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M-50 (航空機こうくうき)

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ミャスィーシチェフM-50戦略せんりゃく爆撃ばくげき(モニノ空軍くうぐん博物館はくぶつかん唯一ゆいいつ現存げんそんする機体きたい)

M-50ロシア:М-50エーム・ピヂスャート)およびM-52М-52エーム・ピヂスャード・ドヴァー)は、ソ連それんミャスィーシチェフ設計せっけいきょくにおいて製造せいぞうされた戦略せんりゃく爆撃ばくげき試作しさくである。北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう (NATO) はこの機体きたいに「バウンダー」のコードネームあたえたが、結局けっきょくのところこの機体きたい試作しさくぎず最終さいしゅうてき実戦じっせん配備はいびされることはなかった。

M-50とM-52には設計せっけいじょうちがいも比較的ひかくてきおおく、また概観がいかんじょうちがいも水平すいへい尾翼びよく増加ぞうかなどがげられる。一部いちぶ文献ぶんけんにおいてはべつ項目こうもくにおいてあつかうこともおおいが、ほんこうでは両機りょうきをあつかう。

概要がいよう

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登場とうじょう背景はいけい

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1950年代ねんだい、まだ大陸たいりくあいだ弾道弾だんどうだん存在そんざいしない時期じきべいソともにかく戦力せんりょく効果こうかてき活用かつようできる戦略せんりゃく爆撃ばくげき開発かいはつ運用うんようちかられていた。そんななかにおいてツポレフ・ミャスィーシチェフりょう設計せっけいきょくソ連それん空軍くうぐん要求ようきゅうこたえるべく、それぞれTu-95M-4りょう戦略せんりゃく爆撃ばくげき開発かいはつした。しかしながらM-4戦略せんりゃく爆撃ばくげき航続こうぞく距離きょりにおいて不足ふそく傾向けいこうが、またTu-95においては速度そくど性能せいのうにおいて若干じゃっかん問題もんだいがあった。そんな最中さいちゅうに、アメリカ空軍くうぐんB-47ストラトジェット後継こうけいとしてマッハ2きゅう戦略せんりゃく爆撃ばくげきB-58ハスラー実戦じっせん配備はいびし、またB-52ストラトフォートレス後継こうけいとして空前絶後くうぜんぜつごのマッハ3きゅうばくげきXB-70バルキリー開発かいはつはじめていた。こうした脅威きょうい対応たいおうするため1956ねん、ミャスィーシチェフ設計せっけいきょくはマッハ2きゅう戦略せんりゃく爆撃ばくげきM-50の開発かいはつ開始かいしした。

M-50はこれまでのソ連それんばくげきとしては最速さいそくばくげきであり、これまでとはまったくくらものにならないほど構造こうぞうてきにもむずかしい工作こうさく要求ようきゅうされる機体きたいだった。そのためソ連それん国内こくないにおけるあらゆる省庁しょうちょう機関きかん参加さんかし、だい規模きぼ開発かいはつプロジェクトが結成けっせいされた。

試作しさく1959ねん完成かんせいしたが、搭載とうさい予定よていしていたエンジンがわなかったのでM-4戦略せんりゃく爆撃ばくげきのエンジンをかり搭載とうさいしていた。そのため音速おんそくえることが出来できなかったが、これはあくまでもかり措置そちであり、机上きじょう計算けいさんとしてはまったく問題もんだいのない完成かんせいだったといわれている。事実じじつ試験しけん飛行ひこう非常ひじょう良好りょうこうであったといわれている。これはほんきわめて原始げんしてきではあるがフライ・バイ・ワイヤ制御せいぎょシステムを搭載とうさいしていたからであるといわれている。

しかし、期待きたい背負せおって開発かいはつされたほんも、登場とうじょうするころにはミサイル時代じだいおとずれており、当時とうじソ連それん首相しゅしょうニキータ・フルシチョフのミサイル重視じゅうし政策せいさくもあって、優先ゆうせんげられ、改良かいりょうがたであるM-52が登場とうじょうするころには開発かいはつ中止ちゅうし決定けっていし、膨大ぼうだい資材しざい時間じかんをかけて開発かいはつされたほん結局けっきょくのところ徒労とろうわった。

