かん孝行たかゆき

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かん 孝行たかゆき(かん たかゆき 1939ねん7がつ17にち - )は、日本にっぽん思想家しそうか評論ひょうろんげき作家さっか

はん天皇てんのうせい運動うんどう連絡れんらくかい(はんてんれん)の結成けっせいとうしん左翼さよくけい知識ちしきじん代表だいひょうする人物じんぶつとしてられる。しゃもと変革へんかくのアソシエ運営うんえい委員いいん編集へんしゅうちょう公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん利賀とが文化ぶんか会議かいぎ評議ひょうぎいん、ルネサンス研究所けんきゅうじょ運営うんえい委員いいん河合かわい文化ぶんか教育きょういく研究所けんきゅうじょ研究けんきゅういん、。もと桐朋とうほう学園がくえん短期大学たんきだいがく演劇えんげき専攻せんこう非常勤ひじょうきん講師こうし(2004ねんまで)、もと財団ざいだん法人ほうじん静岡しずおかけん舞台ぶたい芸術げいじゅつセンター文芸ぶんげい(2010ねんまで)、もと河合塾かわいじゅく小論文しょうろんぶん講師こうし(2016ねんまで)、もとうめひかり学院がくいん大学だいがくとくにん教授きょうじゅ(2017ねんまで)。ちち陸軍りくぐん中将ちゅうじょうつとめたかんはる[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

東京とうきょう東京とうきょう牛込うしごめ市谷いちたにまれる。 学習がくしゅういんはつなか高等こうとう進学しんがく学習がくしゅういんでの同級生どうきゅうせい坂口さかぐちかおるさだ松井まつい康子やすこ山中やまなか祥子さちこ太田おおた省吾しょうご本田ほんだ義勝よしかつ植村うえむら泰久やすひさ亀井かめいひさきょう[1]大学だいがく進学しんがく学業がくぎょう並行へいこうして俳優座はいゆうざ養成ようせいしょかよう。12期生きせいには中村なかむら敦夫あつおむらたけしほか。25ばい競争きょうそうりつ突破とっぱするも4かげつ退すさところする。

1962ねん東京大学とうきょうだいがく文学部ぶんがくぶ卒業そつぎょう同年どうねん東映とうえい入社にゅうしゃ東映とうえい京都きょうと制作せいさくしょ演出えんしゅつ助手じょしゅとなる。1964ねん労働ろうどう組合くみあい支部しぶ書記しょきちょうとなる。争議そうぎのち1965ねん、CM/PR映画えいが制作せいさく部門ぶもん東映とうえい京都きょうと制作せいさくしょ、TV制作せいさく会社かいしゃ 太秦うずまさ映像えいぞう前身ぜんしん)に配転はいてん1966ねんに『青雲せいうんにんおとこ』『判決はんけつ』『若者わかものたち』の3ほんテレビドラマ脚本きゃくほんをアルバイトで執筆しっぴつ[2]撮影さつえいしょへの復帰ふっきかドラマの仕事しごと希望きぼうするがちきれずに、福田ふくだ善之よしゆきから紹介しょうかいされたむしプロ商事しょうじのテレビドラマ『バンパイヤ』に参加さんかするために1967ねん退社たいしゃ上京じょうきょう[2]。しかし9ヶ月かげつに『バンパイヤ』はスケジュールと予算よさんのオーバーでテレビ局てれびきょくとの契約けいやくがいったん破棄はきされて解雇かいこされる[3]

同年どうねんはつ単行本たんこうぼんせる「芸術げいじゅつ」=「新劇しんげき」によせす』が出版しゅっぱんされ[3]文筆ぶんぴつぎょうおこなうが、それだけでは生活せいかつできずに1970年代ねんだいおもにCMやPR映画えいが演出えんしゅつ生計せいけいてた[4]。そのも、予備校よびこう講師こうし公共こうきょう劇場げきじょうスタッフ、大学だいがくとくにん教授きょうじゅなどを生業せいぎょうとしてきた。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

朝日あさひジャーナル』『現代げんだい』などを舞台ぶたいさかんに執筆しっぴつ活動かつどうおこなった。「天皇てんのうせい批判ひはん著作ちょさくおおく、1983ねん国営こくえい昭和しょうわ記念きねん公園こうえん開園かいえん反対はんたい運動うんどう以後いごはん天皇てんのうせい」の運動うんどうかかわってきた[5]よく1984ねん天野あまの恵一けいいちともはん天皇てんのうせい運動うんどう連絡れんらくかい結成けっせい

2018年刊ねんかんの「三島みしま由紀夫ゆきお天皇てんのう」では、三島みしま小説しょうせつ金閣寺きんかくじ」の炎上えんじょうするかねかく戯曲ぎきょくサド侯爵こうしゃく夫人ふじん」の老醜ろうしゅうをさらすサド侯爵こうしゃくなどは昭和しょうわ天皇てんのうメタファーであり、かみしんじていた昭和しょうわ天皇てんのう人間にんげん宣言せんげんおこなってびたことへの批判ひはんめられているとろんじている。

