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メタファー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
サミュエル・D・エアハート雑誌ざっしパック英語えいごばん』の風刺ふうし漫画まんが民主党みんしゅとうというレッテルられた農家のうか女性じょせい政変せいへん竜巻たつまきから避難ひなんしている様子ようすえがかれている。

メタファーまれ: μεταφορά[注釈ちゅうしゃく 1]: metaphoráどく: Metapherえい: metaphor)は、隠喩いんゆいんゆ暗喩あんゆあんゆともばれ、伝統でんとうてきには修辞しゅうじ技法ぎほうのひとつとされ、比喩ひゆ一種いっしゅでありながら、比喩ひゆであることを明示めいじする形式けいしきではないものをす。

概説がいせつ

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メタファーは、言語げんごにおいては物事ものごとのある側面そくめんをより具体ぐたいてきイメージ喚起かんきする言葉ことばえ、簡潔かんけつ表現ひょうげんする機能きのうをもつ。わざわざ比喩ひゆであることをしめかたり形式けいしきもちいている直喩ちょくゆよりも洗練せんれんされたものとなされている。

メタファーにもいくつかタイプがあるが、いちれいげると「人生じんせいドラマだ」のような形式けいしきをとるものがある。

集団しゅうだんなか悪影響あくえいきょうおよぼす人物じんぶつをたとえたくさったリンゴ

メタファーは日常にちじょうてき頻繁ひんぱんもちいられているもの、はなしている本人ほんにんづかずにもちいているものから、詩作しさくなどにおいて創造そうぞうされる新奇しんきなものまで、様々さまざまなレベルにわたって存在そんざいしている。

一度いちどこわれると容易よういにはもともどらないものとしてたとえられるハンプティ・ダンプティ

メタファーがもちいられるのは、いわゆる"言語げんご"(言葉ことば)にかぎらず、絵画かいが映画えいがなどの視覚しかく領域りょういきでもきる。

メタファーは人間にんげん類推るいすい能力のうりょく応用おうようとされることもあり、さらに認知にんち言語げんごがく一部いちぶ立場たちばでは、人間にんげん根本こんぽんてき認知にんち方式ほうしきのひとつとなされている(概念がいねんメタファー)。メタファーは、たん言語げんご問題もんだいにとどまるというよりも、もっと根源こんげんてきで、空間くうかんなか身体しんたいってきている人間にんげん世界せかい把握はあくしようとするときけることのできないカテゴリ把握はあく作用さよう原理げんりなのだとかんがえられるようになってきている。

メタファーのれい

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冒頭ぼうとうげた「人生じんせいはドラマだ」はもっとも初歩しょほてきなメタファーである。「…は…だ」というかたち比喩ひゆだということがある。

つぎのようなものもメタファーである。

人生じんせいたびだ。わたし一緒いっしょたびをしてみないか?

このれいなどは、ひとつめのぶんくわえて、ふたつめのぶんわたし一緒いっしょたびをしてみないか?」もメタファーであるが、ひとつめのぶんがメタファーだとかるため、ふたつめもつづきメタファーだとわかる。

つぎ会話かいわれいにもメタファーがふくまれている。

A 「どうしたのですか?」
B 「それが・・・、最近さいきん、いくら努力どりょくしてもうまくきません。つらいことばかりなのです。」
A 「そうですか・・・。一緒いっしょにがんばりましょう。やみふかければ、夜明よあちかいのですよ。」

この会話かいわでは「やみふかければ、夜明よあちかい」がメタファーである。

ひとによっては)メタファーだとづきにくいタイプのメタファーもある。たとえばつぎのようなれいである。

わらべはたり、野中のなかばら (おとこつけた、薔薇ばらを) —  ゲーテばら

わたしにわスミレいた。

上記じょうき2れいのようなメタファーは、こいをする男性だんせいしんまれることがあるものである。

さらにづきにくいれいげる。たとえばつぎのような一文いちぶん芸術げいじゅつてき小説しょうせつなか配置はいちされていれば、それはたんなる情景じょうけい描写びょうしゃというよりもメタファーの可能かのうせいたかい。

