東京 とうきょう オリンピック閉会 へいかい 式 しき
1964年 ねん 東京 とうきょう オリンピックの閉会 へいかい 式 しき (1964ねんとうきょうオリンピックのへいかいしき、英語 えいご : 1964 Summer Olympics closing ceremony )は、東京 とうきょう オリンピック大会 たいかい 最終 さいしゅう 日 び の1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )10月24日 にち (土曜日 どようび )に国立 こくりつ 競技 きょうぎ 場 じょう で行 おこな われた。
オリンピックの閉会 へいかい 式 しき は通常 つうじょう 日曜日 にちようび に行 おこな われるが、東京 とうきょう 大会 たいかい は15日間 にちかん の日程 にってい であったので最終 さいしゅう 日 び が土曜日 どようび となった[ 注 ちゅう 1] 。
東京 とうきょう オリンピックの最終 さいしゅう 日 び は国立 こくりつ 競技 きょうぎ 場 じょう で馬術 ばじゅつ 競技 きょうぎ が行 おこな われ、競技 きょうぎ 終了 しゅうりょう 後 ご 、昭和 しょうわ 天皇 てんのう ・香 こう 淳 じゅん 皇后 こうごう が出席 しゅっせき して閉会 へいかい 式 しき が行 おこな われた。すっかり日 ひ が沈 しず みかけて夕闇 ゆうやみ が迫 せま る国立 こくりつ 競技 きょうぎ 場 じょう に開会 かいかい 式 しき と同 おな じようにオリンピックマーチが演奏 えんそう されてすぐに入場 にゅうじょう 行進 こうしん が始 はじ まった。
入場 にゅうじょう 行進 こうしん は、開会 かいかい 式 しき と同 おな じように防衛 ぼうえい 大学生 だいがくせい が持 も つプラカードと各国 かっこく の旗手 きしゅ だけが国旗 こっき を持 も って入場 にゅうじょう し、最後 さいご の日本 にっぽん 選手 せんしゅ の日 ひ の丸 まる の国旗 こっき の後 のち に整然 せいぜん と国 くに 別 べつ に行進 こうしん するため、各国 かっこく の選手 せんしゅ 団 だん が国立 こくりつ 競技 きょうぎ 場 じょう に入 はい る前 まえ に国 くに 別 べつ に整列 せいれつ し入場 にゅうじょう を待 ま つ予定 よてい であった。しかし、全 すべ ての競技 きょうぎ を終 お えてリラックスした各国 かっこく の選手 せんしゅ 団 だん が係員 かかりいん の指示 しじ に従 したが わず、その結果 けっか 入 い り乱 みだ れたままになって、そのままで閉会 へいかい 式 しき になだれ込 こ むような形 かたち になった。
解 と き放 はな たれたように、各国 かっこく の選手 せんしゅ たちは入 い り乱 みだ れたままばらばらに行進 こうしん していった。国旗 こっき を持 も つ旗手 きしゅ の行進 こうしん の最 さい 後尾 こうび は開催 かいさい 国 こく 日本 にっぽん の福井 ふくい 誠 まこと (競泳 きょうえい )であったが、すぐ後 うし ろを行進 こうしん する選手 せんしゅ たちが彼 かれ を肩車 かたぐるま して行進 こうしん し、様々 さまざま な国 くに の選手 せんしゅ が入 はい り混 ま じり腕 うで や肩 かた を組 く み合 あ い入場 にゅうじょう する、かつて見 み られなかった形 かたち となった[ 1] 。
国立 こくりつ 競技 きょうぎ 場 じょう に入場 にゅうじょう した後 のち も選手 せんしゅ の中 なか にはお互 たが いの姿 すがた をカメラで撮影 さつえい [ 注 ちゅう 2] したり、公式 こうしき スーツではなく競技 きょうぎ 用 よう ユニフォーム[ 注 ちゅう 3] で参加 さんか する者 もの もいた。さらに別 べつ の国 くに の選手 せんしゅ を肩車 かたぐるま で担 にな いだり、列 れつ になり踊 おど る選手 せんしゅ がいるなど秩序 ちつじょ が無 な いものとなったが、そのために却 かえ ってまさに「平和 へいわ の祭典 さいてん 」を体現 たいげん した和気 わき あいあいとした雰囲気 ふんいき のものとなった。こうした自由 じゆう な入場 にゅうじょう スタイルは1956年 ねん のメルボルン大会 たいかい で初 はじ めて採用 さいよう されたものだが、人気 にんき 競技 きょうぎ である陸上 りくじょう の日程 にってい の多 おお くが前半 ぜんはん で終了 しゅうりょう し、選手 せんしゅ たちが帰国 きこく したことも手伝 てつだ って盛 も り上 あ がりを欠 か いた。1960年 ねん のローマ大会 たいかい では前回 ぜんかい 大会 たいかい の反省 はんせい を踏 ふ まえ、陸上 りくじょう 競技 きょうぎ の日程 にってい を後半 こうはん に組 く み、また閉会 へいかい 式 しき も厳 おごそ かなスタイルに戻 もど した。