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西田にしだ孝宏たかひろ

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西田にしだ 孝宏たかひろ
基本きほん情報じょうほう
ラテン文字もじ Takahiro Nishida
くに 日本の旗 日本にっぽん
出生しゅっしょう 福岡ふくおかけん大牟田おおむた
生年月日せいねんがっぴ (1957-04-14) 1957ねん4がつ14にち(67さい
選手せんしゅ情報じょうほう
階級かいきゅう 男子だんし71kg
獲得かくとくメダル
日本の旗 日本にっぽん
柔道じゅうどう
アジア柔道じゅうどう選手権せんしゅけん
きむ 1981 ジャカルタ 71kgきゅう
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西田にしだ 孝宏たかひろ(にしだ たかひろ、1957ねん4がつ14にち - )は、日本にっぽん柔道じゅうどう講道館こうどうかん8だん)。

現役げんえき時代じだいけいちゅうりょうきゅう選手せんしゅとして全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかいで4かい優勝ゆうしょう講道館こうどうかんはいで5かい優勝ゆうしょうとう実績じっせきのこし、アジア選手権せんしゅけん大会たいかいでもきんメダル獲得かくとくした。 現在げんざい全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめいにて強化きょうか委員いいんかい審判しんぱん委員いいんかい特別とくべつ委員いいん山梨学院大学やまなしがくいんだいがく柔道じゅうどうそう監督かんとくつとめる[1]

また、長女ちょうじょ優香ゆか2010ねん世界せかい選手権せんしゅけん大会たいかい優勝ゆうしょうし、長男ちょうなんたいさとる全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい講道館こうどうかんはい出場しゅつじょう活躍かつやくした経歴けいれきつなど[2]柔道じゅうどう一家いっかでもある。

経歴けいれき

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福岡ふくおかけん大牟田おおむた出身しゅっしん小学校しょうがっこう2年生ねんせいとき周囲しゅうい友人ゆうじん漫画まんが暗闇くらやみだん』の影響えいきょう市内しないにあるかく道場どうじょう[注釈ちゅうしゃく 1]かよはじめたことうらやましく、おのずと興味きょうみいて父親ちちおや入門にゅうもんうたのが斯道しどうはいるきかっけとなった[3]最初さいしょ入門にゅうもんこばんでいた父親ちちおやも3日間にちかんきながらたの孝宏たかひろ根負こんまけし、「絶対ぜったいめんか?」とのいに孝宏たかひろが「絶対ぜったいめん」とかえすと、最後さいごは「わかった、柔道じゅうどうころもってやる」と許可きょかしてくれという[3]かく道場どうじょうでのしゅう6かい[注釈ちゅうしゃく 2]道場どうじょうがよいもにせず稽古けいこんだ西田にしだはメキメキと実力じつりょくみがき、「めたいとおもったことは1かった」と西田にしだ道場どうじょうない昇級しょうきゅう審査しんさとうでは5~6にんこともしばしばであったという[3]。 なお、すみ道場どうじょう年齢ねんれい関係かんけい大人おとな子供こども一緒いっしょ稽古けいこおこなうために自然しぜん体格たいかく物怖ものおじしない度胸どきょうきたえられ、のち高校こうこう大学だいがく自分じぶんより体格たいかくまさ大柄おおがら部員ぶいんたち互角ごかく以上いじょうわたあるいしずえきずかれていき、中学生ちゅうがくせいになるころには界隈かいわいでも西田にしだらないものはいないほど存在そんざいになっていた[3]