演劇えんげき関係かんけいでは新劇しんげきつよ批判ひはんし、アングラしょう劇場げきじょう演劇えんげきけい演劇えんげきじんである。1962ねん吉本よしもと隆明たかあき編集へんしゅう試行しこう』に発表はっぴょうされた「せる『芸術げいじゅつ』=『新劇しんげき』によせす」(1967ねん同名どうめい評論ひょうろんしゅう収録しゅうろく)は1960ねん中期ちゅうきのアングラ、しょう劇場げきじょう演劇えんげき勃興ぼっこう理論りろんてき基礎きそとなった。1970年代ねんだいまでは劇作げきさく創作そうさくもし、上演じょうえん活動かつどうもおこなっていた。1990年代ねんだい以降いこう鈴木すずき忠志ただしらの演劇えんげきじん会議かいぎ参加さんかしている。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

社会しゃかい思想しそう評論ひょうろん[編集へんしゅう]

演劇えんげき評論ひょうろん[編集へんしゅう]

  • せる『芸術げいじゅつ』=『新劇しんげき』によせす」(書肆しょし深夜しんや叢書そうしょ、1967ねん
  • 解体かいたいする演劇えんげき」(アディン書房しょぼう、1974ねん、1981ねん、れんが書房しょぼうしんしゃから再刊さいかん
  • つづけ 解体かいたいする演劇えんげき」(れんが書房しょぼうしんしゃ、1981ねん
  • 戦後せんご演劇えんげき 新劇しんげきえられたか」(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1982ねん、2003ねん社会しゃかい評論ひょうろんしゃから増補ぞうほばん刊行かんこう
  • 想像そうぞうりょく社会しゃかい」(未來社みらいしゃ、1983ねん
  • たたか演劇えんげきじん 戦後せんご演劇えんげき思想しそう 鈴木すずき忠志ただし浅利あさり慶太けいた千田せんだ是也これや」(而立じりつ書房しょぼう、2007ねん
  • 演劇えんげきで〈世界せかい〉をえる 鈴木すずき忠志ただしろんこうおもえしゃ, 2021.9

身体しんたいろん[編集へんしゅう]

  • 関係かんけいとしての身体しんたい」(れんが書房しょぼうしんしゃ、1981ねん
  • 身体しんたいろん関係かんけいうちする」(れんが書房しょぼうしんしゃ、1983ねん

戯曲ぎきょく[編集へんしゅう]

  • 「ヴァカンス/ブルースをうたえ」(戯曲ぎきょくしゅうさんいち書房しょぼう、1969ねん
  • 「はんらん狂騒きょうそうきょく」(『現代げんだい日本にっぽん戯曲ぎきょく体系たいけい 8』所収しょしゅうさんいち書房しょぼう、1972ねん
  • 「いえろうあんちごうね」(アディン書房しょぼう、1978ねん

大学だいがく受験じゅけん参考さんこうしょ[編集へんしゅう]

共編きょうへんちょ[編集へんしゅう]

シナリオ[編集へんしゅう]

テレビ[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

メディア[編集へんしゅう]

1987ねん9がつテレビ朝日てれびあさひけいあさまでなまテレビ!」「世代せだい激突げきとつ! 若者わかものたち愛国心あいこくしん」などに出演しゅつえんしている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b かん孝行たかゆき「ことにおいて後悔こうかいせず かん孝行たかゆき戦後せんごIII 軍人ぐんじん」『映画えいが芸術げいじゅつ』2018ねんなつ464ごう、pp.116-120
  2. ^ a b c d e かん孝行たかゆき「ことにおいて後悔こうかいせず かん孝行たかゆき戦後せんごVII 敗北はいぼく……ひがしかえる」『映画えいが芸術げいじゅつ』2019ねんなつごう だい468ごう編集へんしゅうプロダクションうつげい、p.157
  3. ^ a b かん孝行たかゆき「ことにおいて後悔こうかいせず かん孝行たかゆき戦後せんごVII 敗北はいぼく……ひがしかえる」『映画えいが芸術げいじゅつ』2019ねんなつごう だい468ごう編集へんしゅうプロダクションうつげい、p.158
  4. ^ かん孝行たかゆき「ことにおいて後悔こうかいせず かん孝行たかゆき戦後せんごXII 1970年代ねんだい撮影さつえいしょ時代じだいに」『映画えいが芸術げいじゅつ』2020ねんあきごう だい473ごう編集へんしゅうプロダクションうつげい、p.112
  5. ^ 「グローカル」684ごう(2005/09/12) -「昭和しょうわ天皇てんのう記念きねんかんいらない宣言せんげんだい集会しゅうかい
  6. ^ a b c かん孝行たかゆき「ことにおいて後悔こうかいせず かん孝行たかゆき戦後せんごXII 1970年代ねんだい撮影さつえいしょ時代じだいに」『映画えいが芸術げいじゅつ』2020ねんあきごう だい473ごう編集へんしゅうプロダクションうつげい、p.114