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金井かないきよし (諏訪すわ市長しちょう)

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金井かないきよし

金井かない きよし(かない きよし、1884ねん明治めいじ17ねん12月7にち[1][2] - 1966ねん昭和しょうわ41ねん4がつ26にち[2])は、日本にっぽん官僚かんりょう政治せいじ太平洋戦争たいへいようせんそうまえ鉄道てつどう官僚かんりょう歴任れきにんし、戦後せんご長野ながのけん諏訪すわちょう通算つうさん2つとめた。

人物じんぶつ

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長野ながのけん諏訪すわぐん上諏訪かみすわまち現在げんざい諏訪すわ上諏訪かみすわ)にまれる[3]諏訪すわぐんりつ実科じっか中学校ちゅうがっこうげん長野ながのけん諏訪すわ清陵せいりょう高等こうとう学校がっこう)、東京とうきょう府立ふりつだいいち中学校ちゅうがっこうげん東京とうきょう都立とりつ日比谷ひびや高等こうとう学校がっこう)をて、1903ねん第一高等学校だいちこうとうがっこう入学にゅうがく。3ねん在学ざいがくちゅう1905ねん市河いちかわ三喜さんきわって動物どうぶつ学者がくしゃアンダーソン行動こうどうをともにし、1906ねんにも協力きょうりょくする[3]。1905ねんにアンダーソンに随行ずいこうしたさいに、奈良ならけん東吉野ひがしよしのむら鷲家わしかこうで、最後さいごのものとされるニホンオオカミ捕獲ほかく個体こたい(ただし猟師りょうしによりすでにころされていた)にっている[ちゅう 1]

1907ねん第一高等学校だいちこうとうがっこう卒業そつぎょう[3]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく入学にゅうがく。1911ねん法科ほうか大学だいがく政治せいじ学科がっか卒業そつぎょうした[1]同年どうねん高等こうとう文官ぶんかん試験しけん合格ごうかくし、鉄道てつどういん(1920ねんより鉄道てつどうしょう)に入省にゅうしょうして書記しょきとなった[1]。その鉄道てつどういんふく参事さんじ鉄道てつどういん参事さんじ歴任れきにんした[1]

1923ねん鉄道てつどうしょう参事官さんじかんだった金井かない関東大震災かんとうだいしんさいからの復興ふっこう目的もくてきとして設立せつりつされた帝都ていと復興ふっこういん出向しゅっこう帝都ていと復興ふっこういん書記官しょきかん総裁そうさい官房かんぼう事務じむ取扱とりあつかい[4]復興ふっこうきょく文書ぶんしょ課長かちょうにんじられた[1][ちゅう 2]。1925ねん鉄道てつどうしょう復帰ふっきして書記官しょきかん監督かんとくきょく業務ぎょうむ課長かちょうつとめた[1]。その朝鮮ちょうせん総督そうとく鉄道てつどうきょく参事さんじ兼任けんにんし、6ねんにわたって北京ぺきん上海しゃんはい駐在ちゅうざいした[5]1932ねん鉄道てつどう監察かんさつかん最後さいご退官たいかんした[6]

退官たいかんみなみ満州まんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ哈爾はま建設けんせつ事務所じむしょちょう、哈爾はま取引とりひきしょ理事りじにちふつたいまん事業じぎょう公司こうし常務じょうむ理事りじちゅうささえ振興しんこう株式会社かぶしきがいしゃ理事りじ太平洋たいへいよう協会きょうかい参与さんよ歴任れきにんした[5][6]

戦後せんご1945ねん昭和しょうわ20ねん)10がつ諏訪すわ市長しちょう就任しゅうにん市政しせいなおしに尽力じんりょくしたが[7]公職こうしょく追放ついほうとなり[8]、1947ねん昭和しょうわ22ねん)2がつ市長しちょう退任たいにん[7]追放ついほう解除かいじょ1951ねん昭和しょうわ26ねん)4がつ現職げんしょく塚原つかはらあしって諏訪すわ市長しちょう再選さいせんされ、諏訪すわぐん中洲なかずむら湖南こなみむら諏訪すわへの編入へんにゅう尽力じんりょくし、1955ねん昭和しょうわ30ねん)4がつ1にち編入へんにゅうされた[9]同年どうねん同月どうげつ15にち市長しちょう退任たいにんし、市長しちょう通算つうさん2在任ざいにんした[9]

