんきゅうじょ、2021ねん3がつ、1-29ぺーじISSN 1340-3699 
  8. ^ 高知こうち県立けんりつ坂本さかもと龍馬りょうま記念きねんかん 開館かいかん30周年しゅうねん記念きねん龍馬りょうま真筆しんぴつ書簡しょかん特別とくべつ展示てんじ展示てんじ資料しりょうリスト』
  9. ^ 大日方おびなた 純夫すみお維新いしん政府せいふ密偵みっていたち』 吉川弘文館よしかわこうぶんかん 2013ねん9がつ20日はつか
  10. ^ 藤原ふじわら書店しょてん 後藤ごとう新平しんぺい りゃく年譜ねんぷ
  11. ^ a b 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん日本にっぽんはつの〇〇新聞しんぶん』2022ねん7がつ11にち
  12. ^ 小学館しょうがくかん 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『かんばんバタビヤ新聞しんぶん』- コトバンク
  13. ^ 日本にっぽん新聞しんぶん博物館はくぶつかんはつ民間みんかん邦字ほうじ創始そうししゃ ジョセフ・ヒコ<日本にっぽんめい浜田はまだ彦蔵(はまだ・ひこぞう)>』
  14. ^ ニッポンたびマガジン『新聞しんぶん誕生たんじょう
  15. ^ 東建とうけんコーポレーション株式会社かぶしきがいしゃ・メディアポ『日本にっぽん新聞しんぶんのはじまり』