長崎 省吾
経歴
[- 1850
年 (嘉 永 3年 )[3] -薩摩 藩 士 ・長崎 作 右 衛門 の六 男 として生 まれる。 造 士 館 、昌平 黌で学 び、外務省 に入省 。その後 、アメリカ合衆国 に留学 してミシガン大学 で学 び、イギリスにも渡航 する。在 英 日本 公使館 勤務 を命 ぜられ、外交 官 としてロンドンに約 6年 在勤 [4]。ミシガン大学 の公式 資料 に長崎 省吾 の名 はないが、ミシガン・ヒストリカル・コレクションに同 大学 学長 宛 のナガサキ・ミチノリ名 の手紙 が遺 されており、同 大学 を去 ったのち米国 内 を巡 り、その後 ロンドンに赴 き、外交 官 となったとあり、これが長崎 省吾 (別名 ・光範 [5])なら、1873年 に在籍 していたことが確認 される[6]。- 1880
年 (明治 13年 ) -帰国 し、宮 内省 に入省 、宮内 書記官 となる。後 に式部 官 、宮内 大臣 秘書 を歴任 。 - 1882
年 (明治 15年 ) -明治天皇 の特使 としてハワイ王国 訪問 、日本人 移民 を望 むカラカウア国王 と会談 [7] - 1884
年 (明治 17年 )2月 13日 -兼任 三 等 掌 典 [8] - 1885
年 (明治 18年 )9月22日 -東京 女子 師範 学校 御用 掛 兼勤 被 免 、東京 師範 学校 御用 掛 兼勤 被 仰 付 [9] - 1887
年 (明治 20年 )12月13日 - ドイツ帝国 皇族 フレデリック・レオポール親王 来航 に付 き接待 掛 [10] - 1888
年 (明治 21年 )3月8日 -兼任 式部 主事 、奏 任官 二 等 、中級 俸下賜 [11] - 1889
年 (明治 22年 )2月 13日 -故 文部 大臣 森 有礼 贈位 賜金 幣 勅使 [12] - 1891
年 (明治 24年 )5月13日 -京都 行幸 供奉 [16] - 1893
年 (明治 26年 )3月28日 -免 兼勤 式部 職 事務 [18] - 1895
年 (明治 28年 ) - 1897
年 (明治 30年 )9月 -調度 局長 - 1898
年 (明治 31年 )2月 23日 -内匠 頭 股 野 琢 不 在中 代理 [26] - 1899
年 (明治 32年 )6月22日 - ドイツ帝国 ハインリッヒ親王 来航 に付 き接伴 員 [27] - 1900
年 (明治 33年 )4月 24日 -兵庫 県 下 行幸 供奉 、兵庫 県 下 行幸 会計 主務 官 [28] - 1901
年 (明治 34年 )11月3日 -宮城 県 下 行幸 供奉 、宮城 県 下 行幸 会計 主務 官 [29] - 1904
年 (明治 37年 )2月 16日 -兼任 宮中 顧問 官 、叙 一等 [30] - 1905
年 (明治 38年 )7月 22日 -アメリカ合衆国 来賓 接伴 員 [31] - 1906
年 (明治 39年 )11月19日 -伏見 宮 貞 愛 親王 イギリスへ差遣 に付随 行 [32] - 1907
年 (明治 40年 )11月12日 -茨城 県 下 行幸 供奉 [33] - 1908
年 (明治 41年 )6月23日 -依願 免 宮内 大臣 秘書官 、賜 一 級 俸[34] - 1910
年 (明治 43年 )9月28日 -清国 皇族 載 洵 来航 に付 き接伴 員 [35] - 1911
年 (明治 44年 )11月4日 -福岡 県 下 行幸 供奉 [37] - 1937
年 (昭和 12年 )2月 6日 -薨去 。
栄典
[位階
- 1881
年 (明治 14年 )3月25日 -正 七 位 - 1884
年 (明治 17年 )3月29日 -従 六 位 [38] - 1886
年 (明治 19年 )7月 8日 -正 六 位 [39] - 1891
年 (明治 24年 )12月7日 -従 五 位 [40] - 1895
年 (明治 28年 )4月 20日 -正 五 位 [41] - 1900
年 (明治 33年 )4月 20日 -従 四 位 [42] - 1905
年 (明治 38年 )5月1日 -正 四 位 [43] - 1910
年 (明治 43年 )5月 10日 -従 三 位 [44] 正 三 位
