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赵匡胤 - 维基百科,自由的百科全书

赵匡たね

中國ちゅうごく宋朝そうちょう開國かいこく皇帝こうてい
重定しげさだこうそうふとし

そうふとしちょうただしたねyìn(927ねん3がつ21にち—976ねん11月14にち),涿郡いま河北かほくしょうていきよしえん[1][2]中国ちゅうごく宋朝そうちょうきたそう開國かいこく皇帝こうてい父親ちちおやちょうひろしいん母親ははおや杜氏とうじしょう西にし赵广汉これきさき[3]のちからあかりむね天成てんせい年間ねんかん(927ねん3がつ21にちなまこうとう洛陽らくよう夾馬營いま河南かなんしょう洛陽らくよう瀍河かいぞく東關ひがしせき)。こうかんときちょうただしたねこうかんかくれみかど在位ざいい期間きかんとうかくたけしこれのちかくたけし篡漢建立こんりゅうこうしゅうため周太しゅうた。而趙ただしたねそくとくにん東西とうざいはんぎょうくびはじめにゅう宦途。959ねんこう周世すせむね於北せいかいきょうひさくずれ,逝世ぜん任命にんめいちょうただしたねため殿しんがりまえ點檢てんけんてのひら殿どのぜんつかさしょぐん隔年かくねん(960ねんもとつきはついちきたかんちぎりれんへいはんあたりちょうただしたね受命じゅめい防禦ぼうぎょはつさんばん大軍たいぐん於京じょう開封かいふういま河南かなんしょう開封かいふう東北とうほくじゅう公里くりてきひねきょうえきこん河南かなんしょうふうおかけんひねきょう發生はっせい政變せいへん將士しょうし於隔にちしん擁立ようりつちょうただしたねためみかどしょうひねきょうへいへん」。大軍たいぐんしたがえそくかいきょうじょうこうしゅうきょうみかどぜんちょうただしたねのぼりはじめけん國號こくごうためそう」,ためそうふとし」,年號ねんごうたてたかしきたそう和之かずゆききさきそうだかむね建立こんりゅうてきみなみそうくに祚合计共ちょうたち319ねん,敝除さんだいざい中國ちゅうごく古代こだい朝代あさしろ中延なかのぶぞく時間じかんため最長さいちょう

そうふとし
宋太祖
そうふとし肖像しょうぞう
宋朝そうちょうきたそうだい1皇帝こうてい
統治とうち960ねん2がつ4にち-976ねん11月14にち(16ねん284てん
つぎにんそうふとしむね赵炅
出生しゅっしょう(927-03-21)927ねん3がつ21にち
こうからあかりむね天成てんせいがつじゅうろくにち
洛陽らくよう夾馬營いま河南かなんしょう洛陽らくよう瀍河かいぞく東關ひがしせき
逝世976ねん11月14にち(976さい—11—14)(49さい
ひらきたからきゅうねんじゅうがつじゅうにち
やすそう
年號ねんごう
たてたかし:960ねん2がつ-963ねん11月(4ねん
いぬいいさお:963ねん11月-968ねん11月(6ねん
ひらきたから:968ねん11月-977ねん1がつ14にち(9ねん
谥号
英武ひでたけせいぶん神德しんとく皇帝こうていはつおくりな
啟運けいうんりつごく英武ひでたけ睿文神德しんとくひじり功至かつじあきらだいこう皇帝こうてい真宗しんしゅう年間ねんかんおくりな
庙号
ふとし
せい宋朝そうちょうきたそう
父親ちちおやそうせんちょうひろしいんびょうごうためついみこと
母親ははおや昭憲しょうけんふとしきさき杜氏とうじ

そうふとし在位ざいい期間きかん,致力於統一とういつ全國ぜんこく依據いきょ宰相さいしょうちょうひろしてきさきみなみきた策略さくりゃく先後せんごめつ荊南湖南こなんこうしょくみなみかんみなみとうとう南方なんぽう割據かっきょ政權せいけんいたりそうふとしむね在位ざいい期間きかんさこ使つかいえつせいはじめぐんおさめくだめつきたかんぽうざい完成かんせい一統いっとうふと於961ねん及969ねん先後せんご兩次りょうじはいしゅしゃく兵權へいけん」,解除かいじょきんぐん將領しょうりょう地方ちほうはん鎮的兵權へいけん解決かいけつからあさ中葉ちゅうよう以來いらいはん割據かっきょてき局面きょくめん設立せつりつふう樁庫」貯藏ちょぞうぜに帛布ひきのう贖回こうすすむ高祖こうそいしけいけんじきゅうちぎりてきつばめくもじゅうろくしゅうただしこと未成みせい而逝

ひらきたからきゅうねんふゆじゅうがつじゅうにちみずのとうしゆう(976ねん11月14にち),ふとし逝世,とくねん49さい在位ざいい16ねん[4]よし其胞おとうとちょう光義みつよし繼承けいしょう帝位ていいためそうふとしそうなみ於開たからきゅうねんじゅうがつきのえとら(977ねん1がつ14にち改元かいげん太平たいへい興國こうこく太平たいへい興國こうこくねんよんがつおつ(977ねん1がつ14にち),ふとしそう永昌えいしょうりょうよし於北そう中期ちゅうきてき筆記ひっきぞく山野さんやろく記載きさいりょうしょくかげおのごえ事件じけん暗示あんじちょうただしたねよしふとしむねしょ加害かがいうえふとし死後しご帝位ていいよし其子繼承けいしょう,而是よしおとうとのぼりはじめたれすべ違反いはん中國ちゅうごく長子ちょうし繼承けいしょうてき傳統でんとう,雖然ふとそう即位そくいのべ续了ふとし許多きょたてき執政しっせい措施,ただしよくぶたわたるあきら与太よたゆう关的皇室こうしつ成員せいいんまたあいつぎはなれほろび。此后てき皇帝こうていまたゆかりふとしむねてき子孫しそん继承,ちょくいたりそうたかしむねざいかい归太一脈いちみゃく使つかいふとしてき死因しいんなみ單純たんじゅんなりため千古せんこなぞまたなり为成语「しょくかげおのごえてき典故てんこ处。

早年そうねん岁月

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出身しゅっしんあずかしたがええびす

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からあかりむね天成てんせいねんがつじゅうろくにち(927ねん3がつ21にち),ちょうただしたね誕生たんじょう洛陽らくよう夾馬營いま河南かなんしょう洛陽らくよう瀍河かいぞく東關ひがしせき爽明がいきただん[5][6]ちょうひろしいん次子じし母親ははおや杜氏とうじそうふみ·ふと本紀ほんぎ記載きさいちょうただしたねため涿郡ひと”,しか而此しょおう涿郡ちょうてきこおりのぞむところゆび實則さねつねぞくせきしゅういま河北かほくしょうていきよしえん)。[7][8]年長ねんちょうはなれ遊歷ゆうれきとうふくしゅう防禦ぼうぎょ使おう彥超せっおさめつぎ而往依ずいしゅう刺史ししただしそうほん,卻遭其子ただし遵誨憑勢欺侮,ちょうただしたね於是べつ北上ほくじょう[9]948ねんちょうただしたねとうこうかんくるる密使みっしかくたけしとばりずいぐん征討せいとうまもるさだ。951ねんかくたけししょうみかど國號こくごうしゅう」,ため周太しゅうたちょうただしたねとく補任ほにん東西とうざいはんぎょうくびはいなめらしゅういま河南かなんしょう安陽あんようふく指揮しき使。953ねんかくたけし養子ようししばさかえ擔任たんにん開封かいふういん調しらべちょうただしたねいたり京師けいしこん河南かなんしょう開封かいふうにん開封かいふう府馬ふまちょく軍使ぐんし

崛起

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こう平之ひらのせん

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954年初ねんしょ周太しゅうた逝世,外戚がいせきしばさかえつぎため周世すせむねちょうただしたね調ちょうにん中央ちゅうおうきんぐんきたかんちぎりしたがえそく趁喪いれおかせへんむくいしき仍,せいそう決定けっていおやせいちょうただしたねにんさむらいまもる將領しょうりょう隨行ずいこうまもる。4月,しゅうぐん與北よぎたかんぐん大戰たいせん於高ひらめいま山西さんせいしょうすすむ城市じょうし高平たかひら),ちょうただしたねりつせんにん參與さんよせん鬥,なみさき士卒しそつおや衝鋒,きたかんぐん披靡,ななせん餘人よにん投降とうこう[10]時正ときまさ颳南ふうしゅうぐんいんふう奮擊,きたかんぐん大敗たいはい[11]しゅうぐん趁勝かこえおさむ河東かとうじょう,焚燒城門じょうもんちょうただしたね於戰鬥中遭流矢ながれやしゃちゅうひだりひじ[12]こう平之ひらのせんこうせいそう拔擢ばってきちょうただしたねため殿どのぜんつかさおそれこうりょうげんしゅういま浙江せっこうしょうみずうみしゅうとくせいけん刺史しし[13]なみいのちちょうただしたね整頓せいとんきんぐん,汰羸じょじゃくさら招募天下でんか壯士そうしいたり京師けいし設立せつりつ殿どのぜんしょはんゆかりちょうただしたね選擇せんたく精銳せいえい將士しょうしたかしこうしゅう軍隊ぐんたいはじめどく霸。[14]

みなみせいきた

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956年初ねんしょ周世すせむねおやせいみなみとう大軍たいぐんかこえおさむことぶきしろいま安徽あんきしょうろくやすことぶきけん),みなみからちゅう紮一まん兵馬へいばぬりやま今安いまやす徽省蚌埠した停泊ていはくぶねかん淮河せいそういのちちょうただしたね往攻。3月,ちょうただしたねふくぐんうずこう今安いまやす徽省蚌埠ふところどおけん東北とうほく),派遣はけん一百餘名騎兵襲擊南唐軍營,交戰こうせん佯敗逃遁,みなみとうぐん追擊ついげきいたりうずこう而後しゅう伏兵ふくへいよんおこりみなみとうぐん大敗たいはいからしょうなにのべすずだつとくじゅうそう戰艦せんかん[15]みなみから另有じゅうまん援軍えんぐんちゅう清流せいりゅうせき今安いまやす徽省滁州[16]ちょうただしたね受命じゅめい征討せいとうおさむかつ清流せいりゅうせき、滁州じょうなみせいとりこからしょうすめらぎはじめあきら[17]5月,みなみとうぐんおさむあげしゅうちょうただしたねたむろへいろくごう支援しえんあげしゅう守將しゅしょうかんれいひつじさる懼而ほし退すさちょうただしたねれいぐんちゅう:「あげしゅうへいろくごうしゃ,砍斷そうもも!」かんれいひつじさるざい決心けっしん固守こしゅ[18]みなみとうまたひとしおうけいたちりつへい支援しえん距離きょりろくごうじゅうさとしょちゅう紮。しょしょう主動しゅどう攻擊こうげきちょうただしたね卻以いっまちろう,俟南とうぐん發動はつどう攻擊こうげきぽうざいりょうへい迎擊げいげきみなみとうぐん大敗たいはい斬殺ざんさつせん餘人よにんとうおぼれ斃的けい其數。[19]戰後せんごちょうただしたねいんこう受封殿どのまえ指揮しき使ひさまたふう定國さだくにぐん節度せつど使[20]

957年初ねんしょせいむね再度さいどおやせいみなみとう,4がつちゅう紮紫金山かなやまいのちちょうただしたねりつりょうきんぐん殲滅せんめつことぶきしゅうがいかこえみなみから援軍えんぐんちょうただしたねれん拔數寨,さんせん餘人よにんなみ切斷せつだんみなみから援軍えんぐんどおりどうことぶきしゅういん無援むえん,於是投降とうこうかえきょうちょうただしたねいんこうはい義成よしなりぐん節度せつど檢校けんぎょうふとしたもて,仍然擔任たんにん殿どのぜんつかさ指揮しき使としそこしば榮三えいざせいみなみとう進攻しんこうほりしゅうしろがい有水ありみずなだたまきにょうみなみとうぐんざい其上設立せつりつしがらみらんぼうもりせいむねとげいのち將士しょうし駱駝らくだ渡河とかちょうただしたねそくりょうへい騎馬きば而渡,りつ先攻せんこうやぶみなみとうすい寨,焚燒みなみから戰艦せんかんななじゅうそう斬殺ざんさつりょうせん餘人よにんおさむおちいほりしゅう[21]其後陸續りくぞくおさむおちい泗州(今安いまやす徽省宿やどしゅう泗縣)、すわえしゅういま江蘇ちぁんすーしょう淮安淮陰),みなみから北之きたのつきためしゅうゆう隔年かくねん5がつちょうただしたねあらためふう忠武ただたけぐん節度せつど使[22]

959ねん3がつせいそうきたせいちぎりちょうただしたねにん水陸すいりく都部いちぶしょさき抵達かわらきょうせきこん河北かほくしょうていおんどりけん),守將しゅしょう姚內あきら投降とうこう[23]6月,せいそうしみびょう不適ふてきいのちしゃかいきょう。7月23にちせいそう任命にんめいちょうただしたねため殿どのぜんつかさ點檢てんけんため殿どのぜんきんぐん最高さいこう統帥とうすい[24]27にちせい宗因そういんびょうくずしねんななさいてきはりおうしばそうさとしつぎためしゅうきょうみかどあらためかえりとくぐん節度せつど使檢校けんぎょうふとしじょう[25]

建立こんりゅう宋朝そうちょう

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ほう

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そうふとし點檢てんけんぞう

960ねん正月しょうがつはついち(1がつ31にち),北方ほっぽう邊境へんきょう鎮州(こん河北かほくしょういししょうせいていけん)、じょうしゅうこん河北かほくしょうていしゅう守將しゅしょう急報きゅうほうしょうきたかんあずかちぎりごうぜいれんへいいれおかせしゅうきょうみかどいのちちょうただしたねりつ宿衛しゅくえいきんぐん北上ほくじょうむかえてき[26]

はつ(2がつ1にち),きょうじょう流言りゅうげんよんおこりうたいでん大軍たいぐん出征しゅっせいにちしょうさくりつ點檢てんけん做天士民しみん不安ふあん準備じゅんび逃匿。[27]