その市立しりつ甘木あまぎ中学校ちゅうがっこう[4]大牟田おおむた高校こうこう進学しんがく同級生どうきゅうせいにはかく道場どうじょう時代じだいからの旧知きゅうちなかである杉野すぎの光雄みつお(のち東海大学とうかいだいがく)らがいた。入部にゅうぶさいして西田にしだ顧問こもん前原まえはら勝彦かつひこ(のち大牟田おおむた体育たいいく協会きょうかい会長かいちょう)から身長しんちょう体重たいじゅうわれ、正直しょうじきに「170cm・65kgです」とこたえると、前原まえはらがポツリ「使つかえるかな…」とらしたのに衝撃しょうげきけた[3]くやしさから、“1ねんでレギュラー獲得かくとく”をしんちかった西田にしだ遮二無二しゃにむに稽古けいこはげんで、2年生ねんせいむかえる1974ねんインターハイちゅうりょうきゅう)で優勝ゆうしょうし、大牟田おおむた高校こうこう史上しじょうはつ全国ぜんこく制覇せいはたした。本人ほんにんいわく、「“九州きゅうしゅうせいすれば全国ぜんこくせいする”とわれた時代じだいだったから、全国ぜんこく大会たいかいでも不安ふあんかった」「いちせんいちせん一生懸命いっしょうけんめいたたかったら優勝ゆうしょうしてしまった」とのこと[3]。そのうえで、「エラいことをしてしまった」「これで来年らいねんけたらわらわれるんだろうなと、気持きもちをめながらかえった」とつづける[3]結果けっかてきに、よく75ねんにインターハイへときにはおなちゅうりょうきゅう一本いっぽんしょうかさね2連覇れんぱげた。

一方いっぽう高校こうこう2ねんつぎ父親ちちおや脳溢血のういっけつたおれてしょくうしない、孝宏たかひろ自身じしんちち入浴にゅうよくどき介護かいごとうになっていたこと経済けいざいてき事情じじょうから大学だいがくへの進学しんがくあしんでいたころまわりの親戚しんせきから「大学だいがくって頑張がんばってこい」とエールをおくられたのがキッカケとなり、前原まえはら母校ぼこうでもある東京とうきょう国士舘大学こくしかんだいがく体育たいいく学部がくぶ進学しんがく柔道じゅうどうをとことんまできわめる決心けっしんをした[3]。 そのような事情じじょうもあり、国士舘大学こくしかんだいがく時代じだい西田にしだあそびや女性じょせいはしことく、わきらず柔道じゅうどう精進しょうじん邁進まいしん[3]代表だいひょう合宿がっしゅく国際こくさい大会たいかい出場しゅつじょう関係かんけい活動かつどう一時いちじてきはなれることもあったが、先輩せんぱいから「おまえ生意気なまいきだったらつぶしてやろうとおもったけど、真面目まじめ一生懸命いっしょうけんめい練習れんしゅうするし、なか々いいやつだな」とこえけられたことすらあったという[3]大学だいがく1年生ねんせいとき世界せかいジュニア選手権せんしゅけん大会たいかいちゅうりょうきゅう優勝ゆうしょうかざ[注釈ちゅうしゃく 3]西田にしだ世界せかいつうじるちからたくわえつつあること自覚じかくした。事実じじつ1976ねん11月と77ねん11月の全日本ぜんにほん新人しんじん体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかいではけいちゅうりょうきゅうにて連覇れんぱたし、やく70kgの小柄こがら体格たいかくながら大学だいがくでは自分じぶんよりおおきい相手あいてあいえてもけることはなかったという。 大学だいがく3ねんと4ねんにはシニアの全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい連覇れんぱしたほか、講道館こうどうかんはいで2ねん連続れんぞく2となって、どう階級かいきゅう第一人者だいいちにんしゃかぞえられた。

1980ねん国士舘大学こくしかんだいがく卒業そつぎょう同校どうこう助手じょしゅ選手せんしゅけんコーチ)としてのこり、講道館こうどうかんはい同年どうねんから1983ねんまで4連覇れんぱしたものの、全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかいでは4ねん連続れんぞく2あまんじ、香月かつき清人きよひと中西なかにし英敏ひでとし強豪きょうごうが鎬をけずどう階級かいきゅうにおいて、五輪ごりん世界せかい選手権せんしゅけん大会たいかい代表だいひょう射止いとめる決定けっていけた。 また、1981ねんジャカルタ開催かいさいされたアジア選手権せんしゅけん大会たいかいでも順当じゅんとうがって優勝ゆうしょうしたものの、現地げんちでは生水なまみずまず食事しょくじにも配慮はいりょしていたが、減量げんりょうによって体力たいりょくおとろえたところチフスきんかさなったのがかたきとなって帰国きこくちょうチフスわずらい、これが結果けっかてき西田にしだ柔道じゅうどう人生じんせいにおける転換てんかんてんとなってしまった。入院にゅういん期間きかんの1ヵ月かげつはんあいだ生死せいしさかい彷徨うろつい、体重たいじゅうは10kgちかちて体力たいりょく以前いぜんよりおとり、以後いごスタミナに不安ふあんおぼえた西田にしだまえであった攻撃こうげきてき柔道じゅうどうりをひそめていった[3]