市長しちょう退職たいしょくふたた鉄道てつどうかいはいり、1966ねん4がつ26にちぼっしたとき社団しゃだん法人ほうじん世界せかい貿易ぼうえきセンター理事りじであった[3]

論文ろんぶん

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  • 金井かないきよし日本にっぽんれた最後さいごおおかみ」『まんしゅう生物せいぶつ学会がっかい会報かいほうだい2かんだい2ごうまんしゅう生物せいぶつ学会がっかい、19-20ぺーじ、1939ねん [3]

親族しんぞく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 金井かないは1938ねんちゅうささえ振興しんこう株式会社かぶしきがいしゃ理事りじ就任しゅうにんして立川たちかわ飛行場ひこうじょうから軍用ぐんよう上海しゃんはいかう途中とちゅう、「奈良ならけん上空じょうくうでふとした見下みくだすと杉林すぎばやし密林みつりんである。そのとき33ねんまえ此の杉林すぎばやしなか鷲家わしかこう宿やどに、M.P.アンダーソンととも週間しゅうかんばかり滞在たいざいしておおくの動物どうぶつ採集さいしゅうしたことおもした」(金井かないきよし 1939)という(上野うえのえきさん 1969)。
  2. ^ 金井かないおな鉄道てつどうしょう参事官さんじかんであった十河そごう信二しんじ戦後せんごだい4だい日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう総裁そうさい)も同時どうじ帝都ていと復興ふっこういん書記官しょきかん(さんとう) ・総裁そうさい官房かんぼうにんじられている(大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん 1923)。「したがって、復興ふっこうきょく要職ようしょくちゅう整地せいち建築けんちく以外いがいは殆んど鉄道てつどうしょう出身しゅっしんめられて仕舞しまった。なかにも大田おおた(太田おおた?)、十河そごう金井かない」のコンビ勢力せいりょくもっと強大きょうだい、という状態じょうたいであった(松浦まつうら茂樹しげき 2012)。1924ねん8がつ復興ふっこうきょく疑獄ぎごく事件じけん十河そごう信二しんじ逮捕たいほされ、再審さいしん無罪むざいとなるも1926ねん退職たいしょくし、みなみ満州まんしゅう鉄道てつどう理事りじきょうちゅう公司こうし社長しゃちょう歴任れきにんした(満州まんしゅう日報にっぽう 1935)。疑獄ぎごく事件じけんではほかに太田おおたえんさん自殺じさつする事態じたいとなった。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f 大衆たいしゅう人事じんじろく 1930.
  2. ^ a b 全国ぜんこく歴代れきだい知事ちじ市長しちょう総覧そうらん』210ぺーじ
  3. ^ a b c d e 上野うえのえきさん 1969.
  4. ^ 大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん 1923.
  5. ^ a b c 人事じんじ興信録こうしんろく 1941.
  6. ^ a b 人事じんじ興信録こうしんろく 1937.
  7. ^ a b 日本にっぽん歴代れきだい市長しちょう だい2かん』271ぺーじ
  8. ^ 公職こうしょく追放ついほう該当がいとう事項じこうは「ちゅうささえ振興しんこう理事りじ」。(総理そうりちょう官房かんぼう監査かんさ へん公職こうしょく追放ついほうかんする覚書おぼえがき該当がいとうしゃ名簿めいぼ日比谷ひびや政経せいけいかい、1949ねん210ぺーじNDLJP:1276156 
  9. ^ a b 日本にっぽん歴代れきだい市長しちょう だい2かん』272ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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