はつさん(2がつ2にち),ちょうただしたねりつ大軍たいぐんきょう城東じょうとう北邊ほくへんてきあいけい門出かどでじょう士卒しそつ紀律きりついむあきら民心みんしんやややす[28]大軍たいぐんとうばんちゅう紮於きょう城東北じょうとうきたじゅう公里くりてきかしわしげるこん河南かなんしょうふうおかけんひねきょう鎮),將士しょうし們謀劃擁立ようりつちょうただしたねため天子てんしゆかり押衙しょうたてつげ供奉ぐぶかんみやこともちょう光義みつよし兩人りょうにんずいそくあずかとくぐん節度せつどてのひら書記しょきちょうひろししょう討。談論だんろんちゅうしょしょう突然とつぜん闖入ちんにゅう,眾說まがえ紜,ちょう普及ふきゅうちょう光義みつよし以理すすむ退すさしょしょうやややや引去ひきさひさまたふく趨集,白刃はくじんようおびえちょうひろし於是同意どうい人前ひとまえ往京じょうやすはい內應,將士しょうし們則たまきれつ於趙ただしたねてきだいちょうとうまち天明てんめい[29]

はつよん(2がつ3にちきよし晨,ちょうただしたねいんしゅよいひさしきよし醒,將士しょうし於大おだいよんしゅう喧嘩げんかちょう普及ふきゅうちょう光義みつよしいれちょう稟告ちょうただしたねちょうただしたねおどろきおこり,披衣而出,將領しょうりょう們持兵器へいきたて於庭。ちょうただしたね及說ばなししょ將士しょうしそくはたほう披在ちょうただしたね身上しんじょう紛紛ふんぷんはいだかよびまんさいちょうただしたねけんこばめ,眾將聽,さこ其上みなみぎょうかいきょうちょうただしたねぜい不可ふかめん便びん攬轡たいしょしょうせつ:「你們貪富貴ふうきだてわがため天子てんし,就必須ひっす聽從ちょうじゅうてき命令めいれいしかわが不當ふとう這個皇帝こうてい。」眾將みな下馬げば跪地せつ:「ただいのちしたがえ!」ちょうただしたね便びんれいとくおかせ擾後しゅう皇帝こうていふとしきさき群臣ぐんしん,也不とく擅自擄掠及搜刮府たがえしゃぞく誅,眾將應諾おうだくちょうただしたねりつ大軍たいぐん仁和にわもん入京にゅうきょうじょうしたれい將士しょうしかいかぶと歸營きえいちょうただしたねそくかい殿どのまえ點檢てんけんこうしょだつしたほうひさ,眾將逼擁どう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとまいり樞密院すうみついんごと范質まいり樞密院すうみついんごと尚書しょうしょしょうみぎぼくしゃおうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと刑部おさかべ尚書しょうしょじんうらいたりおおやけしょさこ其表たい。范質とう奈何いかんただとくはいこうよびまんさいちょうただしたね於是のぼりたかしもと殿しんがりぎょう禪讓ぜんじょうれいのぼりはじめしょうみかど建國けんこくごうだいそう」,改元かいげんたてたかし大赦たいしゃ天下でんか[30]

上述じょうじゅつ記載きさい於《そうふみ》、《ぞくどおりかん長編ちょうへん》、《涑水記聞きぶんとう史書ししょ筆記ひっきちゅうみなげんちょうただしたねため眾所逼,せりしょうみかど事前じぜんなみ不知ふちじょうしか而現だい史家しか史料しりょう記載きさい疑點ぎてん矛盾むじゅん推論すいろん普遍ふへんみとめためひねきょうへいへんちょうただしたね及其おやしん幕僚ばくりょうしょあずかはかりごとさく劃的軍事ぐんじ政變せいへん[31][需要じゅよう較佳らいげん]

平定へいてい叛亂はんらん

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そうふとし蹴鞠けまり

960ねん5がつ昭義あきよし節度せつど使よりどころ潞州(いま山西さんせいしょう長治ながはる)叛變,おさむおちいさわしゅう今山いまやま西にししょうすすむ城市じょうし),なみあずかきたかんごうへいりつ南下なんかふとしさむらいまもるおやぐん司馬しばあゆみぐんふく指揮しき使いしもりしん殿しんがりぜんつかさふく點檢てんけんこうふところとく往討,またあきらぐん節度せつど使慕容のべあきらとくぐん節度せつど使おうちょんあきらぜん往合へい,於長平之ひらのせん大敗たいはい筠,斬殺ざんさつさんせん餘人よにん。6月,ふとし決定けっていおやせいあずかいしもりしんとう將領しょうりょう會合かいごう,於澤しゅうみなみ大敗たいはい筠及きたかんてきさんまんれんぐんさん千餘名北漢援軍投降,そうぐんはた其全すうあなころせ[32]筠退もりさわしゅうじょうそうぐんしたがえそくおさむやぶさわしゅう筠自焚而。7月,そう軍兵ぐんびょうかこえ潞州,長子ちょうしまもるぶし舉城[33]同年どうねん(960ねん)10がつ淮南ワイナン節度せつど使しげるすすむよりどころあげしゅう叛變,ふとしいしもりしんじ義成よしなりぐん節度せつど使おうしんせん徽北いん使しょ耘、保信やすのぶ節度せつど使そうりつぐん往討。11月,ふとし再度さいどおやせいへいいたり大儀たいぎ鎮(いま江蘇ちぁんすーしょうあげしゅうちょう),いしもりしんじ使つかい奏請そうせいふと親臨しんりんかんあげしゅうじょうやぶふとししたがえそく趕赴あげしゅう城下じょうかごろこくじょうやぶしげるすすむ焚而とうおやしんじすうひゃくにんみなさがせ斬殺ざんさつ[34]

中央ちゅうおう集權しゅうけん

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財政ざいせいけん

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964ねんふとしみことのりれいしゅうぐんしょ收稅しゅうぜいじょ地方ちほう日常にちじょう行政ぎょうせい經費けいひがい,其餘じょう中央ちゅうおうとくわたしとめおけてんうん使てのひらかん地方ちほうざい政權せいけんなみけん查賦ぜいじょうがた,以供じょう繳朝廷及地方ちほうささえよう[35]てんうん使しつらえどおり判官ほうがんいたにんかくたい帳簿ちょうぼなみとく查考民情みんじょう官吏かんり違法いほう情事じょうじじょうむくい朝廷ちょうていゆうしんけい監察かんさつこれけん,以此そぎじゃく地方ちほうざい政權せいけん[36]ふとなみみことのり全國ぜんこくちゃさけしおよし國家こっか專賣せんばいかん吏與百姓不得私自販售,さいじゅうしょ[37]國家こっかいん收入しゅうにゅう大增おおます[38]ふと派兵はへい滅亡めつぼうこうしょくためもうか備錢ざい應急おうきゅうもちい,於宮ちゅう設置せっちふう樁庫」,中央ちゅうおう政府せいふ年度ねんど財政ざいせいみつるあまり全數ぜんすう納入のうにゅう[39]なみ打算ださんもうかせきいたりさんじゅうまん,以這ひつぜに贖回遭きさきすすむ高祖こうそいしけい瑭獻きゅうちぎりてきつばめくもじゅうろくしゅうただしひさそく逝世,贖地一事いちじやまし而終。[40]

行政ぎょうせいけん

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ふとし平定へいてい湖南こなみしたれい於其取消とりけしささえぐん」,使つかいげんぞくはん節度せつど使管轄かんかつしゅうぐん獨立どくりつ直屬ちょくぞく中央ちゅうおういたりそうふとしむね在位ざいい全國ぜんこくささえぐん全部ぜんぶ廢除はいじょ[41]ゆうかんとういたりだいまとはん鎮之患,ふとし以朝廷文しんもり地方ちほうしょうけんぐんしゅうごと」,執行しっこうしゅうぐん軍事ぐんじけん及行政權せいけん並置へいちつうばんため其副かん[42]地方ちほうてき民政みんせい財政ざいせい司法しほうとう事務じむよししゅう及通ばん共同きょうどう簽署はじめとく施行しこうつうばんなみとく監察かんさつぬしかんてき不法ふほう及瀆しょく情事じょうじうえほう朝廷ちょうてい,以此分割ぶんかつもりしんこれけん[43]

司法しほうけん

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962ねん4がつふとしみことのり各地かくち死刑しけい案件あんけん須上ほう中央ちゅうおうゆかり刑部おさかべふくしん,以杜絕とぜつはん鎮枉ほう殺人さつじんてき惡習あくしゅう[44];963ねん1がつふとしれいごとけん設置せっちいちけんじょう」,せめ地方ちほう治安ちあん,剝奪原由げんゆ鎮將任命にんめいおや信任しんにんしょくこれけん,以此せい衡鎮はた使つかい勢力せいりょく僅限しょちゅう城郭じょうかく而已[45];973ねん8がつふとしみことのりあらため各州かくしゅううまあゆみいんためつかさ寇院」,しつらえ寇參ぐんせんしん及第きゅうだい進士しんしあずかせんじんじょ相當そうとうしゃ擔任たんにん,剝奪はん鎮對地方ちほう一般いっぱん案件あんけんてき審判しんぱんけん解決かいけつはん武將ぶしょう審理しんり案件あんけんゆうほう遵的現象げんしょう[46]

ぐんけんおさむ中央ちゅうおう

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そうふとしぞう

961ねん7がつふとしあずかいしもりしんおうしんとうきんぐん將領しょうりょうえんいんさけすうじゅんたい們說:「わが如果ぼつゆう你們,就沒ゆう今日きょうてき地位ちい所以ゆえんたい你們てきおんとくある忘。ただしとう天子てんしふと艱難かんなんかえ如做節度せつど使らいとく快樂かいらくいん此我每夜まいよねむ安穩あんのん。」いしもりしんとうじんとい其故,ふとしこたえせつ:「道理どうり簡單かんたん皇帝こうてい這個位置いちだれ願意がんいすわ呢?」眾將聽後じゅうふん惶恐,みな跪地磕頭せつ:「陛下へいかなん此言?如今天命てんめいやめじょうだれかえ敢有しん?」ふとしせつ:「這話たい!你們雖然ぼつゆうしんただし如果你們ぞくむさぼ富貴ふうき呢?一旦將黃袍加在你們身上,你們そく使そうとう皇帝こうてい,也不ぎょうりょう。」眾將聽後みな涕泣ていきゅう磕頭せつ:「しんとう愚昧ぐまい無知むちぼつ想到そうとう這些,請陛可憐かれんわが們,指示しじいちじょう生路いくじ。」ふとしせつ:「人生じんせい如同白駒しろこますきあきらそく逝,所謂いわゆる追求ついきゅう富貴ふうきこれにんそう累積るいせき金銀きんぎん財寶ざいほうつきじょう享樂きょうらく使つかい子孫しそんさい貧乏びんぼう而已。你們なん放棄ほうき兵權へいけんもりはん鎮,かいいくかたまり好地こうちいくあいだこうぼうため子孫しそんとめ永久えいきゅうてき產業さんぎょうおさむ些歌まいおんな每日まいにちあずか她們飲酒いんしゅたのし,以終てんねんわがさいあずか你們約定やくじょうれん姻,君臣くんしんあいだ相互そうご猜疑さいぎ上下じょうげしょうやす無事ぶじ,這不これけん好事こうじ嗎!」眾將みなはいせつ:「陛下へいかためしんとうしつらえそう周到しゅうとうわが們的再生さいせい父母ちちはは。」隔日かくじついしもりしんこうふところとくおうしんちょうれいとう將領しょうりょうみなしょうびょう請辭きんぐん官職かんしょくふとししたがえそく批准ひじゅん使つかい其出鎮地方ちほうため節度せつど使しょのこしょくかけさい[47]

969ねん12月,ふとしざい花園はなぞのあずかすすむきょうじゅつしょくてき地方ちほうはんしんえんいんさけたけなわさい從容しょうようせつどう:「你們國家こっかてき元勳げんくん宿將しゅくしょう長久ながひさざいはん鎮做かん公務こうむ繁忙はんぼう,這不ちんゆうれいけんてき本意ほんい。」おおとりしょうぐん節度せつど使おう彥超上前うわまえそうどう:「しん本來ほんらい就無功勞こうろうくん績,卻久受皇おんさかえちょう十分じゅうぶん慚愧ざんき。如今しんやめおとろえおい,乞求陛下へいかたまものしん退すさきゅうろう園田そのだ,這是しん最後さいごてき願望がんぼう。」やすとおぐん節度せつど使たけ行德ぎょうとく護國ごこくぐん節度せつど使かくしたがえよし定國さだくにぐん節度せつど使はくしげるさん大軍たいぐん節度せつど使楊廷あきらとう將領しょうりょう卻仍きおいしょうひね往昔おうせきおさむせん功勞こうろう及經れき艱辛,ふとし便びんせつ:「這是前代ぜんだいてきことりょうかえゆう什麼いんもこうせつてき。」隔日かくじつふとしみことのりまぬかれ節度せつど使しょく,授以「たまきまもるかん[48]きょ銜,留任りゅうにん京師けいしあらため朝臣あそんもりしょぐん徹底てってい避免とうすえだい以來いらいてきはん割據かっきょ問題もんだい[49]

ふとしかん於五代時期藩鎮武將權力過重,以致國家こっか混亂こんらん建國けんこく採取さいしゅ重文じゅうぶんそもそもたけ政策せいさく,凡國家こっかだかかい實權じっけん職位しょくいひとしよし文官ぶんかん擔任たんにん,貶抑武官ぶかん,以防籓鎮せんけん[50]ただし有史ゆうしみとめため政策せいさく使宋朝そうちょうせきひんせきじゃくぐんりょく不振ふしん[51]

統一とういつ大業おおわざ

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ふとしはつそく帝位ていい便びんあずか宰相さいしょうちょうひろしゆきよるじょうさく」,決定けっていさきみなみきた統一とういつ全國ぜんこくてき順序じゅんじょ[52]

