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RKO

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RKOピクチャーズ
RKO Pictures, Inc.
もと種類しゅるい
非公開ひこうかい会社かいしゃ
業種ぎょうしゅ 映画えいが
その 倒産とうさん
前身ぜんしん
  • キース・アルビー・オーフィウム
  • フィルム・ブッキング・オフィス・オブ・アメリカ
設立せつりつ 1929ねん1がつ25にち (95ねんまえ) (1929-01-25) (ラジオ・キース・オーフィウムの子会社こがいしゃであるRKOプロダクションズとして)
創業そうぎょうしゃ デイヴィッド・サーノフ
解散かいさん 1959ねん 65ねんまえ (1959)
本社ほんしゃ
親会社おやがいしゃ
ウェブサイト www.rko.com ウィキデータを編集

RKOピクチャーズRKO Pictures)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく映画えいが製作せいさく配給はいきゅう会社かいしゃ1950年代ねんだいまでは、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM)、パラマウント20世紀せいきフォックスワーナー・ブラザースならんで、「ビッグ5」とばれ、ハリウッド黄金おうごん時代じだい英語えいごばん牽引けんいんする一大いちだいメジャー映画えいが会社かいしゃであった。

元々もともとRKOラジオ・ピクチャーズRKO Radio Pictures, Inc.、Radio-Keith-Orpheumの子会社こがいしゃ通称つうしょう:RKO)[1]として設立せつりつされた。

1928ねん10がつ劇場げきじょうチェーンのキース・アルビー・オーフィウム(KAO)とジョセフ・P・ケネディのフィルム・ブッキング・オフィス・オブ・アメリカ(FBO)スタジオが、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)の管理かんり統合とうごうされたことにより、設立せつりつされた。

RCAのチーフ、デビッド・サーノフは、同社どうしゃのサウンド・オン・フィルム技術ぎじゅつであるRCAフォトフォン英語えいごばん市場いちばつくるために、この統合とうごう企画きかくした。1940年代ねんだいなかばには、スタジオは投資とうしであるフロイド・オドラムの管理かんりかれていた。

RKOは、1930年代ねんだいなかばから後半こうはんにかけて、フレッド・アステアジンジャー・ロジャース主演しゅえんしたミュージカル作品さくひん有名ゆうめいである。女優じょゆうキャサリン・ヘプバーンや、俳優はいゆうロバート・ミッチャムも、このスタジオではじめておおきな成功せいこうおさめ、ケーリー・グラントなんねんにもわたって主役しゅやくつとめた。

プロデューサーのヴァル・リュートンがけたてい予算よさんのホラー部門ぶもんや、現在げんざいフィルム・ノワールばれている分野ぶんやへの数々かずかず進出しんしゅつは、後世こうせい映画えいが評論ひょうろん歴史れきしから評価ひょうかされている。

RKOは映画えいが史上しじょうもっと有名ゆうめいな2つの作品さくひん、『キングコング』と『市民しみんケーン』を製作せいさくした。

また、『素晴すばらしき哉、人生じんせい!』や『汚名おめい』などの有名ゆうめい共同きょうどう制作せいさく作品さくひんがけたほか、ウォルト・ディズニー(1937ねんから1950年代ねんだいなかばまで)や、独立どくりつけいプロデューサーの第一人者だいいちにんしゃであるサミュエル・ゴールドウィン有名ゆうめい作品さくひん数多かずおお配給はいきゅうした。

ハワード・ヒューズは1948ねんにRKOを買収ばいしゅうした。かれ支配しはいなんねん混乱こんらん衰退すいたいつづいたのち、スタジオは1955ねんにゼネラル・タイヤ・アンド・ラバー・カンパニーに買収ばいしゅうされた。オリジナルのRKOピクチャーズは1957ねん製作せいさく中止ちゅうしし、その2ねんには事実じじつじょう解散かいさんした。1981ねん会社かいしゃ後継こうけいしゃである放送ほうそうきょくのRKOゼネラルが、製作せいさく子会社こがいしゃであるRKOピクチャーズ・インクRKO Pictures Inc.)としてスタジオを復活ふっかつさせた。

