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高野たかの弘正ひろまさ

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たかの ひろまさ

高野たかの 弘正ひろまさ
生誕せいたん 1900ねん10月31にち
東京とうきょう
死没しぼつ (1987-05-27) 1987ねん5月27にち(86さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
別名べつめい 甲子きのえねろう(かしお)
出身しゅっしんこう 東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう体育たいいく
肩書かたが 剣道けんどうはん
一刀いっとうりゅう中西なかにし宗家そうけ
親戚しんせき 高野たかの佐吉さきちろう祖父そふ
高野たかのたすく三郎さぶろうちち
高野たかの茂義しげよし義兄ぎけい
高野たかの泰正やすまさ実兄じっけい
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高野たかの 弘正ひろまさ(たかの ひろまさ、1900ねん明治めいじ33ねん10月31にち - 1987ねん昭和しょうわ62ねん5月27にち[1])は、日本にっぽん剣道けんどう称号しょうごう剣道けんどうはん一刀いっとうりゅう中西なかにし(または小野おの一刀いっとうりゅう中西なかにし宗家そうけ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

小野おの一刀いっとうりゅう剣道けんどう高野たかのたすく三郎さぶろう次男じなんとして東京とうきょうまれる。6さいよりちち道場どうじょう明信あきのぶかん剣術けんじゅつ修行しゅぎょうし、のち小野おの一刀いっとうりゅう継承けいしょうする。小野おの一刀いっとうりゅう中西なかにしじょうからかぞえて8代目だいめにあたる。

1918ねん大正たいしょう7ねん)、旧制きゅうせい日本にっぽん大学だいがく中学校ちゅうがっこう現在げんざい日本にっぽん大学だいがくだいいち中学校ちゅうがっこう日本にっぽん大学だいがく第一高等学校だいちこうとうがっこう)を卒業そつぎょう1923ねん大正たいしょう12ねん)、東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう体育たいいく卒業そつぎょう1926ねん大正たいしょう15ねん)、だい日本にっぽん武徳ぶとくかいから精錬せいれんしょう授与じゅよされる。

昭和しょうわはいり、早稲田大学わせだだいがく奉職ほうしょくする一方いっぽう修道しゅうどう学院がくいん運営うんえい、さらに劇団げきだんつくって主演しゅえんもした[2]

人物じんぶつ・エピソード[編集へんしゅう]

演劇えんげききであちこちの劇場げきじょうまわり、これがたかぶじて劇団げきだんつくって主演しゅえんした。

小説しょうせつ大菩薩峠だいぼさつとうげ』をあらわした中里なかさと介山かいざんは、澤田さわだ正二郎しょうじろう舞台ぶたいでこれをえんじるさいに、主人公しゅじんこうつくえりゅうすけの「けんおんしのかまえ」を高野たかの考案こうあんしてもらった。高野たかのかまえにんだ中里なかさとは、この作品さくひん1935ねん昭和しょうわ10ねん)に映画えいが大菩薩峠だいぼさつとうげ』として制作せいさくされるさいに、日活にっかつに「高野たかのつくえりゅう助役じょやくに」とねじんでゆずらなかった。結局けっきょく監督かんとく稲垣いながきひろし説得せっとくして断念だんねんさせて、「剣道けんどう指導しどう」というかたち参加さんかしてもらっている。

稲垣いながきによると、「このころ(昭和しょうわ10ねん)のわか先生せんせい高野たかの)の蛮勇ばんゆうぶりは、どの学校がっこうあばれんぼうまちやくざおそれをなした」ほどで、「まことに遠山とおやまきむさんをそのままの、こわいものらずのわか先生せんせいだった」とかたっている[3]

映画えいが指導しどう[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 兵法ひょうほう一刀いっとうりゅう

親族しんぞく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 『「現代げんだい物故ぶっこしゃ事典じてんそう索引さくいん昭和しょうわ元年がんねん平成へいせい23ねん) II 学術がくじゅつ文芸ぶんげい芸術げいじゅつへん』(日外にちがいアソシエーツ、2012ねん)p.626
  2. ^ 稲垣いながきひろし日本にっぽん映画えいがわか日々ひび』、毎日新聞社まいにちしんぶんしゃかん
  3. ^ 稲垣いながきひろし日本にっぽん映画えいがわか日々ひび』、毎日新聞社まいにちしんぶんしゃかん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]