  1. 荊南:962ねん10がつ武平たけひら湖南こなん節度せつど使しゅうこうやまい逝,つてじゅういちさいてきしゅうけん,衡州刺史ししちょうぶんひょう不服ふふく叛變,おさむおちい潭州(いま湖南こなんしょうちょうすな),しゅうけん楊師璠往討,なみもとめ援於荊南及宋。963ねん2がつ3にちふとし趁機派遣はけん山南さんなん東道とうどう節度せつど使慕容のべ釗、樞密すうみつ副使ふくししょ耘出へい湖南こなみ討伐とうばつちょうぶんひょう同時どうじみち荊南。3月,楊師璠擊はいちょうぶんひょうはた斬首ざんしゅ。而荊みなみ節度せつど使こうつぎおき質疑しつぎそうぐんみち意圖いと便びんじん以犒ため名前なまえ往宋ぐんだい營探查虛實きょじつしょ耘對使じん熱情ねつじょう款待かんたい,卻暗ちゅうすう千騎兵急馳江陵,趁高つぎおき出迎でむかえ佔據こうりょうじょうこうつぎおき懼而投降とうこう荊南割據かっきょ政權せいけん滅亡めつぼう[53]
  2. 湖南こなんちょうぶんひょうみだれ雖平,そうぐん繼續けいぞく南下なんか武平ぶへい節度せつど使しゅうけん派兵はへい防禦ぼうぎょそうぐんしたがえそく於三江口えぐちこん湖南こなみしょうたけ大敗たいはいしゅうけんぐんおさむおちいたけしゅうせんせんななひゃくそう斬殺ざんさつよんせん餘人よにん。4月,於澧しゅうこん湖南こなみしょう常德じょうとく澧縣以南いなんげきつぶせしゅうけんぞくちょうしたがえとみ都城みやこのじょうろうしゅうこん湖南こなみしょう常德じょうとくだい懼,焚燒じょうきょみん逃亡とうぼう山谷さんや。4月6にちそうぐんおさむにゅうろうしゅうとりこちょうしたがえとみ,於寺いんちゅう俘獲しゅうけん湖南こなん割據かっきょ政權せいけん滅亡めつぼう[54]
  3. こうしょく:964ねん12月8にちふとしみことのりへいぶんりょうみちどもろくまん大軍たいぐん討伐とうばつこうしょくきた軍命ぐんめい忠武ただたけ節度せつど使おうちょんあきらためぬしそち武信たけのぶ節度せつど使ちぇ彥進ため副官ふっかん樞密すうみつ副使ふくし王仁わにためかんかん東路あずまじぐん以寧こう節度せつど使りゅう光義みつよしため副官ふっかん樞密すうみつうけたまわむね曹彬ためかんかんこうしょく皇帝こうていはじめあきらのり樞密院すうみついんごとおうあきらとお禦敵。965ねん2がつりゅう光義みつよし於東おひがしげきころせしょくしょう南光なんこうかいへい臨夔しゅういま重慶たーちんたてまつふしけんひがし)。こうしょく夔州守將しゅしょうこう彥儔てき部將ぶしょうたけまもるけん違令いれいせん大敗たいはい而逃,そうぐん趁亂入城にゅうじょうこう彥儔力戰りきせん不敵ふてき焚而,夔州淪陷,ばんほどこせひらけただしとげとうしゅうしょうつぎ投降とうこうしょくぐんしゅそちおうあきらとおりつへい於北むかえせんおうちょんあきらさんせんさんはい退すさもりけんもんせきいま四川しせんしょう廣元ひろもとけんかくけん)。2月4にちおうちょんあきらおさむいれとぎしゅうこん四川しせんしょう廣元ひろもととぎしゅう),ぐんかてはちじゅう萬斛ばんこくひさてん往劍もんせき大敗たいはいしょくぐん俘虜ふりょしょくはたおうあきらとおちょうたかしおさむおちいつるぎしゅうはじめあきら聞之だい懼,決定けってい使つかい請降。2月11にちはじめあきら使者ししゃいたりそう軍營ぐんえいぜん遞降しょこうしょく滅亡めつぼう
    しか而蜀雖已おさむふくせいしょく大軍たいぐん卻在ぬしそちおうちょんあきらとう人的じんてきたてよう任意にんいしょうころせ劫掠ごうりゃくためさく歹。而王ちょんあきらあずかちぇ彥進、おうひとし贍等將領しょうりょうただ日夜にちや飲酒いんしゅ作樂さくら軍務ぐんむ,以至軍紀ぐんきたゆはいさかい盜賊とうぞく蜂起ほうきしょくみん不堪ふかんごとおうちょんあきら甚至剋扣ふとしれいきゅう投降とうこうしょくぐんぜん往京じょうてきみちなみおおかた騷擾そうじょうとげげきなり叛變,じゅう萬叛軍推舉文州刺史ぜんゆうためそちおさむおちい彭州(こん四川しせんしょうなり都市とし彭州),成都せいとじゅうけん及邛、しょくまゆりょうとうじゅうななしゅうひびきおう叛亂はんらん四川しせん大亂たいらん成都せいとあずか汴梁斷絕だんぜつ聞訊。ちょくいたり967年初ねんしょしょくみだれ經歷けいれき兩年りょうねん鎮壓ちんあつ後方こうほうざい平定へいてい[55]
  4. きたかん:968ねん8がつ23にちきたかん皇帝こうていりゅうひとし逝世,養子ようしりゅうつぎおんつぎ。9月10にちふとしいのちきゃくしょう使ふところただしとうじゅう二人領兵屯駐潞州,準備じゅんび趁喪おさむきたかんりょうてんいのち義軍ぎぐん節度せつど使つぎくんりょうへい進入しんにゅうかんさかい,於洞かわげき敗北はいぼくかんぐん斬殺ざんさつせん餘人よにんせんひゃくひきしんかこえきたかん都城みやこのじょうふとしはらいま山西さんせいしょうふと原市はらいち)。同時どうじきたかん皇帝こうていりゅうつぎおんいんあずか權臣けんしんかく無為むい政爭せいそう失敗しっぱい而遭弒殺,りゅうつぎおん胞弟りゅうつぎもと繼立つぎたて皇帝こうていたてそく上表じょうひょう請求せいきゅうちぎり出兵しゅっぺい援救。11月,ちぎり援軍えんぐん抵達,そうぐん撤退てったいきたかんぐん趁機侵入しんにゅうそうさかい,擄掠きょみん而回。くび討伐とうばつきたかんしつ[56]
    969ねん2がつ26にちふとしいのちせん徽南いん使曹彬さむらいまもるぐん指揮しき使とうすすむとう將領しょうりょうへい征伐せいばつきたかん。3月1にちふとしみことのりおやせい。3月7にちきょうじょう出發しゅっぱつ大軍たいぐんじゅう一天いってん到達とうたつ潞州,いんとまちゅうかんしょうりゅうつぎぎょう馮進珂たむろへい於團柏谷かしや偵騎往來おうらい巡邏じゅんら,遭宋ぐんぜんほこさき部隊ぶたいげきはいりゅうつぎぎょうとう退すさかいふとはらそうぐんとげ包圍ほういふと原城はらのじょう。4月4にち,潞州とまふとしりつぐん出發しゅっぱつ六天ろくてん,抵達ふとげん城下じょうかしたれい於太原城はらのじょうがいちく長城ちょうじょう牆,藉以かこえこましろぜっ其外援;またしたれいふさが汾水,使つかい壅積,なみ於隔けつつつみみず灌太原城はらのじょう洪水こうずいしたがえ城門じょうもん入城にゅうじょうちゅうきたかんじん緊急きんきゅう設置せっち障礙しょうがい填補てんぽそうぐんそくしき弓箭きゅうせん阻撓,使つかい其無ほう施工しこうただしひさしそくゆうなりうずたかてきくさずい洪水こうずい漂流ひょうりゅういたりけつこうしょ使つかいそうぐん無法むほう穿ほじとおるきたかん便びん趁此じゅうけつこうそうぐんひさおさむふとしはらした將領しょうりょうゆう死傷ししょう上部じょうぶたいちゅう紮於甘草かんぞう地上ちじょうせい盛暑せいしょ大雨おおあめ,疫疾よこせい將士しょうししみびょうはら瀉,ふとしつね博士はかせひかりさん上奏じょうそう建議けんぎ退すさへいちょうひろし贊同さんどうふとし便びんれい退すさへいだい二次討伐北漢亦失利。[57]
  5. みなみかんせいきたかんしつふとしじゅうひろえさきみなみきた策略さくりゃく。970ねん10がつ3にちみことのりれい潭州防禦ぼうぎょ使はんよしろうしゅうだんねり使いんたかしどうしゅう刺史ししおうつぎくんとうしょうりつへい討伐とうばつみなみかんかこえおさむしゅういま廣西ひろせたけしぞく自治じちしゅう)。みなみかん皇帝こうていりゅう彥柔往援,遭宋ぐんげきつぶせへいはいしゅう投降とうこう隔年かくねん(971ねん)1がつそうぐん進攻しんこう韶州いま廣東かんとんしょう韶關),擊破げきはかんはたうけたまわてきだいぞうじんおさむおちい韶州,なみしょうつぎおさむかつえいしゅうこん廣東かんとんしょうきよどお英德ひでのり)、おんどりしゅうこん廣東かんとんしょう韶關みなみ雄市ゆういち),みなみかん韶州刺史ししからしのべじんすすむりゅう投降とうこうりゅう鋹不したがえしたれい準備じゅんび十多艘船裝載金銀財寶及妃嬪宮女,はた出海でうみ逃亡とうぼう,卻遭宦官かんがん及衛ぬすめ其船而開はしりゅう鋹大懼,使つかい請降またなぞらえただとく堅守けんしゅ。3月3にちそうぐんげきかんしょううえ廷曉なみ火燒ひたき於馬みちこん廣東かんとんしょう佛山ほとけやま南海なんがい西北せいほくてきみなみかん軍營ぐんえいしがらみみなみかんぐん大敗たいはいしゅそちかくたかしだけ戰死せんしりゅう聽聞ちょうもんへいはい便びんたて焚燒宮殿きゅうでんなりため灰燼かいじん隔日かくじつりゅう鋹素ふくみなみかん滅亡めつぼう[58]
  6. みなみとう:974ねん10がつ9にちふとしいのちせん徽南いん使曹彬とうしょうりつへい赴荊みなみ隔日かくじつまた山南さんなん東道とうどう節度せつど使はんよしとうしょう也赴荊南たむろちゅう。11月4にち,曹彬とう將領しょうりょうへい出發しゅっぱつ荊南,ちょく往南唐國からくにきんりょういま江蘇ちぁんすーしょう南京なんきん)。ふとし同時どうじいのちえつおうぜにごうげきみなみとう策應さくおうそうぐん。11月21にち,曹彬おさむおちい池州いけすいま安徽あんきしょう池州いけす),なみ陸續りくぞくおさむどうりょうとうぬりかぶらみずうみしんさいせきいそ今安いまやす徽省うま鞍山あんざん西にし)。12月9にちそうぐん於采せきいそげきはいみなみとうまん大軍たいぐん,俘獲いちせん餘人よにんせんさんひゃくひきふとしずいそくれいしょうさきまえやめせいなりてき浮橋うきはしいしぱい今安いまやす徽省やすけいふところやすしけんいしぱいうつりいたりさいせきいそそうともづなさんにち而成,そうぐんいん此渡長江ながえ隔年かくねん(975ねん)3がつ2にち,曹彬りつぐんかこえおさむきんりょうみなみから皇帝こうていしたれい戒嚴かいげんなみすう派遣はけん使者ししゃじょしゅうおもんみぜん往宋汴梁請求せいきゅう暫緩進攻しんこうふとしもとじょ鉉便陳述ちんじゅつみなみから國主こくしゅ無罪むざい與太よた反覆はんぷく辯論べんろんふとしだいいかせつ:「不用ふよう再說さいせつりょうわが也知どうみなみから無罪むざいただし天下てんかほん歸一きいつ榻之がわ,怎能ようもと他人たにんいびきねむ呢!」976ねん元旦がんたんそうぐんおさむおちいかねりょう煜奉ひょう請降,みなみから滅亡めつぼう[59]みなみから昭武あきたけ军节とめきさき卢绛退すさせんしゅう、杀歙しゅう刺史しし龚慎仪すえ歙州继续抵抗ていこうそうふとし劝降。みなみからしょうえびすすえしゅう继续こうそうただしいたりよんがつじょうやぶ

ふとし逝世ふとしむね逼迫ひっぱくえつおうぜに俶、せいはじめぐん節度せつど使(閩南)ちんひろしすすむ於978ねんおさめくだなみ於隔ねん(979ねんはつへい滅亡めつぼうきたかん宋朝そうちょういたり此統一除燕雲十六州及河西走廊等地外的汉地。

驟逝疑くも

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きたそうひらきたからきゅうねんじゅうがつじゅうにちみずのとうし,976ねん11月14にち),ちょうただしたね皇宮こうぐうまんさい殿どの逝世,享年きょうねんじゅうさい在位ざいいじゅうろくねんおくりな英武ひでたけせいぶん神德しんとく皇帝こうてい」,びょうごうふとし」,さんおとうとちょう光義みつよしつぎそくそうふとしむね

977ねん5がつ15にち靈柩れいきゅうたてまつそう永昌えいしょうりょう。1008ねん9がつ3にちそう真宗しんしゅうちょうひさしおくりなため啟運けいうんりつごく英武ひでたけ睿文神德しんとくひじり功至かつじ明大めいだいこう皇帝こうてい」。[60]

しょくかげおのごえ

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依據いきょきたそう中期ちゅうきゆかりぶん瑩和ひさしところちょぞく山野さんやろくてき記載きさいちょうただしたねはつあとぜん曾與いちめい道士どうし來往らいおうつねしょうやく飲酒いんしゅいたりよいいちよいしゅ道士どうし吟唱ぎんしょう預言よげんちょうただしたねはたとう皇帝こうてい,醒後卻推せつしゅよいえびすごとちょうただしたねしょうみかど兩人りょうにんさい也沒しょうじゅうろくねんてきひらきたからきゅうねん(976ねん上巳じょうしぶしちょうただしたねいたり西沼にしぬまくだりはらいみそぎれい道士どうしすわ岸邊きしべじゅかげたいちょうただしたねせつ:「べつ恙。」ちょうただしたね大喜だいぎそく請至後宮こうきゅう飲酒いんしゅ歡續。ちょうただしたねせつ:「わがそう請你あずかはか一事いちじ以久,他事たじわがかえゆういくねん壽命じゅみょう?」道士どうしせつ:「ただよう今年ことしじゅうがつじゅうにちよるばん天氣てんき晴朗せいろう,就可のべぞくじゅうねん[61]そくそくとうしたがえそくやすはい後事こうじ。」當日とうじつよるちょうただしたねのぼりふとししんかくかんぞう天氣てんきさき晴朗せいろう而後てんあく,驟下大雪おおゆきちょうただしたねきゅうせわししもかく傳令でんれいひらき皇宮こうぐうはしもん,召すすむおうちょう光義みつよしにゅうみや兄弟きょうだいにん於內對坐たいざ飲酒いんしゅなみへい所有しょゆう宦官かんがんみやおんな。內侍們遙寢室しんしつしょく影下かげしたちょう光義みつよし而起はなれせき露出ろしゅつ不可ふか勝之かつゆき情狀じょうじょう兩人りょうにんかつかんやめうまよる時分じぶん室外しつがい積雪せきせつやめたちすうすんちょうただしたね拿柱おの戳雪,一邊回頭對趙光義說:「こう做,こう做!」せっちょ就寬ころも就寢しゅうしん鼾聲かんせい如雷。とうばんちょう光義みつよしとめ宿やど宮中きゅうちゅうてんはた五更ごこう寢室しんしつ周圍しゅうい寂靜じゃくじょう無聲むせいちょうただしたねくずれ享年きょうねんよんじゅうきゅうさいちょう光義みつよし受遺みことのり於柩ぜん即位そくいためそうふとしむね[62]

