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菅原すがわら輔正

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菅原すがわら輔正
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 延長えんちょう3ねん925ねん
死没しぼつ 寛弘かんこう6ねん12月24にち1010ねん1がつ11にち
改名かいめい 北野きたの宰相さいしょう北野きたのさん
官位かんい せいさん参議さんぎおくせい
主君しゅくん 村上むらかみ天皇てんのう冷泉れいせん天皇てんのう円融天皇えんゆうてんのう花山はなやま天皇てんのう一条天皇いちじょうてんのう
氏族しぞく 菅原すがわら
父母ちちはは ちち菅原すがわらざい躬、はは菅原すがわらけいぎょうむすめ
兄弟きょうだい 輔正みきただし行正ゆきまささちぜん
ためためちゅうため修成しゅうせいただしさだ良正よしまさ
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菅原すがわら 輔正(すがわら の すけまさ)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき公卿くぎょう学者がくしゃみぎちゅうべん菅原すがわらあつししげるまごかんかいよし長官ちょうかん菅原すがわらざい躬の長男ちょうなん官位かんいせいさん参議さんぎおくせい

経歴けいれき

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村上むらかみちょうてんれき4ねん950ねん文章ぶんしょう得業とくぎょうせいされると、ためして、せいこよみ9ねん955ねん刑部おさかべしょうすすむにんぜられる。式部しきぶすすむつとめたのち天徳てんとく4ねん960ねんしたがえみんしょう叙任じょにんされる。

式部しきぶしょう輔・左衛門さえもんけんて、かん3ねん966ねんしたがえじょうけんみぎしょうべん叙任じょにんされると、かん5ねん968ねんみぎしょうわきまえ安和やすかず2ねん969ねんひだりしょうわきまえてんろく元年がんねん970ねんせいてんろく2ねん971ねんみぎちゅうわきまえてんろく3ねん972ねんしたがえよんてんろく4ねん973ねんけんひだりちゅうわきまえ貞元さだもと2ねん977ねんしたがえよんじょう貞元さだもと3ねん978ねんひだりちゅうべんと、村上むらかみちょうまつから円融えんゆうちょうなかばにかけてやく15ねんわたってべんかんつとめながら順調じゅんちょう昇進しょうしんした。またこのあいだ春宮とうぐうさだ親王しんのう東宮とうぐう学士がくし文章ぶんしょう博士はかせ兼帯けんたいしている。

天元てんげん4ねん981ねんだいおさむ大弐だいににんぜられてべんかんしょくはなれるが、はやくもよく天元てんげん5ねん982ねんせいよん式部しきぶけん大輔だいすけ叙任じょにんされてきょうかんふくす。いちじょうあさはいるとせいこよみ2ねん991ねん式部しきぶ大輔だいすけて、せいこよみ3ねん992ねんしたがえさんにんぜられ公卿くぎょうれつした。ちょういさお2ねん996ねん)72さいにして参議さんぎにんぜられ、菅原すがわらとしては道真みちざね以来いらいやく100ねんぶりの政官せいかんく。長保ながほ5ねん1003ねんせいさん昇叙しょうじょされるが、寛弘かんこう5ねん1008ねん参議さんぎしてのち式部しきぶ大輔だいすけのみをびた。

寛弘かんこう6ねん1010ねん1がつ)12月24にち薨去こうきょ享年きょうねん85。最終さいしゅう官位かんいぜん参議さんぎせいさん式部しきぶ大輔だいすけ以降いこう菅原すがわらからの公卿くぎょうは200ねん以上いじょう途絶とだえた。没後ぼつご北野きたの神社じんじゃ摂社せっしゃまつられ、寿ことぶきひさし3ねん1184ねん)にはせい追贈ついぞうされている。

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『公卿くぎょう補任ほにん』による。

系譜けいふ

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菅原すがわら系図けいず」『ぐんしょ類従るいじゅうまきだい63所収しょしゅうによる。

  • ちち菅原すがわらざい[1]
  • はは菅原すがわらけいぎょうむすめ[1]
  • 生母せいぼしょう子女しじょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 公卿くぎょう補任ほにん
  2. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん

参考さんこう文献ぶんけん

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