出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高橋 敏(たかはし さとし、1919年 - 没年不明[1])は静岡県[1]出身のプロ野球選手(投手、右翼手)。
袋井市出身。旧袋井東小(現袋井南小)時代は浜松元城小の松井栄造との対戦もあり、右の高橋、左の松井と言われ県下で注目されていた。島田商業(現・静岡県立島田商業高等学校)在学中は、甲子園に3回出場(内訳は春2回〔1937年、1938年〕。夏1回〔1937年〕)。このうち1937年夏はエースとして出場した[2](初戦で浅野中に0-1で惜敗)。島田商のチームメイトには、根津辰治(のち慶大で首位打者を取るなど活躍)、大友一明(のち大東京など)、犬塚俊夫(慶大中退、藤倉電線)、一言多十(のちセネタースなど)、福田勇一(のち国鉄)など大学野球や社会人野球、プロ野球で活躍した人物が何人もいた。
島田商卒業後間もない1938年5月17日に阪急軍に入団。同年6月4日の金鯱戦(後楽園球場)で、当時のエース・森弘太郎の後を受けた2番手でプロ初登板。カーブを武器に、4回1/3を1失点と上々のデビューを飾った。同年6月24日の名古屋戦(後楽園球場)で完封してプロ初勝利を挙げた。
翌1939年に入ると、高橋の投球にますます磨きがかかった。3月28日の金鯱戦(後楽園球場)で4安打完封勝利を挙げると、5月18日の巨人戦(甲子園球場)で敗れるまで開幕7連勝(うち完封は4試合ある)を記録した。この記録は、西勇輝が2014年5月13日の楽天戦(コボスタ)で並ぶまで、75年もの間、阪急・オリックスの球団記録でもあった[2][3]。さらに開幕から38回1/3無失点も2021年に平良海馬に更新されるまで82年間プロ野球記録であった(ただし、プロ野球規則上は平良海馬の記録は38イニング無失点である)。同年は19完投・9完封と大活躍し、チーム一の勝ち数である17勝を挙げ、防御率は若林忠志(大阪)に次ぐリーグ2位の1.60という素晴らしい成績を挙げた[4](尚、この年シーズン42勝というプロ野球記録を打ち立てたヴィクトル・スタルヒン〈巨人・この年の防御率はリーグ3位の1.73〉よりも防御率は良かった[2])。この年には職業野球東西対抗戦の西軍メンバーにも選出された。また打撃面でも活躍し、チーム3位の打率.277をマークしている。
しかし、1939年シーズン終了後、応召された。1942年に復員し、1943年より阪急軍に復帰。しかし、投手としての実績は振るわず、戦時中の選手層の薄さもあってか外野手(右翼手)との兼任になった。それでも1943年から引退まで失策ゼロで切り抜けるなど、野球センスの高さを伺わせた。打撃面は非力だったが、選球眼は良く、四球の数が三振を上回っている。1944年は14安打に対し20四球を選び、結果として打率.200に対し出塁率が.378と高く、IsoD(出塁率-打率)が.178と高率になっている(通算でも.122の高率だった)[5]。1946年になると主力選手が戦地から次々と復員してくるに伴い、出場機会が減少(この年より野手に専念)。結局この年限りで阪急を退団した。
プロ野球を引退しても、高橋の野球センスの高さは社会人野球でも発揮された。阪急退団の翌年、1947年に鐘紡高砂に入団。その年、いきなり1947年の都市対抗野球大会に出場し、チームを決勝まで導く大活躍を見せた(決勝で、大日本土木〈岐阜市〉に2-8で敗れ、準優勝)。この大会では17打数7安打。準々決勝では、強豪の八幡製鉄相手にサヨナラヒットを打ち、決勝でもホームランを放っている。1950年の都市対抗野球大会で補強選手制度ができると、1950年、1951年の都市対抗野球大会と2年連続で、鐘淵化学(鐘紡高砂より改称)の補強選手として出場。そして、1952年に地元・富士市の日本軽金属に移籍。1953年の都市対抗野球大会では、大昭和製紙の補強選手として、齊藤了英(別名:東海の暴れん坊。後に大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長を務めた。フジテレビアナウンサーの斉藤舞子は孫娘に当たる[要出典])監督の下、見事黒獅子旗の奪還(優勝)を果たした。準決勝の東洋レーヨン(大津市)戦では、決勝のホームランを打っている。また大会後のハワイ遠征全日本チームにも選抜された。
- その他の記録
- 開幕から38回1/3無失点(1939年)、※プロ野球記録
- 20 (1938年 - 1939年)
- 26 (1943年)
- 13 (1946年)
- 1944年は全球団で背番号制を廃止。