きたそう史家しか司馬しばひかりところちょ涑水記聞きぶんのり記載きさいちょうただしたね逝世そう皇后こうごう急派きゅうは宦官かんがんおうつぎおんつて召趙ただしたねだいよんそくしんおうちょう德芳とくぼうすすむみやおうつぎおん卻逕いたりちょう光義みつよしてい通報つうほうちょうただしたね訊,なみ催其つきそくしんみや即位そくいちょう光義みつよし猶豫ゆうよ不定ふていおうつぎおんそくせつ:「事情じじょう拖久就被他人たにん搶先りょう。」於是ちょう光義みつよし趁夜踏雪にゅうみや進入しんにゅう寢殿しんでんそう皇后こうごう聽說おうつぎおんやめ便びんとい:「德芳とくぼうらいりょう嗎?」おうつぎおん卻說:「すすむおうらいりょう。」そう皇后こうごういたちょう光義みつよしさき驚愕きょうがくずいそくせつ:「わが母子ぼしてきせいいのちたくづけきゅうかん[63]りょう。」ちょう光義みつよしのり涕泣ていきゅうせつ:「共保きょうほ富貴ふうき需擔。」[64]

みなみそう史家しかところちょぞくどおりかん長編ちょうへんしん上述じょうじゅつせつただはたちょうただしたねこう做,こう做」あらためためこう為之ためゆき」,道士どうしそくゆう姓名せいめい曰「ちょうまもるしん」,且言ちょう光義みつよしとうばん並無ならびな於宮ちゅうとめ宿やど[65]燾於書中しょちゅう引北そう史家しか蔡惇じきてき筆記ひっき也有やゆうあずかぞく山野さんやろく相似そうじてき記載きさい[66]

依據いきょ上述じょうじゅつ疑點ぎてんうえ書中しょちゅう其他記載きさい(如趙ただしたねこれやめ有人ゆうじん先行せんこうあずかりょう[67]),便びんゆうちょうただしたねちょう光義みつよし謀殺ぼうさつせつ[68]

きむ匱之めい

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ちょう光義みつよし表示ひょうじ:961ねん母親ははおやもりふとしきさきやまい危,召ちょうひろしにゅうみや接受せつじゅ遺命いめいもりふとしきさきもんちょうただしたね:「你知どう你為なんのう取得しゅとく天下でんか嗎?」ちょうただしたね不能ふのうこたえもりふとしきさきせつ:「わが老死ろうし,哭也ぼつようわがただしよう跟你せつ大事だいじ,怎麼ただいちちょく哭呢?」於是さいといいちへんちょうただしたねせつ:「みやこただしじょうかずふとしきさきせきとくしょ致。」もりふとしきさきせつ:「たいいんためしばゆずる孩童とう皇帝こうてい人心じんしん不服ふふくしょ致。如果しゅうゆう年長ねんちょうてき君主くんしゅ,你能いた江山えやま嗎?你和ちょう光義みつよしわがおやせいてき,你死おうはた皇位こういでんきゅうおとうとおとうと天下てんかだい事務じむしげおものうりつ一個年長的君主來治理,這是社稷しゃしょくぶく啊。」ちょうただしたね叩頭こうとう涕泣ていきゅうせつ:「一定いってい遵照母后ぼこうてき教誨きょうかい。」もりふとしきさき便びんたいちょうひろしせつ:「你將わがつよしざいこうてきはなしらい不可ふか違背いはい。」ちょうひろしそく於太きさきゆかぜんうつしなり誓書せいしょなみ末尾まつびうつしじょうしんさんちょうただしたねはた誓書せいしょぞう於金匱之ちゅういのち謹慎きんしんてき宮人みやびと保管ほかん[69]

上述じょうじゅつ記載きさい如屬のりちょう光義みつよしつぎにん皇位こういそくゆう合法ごうほうせい正當せいとうせいしか而有學者がくしゃ指出さしで諸多しょた疑點ぎてん:如此ちかい為真ためざにのりなん以不ざいちょう光義みつよし即位そくいはつ公布こうふ,而是とういた981ねん10がつざいゆかりちょうひろし以「密奏みっそうてき方式ほうしきけいそうちょう光義みつよし,乃開きん匱查けんぞく前後ぜんご竟隱瞞「ふとしきさきのこみことのりねんひさし[70]記載きさい內容しょげん皇位こうい須「あにおわりおとうと及」いんもりふとしきさき擔心ちょうただしたね諸子しょしみなよう不足ふそく以坐穩江さんただしちょうただしたね死時しにどき,其次子じしちょういさおあきらじゅうろくさいよんちょう德芳とくぼうじゅうはちさいみな幼弱ようじゃくのこみことのり前提ぜんていふく存在そんざい記載きさいらいげんふとし實錄じつろくけいちょう光義みつよしつぎおさむあらためやめげん貌,而修あらためまえてき舊版きゅうばんそくゆう記載きさいあらわゆう杜撰ずさんいや[71]よりどころ《涑水記聞きぶん》、《ぞくどおりかん長編ちょうへん》、《そうとうしょ記載きさいもりふとしきさき本意ほんいためちょうただしたね死後しご皇位こういでんきゅうさんおとうとちょう光義みつよしさいつてきゅうよんおとうとちょう廷美最終さいしゅうでんかいきゅうちょうただしたね次子じしちょういさおあきら[72]しか而修あらためてき新版しんぱんふとし實錄じつろくただゆうでんきゅうちょう光義みつよしてき記載きさい,且相關そうかん當事とうじじん竟於短時間たんじかん內逐いち逝世(979ねんちょういさおあきら自殺じさつ;981ねんちょう德芳とくぼう猝死;984ねんちょう廷美遭貶,ゆう悸而)。史學しがくかいそくいん前述ぜんじゅつ疑點ぎてん而有「きむ匱之めいちょうひろしため取得しゅとくちょう光義みつよし信任しんにんじゅうとくしょう而杜せんふとしきさきのこみことのりてき說法せっぽう[73]じょうちょう光義みつよし逾年而改元かいげんひらきたからきゅうねんじゅうがつきのえとらそく977ねん1がつ14にちあらためひらきたからきゅうねんため太平たいへい興國こうこく元年がんねん」)[74]也有やゆう學者がくしゃよりどころ此認ためちょう光義みつよしいん弒兄だつ而心むなし不等ふとうとしそくくら改元かいげんよく使其繼なりため既定きてい事實じじつ[75]

歷史れきし評價ひょうか

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ゆかり元朝がんちょう宰相さいしょうだつだっところ監修かんしゅうてきそうふと本紀ほんぎたいそうふとしちょうただしたねゆうきょくだか評價ひょうか

たたえ曰:むかししゃしゅん以禪だいたけ征伐せいばつみな南面なんめん而有天下てんか四聖しせいじんしゃ往,世道せどうますくだいやたい推移すいいとう斯民塗炭とたんあきすめらぎてん眷求民主みんしゅまたおもんみせめ其濟斯世而已。使つかい其必とくよん聖人せいじんざい,而後以其行事ぎょうじ畀之,のりせい民平みんぺい治之はるゆき,殆無也。らんごくそうふとしおこりかい胄之ちゅう,踐きゅうこれはら其得こくすすむかんしゅうまたあに甚相ぜっ哉?及其はつごうほどこせれいめいはん大將たいしょう,俯首聽命,四方しほう列國れっこく次第しだいそぎひらめ,此非人力じんりきしょえき致也。たてたかし以來いらいしゃくはん鎮兵けんなわ贓吏じゅうほう,以塞にごらんみなもとしゅう郡司ぐんじまきしもいたりれいろくまくしょく,躬自引對;つとむのうきょうがくまきばっうす斂,あずか休息きゅうそくまで於丕ひら治定じじょうこうなりせいれい作樂さくら在位ざいいじゅうゆうななねんあいだ,而さん百餘載之基,でん子孫しそんせいゆうてんそくとげ使さんだい而降,こうろん聲明せいめい文物ぶんぶつ道德どうとく仁義じんぎふうそうかんとうぶたゆずる焉。嗚呼ああ創業そうぎょうたれみつるきみ規模きぼわかまたいいどお也已矣!」

——そう·本紀ほんぎだいさん·ふと本紀ほんぎさん

明太めんたいしゅもとあきら於1374ねん9がつおやいたり南京なんきん歷代れきだい帝王ていおうびょう祭祀さいしさんすめらぎいたりもととうじゅうなな歷代れきだい帝王ていおうなみたい其各ゆうしゅくぶん,其中たいそうふとしてきしゅくぶんうん

おもんみそうふとし皇帝こうていじゅんてんおうじん統一とういつうみ宇,祚延さんひゃく天下てんか文明ぶんめいゆうくん天下でんかとく而安まんせいこうしゃ也。」

——明太めんたいだか皇帝こうてい實錄じつろく·まききゅうじゅう

現代げんだい研究けんきゅう

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しゅ流說るせつ法認ほうにんためちょうただしたねため漢人かんど祖先そせん涿郡。中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく學者がくしゃちょうけん军、韩毅とう支持しじ這個說法せっぽう[76]

家族かぞくなり

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成員せいいん 姓名せいめい 備註
父母ちちはは 父親ちちおや赵弘いん · 母親ははおや昭憲しょうけんふとしきさき
兄弟きょうだい ながちょうただしずみ曹王 · さん ちょう光義みつよし ふとしむね · よんちょう廷美悼王 · 赵匡赞岐王 ちょうただしずみはや逝、ちょうただしさん
あねいもうと はた國大こくだいちょう公主こうしゅ
皇后こうごう 孝惠たかえ皇后こうごう · おう孝明たかあき皇后こうごう · そう孝章たかあき皇后こうごう 孝惠たかえ皇后こうごうためついさつ
ながちょういさおしゅう滕王 · つぎちょういさおあきらつばめ懿王 · さんちょういさおりん舒王 · よんちょう德芳とくぼうはた康惠やすえおう ぜん三子为孝惠皇后所生;とくしゅうとくりんにんはや夭,おうごうよし徽宗ついたまもの德芳とくぼうはは孝明たかあき皇后こうごう
おんな 國大こくだいちょう公主こうしゅ · 魯國大長おおちょう公主こうしゅ · ちん國大こくだいちょう公主こうしゅ · さるこく公主こうしゅ · なりこく公主こうしゅ · 永國ながくに公主こうしゅ ぜん二女为孝惠皇后所生,あまりしゃ生母せいぼ详;さるこくなりこく永國ながくにさん公主こうしゅ夭,其中两人可能かのう为孝あかり皇后こうごう所生しょせい

祖先そせん

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先祖せんぞ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父こうそふ:(ついみこと)僖祖文献ぶんけん皇帝こうてい赵朓
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父そうそふ:(ついみこと)顺祖めぐみもと皇帝こうてい赵珽
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖母こうそぼ:(ついみことぶん皇后こうごうちぇ
 
 
 
 
 
 
 
祖父そふ:(ついみことつばさ简恭皇帝こうてい赵敬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふくわじつおっと
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母そうそぼ:(ついみことめぐみあきら皇后こうごうくわ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちち:(ついみことせん昭武あきたけ皇帝こうてい赵弘いん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふ:刘延
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふりゅうあきら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖母そぼ:(ついみこと简穆皇后こうごう刘氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ふとしだいこう皇帝こうてい赵匡たね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふ:(つい赠)ふとしもり
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふ:(つい赠)ふとしでんもり
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼ:(つい赠)卫国夫人ふじん刘氏
 
 
 
 
 
 
 
外祖父がいそふ:(つい赠)ふとしもり
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖母そうそぼ:(つい赠)つばめ国夫くにおじん赵氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ははあきら宪太きさき杜氏とうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖母がいそぼ:(つい赠)ふとし师夫じん范氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

後代こうだい子孫しそんこうはじめ以外いがいてきみなみそう皇帝こうてい

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きたそうじょ開國かいこく皇帝こうていそうふとしちょうただしたねがい歷任れきにん皇帝こうていみなためさんおとうとそうふとしむねちょう光義みつよしあずか其後だい;而みなみそうじょくびにん皇帝こうていそうこうはじめちょう構為ちょう光義みつよし後代こうだいがい歷任れきにん皇帝こうていそくひとしためちょうただしたねてき後代こうだい

其中ぞくちょうただしたねよんちょう德芳とくぼう後代こうだいてきゆうそうたかしむねちょう昚、そうひかりむねちょうあつしそうやすしむねちょう擴;ぞくちょうただしたね次子じしちょういさおあきら後代こうだいてきゆうそうさとしむねちょう昀、そうむねちょう禥、そうきょうみかどちょう㬎、そうはしむねちょう昰、そうしょうみかどちょう昺。

