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藤原ふじわらあいはつ

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藤原ふじわら あいはつ
時代じだい 平安へいあん時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん のべれき7ねん788ねん
死没しぼつ うけたまわ10ねん9月16にち843ねん10月16にち
官位かんい せいさん大納言だいなごん
主君しゅくん 平城ひらじろ天皇てんのう嵯峨天皇さがてんのう淳和天皇じゅんなてんのう仁明天皇にんみょうてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきた房前ふさざきりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわらない麻呂まろははつね大神だいじんむすめ
兄弟きょうだい 真夏まなつふゆあきまましさくら麻呂まろぶくとう麻呂まろ長岡ながおかりつあいはつ大津おおつまもるすけおさむたいら○○、めぐみ須子すこいとぐちなつきのゆうつねしつ
つま 藤原ふじわら真夏まなつむすめ
さだあきらあきらただし恒貞親王つねさだしんのう
テンプレートを表示ひょうじ

藤原ふじわら あいはつ(ふじわら の ちかなり/ちかのり/よしちか/よしあきら/あらち)は、平安へいあん時代じだい初期しょき公卿くぎょう藤原ふじわらきた右大臣うだいじん藤原ふじわらない麻呂まろなななん[1]またははちなん官位かんいせいさん大納言だいなごん

経歴けいれき

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大同だいどう4ねん809ねん文章ぶんしょうせいせられ、嵯峨天皇さがてんのうみことのりおうじてしばしば漢詩かんし献上けんじょうしたという[1]ひろしひとし元年がんねん810ねんくすりへんにより高丘たかおか親王しんのうわって大伴おおとも親王しんのう(のち淳和天皇じゅんなてんのう)がすめらぎふとしおとうとてられると、その春宮とうぐう大進たいしんにんぜられる。式部しきぶすすむろく蔵人くろうどて、ひろじん6ねん815ねん正月しょうがつしたがえ兵部ひょうぶしょう叙任じょにんされた。同年どうねん9がつ中務なかつかさしょうに遷る[2]。のち近江おうみかいて、ひろじん13ねん822ねんしたがえじょうみん大輔だいすけよくひろしじん14ねん823ねん正月しょうがつひだりしょうべん叙任じょにんされた。

同年どうねん4がつ大伴おおとも親王しんのう即位そくい淳和天皇じゅんなてんのう)にともなってせいみぎちゅうべんに、よくてんちょう元年がんねん824ねん)にはしたがえよん蔵人くろうどあたまと、淳和じゅんなちょう急速きゅうそく昇進しょうしんたし、てんちょう3ねん826ねん)には参議さんぎとして公卿くぎょうれつした。のち大蔵おおくらきょうひだりだいべん左衛門さえもんとく歴任れきにんし、てんちょう9ねん832ねんしたがえさん中納言ちゅうなごん叙任じょにん。このあいだてんちょう5ねん828ねん)からてんちょう7ねん830ねん)にかけて、皇太子こうたいし正良まさよし親王しんのう(のち仁明天皇にんみょうてんのう)の春宮とうぐう大夫たいふつとめている。

てんちょう10ねん833ねん正良まさよし親王しんのう即位そくい仁明天皇にんみょうてんのう)すると、天皇てんのうそと叔父おじであるたちばなこうや、天皇てんのうちちである嵯峨さが上皇じょうこう信頼しんらいあつおい藤原ふじわらりょうぼうらが急速きゅうそく台頭たいとうするかたわらで、あいはつはしばらくしたがえさん中納言ちゅうなごん地位ちいにとどまるが、うけたまわ7ねん840ねん淳和じゅんな上皇じょうこう崩御ほうぎょまもなくせいさん大納言だいなごん昇進しょうしんする。じん明朝みょうちょう宮廷きゅうていにおいては、皇太子こうたいし恒貞親王つねさだしんのう淳和天皇じゅんなてんのう皇子おうじ)のしゅうととしてその側近そっきん集団しゅうだん中核ちゅうかくをなしたが、そのために仁明天皇にんみょうてんのう皇子おうじであるみちやすし親王しんのう文徳ふみのり天皇てんのう)の擁立ようりつ目論もくろりょうぼう徐々じょじょ対立たいりつふかめた。

うけたまわ9ねん842ねん)にうけたまわへん勃発ぼっぱつすると、りょうぼうおとうと良相りょうしょう近衛このえへいひきいて恒貞親王つねさだしんのうてい包囲ほうい。ここに出仕しゅっししていたあいはつ中納言ちゅうなごん藤原ふじわら吉野よしの参議さんぎ文室ふむろ秋津あきつらとともに謀反むほんじんとして拘束こうそくされてしまう[3]。さらに詮議せんぎ結果けっか京都きょうと郊外こうがい放逐ほうちくとなったため、山城やましろこくひさぜいぐん別邸べっていもり政界せいかい復帰ふっきすることはないまま、よくうけたまわ10ねん843ねん)9がつ16にち薨去こうきょ享年きょうねん57。最終さいしゅう位階いかいせいさん[1]。なお、あいはつ後任こうにん大納言だいなごんにはりょうぼう就任しゅうにんし、これを契機けいきにその権力けんりょく基盤きばんかためていった。

人物じんぶつ

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柔和にゅうわ性格せいかくでむやみにおこったりすることはなく、政務せいむにも熟達じゅくたつしていたという[1]

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『ろく国史こくし』による。

系譜けいふ

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尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d ぞく日本にっぽんうけたまわ10ねん9がつ16にちじょう
  2. ^ a b 日本にっぽんひろしじん6ねん9がつ4にちじょう。『公卿くぎょう補任ほにん』では9月3にち中務なかつかさ大輔だいすけとする。
  3. ^ ぞく日本にっぽんうけたまわ9ねん7がつ23にちじょう
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 公卿くぎょう補任ほにん
  5. ^ 蔵人くろうど補任ほにん
  6. ^ 日本にっぽん逸史いっし
  7. ^ 恒貞親王つねさだしんのうでん

参考さんこう文献ぶんけん

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