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龍泉寺りゅうせんじ (富田林とんだばやし)

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龍泉寺りゅうせんじ

本堂ほんどう
所在地しょざいち 大阪おおさか富田林とんだばやし龍泉りゅうせん888
位置いち 北緯ほくい3427ふん43.6びょう 東経とうけい13535ふん51.6びょう / 北緯ほくい34.462111 東経とうけい135.597667 / 34.462111; 135.597667座標ざひょう: 北緯ほくい3427ふん43.6びょう 東経とうけい13535ふん51.6びょう / 北緯ほくい34.462111 東経とうけい135.597667 / 34.462111; 135.597667
山号さんごう 牛頭山うしずやま
院号いんごう おういんおういん
宗旨しゅうし 真言宗しんごんしゅう
宗派しゅうは 高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい
創建そうけんねん つて推古天皇すいこてんのう2ねん594ねん
開基かいき つて蘇我馬子そがのうまこ
正式せいしきめい 牛頭山うしずやまおういん龍泉寺りゅうせんじ
札所ふだしょとう 河内かわうち飛鳥あすか古寺ふるでら霊場れいじょうだい11ばん
文化財ぶんかざい 仁王門におうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
龍泉寺りゅうせんじ庭園ていえんくに名勝めいしょう
木造もくぞう金剛力士こんごうりきしぞう2ほか(指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
法人ほうじん番号ばんごう 3120105004798 ウィキデータを編集
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龍泉寺りゅうせんじ(りゅうせんじ)は、大阪おおさか富田林とんだばやし龍泉りゅうせんにある高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう寺院じいん山号さんごう牛頭山うしずやま本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらい

歴史れきし

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てらでんによれば、かつてここ嶽山たけやま中腹ちゅうふくにあるいけげん庭園ていえん)にはあくりゅうんでいたという。そして、あくりゅう付近ふきん里人さとびとがいあたえていたという。そこで、推古天皇すいこてんのう2ねん594ねん)に蘇我馬子そがのうまこ勅命ちょくめいけてこの修法しゅほうおこなうとあくりゅうてんっていった。こうして馬子まご龍泉寺りゅうせんじ建立こんりゅうしたとされている[1]。しばらくあくりゅう報復ほうふくにより境内けいだいいけふもと水脈すいみゃくれてしまったとつたえられる。

そこで、ひろしひとし14ねん823ねん)1がつ8にち空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)がこのおとずれて、祈祷きとうによって雨水あまみず境内けいだいいけにはみずたたえられ、このときいけなかに3つの小島こじまができたとされる。空海くうかいはこのしまちいさなしゃて、聖天しょうてん弁才天べんざいてんしかてんまつり、鎮守ちんじゅしゃげん咸古神社じんじゃ)に牛頭ごず天王てんのうまつったという。

てんちょう5ねん828ねん)に淳和天皇じゅんなてんのう藤原ふじわらふゆいとぐちめいじてとうてら再建さいけんされ、勅願ちょくがんてらとして牛頭山うしずやま龍泉寺りゅうせんじおういん寺号じごうたまわった。また、東西とうざいりょうとうてられ、大小だいしょう25の塔頭たっちゅうならだい寺院じいんとなったという。

南北なんぼくあさ時代じだいになると、楠木くすのき正成まさしげ嶽山たけやま山頂さんちょう龍泉寺りゅうせんじじょうたけ山城やましろ)をきずいた。このことにより、南北なんぼくあさ争乱そうらんとうてらまれ仁王門におうもんのぞいておおくの宝物ほうもつとともに堂塔どうとう伽藍がらん焼失しょうしつした。その再建さいけんされるが、長禄ちょうろく4ねん1460ねん)12月から畠山はたけやま義就よしなりたけ山城やましろ籠城ろうじょうし、畠山はたけやま政長まさながたけ山城やましろたたかはじめたので、ふたた被害ひがいけた。『多聞たもんいん日記にっき』によるとえいただし4ねん1507ねん)には畠山はたけやま義英よしひで籠城ろうじょうしたことで「嶽山たけやまふもとごと日大にちだいしょう」となっている。