传闻轶事

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そうふとしゆきよるおとずれちょうひろし
  • ふみちょうただしたねせいべに光滿みつましつゆう香氣こうきせいよる嬰兒えいじたいてい金色きんいろちょうたちさんにちとしけいがく騎射きしゃ,嘗試馴服れつくらなわうま衝上城門じょうもんはす坡道,致趙ただしたねがくあたま撞擊城門じょうもんもん楣,目擊もくげきしゃみなみとめため其頭こつ必定ひつじょう粉碎ふんさいちょうただしたね從容しょうよう站起,徒步とほついうえれつあが而上,毫髮無傷むきずちょうただしたね曾與玩伴かんれいひつじさるざい土屋つちやうら玩耍,ゆうぐん麻雀まーじゃん在室ざいしつがい聒噪互鬥,ちょうただしたねとげあずかかんれいひつじさる出土しゅつどほっ麻雀まーじゃんつよしぼう而土したがえそくくずし塌,二人ふたりこうめん於難。[77]
  • ちょうただしたねあずか胞弟ちょう光義みつよし幼時ようじずい母親ははおや杜氏とうじ躲避戰亂せんらん杜氏とうじ便びんはた兄弟きょうだい二人放至籮筐擔挑而走,ため道士どうしちん撞見,便びん嘆道:「べつせつ當今とうこん世上せじょうぼつゆう天子てんしみやこすすむ天子てんしよう擔挑ちょはし。」[78]多年たねんちょうただしたねしょうみかどちん摶聞だいわらいせつ:「天下てんかしたがえ安定あんていりょう。」[79]
  • 959ねんこう周世すせむねしばさかえおやせいちぎり,於征途中とちゅう批閱文書ぶんしょ發現はつげん中有ちゅうういち囊袋,內有さんしゃくちょうてきぱいうえゆう:「點檢てんけんさく天子てんし」。しばさかええつややかんじ身體しんたい不適ふてき便びんいのちしゃかえしきょう。抵京しもみことのり撤殿まえ點檢てんけんちょうひさしとくこれしょくあらためにんちょうただしたね隔年かくねんはつちょうただしたねのぼりはじめためみかどとげおう此讖。[80]
  • そうはじめ宰相さいしょう范質とうひと仍循前代ぜんだい慣例かんれいうえあさしつらえ有座ありざ椅,すわしるそうごといちにち早朝そうちょう,范質なおすわしるちょうただしたね便びんせつ:「わが眼睛がんせい昏花,清楚せいそ,你把文書ぶんしょ拿給わが。」范質於是おこり文書ぶんしょ進呈しんていちょうただしたね卻已みつしょく侍者じしゃ趁此はた其座撤去てっきょまち范質よくかえし而座椅已撤,ただとく站立。此宰しょうあずか群臣ぐんしん般站ちょじょうあさなりため慣例かんれい[81]
  • ちょうただしたねしょうみかどだいさんねん秘密ひみつひと鐫刻いちつう石碑せきひぞう於太びょうてき夾室內,しょうためちかい」,よう黃金おうごんいとしょ鑲嵌なりてきぬの幔遮ぶたもんきん森嚴しんげんちょうただしたねれい此後四時祭祀及新皇帝即位時,まちはいかんふとしびょう便びん須恭讀誓詞せいしよし一個不識字的小太監持鑰匙開夾室,しかこう焚香、てんあきらしょくなみはた幔揭ひらけ,其餘ずいしん須於遠方えんぽうにわちゅう佇候。とうあさ皇帝こうてい於碑ぜん跪拜きはいなみだま誓詞せいし再拜さいはい而出,群臣ぐんしん近侍きんじ們皆不知ふち誓詞せいしためなにきたそう历代皇帝こうていみなうけたまわかさねれい,按時きょう讀,敢洩ちょくいたやすし康之やすゆきへん爆發ばくはつ皇宮こうぐう大亂たいらんふとしびょう夾室門戶もんこほらひらけにん們才發現はつげん內裡ゆういちだかやくななはちしゃくひろしよんしゃくあまりてき石碑せきひ上面うわつらゆうさんぎょう誓詞せいし
    だいいちしば子孫しそん有罪ゆうざいとくけいたてはんはかりごとぎゃくとめ於獄ちゅうたまものつきとく曹刑戮,またとく連坐れんざささえぞく
    だいとくころせ大夫たいふ上書うわがきげんごとじん
    だいさん子孫しそんゆう渝此ちかいしゃてん必殛
    上述じょうじゅつさんちかいしょうふとし誓約せいやく」。[82]みなみそう皇帝こうていそくゆかり曹勛かねこくみなみむかいそうこうはじめてんたちそう徽宗これかたざい得知とくち誓詞せいし[83]
  • ちょうただしたね本身ほんみため武術ぶじゅつだかしゅふとし長拳ちょうけん正由まさよしちょうただしたねしょはじめ流入りゅうにゅう少林寺しょうりんじ,衍化ため長拳ちょうけんもん」,またたたえふとしもん」,戚繼こうざいこう新書しんしょてきこぶしけいとしようへん有紀ゆうきろくそうふとしゆうさんじゅうしき長拳ちょうけん」;作家さっかきむいさおざい小說しょうせつ天龍てんりゅうはちちゅう就有形容けいようそうふとしちょうただしたね以一たいこぶしあたま一條いちじょう杆棒,りょうだいそうにしき繡江やまらいみかどすめらぎしたがえ如宋ふとしかみいさむしゃ;一套太祖長拳和太祖棒,當時とうじ武林たけばやしちゅうさいため流行りゅうこうてき武功ぶこう,就算かい使てき也看とくじゅくりょう。」
  • いたり明代あきよ赵匡たね千里送京娘てき传说やめ经成がた。传说ちゅう,赵匡たね造成ぞうせい为一个义てき形象けいしょうあきらしん时,个剧种有以这个传说为素材そざい演出えんしゅつてき剧目。

ぶん形象けいしょう

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京劇きょうげき

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  • がたな》:ちょうただしたねかたな從軍じゅうぐん
  • りゅうつたえ》:なえくん預言よげんみかどいのちあいじょうかんうめしばちょうていさんゆい
  • こま曹府》:匿曹あきらわりこぶ討封。
  • 《洒金きょう》:にゅうしつらえたな受苗くんぼくざん未來みらいじゅうこと
  • ただしきょう》:ただしとら
  • おくきょうむすめ》:千里護行不受饋。
  • りゅうおおとりゆかり》:ろくじょよめ光義みつよし
  • ふりえん》:とう三春みはるよめていおん
  • 桃園ももぞの》:ほらぼう
  • 高平たかひらせき》:かくたけしのぼりはじめ,逼匡たね取高とりだかくびもとふう嗣爵,れん姻始自刎じふん
  • はなていしゃ妖》:しばさかえとうかくふう爵,花園はなぞの飲酒いんしゅげんさかな妖,ただしたねしゃ
  • よんべに》:ちょうとげりゅうおう未遂みすい,曹仁だい而反じょとげ戡定かんていつばめきょう
  • 千金せんきん全德ぜんとく》:こうおんなかつらえいよめたけいさおせきもりしん
  • りゅうだな》:しばさかえのぼりはじめていおん討赦引薦だかふところとく
  • さんとう三春みはる》:しばれいちょうためなかだちつまみごうていすえこうふところとく三打陶遂成姻緣。
  • 竇瑤》:みなみからうまようしんあずかちょうごうてい逼柴すくいちょう
  • みなみかいせき》:守將しゅしょうりゅうひとし不屈ふくつぶしただしたねけい其忠いのちつまじょきむはなぞくまもりことぶき春城しゅんじょう
  • しょう堯天》:ひねきょうえきほうじょかんどおりはいしゅしゃく兵權へいけん
  • ほう》:ちょうふうもとうめため,受舅かんりゅう灌酒讒言ざんげんあやまていおんとげ褪龍ほうもとていつま三春斬之以洩恨。
  • 《輸華さん》:ちんあずかただしたね華山かざんひね勝得かちえ華山げさん封地ほうち
  • ゆきよるおとずれちょうひろし》:のぼりはじめはかりごと治國ちこく

演義えんぎ故事こじ

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荧幕创作

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名稱めいしょう しるべえんじ かざり演者えんじゃ くび
千里せんりおくきょうむすめ ぶん逸民いつみん 严化 1941ねん
斩黄ほう ちんふところ皚、ひねかたせん はじめ 1976ねん
ふうしんこう 华山 おうえびす 1983ねん
杨家しょう 添胜 林立りんりつさん 1985ねん
绝代そうゆう 致明 はやし明哲めいてつ 1986ねん
兵權へいけん りゅうつかまつひろし りゅうてる 1988ねん
だいそう王朝おうちょうちょうただしたね 顧琴よしおうひろしじん ちんのぞみこう 1995ねん
じょうけん山河さんが はんぶん杰、张健伟、うらあがすすむ 興國こうこく 1996ねん
いのち天子てんし-ちょうただしたね 林添はやしぞれ はやしたすくほし 1998ねん
问君のうゆう几多愁 文豪ぶんごう 2005ねん
天機てんきさん じょぐうやす かくほう 2007ねん
かたぶけすめらぎ りょうからしぜんはやしほう 喬任たかとうはり 2011ねん
聪明しょう空空くうくう 晓、马庭しゅん 温海あつみ 2012ねん
青春せいしゅん够用 荆小尧 罗嘉りょう 2014ねん
だいそう传奇赵匡たね こうのぞみのぞみ ちんたてあきら 2015ねん

うたおどけ

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名稱めいしょう しるべえんじ かざり演者えんじゃ くび
赵匡たね かのうあお 1986ねん

