(Translated by https://www.hiragana.jp/)
関屋龍吉 - Wikipedia コンテンツにスキップ

関屋せきや龍吉りゅうきち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
せきや りゅうきち

関屋せきや 龍吉りゅうきち
生誕せいたん (1886-07-02) 1886ねん7がつ2にち
岐阜ぎふけん安八あんぱちぐん大垣おおがきげん大垣おおがき
死没しぼつ (1976-11-05) 1976ねん11月5にち(90さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
職業しょくぎょう 官吏かんり教育きょういくしゃ
配偶はいぐうしゃ 美穂みほ田中たなか芳男よしおむすめ
テンプレートを表示ひょうじ

関屋せきや 龍吉りゅうきち(せきや りゅうきち[1]1886ねん明治めいじ19ねん7がつ2にち[2] - 1976ねん昭和しょうわ51ねん11月5にち[1])は、大正たいしょう昭和しょうわせん前期ぜんき日本にっぽん文部もんぶ官僚かんりょう文部省もんぶしょう社会しゃかい教育きょういく局長きょくちょうつとめ、「社会しゃかい教育きょういくそだてのおや」ともひょうされる[3]。「あお人形にんぎょう」による日米にちべい交流こうりゅうや、少年しょうねんだん青年せいねんだん組織そしきなどに足跡あしあとのこす。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

1886ねん明治めいじ19ねん)、岐阜ぎふけん大垣おおがきで、きゅう藩校はんこう教官きょうかん一柳いちりゅう元吉もとよし二男じなんとしてまれる[3]関屋せきや養子ようしとなり、東京とうきょう[2]

当初とうしょちち弟子でしであった日本にっぽん鉄道てつどう幹部かんぶ吉川よしかわよしみき養子ようしになる予定よていであったが、1897ねん明治めいじ30ねん)に吉川よしかわ急逝きゅうせいしたため[注釈ちゅうしゃく 1]吉川よしかわつまであるあずか喜子のぶこ関屋せきやふくする)の養子ようしとなったものである[注釈ちゅうしゃく 2]旧制きゅうせい大垣おおがき中学校ちゅうがっこう現在げんざい岐阜ぎふ県立けんりつ大垣おおがききた高等こうとう学校がっこう)で1年生ねんせい課程かていえたあと[2]、1899ねん明治めいじ32ねんはる東京とうきょう府中ふちゅうがく[3]翌年よくねん東京とうきょう府立ふりつだいいち中学校ちゅうがっこう改称かいしょう[3])にうつり、第一高等学校だいちこうとうがっこう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく入学にゅうがく[2]。1911ねん明治めいじ44ねん)、法科ほうか大学だいがく政治せいじ卒業そつぎょう[2]

1911ねん明治めいじ44ねん)に文官ぶんかん高等こうとう試験しけん合格ごうかく[6]、1912ねん明治めいじ45ねん)に文部省もんぶしょう試補しほとして入省にゅうしょう[3]。1914ねん大正たいしょう3ねん)に文部省もんぶしょうとくがくかんけん参事官さんじかん[3]。1915ねん大正たいしょう4ねん専門せんもん学務がくむきょく実業じつぎょう教育きょういく課長かちょう[3]実業じつぎょう教育きょういく課長かちょう龍吉りゅうきち東京とうきょう高等こうとう工業こうぎょう附属ふぞく補習ほしゅう学校がっこうで「国民こくみん心得こころえ」という科目かもくもうけてみずかしゅう1かい講義こうぎおこなった[3]。この科目かもく教科書きょうかしょ国民こくみん心得こころえ』について、日本にっぽんはつ公民こうみん教科書きょうかしょとする見方みかたがある[3]。その、1916ねん大正たいしょう5ねん文部もんぶ大臣だいじん秘書官ひしょかんけん文部省もんぶしょう参事官さんじかん[6]、1921ねん大正たいしょう10ねん秘書ひしょ課長かちょう[6]

1923ねん大正たいしょう11ねん)、欧米おうべい出張しゅっちょうして教育きょういく制度せいど青少年せいしょうねん教育きょういく視察しさつ[3]。1924ねん大正たいしょう13ねん)、普通ふつう学務がくむ局長きょくちょう[2][3]当時とうじ38さい龍吉りゅうきち文部省もんぶしょうもっとわか局長きょくちょうであり、異例いれい出世しゅっせであったとされる[3]

