たかみね

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鷹峰たかがみねから転送てんそう
たかみね
たかがみね
くに 日章旗 日本にっぽん
地方ちほう 近畿きんき地方ちほう
都道府県とどうふけん 京都きょうと
自治体じちたい 京都きょうと
行政ぎょうせい きた
きゅう自治体じちたい 愛宕あたごぐんたか峯村みねむら
世帯せたいすう
1,908世帯せたい
そう人口じんこう
4,191ひと
北緯ほくい353ふん15.2びょう 東経とうけい13543ふん50.9びょう / 北緯ほくい35.054222 東経とうけい135.730806 / 35.054222; 135.730806座標ざひょう: 北緯ほくい353ふん15.2びょう 東経とうけい13543ふん50.9びょう / 北緯ほくい35.054222 東経とうけい135.730806 / 35.054222; 135.730806
鷹峯の位置(京都府内)
鷹峯
たかみね
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たかみね街道かいどう町並まちな

たかみね[† 1](たかがみね)は、京都きょうときたたかみね街道かいどう京都きょうとどう31ごう西陣にしじん杉坂すぎさかせん)を中心ちゅうしんひろがる地域ちいきめいである。また、その西南せいなんかたつらなる丘陵きゅうりょう名称めいしょうでもある。ほんこうではどう地域ちいきにかつて存在そんざいした愛宕あたごぐんたか峯村みねむら(おたぎぐん たかがみねむら)についてもべる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

たかみねさんやまいちたかみね

京都きょうときた南西なんせい位置いちし、右京うきょうせっしている。きょうななくちひとつである長坂ながさかくち(ながさかぐち)から丹波たんばこく若狭わかさこくつづく、かつてのさば街道かいどう入口いりくちにあたる[1][2]1780ねん安永やすなが9ねん)に刊行かんこうされた『名所めいしょ図会ずえ』(みやこめいしょずえ)では、街道かいどう往来おうらいする人物じんぶつ複数ふくすうえがかれ、その半数はんすう荷物にもつかついでいる様子ようすうかがえ、たかみね地域ちいき物資ぶっし輸送ゆそうじょう重要じゅうようであったことを示唆しさしている[3]

南東なんとうから北西ほくせいにかけて細長ほそながひろがり、ひがし隣接りんせつする大宮おおみや学区がっくとほぼ並行へいこうしている。地域ちいき東側ひがしがわたかみね街道かいどう沿いの台地だいちに、西側にしがわ天神川てんじんかわ紙屋川かみやかわ沿いに谷間たにま狭隘きょうあいになっている[4]。それらの北西ほくせい後方こうほうにはすぎばん集落しゅうらくいたるまで、小高こだか丘陵きゅうりょうひろがる。

後述こうじゅつとおり、江戸えど時代じだいよりてん藤林ふじばやしが、当地とうち広大こうだい薬草やくそうえんひらいて野菜やさい栽培さいばいしたことから、きょう伝統でんとう野菜やさい名産めいさんとしてもられる。辛味からみ大根だいこん聖護院しょうごいん大根だいこん朝鮮人参ちょうせんにんじん唐辛子とうがらしたかみねとうがらし)、たかみねねぎ鹿しかたに南瓜かぼちゃ(ししがたにかぼちゃ)など、おも京野きょうのさい今日きょうでも栽培さいばいされている。

たかみね学区がっくには、2010ねん平成へいせい22ねん)4がつ現在げんざいで1929世帯せたい、4319にん居住きょじゅうしている[5]以前いぜんさかんであったもんりなどの西陣織にしじんおり関係かんけい農林のうりんぎょう従事じゅうじしゃ減少げんしょうする一方いっぽう宅地たくち開発かいはつすすみ、会社かいしゃいん世帯せたい増加ぞうかしている[6]学区がっくない教育きょういく機関きかんとしては、京都きょうと市立しりつたかみね小学校しょうがっこうほか、幼稚園ようちえん1えん保育ほいくしょ2箇所かしょ設置せっちされている。少子化しょうしかすすなかで、たかみね小学校しょうがっこう児童じどうすう2009ねん平成へいせい21ねん)に202にんと、2001ねん平成へいせい13ねん)の児童じどうすう266にんくらべ、8年間ねんかんやく4ぶんの3に減少げんしょうしている[7]