安土あづち桃山ももやま時代じだいはい灯明とうみょうりょうとして3せきみとめられると、ようやく復興ふっこうおこなわれはじめた。

江戸えど時代じだい、この近辺きんぺん伊勢いせこく神戸こうべはん石川いしかわはんりょうとなり白木しらき陣屋じんやかまえられていた。また、石川いしかわ常陸ひたちこく下館しもだてはんうつってから以後いごも、やはり石川いしかわはんりょうであったことから歴代れきだい藩主はんしゅ石川いしかわから寄進きしん度々たびたびけている。しかし、かつてほどの規模きぼもどすことは出来できなかった。

明治めいじ時代じだいになると、神仏しんぶつ分離ぶんりによって牛頭ごず天王てんのうまつ鎮守ちんじゅしゃ龍泉寺りゅうせんじより独立どくりつし、式内しきないしゃである咸古神社じんじゃ比定ひていされ祭神さいじんかみ八井はっせいみみいのちあらためられている。

境内けいだいにいたる参道さんどうせまいものの、わきにはさくらツツジモミジなどが数多かずおおえられ、ぶしごとに行楽こうらくきゃくたのしませる。

境内けいだい

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文化財ぶんかざい

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重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 仁王門におうもん

くに指定してい名勝めいしょう

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  • 龍泉寺りゅうせんじ庭園ていえん[2]

大阪おおさか指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 木造もくぞう金剛力士こんごうりきしぞう 2[3]
  • 木造もくぞう聖徳太子しょうとくたいし立像りつぞう ぞうない納入のうにゅうひんかみほん版画はんが如意輪観音にょいりんかんのんぞう1まいかみほん墨画ぼくが阿弥陀あみだ地蔵じぞう尊像そんぞう1まいかみほん聖徳太子しょうとくたいししるしほとけ1まい護符ごふ1まい文書ぶんしょ断片だんぺん1へん[4]

前後ぜんご札所ふだしょ

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河内かわうち飛鳥あすか古寺ふるでら霊場れいじょう
10 観心寺かんしんじ - 11 龍泉寺りゅうせんじ - 12 瀧谷たきや不動明王ふどうみょうおうてら

交通こうつう

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  • 自家用車じかようしゃ
国道こくどう170ごう旧道きゅうどう本町ほんちょう交差点こうさてん富田林とんだばやしえきまえ)からどう705ごう富田林とんだばやし五條ごじょうせんどう201ごう甘南備かんなび川向かわむかいせんる。
  • 公共こうきょう交通こうつう機関きかん
近鉄きんてつ長野ながのせん 富田林とんだばやしえきから 4市町村しちょうそんコミバス東條とうじょうせん甘南備かんなび経由けいゆ 東阪あずまざかき」「サバーファームき」「甘南備かんなびき」「府立ふりつこんごう福祉ふくしセンターまえき」のいずれかに乗車じょうしゃし、「龍泉りゅうせんバス停ばすてい下車げしゃ徒歩とほやく15ふん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 発掘はっくつ調査ちょうさ奈良なら時代じだい前期ぜんきさかのぼかわら出土しゅつどしたが、7世紀せいき日本にっぽん山岳さんがく寺院じいん存在そんざいかんがえられず、平安へいあん時代じだい蘇我そが末裔まつえいである石川いしかわ建立こんりゅうしたてらではないかとするせつがある。『蘇我そが-古代こだい豪族ごうぞく興亡こうぼう倉本くらもと一宏かずひろしる 中公新書ちゅうこうしんしょ2353 p.85, 212参照さんしょう
  2. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2019ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  3. ^ 龍泉寺りゅうせんじ木造もくぞう金剛力士こんごうりきしぞうからだ(大阪おおさか指定してい文化財ぶんかざい) | 富田とみたりんきらめきミュージアム”. 2019ねん8がつ15にち閲覧えつらん
  4. ^ 木造もくぞう聖徳太子しょうとくたいし立像りつぞう | 富田とみたりんきらめきミュージアム”. 2019ねん8がつ15にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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