こおりたもつむね

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こおり たもつむね(葆淙、こおり ほそう[1] / やすむね[2]1847ねん5月16にちひろし4ねん4がつ2にち[1][3])- 1918ねん大正たいしょう7ねん3月27にち[1][2])は、幕末ばくまつ福岡ふくおか藩士はんし明治めいじ大正たいしょう政治せいじ神職しんしょく公吏こうり郷土きょうどいえ[4]衆議院しゅうぎいん議員ぎいんげんようしゃ社員しゃいん[4]幼名ようみょう・乃、するどいみなむねごう・葆淙[1][3][5]旧名きゅうめい兵衛ひょうえ水穂みずほ麿まろちょくきよし[1][3]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

筑前ちくぜんこく那珂なかぐん福岡ふくおか極楽寺ごくらくじまちげん福岡ふくおかけん福岡ふくおか中央ちゅうおう天神てんじん)で、福岡ふくおか藩士はんしこおりとしせい長男ちょうなんとしてまれる[1][3]文久ぶんきゅう元年がんねん(1861ねん)に家督かとく相続そうぞく[3]文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん長州ちょうしゅうはんでの下関しものせき戦争せんそう勃発ぼっぱつともない、はんさかい黒崎くろさき警備けいび従事じゅうじした[1][3]。このとしはじめて青柳あおやぎ種信たねのぶ著書ちょしょ国学こくがく研究けんきゅうこころざした[1][3]慶応けいおう元年がんねん(1865ねんきょう三条さんじょう実美みみ三条西さんじょうにし季知すえとも四条しじょうたかしひがし久世くせどおり壬生みぶはじめおさむ)の長州ちょうしゅうはんから大宰府だざいふへの移送いそうともな警備けいび任務にんむにつき、若松わかまつ二日ふつかなどに駐留ちゅうりゅうした[3]同年どうねんじゅうしゅあたま納戸なんどやくとなり藩主はんしゅ黒田くろだちょう近侍きんじした[1][3]。その京都きょうと留学りゅうがくとなり外交がいこうかた兼務けんむしょはん応接おうせつたったがはんとなり、れい試補しほあらわいさみたい中隊ちゅうたい司令しれい歴任れきにん[3][6]慶応けいおう3ねん(1867ねん京都きょうと情勢じょうせいともなはんから派遣はけんされた警備けいびたい参加さんか[3]鳥羽とば伏見ふしみたたかのち対応たいおうたってはんした[3][7]

明治めいじ3ねん(1870ねん東京とうきょう留学りゅうがくめいぜられ、国学こくがくしゃ権田ごんだじきすけ入門にゅうもんしたが、ぐん断髪だんぱつ姿すがたこのまずもともどそうとしたが拒否きょひして退ずさじゅくし、廃藩置県はいはんちけんにより帰郷ききょうした[3][5]。その筥崎宮はこざきぐう祠官しかんしろみね神社じんじゃ伊勢神宮いせじんぐう吉田よしだ神社じんじゃなどの神職しんしょくつとめて、1874ねん明治めいじ7ねん)に帰郷ききょう[1][3]佐賀さがらん勃発ぼっぱつ直前ちょくぜんで、きゅう藩士はんしらと対応たいおう協議きょうぎし、同志どうしから江藤えとう新平しんぺいもと派遣はけんされたが、到着とうちゃくらん発生はっせいしており情勢じょうせい把握はあくしようするなか反乱はんらんぐん政府せいふ間諜かんちょううたがわれ拘束こうそくされたが、冷静れいせい対応たいおう弁明べんめいによって解放かいほうされた[3][8]。その伊勢神宮いせじんぐう吉田よしだ神社じんじゃなどの神職しんしょくけんけんだい講義こうぎ福岡ふくおかけん出仕しゅっしなどを歴任れきにんし、1878ねん明治めいじ11ねんこおり町村ちょうそん編制へんせいほう制定せいていにより福岡ふくおか区長くちょう就任しゅうにんした[3][9]1879ねん明治めいじ12ねん条約じょうやく改正かいせい問題もんだい国会こっかい開設かいせつ運動うんどう機運きうんたかまり、きゅう筑前ちくぜんこくうちかくぐん有志ゆうし博多はかたあつめて大会たいかい開催かいさいし、元老げんろういんへの建議けんぎおこなった[3][10]。また筑前ちくぜんどもあい公衆こうしゅうかい組織そしきして、福岡ふくおか連合れんごう本部ほんぶ設置せっちされ本部ほんぶちょう就任しゅうにんし、公職こうしょくした[1][3][10]1880ねん明治めいじ13ねん福岡ふくおかけん会議かいぎいん選出せんしゅつされ、福岡ふくおかにちにち新聞しんぶん社長しゃちょうけん主筆しゅひつつとめた[4][3]同年どうねん国会こっかい期成きせい同盟どうめいかい組織そしきされるとふく会長かいちょう幹事かんじされて東京とうきょう活動かつどうした[1][3]。そのけん会議かいぎいん常置じょうち委員いいん内務省ないむしょうじゅんそうにん御用ごようかけ参事院さんじいん勤務きんむ那珂なか御笠みかさせきぐんちょう福岡ふくおか会議かいぎいんどう参事さんじ会員かいいんなどを歴任れきにんした[1][2][3][11]