たかみね三山さんざん[編集へんしゅう]

大文字山だいもんじやまひだり大文字おおもじ)の北方ほっぽう位置いちし、当地とうち西方せいほうつらなる丘陵きゅうりょうをいう。ひがしからたかみねたかほう、たかがみね)、鷲峯じゅうぼう鷲ケ峰わしがみね、わしがみね)、てんみね天ケ峰てんがみね、てんがみね)としょうする。古文書こもんじょ複数ふくすう記載きさいされるなど、かねてよりおおくのひとしたしまれてきた。花札はなふだ8がつさつでおなじみの「すすき」は、このたかみねやましたものとされる[8]

ちなみに、たかみねさんやま自体じたいとなり衣笠きぬがさ地域ちいきないにあり、現在げんざい所在地しょざいちめい大北おおきたさん鷲峯じゅうぼうまち」にのこしている。

*「らくきたいぬい(いぬい)すみり。このしょさんみねあり。いわゆるてんみね鷲峯じゅうぼうたかみねこれなり。中古ちゅうこ秋冬あきふゆいたりてこのみねじょうたかつなを以ってはいたか(はいたか、小型こがたのメスのたか)をる。たかつという。これを綱懸つなかけたか(つながけのたか)としょうし、鷹峰たかがみねたかという」[9]
  • いにしえ(いにしえ)このやまはやし鷹来たかぎ毎歳まいさいひなしょうず。このゆえにこのごうありと」[10]
  • たかみね せんたば西北せいほくにあり、このところ西南せいなんにならんでさんみねあり。だい一天いってんみねだい鷲峯じゅうぼうだい三鷹みたかみねより。由来ゆらいいまかんがえず、たかみねいまとす」[10]

歴史れきし[編集へんしゅう]

遊猟ゆうりょう[編集へんしゅう]

古来こらい現在げんざいたかみねおよびその周辺しゅうへん地域ちいき一帯いったいは「栗栖野くりすの」(くるすの)とばれていた。この栗栖野くりすの一角いっかくに、こう岑寺(たかがみねじ、たかみねじ)という名称めいしょう寺院じいん存在そんざいしたとされる[11]が、その具体ぐたいてき所在地しょざいちかっていない。

平安へいあん時代じだいには、代々だいだい天皇てんのう程近ほどちかいこの栗栖野くりすの行幸ぎょうこうし、遊猟ゆうりょう鷹狩たかがりきょうじていたという[12][13]鷹狩たかがりたか捕捉ほそくできる場所ばしょとしてられたこの名称めいしょうこう岑」が、いつしか「たかみね」に変化へんかしたものとかんがえられている[14]

なお、当地とうちには「かつて丹波たんばこく愛宕あたご神社じんじゃもと愛宕あたご)の分霊ぶんれいまつられ、781ねんてんおう元年がんねん)に和気清麻呂わけのきよまろ請願せいがんで、けいしゅん(きょうしゅん、けいしゅん)が嵯峨さがさん現在げんざい愛宕山あたごやま山上さんじょううつして愛宕あたご神社じんじゃ中興ちゅうこうした」とのせつのこ[15][16]

集落しゅうらく誕生たんじょう[編集へんしゅう]

光悦寺こうえつじからたかみねのぞ

1591ねん天正てんしょう19ねん豊臣とよとみ秀吉ひでよし外敵がいてき侵入しんにゅうそなえて土居どい構築こうちく[17]洛外らくがいとされた当地とうち治安ちあんは、辻斬つじぎいはぎ出没しゅつぼつするなど、相当そうとう悪化あっかしていたとされる[18]