そのときかれがふとまどそとると、いちたかが、強風きょうふうにもながされず、空中くうちゅう静止せいししていた。

メタファーは人間にんげん根本こんぽんてき世界せかい認知にんち世界せかいかたふかかかわっており、ききてしん状況じょうきょうったメタファーはつよしんち、おおきな影響えいきょうりょくつ。

古典こてんてきなメタファー

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メタファーは古今ここん東西とうざい文学ぶんがく作品さくひん普遍ふへんてき存在そんざいしている。そのなかでも歴史れきしてきて、おおくの人々ひとびとまれ、影響えいきょうりょくおおきなメタファーをいくつかげる。

メタファーは現存げんそんする最古さいこ文学ぶんがく作品さくひんといわれる『ギルガメシュ叙事詩じょじし』にも豊富ほうふだすことができる。どう作品さくひん多数たすう写本しゃほん作成さくせいされ、ひろ流布るふしたとかんがえられており、現代げんだい視点してんでも文学ぶんがく作品さくひんとしてだい一級いっきゅうだとしばしばひょうされている。

聖書せいしょは、メタファーとたとばなしちた文書ぶんしょ典型てんけいとしてしばしばげられている。聖書せいしょおよびイエス・キリストのたとえはなしは、西洋せいよう文学ぶんがくにおけるメタファーのありかたに多大ただい影響えいきょうあたえている。

わたしはぶどう、あなたがたはそのえだである。もしひとがわたしにつながっており、またわたしがそのひととつながっていれば、そのひとをゆたかにむすぶ。 —  新約しんやく聖書せいしょ、『ヨハネによる福音ふくいんしょ』 15:5、イエス言葉ことば

わたしは、ひかりです。わたししたがものは、けっしてやみなかあゆむことがなく、いのちのひかりつのです —  新約しんやく聖書せいしょ、『ヨハネによる福音ふくいんしょ』 8:12

あなたがたは、しおである。もししおのききめがなくなったら、なにによってそのあじりもどされようか —  新約しんやく聖書せいしょマタイによる福音ふくいんしょ』 5:13 ( 「しおひかり」の記事きじ参照さんしょう

仏教ぶっきょうにおいても、仏陀ぶっだは、相手あいておうじて比喩ひゆたくみにもちいていたとされ、メタファーにちたはなし現在げんざいまでつたわっており、仏教ぶっきょうけん人々ひとびとにはひろ浸透しんとうしている。

涅槃ねはんけいだい29かんでは比喩ひゆを、じゅんたとえぎゃくたとえげんたとえたとえさきたとえこうたとえ先後せんごたとえあまねたとえの8種類しゅるい分類ぶんるいしている。そのなかで、げんたとえ現前げんぜんのものをもって表現ひょうげんする比喩ひゆで、あまねたとえ物語ものがたり全体ぜんたい比喩ひゆであるもののことである。

日本にっぽん仏教ぶっきょう文書ぶんしょにもメタファーは見出みいだすことができる。

なんおもえ弘誓ぐぜいむずかしたびうみする大船おおふな無礙むげ光明こうみょう無明むみょうやみやぶするめぐみなり — 親鸞しんらん教行信証きょうぎょうしんしょうそうじょ冒頭ぼうとう

メタファーかん歴史れきし

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はじめてメタファーの意義いぎ言及げんきゅうしたとわれているのはアリストテレスであり、かれは『詩学しがく』のなかでつぎのようにべている。

「もっとも偉大いだいなのはメタファーの達人たつじんである。通常つうじょう言葉ことばすでっていることしかつたえない。我々われわれ新鮮しんせんなにかをるとすれば、メタファーによってである」

西洋せいよう伝統でんとうてき修辞しゅうじがくでは比喩ひゆ(転義てんぎほう)が研究けんきゅう分類ぶんるいされてきたが、そのなかでもメタファーはとくおおきなテーマとしてあつかわれている。