1989ねん、この事業じぎょうは、おおくの古典こてんてきなRKO映画えいが商標しょうひょうけんやリメイクけんふくのこりの資産しさんとともに、あたらしいオーナーに売却ばいきゃくされ、現在げんざい小規模しょうきぼ独立どくりつ企業きぎょうであるRKOピクチャーズLLCRKO Pictures LLC)を運営うんえいしている。

沿革えんかく

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複雑ふくざつ由来ゆらい

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母体ぼたいになったのはミューチュアル・フィルムの配給はいきゅう部門ぶもんといわれる(異説いせつあり)。1919ねん映画えいが製作せいさく興味きょうみったイギリスの輸出入ゆしゅつにゅう会社かいしゃロバートソン=コールがこれを併合へいごうし、1921ねんハリウッドにスタジオを建設けんせつして映画えいがせい作業さぎょう開始かいしした。1922ねんハリー・M・バーマン、ジョセフ・P・ケネディらアメリカの映画えいが製作せいさくしゃグループが買収ばいしゅうしてFBO(Film Booking Office of America、フィルム・ブッキング・オフィス)と改名かいめい。フランスのパテしゃなどからも作品さくひん輸入ゆにゅうして上映じょうえいしていた。

トーキー映画えいが開発かいはつには、"Photophone"という独自どくじのシステムを導入どうにゅうする目的もくてき介入かいにゅうしてきたRCA(Radio Corporation of America、レイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカ)を経営けいえいしていたユダヤけいアメリカじんデビッド・サーノフ[2][3]劇場げきじょうチェーンのKAO(Keith Albee Orpheum、キース・アルビー・オーフィアム)とFBOを合併がっぺいさせ、1928ねんRKO(Radio Keith Orpheum、レイディオ・キース・オーフィアム)が誕生たんじょうした。

この段階だんかい映画えいがスタジオ独自どくじ映画えいが配給はいきゅうもう会社かいしゃ専用せんよう映画えいがかん[ちゅう 1]所有しょゆうしていたRKOは、スタジオ・システム成立せいりつ一翼いちよくになった。"Radio Pictures"とうしろにつづくのは、当時とうじ全米ぜんべい一大いちだいラジオもう支配しはいしていたRCA[ちゅう 2]影響えいきょうである。この会社かいしゃ映画えいがだけでなくラジオにはテレビ)という、当時とうじ主要しゅようメディアをほぼすべて支配しはいしていたのである。

最盛さいせい作品さくひんぐん

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キング・コング』(1933ねん、メリアン・C・クーパー/アーネスト・シュードサック監督かんとく)、『おとこてき』(1935ねんジョン・フォード監督かんとく)、『市民しみんケーン』(1941ねんオーソン・ウェルズ監督かんとく)、『偉大いだいなるアンバーソン人々ひとびと』(1941ねん、オーソン・ウェルズ監督かんとく)、『素晴すばらしき哉、人生じんせい!』(1946ねんフランク・キャプラ監督かんとく)など、RKOの最盛さいせい1930年代ねんだいから1940年代ねんだいにはハリウッド全盛期ぜんせいき作品さくひん数々かずかずした。

また、RKOは、1930年代ねんだいフレッド・アステアジンジャー・ロジャース起用きようした人気にんきミュージカルのシリーズを製作せいさくした。そのなかには、『コンチネンタル/離婚りこん協奏曲きょうそうきょく』(1934ねん、マーク・サンドリッチ監督かんとく)、『トップ・ハット』(1935ねん、マーク・サンドリッチ監督かんとく)、『有頂天うちょうてん時代じだい』(1936ねん、マーク・サンドリッチ監督かんとく)などがある。

ジョニー・ワイズミュラー主演しゅえんの『ターザン』シリーズの製作せいさくや、ウォルト・ディズニー製作せいさく短編たんぺんアニメーションや、『白雪姫しらゆきひめ』(1937ねん)、『ファンタジア』(1940ねん)などの長編ちょうへんアニメーションの配給はいきゅうおこなった。また、アルフレッド・ヒッチコック監督かんとくの『断崖だんがい』(1941ねん)や『汚名おめい』(1946ねん)もここで製作せいさくされた。そしてRKOの最大さいだいのヒットさくは『せいメリーのかね』(1945ねんレオ・マッケリー監督かんとく)だった。