1615ねん元和がんわ元年がんねん)に、辺土へんどへの居住きょじゅう希望きぼうしていたほん阿弥あみ光悦こうえつが、徳川とくがわ家康いえやすより土居とい以北いほくやく8、9まんつぼ原野げんや拝領はいりょうして、一族いちぞく縁者えんじゃれてうつんだ[19]。こうして、たかみね集落しゅうらく(いわゆる光悦こうえつむら)が形成けいせいされ、光悦こうえつ屋敷やしき中心ちゅうしんとして街路がいろめんした家々いえいえならんだ。光悦こうえつした芸術げいじゅつ豪商ごうしょううつんで、京都きょうと芸術げいじゅつ文化ぶんか一大いちだい拠点きょてんとなった[20]

一方いっぽう土居とい付近ふきん以南いなんは、1640ねん寛永かんえい17ねん)に、てん藤林ふじばやしみち寿ことぶき一族いちぞくひろやく1.2haの薬草やくそうえんたかほう薬園やくえん」をひらいて管理かんり経営けいえいし、辛味からみ大根だいこん朝鮮人参ちょうせんにんじん唐辛子とうがらしをはじめとする野菜やさい栽培さいばいして幕府ばくふおさめたという[21][22]

そのほん阿弥あみ土地とち幕府ばくふ返上へんじょうしてこのはなれたことにより、18世紀せいき初頭しょとう貝原かいばら益軒えきけんあらわした『きょうじょうかちらん』では、一時いちじてきにぎわいがおとろえた様子ようすつたわる。一方いっぽう上述じょうじゅつの『名所めいしょ図会ずえ』には、光悦寺こうえつじみょうしゅうてら常照寺じょうしょうじといった法華宗ほっけしゅう寺院じいん存在そんざいにより、宗教しゅうきょうしょく集落しゅうらく形成けいせいされていた様子ようすえがかれている[3][23]

近代きんだい[編集へんしゅう]

たかがみねむら
たか峯村みねむら
廃止はいし 1931ねん4がつ1にち
廃止はいし理由りゆう 編入へんにゅう合併がっぺい
京都きょうと上賀茂かみがもむら大宮おおみやむらたか峯村みねむら京都きょうと上京かみぎょう
現在げんざい自治体じちたい 京都きょうと
廃止はいし時点じてんのデータ
くに 日本の旗 日本にっぽん
地方ちほう 近畿きんき地方ちほう
都道府県とどうふけん 京都きょうと
ぐん 愛宕あたごぐん
市町村しちょうそんコード なし(導入どうにゅうまえ廃止はいし
そう人口じんこう 862ひと
国勢調査こくせいちょうさ1920ねん
隣接りんせつ自治体じちたい 京都きょうと上京かみぎょう)、
愛宕あたごぐん大宮おおみやむら葛野かずらのぐん花園はなぞのむらうめ畑村はたむら中川なかがわむらしょう野郷のざとむら
たか峯村みねむら役場やくば
所在地しょざいち 京都きょうと愛宕あたごぐんたか峯村みねむら
座標ざひょう 北緯ほくい352ふん45.1びょう 東経とうけい13544ふん14.0びょう / 北緯ほくい35.045861 東経とうけい135.737222 / 35.045861; 135.737222 (たか峯村みねむら)
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1869ねん明治めいじ2ねん)に光悦こうえつむら千束せんそくむらおよび背面はいめんやまいきいちさかいしひろい・どうにわ)が合併がっぺいして西にし紫竹大門しちくだいもんむらとなり、1884ねん明治めいじ17ねん)にはかみまち畑村はたむら蓮台れんだい野村のむら編入へんにゅうたか峯村みねむら鷹峰たかがみねむら)となった。1892ねん明治めいじ25ねん1がつ29にちに、蓮台れんだいほか同村どうそん一部いちぶ地区ちく野口のぐちむら鷹野たかのまちいまらくただがく区域くいき)として分立ぶんりつした[24]