だが、このM-50でつちかわれた原始げんしてきなフライ・バイ・ワイヤー制御せいぎょシステムはのちスホーイ設計せっけいきょくT-4ソートカ試作しさく戦略せんりゃく爆撃ばくげき製造せいぞう提供ていきょうされ、最終さいしゅうてきSu-27戦闘せんとう開花かいかしたことをまえると、かならずしも無駄むだであったとはえない。

エピソード

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秘密ひみつ主義しゅぎだった当時とうじソ連それんでは開発かいはつ中止ちゅうしとなった機体きたいはスクラップにされるか秘密ひみつ指定してい博物館はくぶつかんおくりになるのがつねだったが、M-50についてはなぜか中央ちゅうおうから整備せいび保守ほしゅつづけるように命令めいれいされた。ミャスィーシチェフ設計せっけいきょく関係かんけいしゃ疑問ぎもんかんじつつも保守ほしゅ整備せいびつづけたが、これは1961ねん7がつのツシノ航空こうくうショーにおいて、ほんをあえて西側にしがわ関係かんけいしゃさらしてさぶりをかけるという目的もくてきがあったためである。西側にしがわはこのブラフにっかかり、M-50にたいして非常ひじょう脅威きょういかんじたといわれている。試作しさくにすぎないM-50に「バウンダー」(ごろつき・無法者むほうもの)というNATOコードネームが存在そんざいするのはこうした理由りゆうからである。

また、西側にしがわはなしつたわる過程かていでなぜかM-50が原子力げんしりょく航空機こうくうきであるといううわさはなしこり、西側にしがわはさらに混乱こんらんしたといわれている。むろんM-50の動力どうりょく通常つうじょうのジェットエンジンだが、エンジン搭載とうさい配置はいち若干じゃっかん特殊とくしゅだったこと、またエンジン部分ぶぶん非常ひじょう大型おおがただったことが原因げんいんといわれているが、はっきりとした理由りゆうはわかっていない。ソ連それんたいしてはげしい脅威きょういかんじていた時代じだいならではのエピソードであるといえる。

現在げんざい、M-50はいちモニノ空軍くうぐん博物館はくぶつかん展示てんじされており、その異質いしつなデザインをることが出来できる。

M-52はM-50に改良かいりょうくわえ、エンジンを予定よていされていた本来ほんらいの(もしくは強化きょうかがた)エンジンに搭載とうさいしなおしたものといわれている。機体きたい完成かんせいしていたらしいが、結局けっきょく飛行ひこうすることなくスクラップ処置しょちとなった。概観がいかんじょうちがいは、パイロットの座席ざせきがタンデムしきから並列へいれつしきになり、垂直すいちょく尾翼びよく上部じょうぶあらたな尾翼びよくけられた。また、空中くうちゅう給油きゅうゆ装置そうち装備そうびしていたとわれている。

要目ようもく (M-50)

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M-50
  • はつ飛行ひこうねん1959ねん
  • 全長ぜんちょう:57.48m
  • 全幅ぜんぷく:25.1m
  • 全高ぜんこう:8.25m
  • 自重じちょう:78,860kg
  • 最大さいだい離陸りりく重量じゅうりょう:200,000kg
  • エンジン:VD-7Mターボジェットエンジン(アフターバーナー推力すいりょく16,000kg)×2および、VD-7Bターボジェットエ ンジン(推力すいりょく9,500kg)×2けい4
  • 巡航じゅんこう速度そくど:1,500km/h(マッハ0.99)
  • 実用じつよう上昇じょうしょう限度げんど:11,000m
  • 航続こうぞく距離きょり:3,150km
  • 離陸りりく滑走かっそう距離きょり:1,600m
  • 着陸ちゃくりく滑走かっそう距離きょり:1,800m
  • ペイロード:巡航じゅんこうミサイルおよばくだん最大さいだいで30トン