また、1940年代ねんだいヴァル・リュートンによる独特どくとく雰囲気ふんいきつ、『キャット・ピープル』、『わたしはゾンビとあるいた!』などのホラー映画えいがのシリーズものや、1950年代ねんだいには、ニコラス・レイ監督かんとく(『よる人々ひとびと』(1949ねん)、『危険きけん場所ばしょで』(1952ねん))やフリッツ・ラング監督かんとく(『口紅くちべに殺人さつじん事件じけん』(1956ねん)、『条理じょうりあるうたがいの彼方かなた』(1956ねん))のようなおおくのフィルム・ノワールBきゅう映画えいがとして同時どうじ製作せいさくされた。

混迷こんめいちたハワード・ヒューズの経営けいえい

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ただ、複雑ふくざつ創立そうりつ以来いらいだい株主かぶぬしわりで、オーナー交代こうたいによる経営けいえい危機ききだっすることができず、とくに、1941ねん12月以降いこうにアメリカも参戦さんせんしただい世界せかい大戦たいせんなかでの観客かんきゃく動員どういんみはひどかった。

1948ねんにはおくまん長者ちょうじゃ実業じつぎょうハワード・ヒューズだい株主かぶぬしとして会社かいしゃ買収ばいしゅうし、すう週間しゅうかんあいだにスタジオの従業じゅうぎょういんを3ぶんの2までらし、1949ねん半年はんとしあいだスタジオのぜん従業じゅうぎょういん思想しそう信条しんじょう左翼さよく組合くみあい共産きょうさん主義しゅぎ)の徹底てってい調査ちょうさおこなっていたが、そのあいだ映画えいがスタジオ閉鎖へいさされた。

完成かんせいされた映画えいが作品さくひんも、とく女優じょゆう政治せいじかんしてはハワード・ヒューズづる一声いっせいさい撮影さつえいさい編集へんしゅう強制きょうせいされてしまった。また、この期間きかん過去かこのRKO作品さくひん売却ばいきゃくしている(のちにテッド・ターナーわたり、現在げんざいワーナー・ブラザース・ディスカバリーいち部門ぶもんであるターナー・エンターテイメント英語えいごばん権利けんり保有ほゆう)。

1952ねんには映画えいがスタジオ完全かんぜん閉鎖へいさし1953ねんには、パラマウント判決はんけつ(→スタジオ・システム)により映画えいがかん部門ぶもん売却ばいきゃくしてしまった。1954ねんには当時とうじ航空こうくう会社かいしゃ部門ぶもんトランス・ワールド航空こうくう業績ぎょうせき好調こうちょうにより、2400まんドルでRKOの株式かぶしきをすべて購入こうにゅうして、ハリウッド映画えいが史上しじょうはじめての個人こじん所有しょゆうによる映画えいが会社かいしゃとする。

しかし、ヒューズのにわたって半年はんとしの1955ねん7がつには突如とつじょぜん株式かぶしきを、2500まんドルでジェネラル・タイヤ・アンド・ラバーの子会社こがいしゃであるジェネラル・テレラジオに売却ばいきゃくする。

スタジオの終焉しゅうえん

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テレラジオは、RKOが製作せいさくした1948ねん以前いぜんやく700ほん映画えいがのテレビ放映ほうえいけん売却ばいきゃくして運営うんえい資金しきん調達ちょうたつし、破綻はたんしたスタジオの復興ふっこうこころみるが、ついに1959ねん3がつには倒産とうさんする。

RKOの撮影さつえいしょ不動産ふどうさんは、女優じょゆうルシル・ボールとデジー・アルナズの会社かいしゃ「デジールー・プロダクション」のわたって、これをもって完全かんぜんにこの名門めいもんスタジオは消滅しょうめつする。