1927ねん昭和しょうわ2ねん)、欧米おうべいアメリカイギリスイタリアドイツ)を視察しさつした[6]。なおこのとき、アメリカからおくられた「あお人形にんぎょう」にたいする日本にっぽんからの答礼とうれい人形にんぎょうをアメリカにおくとどける責任せきにんしゃとなり、人形にんぎょうとともに全米ぜんべい各地かくちめぐっている[7]

帰国きこくの1928ねん昭和しょうわ3ねん)、地域ちいき中堅ちゅうけん青年せいねん育成いくせいかかげた財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん青年せいねん協会きょうかい設立せつりつ[6]。「なかあるこう」「土台どだいせきになろう」をモットーとし[6][8]東京とうきょう麻布まふ本部ほんぶ会館かいかん寝食しんしょくともにしながらの指導しどうたった[6][8]ドイツの青年せいねん運動うんどうや、デンマーク国民こくみん高等こうとう学校がっこう教育きょういく制度せいどなどを研究けんきゅうしたものとされている[8]

1929ねん昭和しょうわ4ねん社会しゃかい教育きょういく局長きょくちょう任命にんめいされる[6]。1931ねん昭和しょうわ6ねん)、だい日本にっぽん連合れんごう婦人ふじんかい結成けっせいかかわる。また、児童じどう校外こうがい指導しどうのために帝国ていこく少年しょうねんだん協会きょうかい設立せつりつたずさわった[6](1941ねん昭和しょうわ16ねん)にの3組織そしき統合とうごうされてだい日本にっぽん青少年せいしょうねんだん発足ほっそく[9][注釈ちゅうしゃく 3])。

1934ねん昭和しょうわ9ねん)、文部省もんぶしょう直轄ちょっかつ研究けんきゅう研修けんしゅう機関きかんである国民こくみん精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ初代しょだい所長しょちょう就任しゅうにん[6]。なお龍吉りゅうきちが「初代しょだい所長しょちょう」となっているが、この研究所けんきゅうじょは1932ねん設立せつりつであり、所長しょちょう適任てきにんしゃがいないという理由りゆう粟屋あわやけん文部もんぶ次官じかん)や、事実じじつじょう国民こくみん精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょみのおやである伊東いとう延吉えんきち学生がくせいちょう)が所長しょちょう代行だいこうつとめていた[11]。この人事じんじについて、当時とうじ教育きょういくかいでは文部省もんぶしょう省内しょうない対立たいりつ解消かいしょうのための人事じんじという批判ひはんもあった[11]龍吉りゅうきち戦後せんご回想かいそうつぼちゅうななじゅうねん』で、自分じぶんは「俗物ぞくぶつ」であるので、つよ国家こっか主義しゅぎしゃである学者がくしゃとやりあうのはあやういものであったとべている[11]龍吉りゅうきちは7年間ねんかん所長しょちょうつとめ、1941ねん昭和しょうわ16ねん)に伊東いとうだい2だい所長しょちょう就任しゅうにんした[11]同年どうねん12がつ26にち錦鶏きんけいあいだ祗候しこうおおけられた[12]

1944ねん昭和しょうわ19ねん退官たいかん[1]同年どうねん財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん女子じょし会館かいかん公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん女性じょせい学習がくしゅう財団ざいだん前身ぜんしんのひとつ)を設立せつりつ[1]よく1945ねん昭和しょうわ20ねん)に日本にっぽん女子じょし会館かいかんだい日本にっぽん女子じょし社会しゃかい教育きょういくかい改称かいしょうする[1][注釈ちゅうしゃく 4]

だい世界せかい大戦たいせん公職こうしょく追放ついほうとなるも[13][注釈ちゅうしゃく 5]社会しゃかい教育きょういくたずさわり、1948ねん昭和しょうわ23ねん)にはブラジル視察しさつ[6]日本にっぽん女子じょし社会しゃかい教育きょういくかいだい日本にっぽん女子じょし社会しゃかい教育きょういくかいから改称かいしょう)の理事りじちょう顧問こもんつとめ、1975ねん昭和しょうわ50ねん)に会長かいちょうとなった[1]よく1976ねん昭和しょうわ51ねん)に死去しきょした。