20世紀せいきはいり、右京うきょうふく王子おうじから高雄たかおきた中川なかがわ小野おのきょうける周山しゅうざん街道かいどう開通かいつうしたことを嫌気いやけして、当地とうち商家しょうか続々ぞくぞく京都きょうと中心ちゅうしん移転いてんたかみね街道かいどう往来おうらい活気かっきは、にわかにうしなわれたとされる[25]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)に京都きょうと上京かみぎょう編入へんにゅうされ、1955ねん昭和しょうわ30ねん)にぶん新設しんせつきたふくめられた。

たかみね街道かいどう沿いのたかみね小学校しょうがっこう標高ひょうこうやく160m。これははちケーブルはちえきおなじで、昭和しょうわ40年代ねんだい宅地たくち開発かいはつのピークには「きょう軽井沢かるいざわ」「ひゃくまんドルの夜景やけい」とも宣伝せんでんされていた[6]

教育きょういく[編集へんしゅう]

京都きょうと市立しりつたかみね小学校しょうがっこう
1873ねん明治めいじ6ねん)に「愛宕あたごぐん西にし紫竹大門しちくだいもんこう」として創立そうりつ時期じき不明ふめいながら、1885ねん明治めいじ18ねん)までに「愛宕あたごぐんだいさんばん学区がっくたかみねこう」とこうめい改称かいしょうされた[26]現在げんざい在籍ざいせき生徒せいとすうやく200めい。かつて校内こうない敷地しきちせまかったため、運動うんどうじょうプール校舎こうしゃ敷地しきちからはなれた場所ばしょ設置せっちされ、その都度つど移動いどうしなければならなかった。そのため、2007ねん平成へいせい19ねん)10がつより敷地しきち拡張かくちょう運動うんどう施設しせつ造成ぞうせい工事こうじ順次じゅんじすすめられ[27][28]2011ねん平成へいせい23ねん)6がつやく6150㎡のしん運動うんどうじょう[† 2]やく370㎡の野外やがい学習がくしゅう施設しせつとう、プールおよびテニスコートが校舎こうしゃ敷地しきち隣接りんせつして整備せいびされた[29][30]

名所めいしょ旧跡きゅうせき[編集へんしゅう]

源光げんこうあん山門さんもん
光悦寺こうえつじ光悦こうえつかき
鷹峰たかがみねさん源光げんこうあん(ようほうざんげんこうあん)
曹洞宗そうとうしゅう1346ねん貞和さだかず2ねん)にとおるおうよしとおる隠居いんきょしょとして創建そうけんした。当初とうしょ臨済宗りんざいしゅうぞくしていたが、1694ねん元禄げんろく7ねん)に加賀かがこく大聖寺だいしょうじまんじやましるべさん(まんざんどうはく)が再興さいこう改宗かいしゅうした。本堂ほんどう天井てんじょう伏見ふしみじょう遺構いこうで、関ヶ原せきがはらたたかひがしぐんについた鳥居とりい元忠もとただとその家臣かしん自刃じじんしたゆかもちいた天井てんじょうである。その北山きたやま借景しゃっけいとする枯山水かれさんすい庭園ていえん仏教ぶっきょう真理しんりしめ円形えんけいの「さとりのまど」と四角しかくい「まよいのまど」が有名ゆうめい境内けいだいの「稚児ちご井戸いど」(ちごいど)からはいま清水しみずく。
寂光じゃっこうやま常照寺じょうしょうじ(じゃっこうざんじょうしょうじ)
日蓮宗にちれんしゅう1616ねん元和がんわ2ねん)に光悦こうえつ土地とち寄進きしんし、そのこう瑳の発願ほつがんにより、日蓮宗にちれんしゅう日乾ひぼし(にちけん)を開山かいさんとして創建そうけんされた。日乾ひぼし帰依きえした吉野よしの太夫たゆうゆかりのてらとしてられるほか、1969ねん昭和しょうわ44ねん全国ぜんこくはつの「おびづか」が建立こんりゅうされた。
鶏足山けいそくさん讃州寺さんしゅうじ(けいそくざんさんしゅうじ)
臨済宗りんざいしゅう鷹峯千束たかがみねせんぞくまちにたたずむ。もと室町むろまち幕府ばくふ管領かんりょう細川ほそかわ讃岐さぬき守成しゅせい創建そうけんとされ、現在げんざい上京かみぎょう讃州寺さんしゅうじまち西洞院にしのとういん一条いちじょうル)にあった。1652ねん慶安けいあん5ねん)、京都きょうと所司代しょしだい板倉いたくら重宗しげむねいのちで、大徳寺だいとくじたまりんいんだいせいさちだけ禅師ぜんじにより、当地とうちうつされた[† 3]現在げんざいたまりんいん末寺まつじであるが、住職じゅうしょく常駐じょうちゅうしていない。本堂ほんどうわきすぎ巨木きょぼく圧巻あっかんで、樹齢じゅれい350ねんくだらないとされる[31]
大虚たいきょやま光悦寺こうえつじ(たいきょざんこうえつじ)
日蓮宗にちれんしゅう光悦こうえつ死後しご1656ねんあかりれき2ねん)に日蓮宗にちれんしゅう磁(にちじ)を開山かいさんとしててらとなった。光悦こうえつはか大虚たいきょあんはじめとするななつの茶室ちゃしつ大虚たいきょあんまえまれたゆるやかな曲線きょくせん竹垣たけがき光悦こうえつかき」などがられる。