參考さんこう文獻ぶんけん

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  1. ^ そうふとし赵匡たねせき问题がく术研讨会”综述--《そう研究けんきゅう论丛 だい5辑》2003ねん. cpfd.cnki.com.cn. [2019-11-20]. (原始げんし内容ないようそん于2021-04-21). 
  2. ^ 赵匡たねせきりょう确在しゅうきよしえん)--《てい师范专科学校がっこうがく报》2004ねん01. www.cnki.com.cn. [2019-11-20]. (原始げんし内容ないようそん于2021-05-08). 
  3. ^ そうかいよう輯稿‧だいいちさつみかどけい》:僖祖,立道たつみちはじめもとせきとくおこりこう懿文憲武のりたけ睿和至孝しこう皇帝こうていいみな朓,かんきょう兆尹廣漢之後。なま於燕あざみつかまつかられきえいきよしぶんやすかそけさん縣令けんれい
  4. ^ s:そうふみ/まき003 ひらきたからきゅうねんふゆじゅうがつみずのとうしゆうみかどくずしまんさい殿どの...太平たいへい興國こうこくねんよんがつおつそう永昌えいしょうりょう
  5. ^ 宋朝そうちょう事實じじつ》:「ふとしいみなただしたね、……こうから天成てんせいねんちょうとしがつじゅうろくにちなま於西京大きょうだい內甲營。」,そうだい攸撰。
  6. ^ 《挥塵录》:「西京にしぎょう应天てらほんきさきから夹马营,大中おおなかさちねん,以太诞圣けんてら锡名。」
  7. ^ そう本紀ほんぎだいいちふと本紀ほんぎいち》:「ふとし……,いみなただしたねせいちょう,涿郡じん也。」
  8. ^ 諸多しょたそうだい史書ししょ筆記ひっき及宋あさ皇帝こうていてき詔書しょうしょみなゆう相關そうかんしょうちょうただしたねやからやめ隸籍しゅうあるしょうたもてふさがこん河北かほくしょうていきよしえん):
    そうこころざしだいよんじゅうはちかわみぞこころざし》:「せん已上いじょう本籍ほんせきしゅうふところ敏廣としひろ塘水,おかせすめらぎあさ遠祖えんそふん。」;
    そう本紀ほんぎだいじゅうさん‧欽宗本紀ほんぎ》:「たもてふさがりょう所在しょざいちかいとう固守こしゅ。」;
    あおばこ雜記ざっきまききゅう》:「ちょうためしゅうじん,而僖じゅんつばさせんみなせい於河ついたち,……」,そうだいくれしょあつせん
    學士がくししゅうまきじゅうよんちゅう記載きさいうちえん使れんしゅう刺史しし知代ちよしゅうりゅうこう墓誌ぼし》:「たもてふさがすめらぎ故鄉こきょう也。」,そうだいしゅん欽撰;
    ろんおさむ北嶽きただけびょうそうじょう》:「祖宗そそうはじめづくりあと實在じつざいしゅう。」,そうだいおう安中あんなかせん
    ほうさばろくまきさん》:「(そう真宗しんしゅう)咸平さんねんろくがつみことのり:『しゅうたもてふさがけんゆたか歸鄉ききょうひがし安村やすむら,乃宣きゅうさと,……』」,そうだいちょういさお麟撰;
    ぞくどおりかん長編ちょうへんまきよんじゅうなな真宗しんしゅう咸平さんねん》:「州民しゅうみんちょうちょうしゃ國之くにゆき疏屬,きょたもてふさがけんゆたか歸鄉ききょうひがし安村やすむら,乃宣きゅうさと也。」;
    ぞくどおりかん長編ちょうへんまきひゃくろくじゅうしんむね熙寧はちねん》:「內殿たかしはんちょうひさしげん:『たてまつみことのりもと以翼しゅう舊居きゅうきょけんはていん守護しゅごふんさいそういちにん,乞遇どうてんぶし於內東門ひがしもんすすむ功德くどく疏,べついちにん。』」;
    文獻ぶんけんどおりこうまきひゃくじゅうきゅうみかどけいこうじゅう》:「はちがつみことのり:『しゅう皇族こうぞく子孫しそん於屬雖遠,しかゆうじん而遺其親しゃ。』」,もとだいうまはし臨所せん
    そうかいよう輯稿‧じゅうさんまきいちひゃくじゅうはち》:「しん僚言:『きょう以翼皇帝こうてい世子せいしまご實在じつざい本州ほんしゅうあつしむねいん。……而保しゅう宗子むねこ顛沛遠來えんらいむべ以稍あつ以昔。』」,しんだいじょまつ輯錄永樂えいらく大典たいてん》;
    きゅうきよしえんけんこころざし》:「そうさんりょう(僖祖ちょう朓的欽陵、じゅんちょう珽的やすしりょうつばさちょうたかしてきやすしりょうざい禦城西北せいほく」、「いぬくぼざい城西じょうさいすみ,乃一うねいずみ石橋いしばしかわ匯為おり流入りゅうにゅうやすしゅう俗傳ぞくでんためそうふとし故里ふるさと。」;
    だいきよし一統いっとうこころざし》:「そうさんりょうざいきよしえんけん東南とうなん,禦城西北せいほく。」;
    《畿輔どおりこころざしまきいちひゃくろくじゅうはち古蹟こせき陵墓りょうぼ》:「そう三陵在縣東南禦城西北。僖祖りょう曰欽りょうじゅん曰慶りょうつばさ曰定りょう太平たいへい興國こうこくちゅう,以祖宗そそう陵墓りょうぼ所在しょざいいんおけしゅう。」
    以上いじょう記載きさいみな說明せつめいしゅうためちょうじょうきょきゅうさとりょう所在しょざい,雖也有史ゆうししょ如《そう史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(明代あきよちんくに瞻撰)、《ぞうひょう歷史れきしつな鑒》(明代あきよおうさだ袁合せん)、《ぞくどおりかん》(きよしだい畢沅せんとう記載きさいちょうただしたねせきため涿郡,ただしみな因循いんじゅんそう說法せっぽうため考證こうしょう結果けっかいん而趙ただしたねせきおうためていきよしえん而非じょう涿州うたぐ
  9. ^ そう列傳れつでんだいじゅうよんおう彥超でん》:「ふとしあずか彥超ゆうきゅういん幸作こうさくぼう,召從しんえんさけたけなわいい彥超曰:『きょうむかしざいふくしゅうちん往依きょうなに不納ふのう?』彥超くだかい頓首とんしゅ曰:『しゃくすいあにのうとめかみりゅう耶!當日とうじつ陛下へいかとめとどこお於小ぐんしゃぶた天使てんししかなんじ。』みかどだいわらい。」;
    そう列傳れつでんだいさんじゅうただし遵誨でん》:「ふとしほろきゃくゆういたりかんひがしそうほん,而遵誨憑藉父ぜいふとしごと避之。遵誨嚐謂ふとし曰:『まい見城けんじょううえ紫雲しうん如蓋,またゆめ登高とうこうだいぐうくろへびやくちょうひゃくしゃくあまりにわかりゅうあが東北とうほく雷電らいでんずいなんさち也?』ふとしみなたいにちろんへいせんごと,遵誨こごめはらいころも而起。ふとし乃辭そうほん紫雲しうんやや。」
  10. ^ どおりかんしゅうおさむだいふと顯德けんとく元年がんねん》 :「合戰かっせんいく,樊愛のうなに徽引騎兵きへいさき遁,みぎぐんつぶせ步兵ほへいせん餘人よにんかいかぶとよびまんさいくだ於北かんみかど軍勢ぐんぜい危,引親へいはんせき督戰とくせんふとし皇帝こうていため宿衛しゅくえいはたいい同列どうれつ曰:『しゅ危如此,われぞくなんとく致死ちし!』またいいちょうひさしとく曰:『ぞくおご力戰りきせんやぶ也!おおやけ麾下きか多能たのうひだりしゃしゃ,請引へいじょうだか西出にしでため左翼さよくわが引兵ため右翼うよく以擊國家こっか安危あんきざい此一舉!』えいいさおしたがえこれかくしょうせんにんすすむせんふとし皇帝こうていさき士卒しそつはせはん其鋒,士卒しそつたたかえ不一ふいつとうひゃくきたかんへい披靡。」;
    そう列傳れつでんだいじゅうよんちょうひさしとくでん》 :「ふとしあずかえいいさおかくりょうきばへいせんえいいさお部下ぶかぜんひだりふとしあずかえいいさお厲兵ぶんすすむ大捷たいしょうくだたかしぐんななせんあまり眾。」
  11. ^ どおりかんしゅうおさむだいふと顯德けんとく元年がんねん》 :「とき南風みなみかぜえきもりしゅうへいそう奮,きたかんへい大敗たいはいきたかんおも舉赤のぼり以收へい不能ふのうどめ。」
  12. ^ そう本紀ほんぎだいいちふと本紀ほんぎいち》 :「きたかん來寇らいこうせいむねりつ禦之,せん於高たいら。……じょうかつおさむ河東かとうじょう,焚其もんひだりひじちゅう流矢ながれやせいむねどめ。」
  13. ^ どおりかんしゅうおさむだいふと顯德けんとく元年がんねん》 :「ちょうえい德盛とくもりたたえぶと皇帝こうてい智勇ちゆうみかど擢太皇帝こうていため殿どのぜんおそれこうりょうげんしゅう刺史しし。」
  14. ^ きゅうだいしゅうしょだいむね本紀ほんぎいち》 :「みかどこう平之ひらのやく,睹諸ぐん甚嚴せいとげゆう退すさ卻,いたりいのち今上きんじょう一概いちがい簡閱,せん武藝ぶげい超絕ちょうぜつしゃしょため殿どのぜんしょはん,……老弱ろうじゃく羸小しゃこれしょぐん不精ぶしょうとうよしへい甲之こうしもり近代きんだい無比むひ,且減冗食これ焉。」;
    どおりかんしゅうおさむだいさんふと顯德けんとく元年がんねん》 :「みかどいんだか平之ひらのせんはじめ其弊。……乃命だい簡諸ぐん精銳せいえいしゃますうえぐん,羸者斥去また以驍いさみ士多したためしょ籓鎮しょ蓄,みことのりつの天下てんか壯士そうし,咸遣まい闕,いのちふとし皇帝こうていせん其尤しゃため殿どのぜんしょはん,其騎しょぐんかくいのち將帥しょうすいせんよし士卒しそつ精強せいきょう近代きんだい無比むひ征伐せいばつ四方しほうしょこうみなとしせんねり力也りきや。」
  15. ^ どおりかんしゅうおさむだいさんふと顯德けんとくさんねん》 :「とうへい萬餘人維舟於淮,營於ぬりやました庚申こうしんみかどいのちふとし皇帝こうていげきふとし皇帝こうてい百餘騎薄其營而偽遁,伏兵ふくへい邀之,大敗たいはいとうへい於渦こう其都かんなんのべすずとうだつ戰艦せんかんじゅうそう。」
  16. ^ そう本紀ほんぎだいいちふと本紀ほんぎいち》 :「みなみから節度せつどすめらぎはじめあきら、姚鳳眾號じゅうまんふさが清流せいりゅうせきげきはしこれ。」
  17. ^ どおりかんしゅうおさむだいさんふと顯德けんとくさんねん》 :「うえいのちふとし皇帝こうていばいどうかさね清流せいりゅうせきすめらぎはじめあきらとうひね於山ぽうあずかぜんほこさきせんふとし皇帝こうてい引兵出山でやまあきらとうだいおどろき走入はしり滁州,よく斷橋だんきょうもりふとし皇帝こうていおどうま麾兵わたるすいちょく抵城あきら曰:『ひとかくため其主,ねがいようなりれつ而戰。』ふとし皇帝こうていわらい而許あきらせい眾而ふとし皇帝こうていよう頸突ひね而入,大呼たいこ曰:『われやめすめらぎはじめあきら他人たにんわれてき也!』けんげきあきらちゅうのうなまとりこなみとりこ姚鳳,とげかつ滁州。」
  18. ^ そう本紀ほんぎだいいちふと本紀ほんぎいち》 :「かんれいひつじさるたいらあげしゅうみなみから來援らいえんれいひつじさる退すさせいそういのちふとしりつへいせんろくごうふとしれい曰:『あげ州兵しゅうへい敢有ろくごうしゃだん其足。』れいひつじさるはじめ固守こしゅ。」
  19. ^ どおりかんしゅうおさむだいよんむね顯德けんとくさんねん》 :「とうひとしおうけいたち將兵しょうへい萬自瓜步濟江,距ろくごうじゅうあまりさとしつらえしがらみすすむしょしょうよくげきふとし皇帝こうてい曰:『かれしつらえしがらみかた,懼我也。こんわれ不滿ふまんせんわか往擊のりかれわれ眾寡矣;如俟其來而擊やぶこれ必矣!』きょ數日すうじつから出兵しゅっぺいおもむきろくごうふとし皇帝こうてい奮擊,大破たいはころせきんせんにん眾尚まんあまりはし渡江とのえそうぶね溺死できししゃ甚眾,於是とうしらげそつつき矣。」
  20. ^ そう本紀ほんぎだいいちふと本紀ほんぎいち》 :「かえ拜殿はいでんまえ指揮しき使ひろはい定國さだくにぐん節度せつど使。」
  21. ^ どおりかんしゅうおさむだいよんむね顯德けんとくよんねん》 :「ほりしゅう東北とうほくじゅうはちさとゆうなだ唐人とうじんしがらみ於其じょうたまきすいかたいいしゅうへい不能ふのうわたる戊子ぼしみかどおさむいのち內殿ちょくかんたもつ裔帥かぶとすうひゃくじょう橐駝わたるすいふとし皇帝こうていそち騎兵きへいつぎとげ拔之。……みかどいのち水軍すいぐんおさむ,拔其,焚戰せんななじゅうそう斬首ざんしゅせんきゅうまたおさむ拔其ひつじ馬城ばじょうしろ中震ちゅうしんこわ。」
  22. ^ どおりかんしゅうおさむだいむね顯德けんとくねん》 :「からし,以太皇帝こうていりょう忠武ただたけ節度せつど使。」
  23. ^ きゅうだいしゅうしょだいじゅうむね本紀ほんぎろく》 :「みずのと今上きんじょうさきいたりかわらきょうせきにせ守將しゅしょう姚內あきら以城くだ。」
  24. ^ きゅうだいしゅうしょだいじゅうむね本紀ほんぎろく》 :「丙午ひのえうまみかどあずかしょしょうおさむかそけしゅうしょしょうみな以為みかど聽。よるみかど,乃止。……おのれうし,……以今じょうため殿どのまえ點檢てんけん檢校けんぎょうふとでんぜん忠武ただたけぐん節度せつど使。」
  25. ^ どおりかんしゅう本紀ほんぎだいむね顯德けんとくろくねん》 :「きのえうませんのこみことのりいのちはりおうそうさとしそく皇帝こうていなまななねん矣。あきなながつみずのえいぬ,……ふとし皇帝こうていりょうとく節度せつど使。」
  26. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきいちふとたてたかし元年がんねん》 :「はる正月しょうがつからしうしついたち,鎮、てい二州言契丹入侵,きたかんへい土門どもん東下ひがししもあずかちぎりあいしゅうみかどいのちふとしりょう宿衛しゅくえいしょしょう禦之。」
  27. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきいちふとたてたかし元年がんねん》 :「みずのえとら,……とき都下とかやかましげんはた以出ぐんにちさく點檢てんけんため天子てんし士民しみん恐怖きょうふそうため逃匿けいおもんみ內庭晏然不知ふち。」
  28. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきいちふとたてたかし元年がんねん》 :「みずのと大軍たいぐんあいけいもん紀律きりつげん甚,眾心やややす。」