勲章 等
- 1882
年 (明治 15年 )2月 1日 -勲 六 等 単 光 旭日 章 [45] - 1887
年 (明治 20年 )11月25日 -勲 五 等 双 光 旭日 章 [46] - 1889
年 (明治 22年 )11月29日 -大日本帝国 憲法 発布 記念 章 [47] - 1893
年 (明治 26年 )12月28日 -勲 四 等 瑞宝章 [48] - 1895
年 (明治 28年 )12月4日 -勲 三 等 旭日 中 綬章 [49] - 1904
年 (明治 37年 )12月27日 -勲 二 等 瑞宝章 [50] - 1906
年 (明治 39年 )4月 1日 -旭日重光章 [51]・明治 三 十 七 八 年 従軍 記章 [52] - 1908
年 (明治 41年 )4月 30日 -勲一等 瑞宝章 [53] - 1915
年 (大正 4年 ) - 1916
年 (大正 5年 )1月 19日 -旭日大綬章 [56]
外国 勲章 佩用 允許
- 1885
年 (明治 18年 )5月25日 – スウェーデン=ノルウェー連合 王国 :北極星 第 三 等 勲章 [57] - 1887
年 (明治 20年 )10月5日 - ドイツ帝国 :王冠 第 二 等 勲章 [58] - 1888
年 (明治 21年 )1月 20日 - シャム王国 :タイ王冠 勲章 コマンダー[59] - 1891
年 (明治 24年 )6月1日 - オスマン帝国 :美治 慈恵 第 三 等 勲章 [60] - 1894
年 (明治 27年 )- 10月30
日 - ベルギー
王国 :レオポール勲章 コマンドール[61] - オランダ
王国 :オラニエ=ナッサウ勲章 (en)コマンドゥール[61] - デンマーク
王国 :ダンネブロ勲章 コマンドール・ド・スゴンドクラス[61] - スウェーデン
王国 :聖 オーラヴ勲章 コマンドール・ド・スゴンドクラス[61] - ドイツ
帝国 :コローネン・オルデン・ミッツステルン・オルデン・ツヴハイテル・クラッセ勲章 [61] - ザクセン
王国 :アルブレクト勲章 コンマンドール・ド・スゴンドクラス[61] - ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ
大公 国 :コムツール・ミッツステルン・ウバイセン・ファルケン勲章 [61] - オスマン
帝国 :メディジディー勲章 第 一等 [61] - オーストリア
帝国 :ダス・コムツール・クロイツ・ミッツステルン・アルフレヘヒス・ティーレス・フランツヨーゼフ勲章 [61] - スペイン
王国 :シャルトロワー勲章 コンマンドール・エキストラオルヂネール[61]
- ベルギー
- 12月24
日 - セルビア王国 :タクウォ勲章 コマンドル・フォルストクラス[62]
- 10月30
- 1895
年 (明治 28年 )10月31日 - イタリア王国 :王冠 第 三 等 勲章 [63] - 1899
年 (明治 32年 )4月 21日 -大 清 帝国 :第 二等第一双竜宝星[64] - 1901
年 (明治 34年 )5月17日 - フランス共和 国 :レジオンドヌール勲章 コマンドゥール[65]。 - 1902
年 (明治 35年 ) - 1905
年 (明治 38年 )6月27日 -大韓 帝国 :勲一等 太極 章 [68] - 1907
年 (明治 40年 )11月29日 - プロイセン王国 :赤十字 第 三 等 記章 [69] - 1927
年 (昭和 2年 )4月 19日 - ドイツ国 :赤十字 第 一等 名誉 章 [70]
親族
[父 ・長崎 作 左衛門 ‐鹿児島 士族 兄 ・長崎 用 蔵 ‐第 百 十 八 銀行 頭取 [71]妻 ・多恵子 ‐寺島 宗 則 の娘 [77]。長男 ・長崎 守一 ‐陸軍 步兵 少佐 で、その妻 ・歌子 は伊藤 軍 兵衛 の孫 [78]。長女 ・佐恵子 ‐用 蔵 の五男 ・竹 十 郎 の妻 。学習 院 女 学部 出身 。次女 ・良子 ‐出身 校 同上 。三 女 ・千代子 ‐子爵 大島 久直 の嗣子 ・久忠 の妻 [79]出身 校 同上 。四 女 ・真佐子 ‐男爵 三須 精一 の妻 。出身 校 同上 。[78]。