おも著書ちょしょ

[編集へんしゅう]
  • 農村のうそん社会しゃかい教育きょういく日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1933ねん
  • つぼちゅうななじゅうねん』1965ねん
  • 随想ずいそうろく 社会しゃかい教育きょういく事始ことはじめ』顕彰けんしょうかい出版しゅっぱんきょく、1975ねん

家族かぞく親族しんぞく

[編集へんしゅう]

備考びこう

[編集へんしゅう]
大垣おおがきのスイトピアセンターのにわ写真しゃしんひだりかた謝恩しゃおんうつっている。
  • 学生がくせい時代じだい弓道きゅうどうんでおり、のちになまゆみかい理事りじつとめた[3]
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん)に、「あお人形にんぎょう」と答礼とうれい人形にんぎょうかんする日本にっぽん児童じどうけパンフレット『アメリカへった人形にんぎょうのおはなし』をあらわしている[7]日米にちべい開戦かいせんに「あお人形にんぎょう」は各地かくち処分しょぶんされるような事態じたい発展はってんしたが、これをいた関屋せきやは「口惜くやしいというかなさけないというか、あふれるなみだきんなかったのである」(『社会しゃかい教育きょういく事始ことはじめ』)としるしている[7]
  • 岐阜ぎふけん大垣おおがき室本むろほんまちスイトピアセンターにわ大垣おおがき市立しりつ図書館としょかんまえ)に「関屋せきや龍吉りゅうきち先生せんせい謝恩しゃおん」がつ。1987ねん日本にっぽん青年せいねん協会きょうかい大垣おおがき有志ゆうしによっててられたもの[17]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 日本にっぽん鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃでの不正ふせい経理けいりについて「一死いっし以テざいしゃス」と遺書いしょのこしてのという[4]
  2. ^ 先賢せんけんてんほん』ではあずか喜子のぶこ実家じっかである関屋せきや養子ようしになったとある[3]。『人事じんじ興信録こうしんろくだい8はんの「一柳いちりゅう貞吉さだきち」の項目こうもく記載きさいによれば、「岐阜ぎふけんじん關屋せきやよきの養子ようし」とある[5]。なお、『人事じんじ興信録こうしんろくだい8はんの「関屋せきや忠正ただまさ」(大垣おおがき出身しゅっしんもと土木どぼく技師ぎし資産しさん)の項目こうもく記載きさいによれば、あねの「よき」は分家ぶんけとある[5]
  3. ^ 『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん』では「1931ねん」とするがあやま[10]
  4. ^ 先賢せんけんてんほん』では1944ねんだい日本にっぽん女子じょし社会しゃかい教育きょういくかい結成けっせいとある[6]
  5. ^ 追放ついほう事由じゆうは「国民こくみん精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ所長しょちょう社会しゃかい教育きょういくかい常務じょうむ理事りじ著者ちょしゃ」。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f 関屋せきや 竜吉りゅうきち”. 20世紀せいき日本人にっぽんじんめい事典じてん(コトバンク所収しょしゅう. 2021ねん10がつ2にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i 一柳いちりゅう貞吉さだきち 1933, p. 41.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 先賢せんけんてんほん, p. 76.
  4. ^ 明治めいじ31ねん4がつ6にち(1898ねんヨリさきどう会社かいしゃニ於テ職員しょくいん公金こうきん私消ししょう定款ていかん改正かいせい認可にんか申請しんせい却下きゃっか従業じゅうぎょういん罷業ひぎょうとうしょ事件じけんアリテ…”. デジタルばん渋沢しぶさわ栄一えいいち伝記でんき資料しりょう. 渋沢しぶさわ栄一えいいち記念きねん財団ざいだん. 2021ねん10がつ2にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c 人事じんじ興信録こうしんろくだい8はん(1928ねん
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 先賢せんけんてんほん, p. 77.
  7. ^ a b c 栗原くりはら祐司ゆうじ 2011, p. 89.