  29. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきいちふとたてたかし元年がんねん》 :「ゆうひねきょうえき將士しょうししょうあずか聚謀曰:『主上しゅじょう幼弱ようじゃくのう親政しんせいいまわが輩出はいしゅつ死力しりょくため國家こっかやぶぞくだれそく知之ともゆき先立さきだて點檢てんけんため天子てんししかこうきたせいばん也。』押衙じょうとうしょ耘,以其ごと白太しらたおとうとただしただしため內殿祗候しこう供奉ぐぶかんみやこともそくあずかしょ耘同とく節度せつどてのひら書記しょきあざみじんもとにん鑫,竟,しょしょう突入とつにゅうしょうせつまがえ紜,普及ふきゅうただしよしかく事理じり逆順ぎゃくじゅんあかつきたとえ,曰:『ふとしじょうちゅうあか,必不なんじ赦。』しょしょうしょう顧,またゆうやややや引去ひきさしゃやめ而復しゅう大言たいげん曰:『ぐんちゅう偶語ぐうごそくぞくいまやめていふとしじょうわかしたがえのり我輩わがはいまたやす肯退而受。』ひろし察其ぜい不可ふか遏,あずかただしよしどうこえしかこれ曰:『さくりつ大事だいじ也,かたよろししんなんじとうなんとく便びん肆狂もと!』乃各就坐聽命。ふくいい曰:『外寇がいこうあつさかいはた誰何すいか,盍先攘卻,かえりはじめ此。』しょしょう不可ふか,曰:『方今ほうこんせい多門たもんわか埙寇退かえのり事變じへん知也ともやただしとう入京にゅうきょうじょうさくりつふとしじょうじょ引而きたやぶぞくなんふとしじょう苟不受策,六軍決亦難使向前矣。』ひろし顧匡曰:『ことすんで奈何いかんせい須早ため約束やくそく。』いんしょしょう曰:『きょうおうえきせい,雖云天命てんめいじつ繫人しんぜんぐんさくやめかわ節度せつど使かくよりどころ方面ほうめんきょう城若じょうわからんおもんみ外寇がいこういよいよふか四方しほう必轉せいへんわかのうげん敕軍,勿令ひょうげこう都城みやこのじょう人心じんしんゆらのり四方しほう自然しぜんやすし謐,しょはたまた長保ながほ富貴ふき矣。』みな許諾きょだく,乃共部分ぶぶんよる衙隊軍使ぐんしかくのべ贇馳つげ殿どのまえ指揮しき使浚儀せきもりしんじ殿しんがりまえおそれこう洛陽らくようおうしん琦。まもりしんじしん琦,みなもと心太ところてんしゃ也。將士しょうしたまきれつまちだん。」
  30. ^ 《涑水記聞きぶんまきいち》 :「きのえたつはただん將士しょうしみな擐甲兵仗ひょうじょうしゅう於驛もん,歡噪突入とつにゅうえきちゅうふとしひさしおこりふとし宗時むねときため內殿祗候しこう供奉ぐぶかんみやこともにゅう白太しらたふとしおどろきおこりだししょしょうたて於庭,曰:『しょぐん無主むしゅねがいたてまつふとじょうため天子てんし。』ふとし及答,ある以黃ほう加太かだ,眾皆はい於庭だい呼稱こしょうまんさい聲聞しょうもんすううらふとしかたこばめこれ,眾不聽,扶太上馬かみうまよう逼南ぎょうふとし不能ふのうまぬかれ,乃攬くつわちゅううまいい將士しょうし曰:『なんじやからむさぼ富貴ふうきつよたてわがため天子てんしのうしたがえわがいのちそくしかわが不能ふのうためわかしゅ也。』眾皆下馬げば聽命,ふとし曰:『主上しゅじょう及太きさきわが平日へいじつ北面ほくめんごと公卿くぎょう大臣だいじんみなわが比肩ひけんひと也,なんじ曹今毋得輒加不逞ふてい近世きんせい帝王ていおうはつ舉兵入京にゅうきょうじょうみなたてへいだいかすめいい『夯市』。なんじ曹今毋得夯市及犯こと定之さだゆき日當ひなたあつし賚汝;しかとう誅汝。如此乎?』眾皆曰:『だく。』乃整飭隊而行,にゅう仁和にわもんさとみな安堵あんどしょおどろき擾,終日しゅうじつ而帝ぎょうなり焉。……及太入城にゅうじょうしょはたたてまつのぼり明德あきのりもんふとしいのち將士しょうしみなしゃくかぶとかえ營,ふとしまたかえりおおやけしょしゃくほうにわか而,將士しょうしよう范質及王溥、じんうらとうみないたりふとし嗚咽おえつりゅう涕曰:『われ受世むね厚恩こうおんこんためろくぐんしょ逼,一旦いったんいたり此,慚負天地てんちはたわかこれなに?』しつとう及對,ぐんこう彥瓌按劍厲聲曰:『我輩わがはい無主むしゅ今日きょう必得天子てんし!』ふとししかこれ退すさしつ頗誚ゆずるふとし,且不肯拜,おう溥先はいしつ不能ふのうやめしたがえこれ,且稱まんさい,請詣たかしもと殿しんがり,召百かん就列。しゅうみかど內出せいしょぜんふとし就龍墀北めんさい拜命はいめい宰相さいしょう扶太のぼる殿どのえきふく於東おひがしじょかえ即位そくい群臣ぐんしん朝賀ちょうが。」;
    ぞくどおりかん長編ちょうへんまきいちふとたてたかし元年がんねん》 :「ふとしよいはつしょうかぶとたつ黎明れいめい,四面叫呼而起,こえふるえ原野げんやひろしあずかただしよしにゅう白太しらたしょしょうやめ擐甲へいちょく扣寢もん曰:『しょしょう無主むしゅねがいさくふとしじょうため天子てんし。』ふとしおどろきおこり披衣,及酬おうのりしょうあずか扶出聽事,ある以黃ほう加太かだ,且羅はいにわたたえまんさいふとしかたこばめこれ,眾不可ふかとげしょうあずか扶太上馬かみうまよう逼南ぎょう。……ふとしとくまぬかれ,乃攬くつわちかいしょしょう曰:『なんじとうむさぼ富貴ふうきだてわがため天子てんしのうしたがえわがいのちそくしかわが不能ふのうためわかしゅ矣。』眾皆下馬げば,曰:『おもんみいのち聽。』ふとし曰:『しょうみかど及太きさきわがみな北面ほくめんごと公卿くぎょう大臣だいじんみなわが比肩ひけんひと也,なんじとう毋得輒加しのげ暴。近世きんせい帝王ていおうはつ入京にゅうきょうじょうみなたてへいだいかすめ,擅劫なんじとう毋得ふくしかことじょうとうあつしょうなんじしかとうぞく誅汝。』眾皆はい。乃整ぐん仁和にわもんいれ秋毫しゅうごうしょはん。……しょしょう翊太とう明德めいとくもんふとしれいぐんかいかぶとかえ營,ふとしまたかえりおおやけしょしゃくほうにわか而將ようしつとう俱至,ふとし嗚咽おえつりゅう涕曰:『われ受世むね厚恩こうおんためろくぐんしょはさま一旦いったんいたり此,慚負天地てんちはたわかこれなに?』しつとう及對,指揮しきおそれほうふとしはら彥瓌ていけん而前曰:『我輩わがはい無主むしゅ今日きょう必得天子てんし。』ふとししかこれ退すさしつとう不知ふち所為しょい,溥降かいさきはいしつとくやめしたがえこれとげたたえまんさいふとしまいたかしもと殿しんがりぎょうぜんだいれい。召文武ぶんぶ百官ひゃっかん就列,いたり晡,はんじょう,……せん徽使引太就龍墀北めん拜受はいじゅ宰相さいしょう扶太ます殿どのえきふくひがしじょかえ即位そくい。」;
    そう本紀ほんぎだいいちふと本紀ほんぎいち》 :「おそあきら,逼寢しょふとしそうにゅうしろふとしおこりしょこうれつ於庭,曰:『しょぐん無主むしゅねがいさくふとしじょうため天子てんし。』及對,ゆう以黃ころも加太かだ,眾皆はいよびまんさいそくわきふとし乘馬じょうばふとし攬轡いいしょしょう曰:『わがゆう號令ごうれいしかのうしたがえ乎?』みな下馬げば曰:『ただいのち。』ふとし曰:『ふとしきさき主上しゅじょうわれみな北面ほくめんごとなんじやからとくおどろきはん大臣だいじんみなわが比肩ひけんとくおかせしのげ朝廷ちょうてい庶之とく侵掠しんりゃくようれいゆうじゅうしょうたがえそく孥戮なんじ。』しょしょうみなはい,肅隊以入。……ふとししんのぼり明德あきのりもんれいかぶと歸營きえい,乃退きょおおやけしょゆうごろしょしょうよう宰相さいしょう范質とういたりふとしこれ嗚咽おえつりゅう涕曰:『たがえ天地てんちこんいたり於此!』しつとう及對,れつこう彥瓌按劍厲聲いいしつとう曰:『我輩わがはい無主むしゅ今日きょう須得天子てんし。』しつとうしょう顧,けいしたがえ,乃降かいれつはい。召文武ぶんぶひゃく僚,いたり晡,はんじょう翰林かんりんうけたまわむねとうこくしゅうきょうみかどぜんせいしょ於袖ちゅうせん徽使引太就庭,北面ほくめん拜受はいじゅやめ,乃掖ふとしますたかしもと殿しんがりふく衮冕,そく皇帝こうてい。」
  31. ^ おういくわたるちょ,〈ろんひねきょうへいへん〉]
    王立おうりつぐんちょ,《王立おうりつぐん讀〈そうそうふとし上部じょうぶだいいちろくななしょうぺーじ5-20、87-112,麥田むぎた出版しゅっぱん,2013ねん9がつISBN 978-986-173-972-4
  32. ^ そう列傳れつでんだいひゃくよんじゅうさんしゅうさんしんでん》 :「ふとしとげしんせい。……やぶ筠眾さんまん於澤みなみくだしゃさんせんあまり,……筠走かえさわ。」;
    そう列傳れつでんだいきゅうせきもりしんでん》 :「またはい其眾さんまん於澤しゅう,……くだふとげん援軍えんぐんすうせんみなころせこれ。」
  33. ^ そう本紀ほんぎだいいちふと本紀ほんぎいち》 :「癸巳きし昭義あきよしぐん節度せつど使筠叛,とくぐん節度せつど使せきもりしん討之。……かのえあきらぐん節度せつど使慕容のべ釗、あきらとくぐん節度せつど使おうちょんあきら將兵しょうへい東道とうどうあずかもりしんかい討李筠。……みずのとせきもりしんはい筠于長平ながだい。……おのれはつ京師けいしちょうしげるいしもりしんじこうふところとくやぶ筠眾于澤しゅう,禽偽節度せつど范守ころせきたかん援兵えんぺいくだしゃすうせんにん,筠遁入澤いりさわしゅうつちのえたつ王師おうしかこえこれ六月ろくがつ……からし,拔澤しゅう,筠赴いのちうめ胔骼。……おつとりうわとうちょう,筠子守こもりぶし以城くだ,赦之。」
  34. ^ そう列傳れつでんだいひゃくよんじゅうさんしゅうさんしんでん》 :「ふとしいしもりしんじおうしん琦、しょ耘、そう偓四將率禁兵討重進。……とげしんせい大儀たいぎ鎮。いしもりしんじ使つかいはせかなであげしゅうやぶざい旦夕たんせきねがいしゃ臨視。ふとしみちいたり城下じょうか即日そくじつ拔之。……ふとしいれちゅう城西じょうさいみなみ,閱逆とうすうひゃくにんつき戮之。」
  35. ^ そうこころざしだいいちひゃくじゅうしょくかんこころざしなな》 :「てんうん使うたてうん使副使ふくし判官ほうがんてのひら經度けいど一路いちろざい,而察其登耗有無うむ,以足じょうきょう及郡けんこれ。」
  36. ^ そうこころざしだいいちひゃくさんじゅうしょく貨志いち》 :「しょしゅうどおり判官ほうがんいたにんみな須躬閱帳せきしょれつかんぶつ,吏不とく以售其奸。」;
    そうこころざしだいいちひゃくじゅうしょくかんこころざしなな》 :「てんうん使うたてうん使副使ふくし判官ほうがんてのひら經度けいど一路いちろざい,……としゆき所部ところぶ檢察けんさつもうかせき,稽考ちょうせき,凡吏蠹民瘼,悉條以上いじょうたち,及專舉刺官吏かんりこと。」
  37. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきふと乾德けんとくねん》 :「於是れいみんちゃおりぜいがい悉官かいみん藏匿ぞうとく而不おくかん及私販鬻しゃ沒入ぼつにゅうけい其直ひゃくせん以上いじょうしゃつえななじゅうはちかんやくりゅうしゅ吏以かんちゃ貿易ぼうえきしゃけい其直ひゃくぜにりゅう千里せんり,一貫五百及持仗販易私茶為官司擒捕者,みな。」;
    ぞくどおりかん長編ちょうへんまきさんふとたてたかしさんねん》 :「みん敢持わたししゅ入京にゅうきょうじょうじゅう西京にしぎょう及諸しゅうじょうじゅうさといたり所定しょてい里數りすうがいゆう官署かんしょ沽酒,而私しゅにゅう其地いちせき,棄市。」;
    ぞくどおりかん長編ちょうへんまきふとたてたかしねん》 :「かんしおたけなわにゅうきん貿易ぼうえきいたりじゅうきん鹼至さんきんしゃ,乃坐みんしょ受蠶しお入城にゅうじょうさんじゅうきん以上いじょうしゃそうさい。」
  38. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきろくふと乾德けんとくさんねん》 :「おのれ,以度ささえろうちゅうあきらため淮南ワイナンてんうん使あかつき建議けんぎ榷蘄、、舒、いおりことぶきしゅうちゃおけじゅうよんじょうかご其利,歲入さいにゅうひゃくあまりまん緡。」
  39. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきろくふと乾德けんとくさんねん》 :「くにはつみつぎ悉入ひだりぞう,及取荊、みずうみ下西しもさいしょくもうかせきたかし羡。うえ左右さゆう曰:『軍旅ぐんりょ饑饉ききんとうあずかため備,不可ふか臨事あつ斂於みん。』乃於こうたけし殿どのべつため內庫,以貯きん帛,ごう曰封樁庫,凡歲おわり用度ようど贏餘すうみなにゅう焉。」
  40. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうきゅうふとそう太平たへい興國こうこくさんねん》 :「はつふとし別置べっちふう樁庫,嘗密いい近臣きんしん曰:『いしすすむ苟利於己,わりかそけあざみ以賂ちぎり使つかい一方いっぽうこれにんどく限外げんがいさかいちん甚憫よく俟斯しょ蓄滿さんじゅうまんそく使つかいあずかちぎりやく,苟能わが土地とちみん庶,のりとうつき此金帛充其贖じき。如曰不可ふかちんはたとどこおざいつの勇士ゆうし,俾圖おさむみみ。』かい晏駕,はて。」
  41. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうはちふとそう太平たへい興國こうこくねん》 :「はじめから及五代節鎮皆有支郡,ふとしたいら湖南こなんはじめれい潭、ろうとうしゅう直屬ちょくぞくきょうちょう吏得そうごと。」
  42. ^ そうこころざしだいいちひゃくいちじゅうよんしょくかんこころざしいち》 :「そとかんのりだいはん專恣せんし,頗用ぶんしんしゅうふくしつらえどおりばん以貳。」
  43. ^ そうこころざしだいいちひゃくじゅうしょくかんこころざしなな》 :「そうはつだいはん鎮之へい乾德けんとくはつした湖南こなみはじめおけしょしゅうどおりばんいのち刑部おさかべろうちゅう賈比とうたかしたてたかしよんねんみことのり公事こうじなみ須長すなが吏、つうばん議連ぎれんしょぽうもとぎょう。……其廣南小みなみこしゅうゆうためし秩通ばんけんしゅうしゃ職掌しょくしょうせがれぐんせい,凡兵みんせんこく戶口とぐち賦役ふえきごく訟聽だんこと可否かひ裁決さいけつあずかもりしんどおり簽書施行しこう所部ところぶ官有かんゆういや及職ごとおさむはいとくとげ舉以聞。」
  44. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきさんふとたてたかしさんねん》 :「うえいいおさむしん曰:『だい諸侯しょこう跋扈ばっこ枉法殺人さつじん朝廷ちょうていおけ而不とえ刑部おさかべこれしょくいくはい,且人いのちいたりじゅう姑息こそくはん鎮,とう如此耶!』乃令しょしゅう自今じこんけつだい辟訖,ろくあん聞奏,刑部おさかべしょうくつがえこれ。」