名物めいぶつ[編集へんしゅう]

たかみねとうがらし
1943ねん昭和しょうわ18ねんごろから当地とうち栽培さいばいはじめられた。伏見ふしみとうがらしよりふとく、万願寺まんがんじとうがらしともややかたちことなる。からみがなく、にくあつである。ハウスで定植ていしょくされ、なつからあきにかけて収穫しゅうかく出荷しゅっかされる。栽培さいばい歴史れきし比較的ひかくてきあさいため、きょう伝統でんとう野菜やさいではなくそれにじゅんじるものとされる[32]
土居といもち
土居とい見立みたてて考案こうあんされた、当地とうちない和菓子わがしてんにて販売はんばいされる羽二重はぶたえもちである。

地域ちいき活動かつどう[編集へんしゅう]

たかみねふれあいまつり
体育たいいく振興しんこうかい女性じょせいかい少年しょうねん補導ほどう委員いいんかいはじめとする地域ちいき住民じゅうみんによる模擬もぎてん出店しゅってんや、児童じどうによる演奏えんそうもよおされる学区がっくのイベント。8月だい1土曜日どようびに、たかみね小学校しょうがっこう運動うんどうじょう開催かいさいされる。
たかみね歴史れきしかたかい
たかみね地域ちいき歴史れきし探求たんきゅうするとともに、地域ちいきない道標どうひょう観光かんこうマップ掲示板けいじばん設置せっちしたり、あたらしい世代せだいたかみね歴史れきしかたつたえたりするなど、当地とうちへの愛着あいちゃくふかめる活動かつどうおこなっている。
紙屋川かみやかわうつくしくするかい
紙屋川かみやかわ自然しぜん清流せいりゅうもどすため、流域りゅういき人々ひとびと連携れんけいしながら、紙屋川かみやかわ流域りゅういき清掃せいそう活動かつどう美化びか啓発けいはつ標識ひょうしき設置せっちなどの活動かつどうおこなっている[33]
ふれあい事業じぎょう
学区がっくない社会しゃかい福祉ふくし協議きょうぎかい主体しゅたいに、独居どっきょ高齢こうれいしゃなどを対象たいしょうとして、こうかい地元じもと特産とくさん辛味からみ大根だいこん使つかったもちつき、たかみね児童じどう公園こうえん清掃せいそうたかみね小学校しょうがっこうくさき、小学生しょうがくせい高齢こうれいしゃはなえる事業じぎょうなどを、とし4かい実施じっししている。
毎年まいとし秋季しゅうき紙屋川かみやかわ京見きょうみとうげ中心ちゅうしんとする清掃せいそう活動かつどう[6]おこなうとともに、北山きたやま地域ちいき不法ふほう投棄とうき防止ぼうし協議きょうぎかい活動かつどう参加さんかし、不法ふほう投棄とうきされたゴミの回収かいしゅうにもんでいる[27]