1892ねん明治めいじ25ねん)2がつだい2かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ福岡ふくおかけんだい3から出馬しゅつばして当選とうせんし、議員ぎいん倶楽部くらぶ所属しょぞくして衆議院しゅうぎいん議員ぎいんを1つとめた[1][2][4]以後いご福岡ふくおか参事さんじ会員かいいん嘉穂かほぐんちょうつとめて1901ねん明治めいじ34ねん)に辞職じしょくして引退いんたいした[1][2][3]。1913ねん大正たいしょう2ねん筑紫つくし史談しだんかい設立せつりつさいして発起人ほっきにんとなり、どうかい発展はってんくし論考ろんこう執筆しっぴつした[3]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 吉田よしだ利行としゆきちょこおりたもつむねぞうてい明治めいじ新選しんせん帝国ていこく文明ぶんめい吉岡よしおかたからぶんのきはやし磊落らいらくどう、1892ねん
編著へんちょ
  • 高等こうとう小学しょうがく日本にっぽん 甲種こうしゅ1』はやし彦之すけ、1894ねん
  • 高等こうとう小学しょうがく日本にっぽん 甲種こうしゅ2』はやし彦之すけ、1894ねん
  • 高等こうとう小学しょうがく日本にっぽん 乙種おつしゅ1』はやし彦之すけ、1894ねん
  • 高等こうとう小学しょうがく日本にっぽん 乙種おつしゅ2』はやし彦之すけ、1894ねん
  • 高等こうとう小学しょうがく日本にっぽん 乙種おつしゅ3』はやし彦之すけ、1894ねん
  • 高等こうとう小学しょうがく日本にっぽん 乙種おつしゅ4』はやし彦之すけ、1894ねん

親族しんぞく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 福岡ふくおかけん人物じんぶつ人材じんざい情報じょうほうリスト 2013 だい1かん』31ぺーじ
  2. ^ a b c d e 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』262ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 筑紫つくし史談しだんだい18しゅう、43-45ぺーじ
  4. ^ a b c d e f げんようしゃ封印ふういんされた実像じつぞうげんようしゃ社員しゃいん名簿めいぼ34-35ぺーじ
  5. ^ a b 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん候補者こうほしゃ列伝れつでん』863ぺーじ
  6. ^ 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん候補者こうほしゃ列伝れつでん』866ぺーじ
  7. ^ 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん候補者こうほしゃ列伝れつでん』865ぺーじ
  8. ^ 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん候補者こうほしゃ列伝れつでん』867-868ぺーじ
  9. ^ 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん候補者こうほしゃ列伝れつでん』869ぺーじ
  10. ^ a b 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん候補者こうほしゃ列伝れつでん』869-870ぺーじ
  11. ^ 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん候補者こうほしゃ列伝れつでん』871-872ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 福岡ふくおかけん人物じんぶつ人材じんざい情報じょうほうリスト 2013 だい1かん日外にちがいアソシエーツ、2012ねん
  • 石瀧いしたき豊美とよみげんようしゃ封印ふういんされた実像じつぞう海鳥うみどりしゃ、2010ねん
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん
  • 筑紫つくし史談しだんだい18しゅう筑紫つくし史談しだんかい、1918ねん
  • 大久保おおくぼ利夫としお衆議院しゅうぎいん議員ぎいん候補者こうほしゃ列伝れつでん : いちめい帝国ていこく名士めいしくさむらでん だいへん六法ろっぽうかん、1890ねん