脚注
[- ^
人事 興信所 1903, 606頁 . - ^ 『
官報 』第 3029号 「彙報 官吏 薨去 」1937年 2月 9日 。 - ^ 1852
年 12月22日 (嘉 永 5年 11月12日 )とも(長崎 省吾 関係 文書 国立 国会図書館 リサーチ・ナビ)。 - ^
丸岡 式部 助 (丸岡 莞爾 )宛 長崎 省吾 書翰 関西学院大学 - ^ 『ハワイの
日本人 日系 人 の歴史 :日本人 ハワイ官 約 移民 百 年 祭 記念 』渡辺 礼三 、ハワイ報知 社 , 1986、p412 - ^
外山 正 ーとミシガン大学 秋山 ヒサ、神戸女学院大学 論集 29(1), p1-18, 1982-07 - ^ 『
歴史 学 :国際 化 とその相互 理解 のために』鈴木 邦夫 、東京電機大学 出版 局 , 1997、p110 - ^ 『
官報 』第 185号 「叙任 」1884年 2月 14日 。 - ^ 『
官報 』第 671号 「官庁 彙報 」1885年 9月 24日 。 - ^ 『
官報 』第 1115号 「叙任 及辞令 」1887年 3月 23日 。 - ^ 『
官報 』第 1405号 「叙任 及辞令 」1888年 3月 9日 。 - ^ 『
官報 』第 1686号 「叙任 及辞令 」1889年 2月 15日 。 - ^ 『
官報 』第 1712号 「叙任 及辞令 」1889年 3月 18日 。 - ^ 『
官報 』第 1821号 「叙任 及辞令 」1889年 7月 25日 。 - ^ 『
官報 』第 1885号 「叙任 及辞令 」1889年 10月 9日 。 - ^ 『
官報 』第 2363号 「叙任 及辞令 」1891年 5月 19日 。 - ^ 『
官報 』第 2497号 「叙任 及辞令 」1891年 10月 24日 。 - ^ 『
官報 』第 2921号 「叙任 及辞令 」1893年 3月 29日 。 - ^ 『
官報 』第 2934号 「叙任 及辞令 」1893年 4月 14日 。 - ^ 『
官報 』第 2995号 「叙任 及辞令 」1893年 6月 24日 。 - ^ 『
官報 』第 3516号 「叙任 及辞令 」1895年 3月 23日 。 - ^ 『
官報 』第 3598号 「叙任 及辞令 」1895年 6月 28日 。 - ^ 『
官報 』第 3606号 「叙任 及辞令 」1895年 7月 8日 。 - ^ 『
官報 』第 3697号 「叙任 及辞令 」1895年 10月 24日 。 - ^ 『
官報 』号外 「辞令 」1897年 12月28日 。 - ^ 『
官報 』第 4391号 「叙任 及辞令 」1898年 2月 24日 。 - ^ 『
官報 』第 4792号 「叙任 及辞令 」1899年 6月 23日 。 - ^ 『
官報 』第 5041号 「叙任 及辞令 」1900年 4月 25日 。 - ^ 『
官報 』第 5503号 「叙任 及辞令 」1901年 11月5日 。 - ^ 『
官報 』第 6185号 「叙任 及辞令 」1904年 2月 17日 。 - ^ 『
官報 』第 6619号 「叙任 及辞令 」1905年 7月 24日 。 - ^ 『
官報 』第 7019号 「叙任 及辞令 」1906年 11月20日 。 - ^ 『
官報 』第 7314号 「辞令 」1907年 11月13日 。 - ^ 『
官報 』第 7497号 「叙任 及辞令 」1908年 6月 24日 。 - ^ 『
官報 』第 8183号 「叙任 及辞令 」1910年 9月 29日 。 - ^ 『
官報 』第 8243号 「叙任 及辞令 」1910年 12月12日 。 - ^ 『
官報 』第 8514号 「叙任 及辞令 」1911年 11月6日 。 - ^ 『
官報 』第 223号 「叙任 」1884年 3月 31日 。 - ^ 『
官報 』第 907号 「叙任 及辞令 」1886年 7月 10日 。 - ^ 『
官報 』第 2533号 「叙任 及辞令 」1891年 12月8日 。 - ^ 『
官報 』第 3540号 「叙任 及辞令 」1895年 4月 22日 。 - ^ 『