たかみねギャラリー[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 現在げんざい公的こうてき表記ひょうきには「たかみね」のみもちいられるが、かつては「鷹峰たかがみね」「たかほう」「たかみね」などが混在こんざいしていた。
  2. ^ 京都きょうと市立しりつ小学校しょうがっこうでははじめて、100mの走路そうろ直線ちょくせん設定せってい可能かのうなグラウンドをそなえる。
  3. ^ とおる年間ねんかん京都きょうとまち奉行ぶぎょう作成さくせいした『京都きょうと役所やくしょこう大概たいがい覚書おぼえがき』に「大徳寺だいとくじ末寺まつじ 愛宕あたごぐんたかみね 御朱印ごしゅいん寺領じりょうせき 千足せんぞくさん讃州寺さんしゅうじ」とある(京都きょうと地名ちめい2010 p.20)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 京都きょうと地名ちめい2005 p.183 :『ややせまこう』(板屋いたや一助いちじょ、1767ねん)「(小浜おばまからきょうへのみちは、)丹羽にわ八原やはらどおり現在げんざいみなみ美山みやままち知見ちけん)に周山しゅうざんをへて鷹峰たかがみねみちあり。」
  2. ^ 京都きょうと地名ちめい2007 p.95 :『山城やましろ名跡みょうせき巡行じゅんこうこころざし』(きよしとし、1754ねん)「長坂ながさかえついちめい山国やまぐに長坂ながさかくちいたりすぎざかさとじゅうさんまち杉坂すぎさかいたる西河内さいごうち西河内さいごうちヨリとうげ桑田くわたぐんかいじゅうきゅうまちだし丹波山たばやま国下こくがむら
  3. ^ a b 佛教大学ぶっきょうだいがく 渡邊わたなべ秀一ひでかず研究けんきゅうしつ[リンク]
  4. ^ 京都きょうと地名ちめい2005 p.122 京都きょうと地名ちめい2010 p.15
  5. ^ 平成へいせい22年度ねんど きた運営うんえい方針ほうしん (PDF)
  6. ^ a b c 京都きょうと情報じょうほうかん きた区役所くやくしょ リレー学区がっく紹介しょうかいたかみね学区がっく
  7. ^ きた現状げんじょう課題かだい 平成へいせい21ねん9がつ 京都きょうときた区役所くやくしょ (PDF) [リンク]
  8. ^ 京都きょうときた あるくマップ エリアCのスポット たかみねやま”. 2007ねん2がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  9. ^ 京都きょうと地名ちめい2010 p.83 :『雍州こころざし』(ようしゅうふし、1664ねん
  10. ^ a b 京都きょうと地名ちめい2010 p.83 :1711ねん正徳まさのり元年がんねん刊行かんこうやましゅう名跡みょうせきこころざし』(はくとし(坂内ばんないただしよりゆき) せん
  11. ^ 京都きょうと地名ちめい2010 p.83 :『日本にっぽんさんだい実録じつろく874ねんさだかん16ねん)8がつ24にちじょう1714ねん正徳まさのり4ねん刊行かんこう新撰しんせん増補ぞうほ京大きょうだい絵図えず』に記載きさい
  12. ^ 京都きょうと地名ちめい2010 p.83 :『類聚るいじゅう国史こくし833ねんてんちょう10ねん)9がつ25にちじょう「(仁明にんみょう天皇てんのう栗栖野くりすの行幸ぎょうこう遊猟ゆうりょうす。綿めん(わたごいけ、大宮釈迦谷おおみやしゃかだにない 現在げんざい尺八しゃくはち付近ふきん)に行幸ぎょうこうす。調しらべやしなえするところはやぶさ(はやぶさ)をはな水禽すいきん(すいきん、水鳥みずとり)をはらう」ほか、栗栖野くりすの遊猟ゆうりょうしたとの記述きじゅつ複数ふくすう存在そんざいする。
  13. ^ フィールド・ミュージアム京都きょうと KI005 平安へいあんゆう禽綿旧跡きゅうせき
  14. ^ 京都きょうと地名ちめい2010 p.84
  15. ^ 京都きょうと地名ちめい2010 p.337