しかし、東京 とうきょう 大会 たいかい では、後 のち に「式典 しきてん の神様 かみさま 」と呼 よ ばれるようになる日本 にっぽん 体育 たいいく 協会 きょうかい 式典 しきてん 部長 ぶちょう の松沢 まつざわ 一 いち 鶴 づる が中心 ちゅうしん となって、選手 せんしゅ 村 むら の宿泊 しゅくはく 費 ひ などの費用 ひよう を日本 にっぽん が負担 ふたん し、選手 せんしゅ たちが喜 よろこ ぶイベントを仕掛 しか けるなど、選手 せんしゅ をできる限 かぎ り閉会 へいかい 式 しき まで引 ひ き留 と めるアイデアを実施 じっし した。そして、閉会 へいかい 式 しき が訪 おとず れると、松沢 まつざわ は組織 そしき 委員 いいん の矢田 やた 喜美雄 きみお が提案 ていあん した[ 2] 仰天 ぎょうてん プランを決行 けっこう した。男子 だんし マラソン金 きん メダリストのアベベ・ビキラ を先頭 せんとう に、国 くに 、人種 じんしゅ 、性別 せいべつ の垣根 かきね を超 こ え、選手 せんしゅ が一団 いちだん となって入場 にゅうじょう したのである。これが好評 こうひょう を得 え たこともあり、その後 ご のオリンピックではこの「東京 とうきょう 式 しき 」が採用 さいよう されるようになった[ 3] 。
この様子 ようす をテレビ中継 ちゅうけい で見 み た喜 き 納 おさめ 昌吉 しょうきち がインスパイアされて制作 せいさく したのが『花 はな 〜すべての人 ひと の心 しん に花 はな を〜 』である。
日本 にっぽん 選手 せんしゅ 団 だん は各国 かっこく 選手 せんしゅ が全 すべ て入場 にゅうじょう した後 のち に、一団 いちだん となって組織 そしき された行進 こうしん [ 注 ちゅう 4] で入場 にゅうじょう した。前 まえ の方 ほう はメダルを獲得 かくとく した選手 せんしゅ の集団 しゅうだん で女子 じょし バレーボールや女子 じょし 体操 たいそう の選手 せんしゅ も入 はい り、緊張 きんちょう 感 かん はなく終 お わった安堵 あんど 感 かん を漂 ただよ わせながら行進 こうしん して行 い った。
このとき、NHK テレビで実況 じっきょう を担当 たんとう した土門 どもん 正夫 まさお は予定 よてい 外 がい の状況 じょうきょう に戸惑 とまど い(後 のち に『ありゃ、これは何 なに なんだ』と入場 にゅうじょう 行進 こうしん で入 はい ってきた選手 せんしゅ を見 み て仰天 ぎょうてん したことをテレビ番組 ばんぐみ で語 かた っている)、カメラに映 うつ し出 だ される情景 じょうけい を随時 ずいじ 伝 つた えていった。予定 よてい されていたプログラムと大 おお きくかけ離 はな れたことから、予定 よてい にない実況 じっきょう を行 おこな うこととなったため、他 た の中継 ちゅうけい スタッフともども大変 たいへん な放送 ほうそう をしてしまったという思 おも いを抱 だ いていたが、終了 しゅうりょう 後 ご に渋谷 しぶや のNHK放送 ほうそう センター に戻 もど ると、他 た の職員 しょくいん たちから賞賛 しょうさん の拍手 はくしゅ を受 う けることになったという[ 注 ちゅう 5] 。
なお、10月 がつ 10日 とおか の東京 とうきょう オリンピック開会 かいかい 式 しき にイギリス領 りょう 北 きた ローデシア として参加 さんか したザンビア は、閉会 へいかい 式 しき の日 ひ にイギリス から独立 どくりつ し、新 しん 国名 こくめい のプラカードと新国 にいくに 旗 はた を手 て に入場 にゅうじょう 行進 こうしん [ 注 ちゅう 6] した。
入場 にゅうじょう 行進 こうしん が終 お わってからオリンピック憲章 けんしょう に従 したが い、オリンピック発祥 はっしょう の地 ち ギリシャ ・日本 にっぽん ・次回 じかい 開催 かいさい 国 こく メキシコ の国旗 こっき が国歌 こっか の演奏 えんそう とともに掲揚 けいよう され、大会 たいかい 組織 そしき 委員 いいん 会 かい 会長 かいちょう の安川 やすかわ 第 だい 五 ご 郎 ろう の挨拶 あいさつ 、そして、国際 こくさい オリンピック委員 いいん 会 かい (IOC)会長 かいちょう のアベリー・ブランデージ が閉会 へいかい の宣言 せんげん [ 注 ちゅう 7] をし、そして東京 とうきょう オリンピック賛歌 さんか [ 注 ちゅう 8] の合唱 がっしょう とともに聖火 せいか が静 しず かに消 き えていった[ 注 ちゅう 9] 。