日本にっぽん法人ほうじん日本にっぽんRKO映画えいが株式会社かぶしきがいしゃ前身ぜんしん日本にっぽんRKOラジオ映画えいが株式会社かぶしきがいしゃ)があり、戦後せんごディズニー作品さくひん日本にっぽんける配給はいきゅうおこなっていた。アメリカ本社ほんしゃ倒産とうさんにディズニーに売却ばいきゃくされ、ブエナ・ビスタ映画えいが日本にっぽん支社ししゃ前身ぜんしんは1964ねん7がつ日本にっぽんRKOから改称かいしょうした[4]ウォルト・ディズニー映画えいが株式会社かぶしきがいしゃ→ブエナ・ビスタ映画えいが株式会社かぶしきがいしゃ)となったが、1977ねん4がつ29にち公開こうかいされた『ほしくにから仲間なかま』(1975ねん)を最後さいごに1977ねんあきから[5]日本にっぽんでの直接ちょくせつ配給はいきゅう機構きこうであるブエナ・ビスタ映画えいが日本にっぽん支社ししゃ解散かいさん閉鎖へいさをめぐって労使ろうし対立たいりつつづいて配給はいきゅう業務ぎょうむがストップし[5]現存げんそんしない。現在げんざいウォルト・ディズニー・ジャパンとは無関係むかんけい

現在げんざい

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だい部分ぶぶん作品さくひん版権はんけん倒産とうさん前後ぜんご売却ばいきゃくされ、現在げんざいだい部分ぶぶん作品さくひん版権はんけんをワーナー・ブラザースが保有ほゆうする。米国べいこくではおおくの作品さくひん正規せいきばんDVDがワーナー・ホーム・ビデオから発売はつばいちゅうだが、日本にっぽんではなぜか発売はつばいサミュエル・ゴールドウィン製作せいさくぶん版権はんけんは、米国べいこくではワーナー・ブラザースが、米国べいこく以外いがいではパラマウント・ピクチャーズミラマックス)がそれぞれ保有ほゆう、こちらも日本にっぽんでは正規せいきばん発売はつばいである。ウォルト・ディズニー製作せいさくぶん作品さくひんは、ウォルト・ディズニー・カンパニー所有しょゆうしており、こちらは日本にっぽんでも正規せいきばんDVDが発売はつばいされている)。なお、著作ちょさくけん保護ほご期間きかんが50ねんくにでは、だい部分ぶぶん作品さくひんパブリックドメインとなっていることから、現在げんざい一部いちぶ作品さくひんげきやすDVD発売はつばいちゅう

1981ねんにRKOのまだ存続そんぞくしていた子会社こがいしゃひとつが共同きょうどう製作せいさくのためにRKOの名前なまえ復活ふっかつさせ、1989ねんおおくのRKO映画えいが商標しょうひょうけんとリメークけんあたらしい所有しょゆうしゃ売却ばいきゃくした。現在げんざいのレイディオ・キース・オーフィアム・エンタテインメントはこの所有しょゆうしゃした経営けいえいされている独立どくりつした会社かいしゃである。

おも作品さくひん

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1930年代ねんだい

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1940年代ねんだい

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1950年代ねんだい

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1990年代ねんだい以降いこう

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オープニングロゴ

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オープニングロゴ (動画どうが)

アニメーションで回転かいてんする地球ちきゅうとモールス信号しんごう雷光らいこうはっしているおおきな鉄塔てっとう。そのまわりに"An RKO Radio Picture"(1936ねんまでは"A Radio Picture"だった)の文字もじがかたどられている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 合併がっぺい当時とうじ全米ぜんべいで700かん程度ていどあった。
  2. ^ 合併がっぺい当時とうじ66%の株式かぶしき所有しょゆうしていた。

出典しゅってん

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  1. ^ RKO Radio Pictures, Inc. | American film company” (英語えいご). Encyclopedia Britannica. 2021ねん10がつ25にち閲覧えつらん
  2. ^ Museum of Broadcast Communications web site
  3. ^ RKO Radio Pictures, Inc. – retrieved February 4, 2006.
  4. ^ 映画えいが年鑑ねんかん』1966年版ねんばんp235
  5. ^ a b 東宝とうほう東映とうえい、ディズニー映画えいが肩代かたがわり配給はいきゅう―55ねんはる以降いこう年間ねんかん5ほん公開こうかい予定よてい。”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ): p. 10. (1979ねん11月20にち) 

外部がいぶリンク

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