  16. ^ だいかい小野おの陽太郎ようたろうさん「かぜおとく」”. Slownet. 2012ねん3がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  17. ^ 京都きょうと地名ちめい2007 pp.64-65
  18. ^ ほん阿弥あみ行状ぎょうじょう』(じゅうだん)「近江おうみ丹波たんばなどより京都きょうとへのみちに、用心ようじんあしき、つじきりおいはぎをもするところあるべし」
  19. ^ 京都きょうといきいき66ごうたかみね 光悦こうえつむら” (pdf). 2016ねん3がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  20. ^ 京都きょうと地名ちめい2010 p.85
  21. ^ 『「たかほう薬園やくえん」(江戸えど)ここに』 京都きょうと新聞しんぶん2011ねん7がつ7にち
  22. ^ フィールド・ミュージアム京都きょうと KI069 たかほう薬園やくえんあと
  23. ^ たかみね児童じどう公園前こうえんまえ掲示けいじされた説明せつめいき『きょうななくちひと長坂ながさかこう(このあたりの様子ようす)』「ほん阿弥あみ幕府ばくふ返上へんじょうしてから間口まぐちひろ屋敷やしきにはきょう丹波たんばからの商家しょうかうつようになり材木ざいもく問屋とんや薪炭しんたん問屋とんやべい、たばこ問屋とんや等々とうとういとなまれいた(原文げんぶんママ)。ふねちゃっかないみなとわれていた一時期いちじきもあった。」
  24. ^ 市区しく町村ちょうそん変遷へんせん情報じょうほう 詳細しょうさいデータ
  25. ^ たかみね児童じどう公園前こうえんまえ掲示けいじされた説明せつめいき『きょうななくちひと長坂ながさかこう(このあたりの様子ようす)』
  26. ^ 京都きょうと市立しりつたかみね小学校しょうがっこうPTA事務じむきょく”. 2012ねん5がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  27. ^ a b 京都きょうと情報じょうほうかん きた区役所くやくしょ わたしたちのまちきたたかみね学区がっくだより
  28. ^ 京都きょうと教育きょういく委員いいんかい事務じむきょく総務そうむたかみね小学校しょうがっこう 念願ねんがん拡張かくちょう敷地しきち造成ぞうせい工事こうじ いよいよ着工ちゃっこう!」 (PDF)
  29. ^ 移転いてん工事こうじわり竣工しゅんこうしききたたかみねしょう京都きょうと新聞しんぶん2011ねん6がつ5にち
  30. ^ たかみねしょうのグラウンドやプール完成かんせい 校舎こうしゃ近接きんせつ産経新聞さんけいしんぶん2011ねん6がつ5にち
  31. ^ 京都きょうと地名ちめい2010 p.15
  32. ^ 京都きょうと たかみねとうがらし
  33. ^ 京都きょうと情報じょうほうかん いきいききたプラン・フォローアップ事業じぎょう 活動かつどうじょうきょう[リンク]
  34. ^ 京都きょうときたに“最強さいきょう”の「げきざか」 サイクリストも畏怖いふ つくったのは江戸えど時代じだい文化ぶんかじん?』 京都きょうと新聞しんぶん2023ねん5がつ4にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 京都きょうと地名ちめい研究けんきゅうかい へん京都きょうと地名ちめい検証けんしょうつとむまこと出版しゅっぱん、2005ねんISBN 4-585-05138-4 
  • 京都きょうと地名ちめい研究けんきゅうかい へん京都きょうと地名ちめい検証けんしょう2』つとむまこと出版しゅっぱん、2007ねんISBN 978-4-585-05139-8 
  • 京都きょうと地名ちめい研究けんきゅうかい へん京都きょうと地名ちめい検証けんしょう3』つとむまこと出版しゅっぱん、2010ねんISBN 978-4-585-22000-8 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]