15日間 にちかん にわたって掲揚 けいよう されていた五輪 ごりん 旗 き がオリンピック賛歌 さんか の合唱 がっしょう とともに降 お ろされて、競技 きょうぎ 場 じょう 内 ない を一 いち 点 てん の照明 しょうめい に照 て らされながら去 さ っていった[ 注 ちゅう 10] 。やがて、蛍 ぼたる の光 ひかり が流 なが れて女子大 じょしだい 生 せい たちが持 も つ松明 たいまつ の火 ひ が点々 てんてん と帯 おび のように灯 とも され、電光 でんこう 掲示板 けいじばん に「SAYONARA(さよなら)」[ 注 ちゅう 11] 「WE MEET AGAIN IN MEXICO(メキシコでまたお会 あ いしましょう) 1968」と表示 ひょうじ された。この後 のち 、再 ふたた びオリンピックマーチが流 なが れて、各国 かっこく 選手 せんしゅ 団 だん はまた賑 にぎ やかにお祭 まつ り騒 さわ ぎのように陽気 ようき に踊 おど りながら、競技 きょうぎ 場 じょう を去 さ って行 い った。観客 かんきゃく たちはしばらく夜空 よぞら に打 う ち上 あ げられた花火 はなび を見 み ながら興奮 こうふん の余韻 よいん に浸 ひた っていた。
^ オリンピック夏季 かき 大会 たいかい は通常 つうじょう 16日間 にちかん 開催 かいさい で、土曜日 どようび 開会 かいかい 式 しき で16日 にち 目 め の日曜日 にちようび 夜 よる に閉会 へいかい 式 しき が行 おこな われることが多 おお い。ところが東京 とうきょう 大会 たいかい は何故 なぜ か15日間 にちかん 開催 かいさい で、土曜日 どようび 夕方 ゆうがた に行 おこな われた。これは当時 とうじ は競技 きょうぎ 終了 しゅうりょう 後 ご 帰国 きこく する選手 せんしゅ が多 おお く、閉会 へいかい 式 しき に参加 さんか する選手 せんしゅ が少 すく なかったとのことで1日 にち 早 はや くしたという説 せつ もある。
^ その後 ご の大会 たいかい ではお馴染 なじ みになったが、この当時 とうじ はカメラ厳禁 げんきん をIOCは通知 つうち していて、実際 じっさい は少 すく なかった。
^ 映画 えいが 『東京 とうきょう オリンピック 』では、カメラが陸上 りくじょう 競技 きょうぎ のユニホームで参加 さんか する選手 せんしゅ を捉 とら えている。
^ この中 なか に1人 ひとり 黒人 こくじん 選手 せんしゅ が交 ま じっていて、テレビカメラが映 うつ していた。
^ BSスペシャル『青春 せいしゅん TVタイムトラベル』 第 だい 4回 かい プレイバック・東京 とうきょう オリンピック(NHK衛星 えいせい 第 だい 2テレビジョン /1992年 ねん 12月26日 にち 放送 ほうそう )で、土門 どもん 自身 じしん が振 ふ り返 かえ ってコメントしている。
^ この時 とき に後 ご の日本 にっぽん の旗手 きしゅ が肩車 かたぐるま されたが、ザンビアの旗手 きしゅ も肩車 かたぐるま された。
^ 最近 さいきん の大会 たいかい では、主催 しゅさい 国 こく への賛辞 さんじ と感謝 かんしゃ の言葉 ことば を述 の べて長 なが い挨拶 あいさつ になるのが普通 ふつう だが、この当時 とうじ は予 あらかじ め定 さだ められた言葉 ことば で語 かた り、短 みじか いものであった。「国際 こくさい オリンピック委員 いいん 会 かい を代表 だいひょう して、私 わたし はここに第 だい 18回 かい 競技 きょうぎ 大会 たいかい の閉会 へいかい を宣言 せんげん します。そして伝統 でんとう に従 したが い4年 ねん 後 ご メキシコにて開催 かいさい 致 いた します。」
^ この東京 とうきょう オリンピックの時 とき だけに作 つく られた賛歌 さんか で、開会 かいかい 式 しき 用 よう Aと閉会 へいかい 式 しき 用 よう Bの2曲 きょく があった。
^ 当時 とうじ 、演出 えんしゅつ は殆 ほとん どなく静 しず かに消 き えゆく形 かたち が普通 ふつう であった。
^ その後 ご の大会 たいかい でも五輪 ごりん 旗 き の降 くだ 納 おさめ は賛歌 さんか の合唱 がっしょう と一 いち 点 てん の照明 しょうめい に照 て らされながら場内 じょうない を去 さ っていく形 かたち が多 おお い。
^ 後年 こうねん 、2020年 ねん 東京 とうきょう オリンピックの閉会 へいかい 式 しき の終 お わりにフルハイビジョン の大型 おおがた 映像 えいぞう 装置 そうち に映 うつ し出 だ された「ARIGATO(ありがとう)」の7文字 もじ は、この「SAYONARA」を表 あらわ した電光 でんこう 掲示板 けいじばん でのフォント を模 も しており、1964年 ねん 東京 とうきょう 大会 たいかい へのオマージュ が込 こ められている。2020年 ねん 大会 たいかい 閉会 へいかい 式 しき に関 かん するUSAトゥデイ紙 し 記事 きじ 参照 さんしょう 。