  8. ^ a b c 日本にっぽん青年せいねん協会きょうかいとは”. 一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん青年せいねん協会きょうかい. 2021ねん9がつ30にち閲覧えつらん
  9. ^ 社会しゃかい教育きょういく団体だんたい統合とうごう”. 学制がくせいひゃくねん. 文部もんぶ科学かがくしょう. 2021ねん9がつ30にち閲覧えつらん
  10. ^ だい日本にっぽん青少年せいしょうねんだん”. ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん(コトバンク所収しょしゅう. 2021ねん9がつ30にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c d 前田まえだ一男かずお 1982, p. 57.
  12. ^ 官報かんぽうだい4492ごう昭和しょうわ16ねん12月27にち
  13. ^ 総理そうりちょう官房かんぼう監査かんさ へん公職こうしょく追放ついほうかんする覚書おぼえがき該当がいとうしゃ名簿めいぼ日比谷ひびや政経せいけいかい、1949ねん554ぺーじNDLJP:1276156 
  14. ^ 一柳いちりゅう貞吉さだきち 1933, pp. 38–40, 43.
  15. ^ 一柳いちりゅう貞吉さだきち 1933, pp. 38–40.
  16. ^ 一柳いちりゅう貞吉さだきち 1922, pp. 8–9.
  17. ^ 大垣おおがき市立しりつ図書館としょかん回答かいとう). “大垣おおがきスイトピアセンターないにわみなみ図書館としょかんまえにある石碑せきひ関谷せきや龍吉りゅうきち先生せんせい謝恩しゃおん」を建立こんりゅうした団体だんたいおよ建立こんりゅう年月日ねんがっぴりたい。”. レファレンス協同きょうどうデータベース. 2021ねん10がつ1にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 深見ふかみ吉之助よしのすけ ちょ関屋せきや龍吉りゅうきち」、全日本ぜんにほん社会しゃかい教育きょういく連合れんごうかい へん社会しゃかい教育きょういくろんしゃ群像ぐんぞう全日本ぜんにほん社会しゃかい教育きょういく連合れんごうかい、1983ねん 
  • 唐沢からさわ富太郎とみたろう ちょ関屋せきや竜吉りゅうきち : 草創そうそう社会しゃかい教育きょういく行政ぎょうせいくす」、唐沢からさわ富太郎とみたろう へん図説ずせつ 教育きょういく人物じんぶつ事典じてん : 日本にっぽん教育きょういくのなかの教育きょういくしゃ群像ぐんぞうしたぎょうせい、1984ねん 
  • 成田なりた久四郎きゅうしろう へん社会しゃかい教育きょういくしゃ事典じてん』(増補ぞうほ日本にっぽん図書としょセンター、1989ねんISBN 9784820552840 
  • 伊藤いとうめぐみ ちょ関屋せきや龍吉りゅうきち」、日本にっぽん女性じょせい学習がくしゅう財団ざいだん へん女性じょせいまなびをひらく : 日本にっぽん女性じょせい学習がくしゅう財団ざいだん70ねんのあゆみ』ドメス出版しゅっぱん、2011ねんISBN 9784810707519 
  • はたいく へん日本にっぽんきん現代げんだい人物じんぶつ履歴りれき事典じてん』(だい2)東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2013ねんISBN 9784130301534 

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
公職こうしょく
先代せんだい
粟屋あわやけん
所長しょちょう事務じむ取扱とりあつかい
日本の旗 国民こくみん精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょちょう
1934ねん - 1941ねん
次代じだい
伊東いとう延吉えんきち
その役職やくしょく
先代せんだい
大橋おおはしひろ
日本にっぽん女子じょし社会しゃかい教育きょういくかい会長かいちょう
1975ねん - 1976ねん
次代じだい
欠員けついん
先代せんだい
下村しもむら寿一ひさいち
だい日本にっぽん女子じょし社会しゃかい教育きょういくかい理事りじちょう
日本にっぽん女子じょし社会しゃかい教育きょういくかい理事りじちょう
1972ねん - 1975ねん
だい日本にっぽん女子じょし社会しゃかい教育きょういくかい理事りじちょう
1955ねん - 1972ねん
次代じだい
田中たなか義男よしお
先代せんだい
新設しんせつ
だい日本にっぽん女子じょし社会しゃかい教育きょういくかい理事りじちょう
1945ねん - 1948ねん
日本にっぽん女子じょし会館かいかん理事りじちょう
1941ねん - 1945ねん
次代じだい
下村しもむら寿一ひさいち