文芸ぶんげいにおいてはメタファーは一貫いっかんして称揚しょうようされている。

ただし、一時期いちじき近代きんだい言語げんごがく論理ろんりがくでは、メタファーを周辺しゅうへんてき現象げんしょうとし、批判ひはんてきることがあった。近代きんだい哲学てつがくしゃなかには、メタファーによって説得せっとくしようとする議論ぎろんを「非理ひり性的せいてきなもの」として否定ひていするものがおり、たとえばホッブズロックは、メタファーにたよった議論ぎろんを「ばかげており、感情かんじょうをあおるものにぎない」などとして批判ひはんした。

だがこうした少数しょうすう意見いけんのぞけば、一般いっぱんにメタファーは重視じゅうしされており、文芸ぶんげいにおいては、ロマン主義しゅぎ以来いらいは、理性りせいえた想像そうぞうりょく発露はつろであるとなされるようになった。

言語げんご哲学てつがくにおけるメタファー理解りかい変革へんかく

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言語げんご哲学てつがくでは、「隠喩いんゆ言語げんごにおいて特殊とくしゅ現象げんしょうにすぎない」となす見解けんかいがかつて主流しゅりゅうであり、そのに「隠喩いんゆはつねに言語げんご根源こんげんにある」とする見解けんかい登場とうじょうすることになった。前者ぜんしゃ見解けんかいは、ある意味いみ素朴そぼくで、そうなすひとのほうがおおかった。たとえば、古代こだいギリシャのプラトン現代げんだいオースティンなどは前者ぜんしゃ見解けんかいしめした。

一方いっぽうで、近代きんだいにはヴィーコ現代げんだいではマックス・ブラックが、ことなった見解けんかいしめし、言語げんごがくものロマン・ヤコブソンは、絵画かいが文学ぶんがく映画えいがあるいはゆめなどの表現ひょうげんなかには、根本こんぽんてき認知にんち方式ほうしきとしてメタファーの作用さようがあることを指摘してきした。

さらにその、1980ねんジョージ・レイコフマーク・ジョンソンが『レトリックと人生じんせい英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 2]出版しゅっぱんし、「メタファーは抽象ちゅうしょう概念がいねん理解りかいささえる根本こんぽんてき概念がいねん操作そうさである」「言語げんご活動かつどうのみならず、思考しこう行動こうどうにいたるまで、日常にちじょういとなみのあらゆるところにメタファーは浸透しんとうしている[1]」と指摘してきし、多数たすう資料しりょう提示ていじしつつ分析ぶんせきしてみせ、広範囲こうはんい支持しじて、学者がくしゃらのメタファーかんおおきくわった。

メタファーはたんなる言語げんご要素ようそではなく、人間にんげん認知にんち存在そんざい根幹こんかんかかわる要素ようそだという認識にんしきがされるようになり、メタファーを基礎きそえ、概念がいねん理解りかいのしくみ・構造こうぞう解明かいめいしようとする研究けんきゅうすすめられている。

政治せいじにおいても、メタファーがもたらす影響えいきょうについて研究けんきゅうさかんになってきている。

また、精神せいしん分析ぶんせき学者がくしゃラカンのメタファー・メトニミーへの言及げんきゅう重要じゅうようされることがある。ポール・リクール隠喩いんゆろん展開てんかいした。

関連かんれんする概念がいねん

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物語ものがたり全体ぜんたいなにかを暗示あんじするように構成こうせいされたものはぐうたとえばれる。

概念がいねん近接きんせつせいもとづいて意味いみ拡張かくちょうした表現ひょうげんメトニミーまたは換喩かんゆという。「漱石そうせきんだ」、「風呂ふろいた」のような表現ひょうげんがこれにあたる。また概念がいねん上下じょうげ関係かんけいもとづいて意味いみ拡張かくちょうした表現ひょうげんシネクドキまたはひさげたとえという。たとえば「花見はなみ」というかたりにおける「はな」は普通ふつうさくらはなしている。

「…のようだ」「…みたいだ」のように、わざわざ比喩ひゆであることを明示めいじするかたり形式けいしきもちいている比喩ひゆ直喩ちょくゆばれる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ギリシアラテンこぼし: metaphorá
  2. ^ えい: Metaphors we live by

出典しゅってん

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  1. ^ 『レトリックと人生じんせい』pp.2-4.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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