それでも1984ねんよく85ねん全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい連覇れんぱし、講道館こうどうかんはいでも85ねん大会たいかいせいして、同年どうねん6がつソウル開催かいさいされただい14かい世界せかい選手権せんしゅけん大会たいかい日本にっぽん代表だいひょうとして選抜せんばつされた。ようやくつかんだ世界せかいせんほん大会たいかいでは、3回戦かいせん相対あいたいした前年ぜんねんロサンゼルス五輪ごりん覇者はしゃであるやすとの試合しあい中盤ちゅうばんまで優位ゆういすすめたものの、試合しあい途中とちゅう左足ひだりあし十字じゅうじ靭帯じんたい外側そとがわ靭帯じんたいだんきれするアクシデントにい、結果けっか7西田にしだ大会たいかいえた。選手せんしゅとしてのピークをぎた28さい西田にしだにとってはしらげいちはい健闘けんとうであった。日本にっぽん帰国きこく左足ひだりあしだい怪我けが手術しゅじゅつけ、西田にしだあしにはいま手術しゅじゅつこんがクッキリとのこる。結果けっかてきにこの怪我けが原因げんいんとなって現役げんえき生活せいかつへのピリオドを余儀よぎなくされた[3]どう世代せだい好敵手こうてきしゅに1さい年下としした東海大学とうかいだいがく出身しゅっしん中西なかにし英敏ひでとしがおり、両者りょうしゃ国際こくさい大会たいかい出場しゅつじょうけて永年えいねんきそった。とくに1984ねんのロサンゼルス五輪ごりんでは、選考せんこうかいとなる全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい西田にしだ優勝ゆうしょうしながら全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい選考せんこう中西なかにしえらばれたため、西田にしだつい五輪ごりん出場しゅつじょうすることかった。本人ほんにんは「全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけんで4かい講道館こうどうかんはいで5かい優勝ゆうしょうして、世界せかい選手権せんしゅけん代表だいひょうに1しかえらばれなかったのはわたしくらいでしょう」と前置まえおきしたうえで、「山下やました泰裕やすひろたに亮子あきこのようにだんトツにつよく、だれてもえらばれるような成績せいせきのこせていれば…」と述懐じゅっかいする[3]

西田にしだ現役げんえき引退いんたい1987ねん鹿屋体育大学かのやたいいくだいがく教員きょういん着任ちゃくにんした。東京とうきょう都心としんにあった母校ぼこう国士舘大学こくしかんだいがくとはってわり九州きゅうしゅうのほぼ最南端さいなんたん位置いちする鹿屋体育大学かのやたいいくだいがくでは、西田にしだみずから7~8あいだハンドルにぎって福岡ふくおかけんでの試合しあい遠征えんせい出掛でかけることもしばしばであったという[3]。また、現役げんえき時代じだいみずからの努力どりょく試合しあいでの成績せいせき直結ちょっけつしたが、指導しどうしゃとなると、自分じぶん頑張がんばってもおし学生がくせいたち結果けっかいてくるとはかぎらず、そのジレンマにもおおいになやまされた[3]。それでもねばづよ熱心ねっしん指導しどう甲斐かいもあり、鹿屋体育大学かのやたいいくだいがく時代じだいには学生がくせい王者おうじゃとなった乙部おとべ将彦まさひこ(のちアジア選手権せんしゅけん大会たいかい3)や原田はらだ堅一けんいち(のちフランス国際こくさい大会たいかい優勝ゆうしょう)を筆頭ひっとうに、全日本ぜんにほん学生がくせい体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい上位じょうい選手せんしゅ輩出はいしゅつしている。 一方いっぽう山梨学院大学やまなしがくいんだいがく訪問ほうもんしたさいスポーツへの理解りかいふかさに感銘かんめいけた西田にしだは、いつしか同大どうだい柔道じゅうどう指導しどうをしたいとおもうようにもなっていった[3]

