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長瀬ながせとも

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長瀬ながせ とも(ながせ よしとも / きはん[1]1912ねん2がつ18にち[2] - 1966ねん6月16にち[2])は、日本にっぽん脚本きゃくほん

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

東京とうきょう東京とうきょう下谷しもたにげん東京とうきょう台東たいとうまれ[2]東京とうきょう府立ふりつだいいち商業しょうぎょう学校がっこう横浜よこはま専門せんもん学校がっこう商科しょうか卒業そつぎょう[2]

1935ねん松竹しょうちく蒲田かまた脚本きゃくほん研究所けんきゅうじょだい4期生きせいとして入所にゅうしょ[2]、1937ねん松竹しょうちくだい船脚ふなあし本部ほんぶはいって斎藤さいとう良輔りょうすけのもとで助手じょしゅつとめたのち、1938ねん清水しみずひろし監督かんとくしん家庭かていれき」で一本立いっぽんだちの脚本きゃくほんとなる[2]以後いご家庭かてい劇的げきてきなドラマの展開てんかい基調きちょうとした“大船おおぶね調ちょう”メロドラマに健筆けんぴつをふるい、娯楽ごらく作家さっかとして活躍かつやくした[2]

太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっきの1944ねん近衛このえ連隊れんたい入隊にゅうたいし、1945ねん小笠原諸島おがさわらしょとう父島ちちじま終戦しゅうせんむかえた[2]

1954ねんにフリーとなり、東宝とうほう大映だいえい東京とうきょう映画えいがなどで娯楽ごらくものを中心ちゅうしん多数たすう映画えいが脚本きゃくほん担当たんとうした[2]ほか、親友しんゆう新藤しんどう兼人かねと主宰しゅさいする近代きんだい映画えいが協会きょうかいにも参加さんかし、会計かいけい事務じむ担当たんとうするなど、協力きょうりょくしゃとしてかい活動かつどうささえた[2]

1951ねん久松ひさまつしず監督かんとくの『喜劇きげき 駅前えきまえ団地だんち以降いこう駅前えきまえシリーズ15さく脚本きゃくほんがけたことでられるが、1966ねんどうシリーズの『喜劇きげき 駅前えきまえ番頭ばんがしら』を執筆しっぴつするために常宿じょうやどとしていた箱根湯本はこねゆもと温泉おんせん旅館りょかん清光せいこうえん」に滞在たいざいちゅう脳出血のうしゅっけつ発症はっしょうして53さい急死きゅうしした[3]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 長瀬ながせともなえ(ながせきはん)”. 東宝とうほうMOVIEDATABASE. 東宝とうほう. 2019ねん2がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j 日外にちがいアソシエーツ現代げんだい人物じんぶつ情報じょうほう
  3. ^ 新藤しんどう兼人かねと『100さい流儀りゅうぎ』まえがき、PHP研究所けんきゅうじょ、2012ねん5がつ7にち初版しょはんISBN 978-4-56-980434-7