西田にしだ龍雄たつお

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西田にしだ 龍雄たつおにしだ たつお
日本学士院にほんがくしいんにより
公表こうひょうされた肖像しょうぞう写真しゃしん
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1928-11-26) 1928ねん11月26にち
日本の旗 日本にっぽん大阪おおさか大阪おおさか
死没しぼつ 2012ねん9月26にち(2012-09-26)(83さい
日本の旗 日本にっぽん 京都きょうと宇治うじ
出身しゅっしんこう 京都大学きょうとだいがく
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 言語げんごがく(チベット・ビルマ諸語しょご)
研究けんきゅう機関きかん 京都大学きょうとだいがく
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西田にしだ 龍雄たつお(にしだ たつお、1928ねん11月26にち - 2012ねん9月26にち)は、日本にっぽん言語げんご学者がくしゃ京都大学きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ学術情報がくじゅつじょうほうセンター名誉めいよ教授きょうじゅもと日本学士院にほんがくしいん会員かいいん文化ぶんか功労こうろうしゃ日本学士院にほんがくしいん恩賜おんししょう受賞じゅしょう

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1928ねん大阪おおさかまれた。1948ねん京都大学きょうとだいがく文学部ぶんがくぶ入学にゅうがく言語げんごがく専攻せんこうまなび、1951ねん卒業そつぎょう卒業そつぎょうどう大学だいがく大学院だいがくいん進学しんがくし、1956ねん修了しゅうりょう

卒業そつぎょうは、1956ねん4がつより京都大学きょうとだいがく文学部ぶんがくぶ非常勤ひじょうきん講師こうし1958ねん7がつどう助教授じょきょうじゅ就任しゅうにん同年どうねん10がつから翌年よくねん5がつまで、ビルマ研究けんきゅう出張しゅっちょう1959ねん京都きょうと大学だいがく村田むらた治郎じろう(建築けんちくがく)が主宰しゅさいしてすすめられていた共同きょうどう研究けんきゅう成果せいかきょいさおせき』の成果せいかにより、日本学士院にほんがくしいんしょう共同きょうどう受賞じゅしょう

1962ねん学位がくい論文ろんぶん西にしなつ文字もじ分析ぶんせきならびに西にしなつ文法ぶんぽう研究けんきゅう』を京都大きょうとだいがく提出ていしゅつして文学ぶんがく博士はかせ学位がくい取得しゅとく[1][2]。1963ねん5がつから6がつにかけて、東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがくアジア・アフリカ言語げんご文化ぶんか研究所けんきゅうじょ設立せつりつ準備じゅんびのために欧州おうしゅう諸国しょこく研究けんきゅう出張しゅっちょう。1964ねん9がつから65ねん2がつタイ王国おうこく研究けんきゅう出張しゅっちょう。1970ねん3がつから71ねん1がつまで、文部省もんぶしょう在外ざいがい研究けんきゅういんとしてソビエト連邦れんぽうなどに出張しゅっちょう1972ねん京都きょうと大学だいがく文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅ昇格しょうかく。1978ねんから79ねんには、文学ぶんがく部長ぶちょうつとめた。1992ねん京都きょうと大学だいがく定年ていねん退官たいかんし、名誉めいよ教授きょうじゅとなった。

そのは、1992ねんから学術情報がくじゅつじょうほうセンターふく所長しょちょう教授きょうじゅ。1994ねん3がつ学術情報がくじゅつじょうほうセンターふく所長しょちょう退任たいにん名誉めいよ教授きょうじゅとなった。1997ねんより財団ざいだん法人ほうじん東洋文庫とうようぶんこ研究けんきゅういん。1999ねん日本学士院にほんがくしいん会員かいいん選出せんしゅつ[3]。2001ねん1がつには、こうしょはじめで「西にしなつ文字もじ研究けんきゅうしん段階だんかい」を進講しんこう。2012ねん9がつ26にち心不全しんふぜんのため京都きょうと宇治うじ死去しきょ[4]ぼつづけをもってせいよんじょされた。

学界がっかいでは、1979ねんから1981ねんまで日本にっぽん言語げんご学会がっかい会長かいちょうつとめた[5]

その役職やくしょく[編集へんしゅう]