山梨学院大学やまなしがくいんだいがくでは当初とうしょ職員しょくいん採用さいよう予定よていかったものの、学長がくちょう熱意ねつい直接ちょくせつつたえる機会きかい西田にしだ1996ねん1がつに38さいわかさで柔道じゅうどうまかされることとなった[3]西田にしだ指導しどうのもとで地力じりき着実ちゃくじつたくわえていった山梨学院大学やまなしがくいんだいがくは、2003ねんには全日本ぜんにほん学生がくせい優勝ゆうしょう大会たいかい伝統でんとうある名門めいもんこう明治大学めいじだいがくやぶれはしたものの2-2の内容ないようほどに。この大会たいかい部員ぶいんたち反省はんせいぶんかせたところ、「もう気後きおくれしない」「てたんじゃないか」と前向まえむきな感想かんそうおおく、西田にしだ学生がくせいのメンタルめんでの成長せいちょうはだかんじたという[3]。 なお、その2010ねん11ねんには2ねん連続れんぞくで3入賞にゅうしょうたしており、明治大学めいじだいがく東海大学とうかいだいがく国士舘大学こくしかんだいがく天理大学てんりだいがく日本にっぽん大学だいがく筑波大学つくばだいがくひとしならんでいわゆる強豪きょうごうこうの1つにかぞえられるようになった。 また、女子じょし柔道じゅうどうでは2006ねん全日本ぜんにほん学生がくせい優勝ゆうしょう大会たいかい(5にんせい)ではつ優勝ゆうしょうしたのを皮切かわきりに、08ねん・10ねん・11ねんにも優勝ゆうしょうし、2014ねんからは4連覇れんぱたしている。このあいだ浅見せんけんはち瑠奈るな山部やまべ佳苗かなえ世界せかい活躍かつやくする選手せんしゅたち育成いくせいした。 一方いっぽう西田にしだはその卓越たくえつした指導しどうりょくわれ、全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい日本にっぽん代表だいひょうコーチやユニバーシアード男子だんし代表だいひょう監督かんとくつとめている[4]

現在げんざい山梨学院大学やまなしがくいんだいがくにて、法学部ほうがくぶ政治せいじ行政ぎょうせい学科がっか教授きょうじゅとして教鞭きょうべん一方いっぽう同校どうこう柔道じゅうどうそう監督かんとくとして後進こうしん指導しどうたる。鹿屋体育大学かのやたいいくだいがく時代じだいの嘗(かつ)てのおしたちが“西にしやわらかい”としょうすOBかい結成けっせいして定期ていきてき西田にしだもとつどい、そのなかには学生がくせい山梨学院大学やまなしがくいんだいがくおくんでいるものあらわれた。西田にしだは「おしおしだからまごみたいなもの」とわらう。また全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめいでは、強化きょうか委員いいんかい審判しんぱん委員いいんかい特別とくべつ委員いいんといった重責じゅうせきにない、なが柔道じゅうどうかい運営うんえいにもたずさわっている。 このほか理路りろ整然せいぜんとしたかりやすい説明せつめいかたくちから、五輪ごりん世界せかい選手権せんしゅけん大会たいかいとうだい規模きぼ大会たいかいでは新聞しんぶんほかマスコミ媒体ばいたい試合しあい解説かいせつつとめることもある[注釈ちゅうしゃく 4]