官報 』第 5038号 「叙任 及辞令 」1900年 4月 21日 。 - ^ 『
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宮内 権 少 書記官 長崎 省吾 叙勲 」 アジア歴史 資料 センター Ref.A15110025700 - ^ 『
官報 』第 1324号 「叙任 及辞令 」1887年 11月26日 。 - ^ 『
官報 』第 1935号 「叙任 及辞令 」1889年 12月9日 。 - ^ 『
官報 』第 3152号 「叙任 及辞令 」1893年 12月29日 。 - ^ 『
官報 』第 3732号 「叙任 及辞令 」1895年 12月5日 。 - ^ 『
官報 』第 6450号 「叙任 及辞令 」1904年 12月28日 。 - ^ 『
官報 』号外 「叙任 及辞令 」1907年 3月 31日 。 - ^ 『
官報 』第 8108号 ・付録 「辞令 」1910年 7月 2日 。 - ^ 『
官報 』第 7451号 「叙任 及辞令 」1908年 5月 1日 。 - ^ 『
官報 』第 1255号 ・付録 「叙任 及辞令 」1916年 10月 5日 。 - ^ 『
官報 』第 1310号 ・付録 「辞令 」1916年 12月13日 。 - ^ 『
官報 』第 1038号 「叙任 及辞令 」1916年 1月 20日 。 - ^ 『
官報 』第 570号 「賞 勲 叙任 」1885年 5月 28日 。 - ^ 『
官報 』第 1284号 「叙任 及辞令 」1887年 10月 7日 。 - ^ 『
官報 』第 1367号 「叙任 及辞令 」1888年 1月 23日 。 - ^ 『
官報 』第 2378号 「叙任 及辞令 」1891年 6月 5日 。 - ^ a b c d e f g h i j 『
官報 』第 3407号 「叙任 及辞令 」1894年 11月5日 。 - ^ 『
官報 』第 3454号 「叙任 及辞令 」1895年 1月 7日 。 - ^ 『
官報 』第 3706号 「叙任 及辞令 」1895年 11月4日 。 - ^ 『
官報 』第 4743号 「叙任 及辞令 」1899年 4月 27日 。 - ^ 『
官報 』第 5365号 「叙任 及辞令 」1901年 5月 24日 。 - ^ a b c d e 『
官報 』第 5811号 「叙任 及辞令 」1902年 11月15日 。 - ^ 『
官報 』第 5888号 「叙任 及辞令 」1903年 2月 21日 。 - ^ 『
官報 』第 6599号 「叙任 及辞令 」1905年 6月 30日 。 - ^ 『
官報 』第 7333号 「叙任 及辞令 」1907年 12月6日 。 - ^ 『
官報 』第 93号 「叙任 及辞令 」1927年 4月 23日 。 - ^
長崎 竹 十郎 『財界 の実力 』桑村 常之助 金 桜堂 明 44.10 - ^
男爵 毛利 忠男 『現代 華族 譜 要 』1929 - ^
長崎 剛 十郎 人事 興信録 初版 (明 36.4刊 ) - ^
明治 十 六 年 事件 退学 者 名簿 中央大学 史 資料集 第 3集 - ^
長崎 竹 十郎 『人事 興信録 』第 4版 [大正 4(1915)年 1月 ] - ^
長崎 栄 十郎 『人事 興信録 』第 8版 、昭和 3(1928)年 - ^
寺島 誠一郎 『人事 興信録 』第 8版 [昭和 3(1928)年 7月 ] - ^ a b
長崎 省吾 (男性 )『人事 興信録 』第 8版 [昭和 3(1928)年 7月 ] - ^
霞 会館 華族 家系 大成 編輯 委員 会 1996, 302頁 .
参考 文献
[人事 興信所 編 『人事 興信録 初版 』人事 興信所 、1903年 。霞 会館 華族 家系 大成 編輯 委員 会 編 『平成 新 修 旧 華族 家系 大成 上巻 』霞 会館 、1996年 。ISBN 4642036709。
閑院 1910 |
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1907 1897 |
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( |
1886 |