  • 京都きょうと大学だいがく評議ひょうぎいん(1976ねん~1978ねん)
  • 京都きょうと大学だいがく附属ふぞく図書館としょかんちょう(1986ねん~1992ねん)。
  • 日本にっぽん学術がくじゅつ会議かいぎ会員かいいん(だい13:1985ねん~1988ねん)
  • 国立こくりつ大学だいがく図書館としょかん協議きょうぎかいふく会長かいちょう(1986ねん~1989ねん)

受賞じゅしょう栄典えいてん[編集へんしゅう]

文化ぶんか功労こうろうしゃ顕彰けんしょうさいして公表こうひょうされた肖像しょうぞう写真しゃしん

研究けんきゅう内容ないよう業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

せんもん東洋とうよう言語げんごがくとくに、チベット・ビルマ諸語しょご研究けんきゅう1950年代ねんだいすえからの西にしなつ文字もじ解読かいどく仕事しごとたか評価ひょうかされた。映画えいが敦煌とんこう(1988ねん公開こうかい)での監修かんしゅう考証こうしょうにも協力きょうりょくしている。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

たんちょ[編集へんしゅう]

  • 西にしなつ研究けんきゅう西にしなつさい構成こうせい西にしなつ文字もじ解読かいどく座右ざゆうたから刊行かんこうかい、1964ねん
  • きている象形しょうけい文字もじ モソぞく文化ぶんか中公新書ちゅうこうしんしょ、1966ねん
  • 西にしなつ文字もじ ― その解読かいどくのプロセス』紀伊国屋きのくにや新書しんしょ、1967ねん(単行たんこうばん復刻ふっこく 紀伊国屋きのくにや書店しょてん、1994ねん)
  • 西番にしのばんかん訳語やくご研究けんきゅう チベット言語げんごがく序説じょせつまつかおりどう、1970ねん
  • はる甸館訳語やくご研究けんきゅう ビルマ言語げんごがく序説じょせつまつかおりどう、1972ねん
  • ぞく訳語やくご研究けんきゅう しん言語げんごトス構造こうぞう系統けいとうまつかおりどう、1973ねん
  • 西にしなつぶん華厳経けごんきょう京都大学きょうとだいがく文学部ぶんがくぶ、1975ねん-1977ねん
  • 『アジアの解読かいどく文字もじ その解読かいどくのはなし』大修館書店たいしゅうかんしょてん、1982ねん
  • 漢字かんじ文明ぶんめいけん思考しこう地図ちず ひがしアジア諸国しょこく漢字かんじをいかにれ、変容へんようさせたか』PHP研究所けんきゅうじょ、1984ねん
  • 西にしなつ文字もじはなし シルクロードなぞ大修館書店たいしゅうかんしょてん、1989ねん
  • 西にしなつ王国おうこく言語げんご文化ぶんか岩波書店いわなみしょてん、1997ねん
  • ひがしアジアしょ言語げんご研究けんきゅう〈1〉』京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2000ねん
  • きている象形しょうけい文字もじがつ書房しょぼう、2001ねん
  • 『アジア古代こだい文字もじ解読かいどく中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2002ねん
  • 西にしなつ研究けんきゅう法華経ほけきょう 1-4』東洋とうよう哲学てつがく研究所けんきゅうじょ、2007ねん

きょう編著へんちょほか[編集へんしゅう]

資料しりょう[編集へんしゅう]

  • りゃく年譜ねんぷ」『追悼ついとう 西田にしだ龍雄たつお先生せんせい[8]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 博士はかせろん文書ぶんしょデータベース
  2. ^ 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. “博士はかせ論文ろんぶん西にしなつ文字もじ分析ぶんせきならびに西にしなつ文法ぶんぽう研究けんきゅう”. 2023ねん4がつ20日はつか閲覧えつらん
  3. ^ 物故ぶっこ会員かいいん(西田にしだ龍雄たつお)
  4. ^ 西田にしだ龍雄たつお死去しきょ 西にしなつ文字もじ解明かいめい文化ぶんか功労こうろうしゃ 京大きょうだい名誉めいよ教授きょうじゅ. 京都きょうと新聞しんぶん. (2012ねん9がつ27にち). http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20120927000078 2012ねん12月31にち閲覧えつらん 
  5. ^ 日本にっぽん言語げんご学会がっかい
  6. ^ 朝日あさひしょう 1971-2000年度ねんど”. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2022ねん8がつ19にち閲覧えつらん
  7. ^ 弟子でしとうとの座談ざだんでの回想かいそう収録しゅうろく
  8. ^ [1]