おも戦績せんせき

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- 世界せかいジュニア選手権せんしゅけん大会たいかいちゅうりょうきゅう) 優勝ゆうしょう
- 講道館こうどうかんはい軽量けいりょうきゅう) じゅん優勝ゆうしょう
  • 1979ねん - 全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい軽量けいりょうきゅう) 優勝ゆうしょう
- 講道館こうどうかんはい軽量けいりょうきゅう) じゅん優勝ゆうしょう
  • 1980ねん - 全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい軽量けいりょうきゅう) じゅん優勝ゆうしょう
- 講道館こうどうかんはい軽量けいりょうきゅう) 優勝ゆうしょう
- 全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい軽量けいりょうきゅう) じゅん優勝ゆうしょう
- 講道館こうどうかんはい軽量けいりょうきゅう) 優勝ゆうしょう
  • 1982ねん - 全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい軽量けいりょうきゅう) じゅん優勝ゆうしょう
- 講道館こうどうかんはい軽量けいりょうきゅう) 優勝ゆうしょう
  • 1983ねん - 全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい軽量けいりょうきゅう) じゅん優勝ゆうしょう
- 講道館こうどうかんはい軽量けいりょうきゅう) 優勝ゆうしょう
  • 1984ねん - 全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい軽量けいりょうきゅう) 優勝ゆうしょう
- 講道館こうどうかんはい軽量けいりょうきゅう) じゅん優勝ゆうしょう
- 全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい軽量けいりょうきゅう) 優勝ゆうしょう
- 講道館こうどうかんはい軽量けいりょうきゅう) 優勝ゆうしょう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 館主かんしゅ武道ぶどう専門せんもん学校がっこう出身しゅっしんすみ利男としお(のち講道館こうどうかん9だん)。
  2. ^ 本来ほんらいすみ道場どうじょうしゅう7かい稽古けいこやすみは1にちもなかったが、あそざかりの西田にしだ少年しょうねんたちはしめしあわせて日曜日にちようび稽古けいこをボイコットし、道場どうじょうかようのをしゅう6かいにしていた。後年こうねん大人おとなになった西田にしだかくに「いまでも日曜日にちようびやすみですか?」といたら、かくは「馬鹿者ばかものおれやすみにしたおぼえはない。おまえたち勝手かってやすんでいただけだ。」とわらっていたという[3]
  3. ^ のち2004ねん世界せかいジュニア選手権せんしゅけん大会たいかいではむすめ優香ゆか女子じょし52kgきゅう優勝ゆうしょうし、ちちむすめ2だいでの世界せかいジュニアチャンピオンとなった。
  4. ^ 2012ねんロンドン五輪ごりんさい論争ろんそうんだ審判しんぱん問題もんだいでは、東京とうきょう新聞しんぶん紙上しじょうにて「ジュリー審判しんぱんだん)はくちぎ」と苦言くげんていしていた[5]

出典しゅってん

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  1. ^ 審判しんぱん委員いいんかい 全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい公式こうしきサイト
  2. ^ 全日本ぜんにほん選抜せんばつ柔道じゅうどう体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけんやまがくだい柔道じゅうどうから史上しじょう最多さいたの7にん出場しゅつじょう 山梨やまなし学院がくいんニュースファイル
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 布施ふせこう (2004ねん6がつ20日はつか). “転機てんき-あの試合しあい、あの言葉ことば だい29かい 西田にしだ孝宏たかひろ -指導しどうしゃとしてきる栄光えいこう挫折ざせつ経験けいけん-”. 近代きんだい柔道じゅうどう(2004ねん6がつごう)、60-63ぺーじ (スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ) 
  4. ^ a b ベオグラードユニバーシアード 日本にっぽん代表だいひょう選手せんしゅだん名簿めいぼ柔道じゅうどう競技きょうぎ (PDF) 日本にっぽんオリンピック委員いいんかい
  5. ^ 柔道じゅうどうジュリー問題もんだい続報ぞくほう ジュリーは口出くちだぎ -西田にしだ孝宏たかひろ”. 東京とうきょう新聞しんぶん (中日新聞ちゅうにちしんぶん東京とうきょう本社ほんしゃ). (2012ねん7がつ30にち) 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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