  45. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきさんふとたてたかしさんねん》 :「癸巳きしみことのり中書ちゅうしょ門下もんか:『まいけんふくおけけんじょう一員いちいんざいあるじ簿した,俸祿あずかおも簿どう。凡盜賊とうぞく鬥訟,さき鎮將しゃみことのり縣令けんれい及尉ふくりょう其事。まんいたりせんかくおけ弓手ゆんでゆう。』だい以來いらい節度せつど使しょおやずいため鎮將,あずか縣令けんれいこうれい,凡公事こうじせんたち於州,けん失職しっしょくかえみつる於縣,鎮將しょぬし及鄉むらただしかく內而やめ。」
  46. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうよんふとひらきたからろくねん》 :「さき諸道しょどうしゅうにんきばこうためうまあゆみおそれこう及判かん斷獄だんごくしつ其中。あきなながつみずのえついたちみことのりやめこれあらためいんため寇院,以新及第きゅうだい進士しんし、九經五經及選人資序相當者為司寇參軍。」
  47. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきふとたてたかしねん》 :「於是召守しんとういんさけたけなわへい左右さゆういい曰:『わがなんじ曹之りょくとくいたり此,ねんなんじ曹之とくゆうきゅうつきしか天子てんしまただい艱難かんなんことわかため節度せつど使らくわれおわりゆう嘗敢やすまくら而臥也。』もりしんとうみな曰:『何故なぜ?』じょう曰:『なん矣,きょ此位しゃだれよく為之ためゆき。』もりしんとうみな頓首とんしゅ曰:『陛下へいかなんため此言?こん天命てんめいやめじょうだれ敢復ゆうしん。』じょう曰:『しかなんじ曹雖しん,其如麾下きかひとほし富貴ふうきしゃ,一旦以黃袍加汝之身,なんじ雖欲不為ふため,其可とく乎?』みな頓首とんしゅ涕泣ていきゅう曰:『しんとう及此,おもんみ陛下へいかあい矜,指示しじせい。』じょう曰:『人生じんせい如白駒之こまのすき所為しょいこう富貴ふうきしゃよくせき金錢きんせんあつ娛樂ごらく使つかい子孫しそん貧乏びんぼうみみしか曹何しゃく兵權へいけんもり大藩たいはん便びんこうたく市之いちのため子孫しそんりつ永遠えいえん可動かどうこれぎょうおけうたまいおんなにち飲酒いんしゅしょう懽以おわり其天ねんわが且與なんじ曹約ため婚姻こんいん君臣くんしんあいだりょう猜疑さいぎ上下じょうげしょうやすまたぜん乎!』みなはいしゃ曰:『陛下へいかねんしんとういたり此,所謂いわゆる生死せいし而肉こつ也。』明日あしたみなたたえやまし請罷,うえ所以ゆえん慰撫いぶたまもの賚之甚厚。庚午こうご,以侍まもる指揮しき使かえりとく節度せつど使いしもりしんため天平てんぴょう節度せつど使殿しんがりぜんふく點檢てんけん忠武ただたけ節度せつど使こうふところとくためとく節度せつど使殿しんがりまえ指揮しき使義成よしなり節度せつど使おうしんため忠正ただまさ節度せつど使さむらいまもるおそれこう、鎮安節度せつど使ちょうれい鐸為鎮寧節度せつど使みなやめぐんしょく。」
  48. ^ たまきまもるかん」:そうだいざい中央ちゅうおうしつらえゆうじゅうろくまもるかん銜,ためかん無職むしょくごとため武臣ぶしんおくてんたまきまもるゆうたまきれつ保衛やすえ
  49. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうふとひらきたからねん》 :「おのれうええんはんしん於後えんさけたけなわ從容しょうよういい曰:『きょうとうみな國家こっか宿やどきゅうひさ臨劇鎮,王事おうじ鞅掌おうしょうちん所以ゆえんゆうけん也。』ぜんおおとりしょう節度せつど使けん中書ちゅうしょれいおう彥超喻上ゆびそく前奏ぜんそう曰:『しんほんくんろうひさおかせさかえちょういまやめおとろえくち,乞骸こつかえり邱園,しんねがい也。』ぜんやすどお節度せつど使けん中書ちゅうしょれい榆次たけ行德ぎょうとくぜん護國ごこく節度せつど使くるわしたがえよしぜん定國さだくに節度せつど使しろじゅうさんぜんだい節度せつど使楊廷あきらきおいちんおさむせんばつ閱及履歷りれき艱苦かんくうえ曰:『此異だいごとなんそくろん也。』かのえ,以行とくため太子たいしふとしでんしたがえためひだり金吾きんごまもるじょう將軍しょうぐん,彥超ためみぎ金吾きんごまもるじょう將軍しょうぐんじゅうさんためひだりせんぎゅうまもるじょう將軍しょうぐん,廷璋ためみぎせんぎゅうまもるじょう將軍しょうぐん。」;
    そうこころざしだいいちひゃくじゅうしょくかんこころざしなな》 :「そうはつかわ患,召諸鎮節度會わたらい於京たまものだい以留ふんいのち朝臣あそんもりれつぐんごうけんぐんしゅうごとぐんいいへいしゅういい民政みんせい焉。」
  50. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきななふと乾德けんとくよんねん》 :「上乃うえのさとるいん嘆曰:『宰相さいしょう須用讀書どくしょじん。』ゆかりえきじゅう儒臣矣。」;
    國論こくろん要目ようもく》 :「こん用人ようにんだいりつ以文しん大臣だいじん文士ぶんし也;近侍きんじしん文士ぶんし也;ぜにだにさんつかさ文士ぶんし也;ぼうだいそち文士ぶんし也;天下でんかうたてうん使文士ぶんし也;しゅう文士ぶんし也。」,きたそう蔡襄せん
    ゆうぴょうちょ, 《そうふみ文治ぶんじあきらもりあずか武功ぶこうじゃくぜいだいしょうだいせつさん重文じゅうぶんけい〉,ぺーじ43-47,三民書局股份有限公司,2009ねん1がつISBN 978-957-14-4978-4
  51. ^ 朱子しゅしるい全集ぜんしゅう》 :「本朝ほんちょう鑒於だいはん鎮之へいへい也收りょうざい也收りょう賞罰しょうばつけいせい一切いっさい也收りょうしゅうぐんとげ就困じゃくやすし康之やすゆきこうしょ,莫不つぶせ。」,みなみそうしゅ熹撰;
    龍川りゅうがわしゅう》 :「だいさいへいざいたおせもち於下おしたふとし皇帝こうていたば於上,以定みだれ後世こうせいげん其意,たばやめぐんかか空虛くうきょ,而本まつ俱弱。」,みなみそうちんあきらせん
  52. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまききゅうふとひらきたから元年がんねん》 :「うえ即位そくいかず微行びこうある功臣こうしんいえ不可測ふかそくちょうひろしまい退すさあさ敢脫衣冠いかん一夕いっせき大雪おおゆきひろしいいじょうふく矣,久之ひさゆき,聞扣もんごえ甚,ごくのりじょうたてゆきちゅうひろしすめらぎこわむかいはいうえ曰:『やめやくわれおとうと矣。』やめ開封かいふういん光義みつよしいたりそくどうしつらえじゅう裀地すわおきずみ燒肉やきにくひろしつまぎょうしゅうえ以嫂よびひろし從容しょうようとい曰:『よるひさしさむ甚,陛下へいかなん以出?』じょう曰:『われねむ不能ふのうちょいち榻之がいみな他人たにん也,來見くるみきょう。』ひろし曰:『陛下へいかしょう天下でんか耶?みなみせいきたこん其時也,ねがい聞成算所さんじょむこう。』じょう曰:『われよくおさむたいばら。』ひろし嘿然良久よしひさ,曰:『しんしょ知也ともや。』じょうとい其故,ひろし曰:『ふとしはらとう西北せいほくへん使つかいいち舉而のり患我どくとうなにしゅうととめ以俟そぎひら諸國しょこくかれ彈丸だんがん黑子ぼくろはたなんしょ逃。』うええみ曰:『われ正爾しょうじしゅうとためしきょうみみ。』於是よう荊、みずうみままし西川にしかわ。」
  53. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきさんふとたてたかしさんねん》 :「武安たけやす節度せつど使けん中書ちゅうしょれいしゅうこう逢病かわ,召其はた吏,以其けんぞく曰:『われおこり隴畝ためだんへい同時どうじじゅうにんみな以誅おもんみ衡州刺史ししちょうぶんひょうどくそんつね怏怏おうおうとく行軍こうぐん司馬しばわれぶんひょう必叛,とう以楊璠討。如不能ふのうのり嬰城勿戰,朝廷ちょうてい可也かなり。』璠與ぎょう逢鄉さと姻戚いんせきことぎょう逢為おやぐん指揮しき使すう有功ゆうこうぎょう逢委信之のぶゆきくだり逢卒,けんりょうとめつとむ。……ちょうぶんひょう聞周けんりついか曰:『わがあずかあるき逢俱おこりほろ賤,たて功名こうみょう今日きょうやすのう北面ほくめんごと小兒しょうに乎!』かいけんへいさら戍永しゅうみち衡陽,ぶんひょうとげ以叛,にせしまもとわかはた奔喪たけりょうしゃ潭州,行軍こうぐん司馬しば廖簡とめもとけいぶんひょう不為ふため備。かたえんいんそと白文はくぶんひょうへいいたり,簡殊介意かいいいいよん曰:『ぶんひょういたりそくなり禽,なんそくおもんばか也。』いん啖如ゆえにわか而文ひょうりつ觽徑入府にゅうふちゅう,簡醉,不能ふのう弓矢ゆみやただしうずくまだいののし與座よざきゃくじゅう餘人よにんみなぐうがい。……けんそくいのち楊師璠悉眾禦ぶんひょう,……けんまた使つかいもとめ援於荊南,且來あっそ乞師。」;
    ぞくどおりかん長編ちょうへんまきよんふと乾德けんとく元年がんねん》 :「庚申こうしん,以山南東なんとうどう節度せつど使けんさむらいちゅう慕容のべ釗為湖南こなん道行みちゆき營都部署ぶしょ樞密すうみつ副使ふくししょ耘為かん,……以討ちょうぶんひょう。……楊師璠之討張ぶんひょう也,へいややしつあいすんでひさしぶん表出ひょうしゅつせん大敗たいはいとげ潭州,ぶんひょう。……つぎおきのべ嗣與其叔父おじてのひら書記しょきとらたてまつうししゅらい犒師,且覘所為しょいみずのえたつ荊門,しょ耘見のべ嗣等,まち有加ゆかさとしれいつばささきかえのべ嗣喜,はせ使ほうつぎおき以無おそれ。荊門距江りょうひゃくあまりさとゆうのべ釗召のべ嗣等えんいん於其ちょうしょ耘將けいすうせんばいどう前進ぜんしんつぎおきはつただし埙保とらのべ嗣之かえ,遽聞大軍たいぐん奄至,そくすめらぎおそれ出迎でむかえぐうしょ耘於こう陵北りょうほくじゅうさとところ耘揖つぎおきれいまちのべ釗,而率おやへい先入せんにゅうとう北門きたもんつぎおきあずかのべ釗俱還,のり王師おうしやめぶんよりどころ衝要,ぬのれつがいちまた矣。つぎおきだい懼,そくまいのべ釗,おさめぱいしるし客將かくしょうおうあきらすみとうたてまつおもてさんしゅうじゅうななけんじゅうよんまんせんさんひゃくらい。」
  54. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきよんふと乾德けんとく元年がんねん》 :「王師おうしすんでおさむ荊南,えきはつへいにちよる趨朗しゅう。……慕容のべ釗遣せんざおかんたけふところぶし等分とうぶんへいおもむきたけしゅう大破たいは賊軍ぞくぐん於三江口えぐちせんななひゃくそう斬首ざんしゅよんせんきゅうとげたけしゅう。……さんがつちょうしたがえとみとうぐん於澧しゅうみなみあずか王師おうしぐう及交ほこさき賊軍ぞくぐんもちふう而潰。しょ耘逐きたいたり敖山寨,ぞく棄寨はし,俘獲甚眾。ところ耘擇しょ俘體こえしゃすうじゅうにんれい左右さゆうぶんしょくしょうけんしゃ悉黥其面,れい先入せんにゅうろうしゅうかいくれ宿やど寨中。おそあきら,慕容のべ釗繼いたりところ黥之俘得入城にゅうじょう,悉言とりこしゃため王師おうししょ啗食。ぞく眾大懼,たて焚州じょうほぼきょみん,奔竄山谷さんやみずのえいぬ王師おうしにゅうろうしゅうとりこはりしたがえとみ於西山下やましたふくろう其首。賊將ぞくしょうひろしはしこうしゅうけんなみぞくほろび匿江南岸なんがんそうしゃしょ耘遣麾下きかはた田守たもり往捕はし棄保けんはしまもりけん以歸。於是つきふく湖南こなんきゅう,凡得しゅうじゅうよんかんいちけんろくじゅうろくきゅうまんななせんさんひゃくはちじゅうはち。」
  55. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきふと乾德けんとくねん》 :「きのえいぬいのち忠武ただたけ節度せつど使おうちょんあきらため西川にしかわゆき營鳳しゅう都部いちぶしょ武信たけのぶ節度せつど使さむらいまもるぐん指揮しき使大名だいみょうちぇ彥進ふくこれ樞密すうみつ副使ふくし王仁わに贍為かんやすしこう節度せつど使さむらいまもるうまぐん指揮しき使りゅう光義みつよしためしゅうふく都部いちぶしょ,內客しょう使樞密すうみつうけたまわむね曹彬ためかんごうろくまんふんしん討。……しょくぬし聞有きた,以王あきらとおため北面ほくめんぎょう營都すべ左右さゆうまもるせいうまぐん指揮しき使ちょうたかし韜為かん山南さんなん節度せつど使かん保正やすまさため招討使ようしゅう節度せつど使すすむためふく招討使そちへいこばめせん。……りゅう光義みつよしとうにゅうかい連破れんぱ松木まつき三會みえみこやまとう寨,ころせ其將南光なんこうかいとう死者ししゃせん餘人よにんなまとりこせんざお指揮しき使袁德ひろとうせんひゃくにんだつ戰艦せんかんひゃくそうまた水軍すいぐんろくせんあまり眾。しょくやすしこう節度せつど使ふとしはらだか彥儔,いい副使ふくしちょうたかしずみかんぐんたけまもるけん曰:『きたぐんわたるけん遠來えんらいざいそくせんとうけんかべまち。』まもりけん曰:『寇據われ城下じょうか而不げきまたなにまち也?』つちのえたつまもりけんどくりょう麾下きかせん餘人よにん以出,光義みつよしうまぐん指揮しき使りょう川張かわはり廷翰とう引兵あずかまもりけんとうせん於劕あたましきまもりけん敗走はいそう,廷翰じょうかちとう其城,彥儔せい眾將鬥,而廷翰等やめにゅう其城ちゅう矣。彥儔力戰りきせんかちじゅうあまりはじめ左右さゆうみな。彥儔奔歸だい判官ほうがんわたるすすむ彥儔單騎たんきかえりしょく,彥儔曰:『わがむかしやめしつしんがわこんふく不能ふのうもり此,たてじんおもころせわがわがなにめん目見まみしょくじん乎?』すみまたすすむ其歸くだ,彥儔曰:『老幼ろうようひゃくくち,俱在成都せいと,以一身いっしん偷生,舉族なんまけ今日きょうとめゆうみみ。』そくかいしるし授濟曰:『きみためけい。』乃反こばめ其戶,せい衣冠いかんもち西北せいほく再拜さいはい登樓とうろうたて焚。こう數日すうじつ光義みつよしとうとく其骨於灰燼かいじんちゅう,以禮そう。……みやこみつるおうあきらとおかんちょうたかし韜引へいらいせんさんせんさんはいつい奔至とぎしゅうきたあきらとおとう遁去,わたり桔柏,焚浮はり退すさけんもんみずのえさるみそちょんあきらとういれとぎしゅうぐんかてはちじゅう萬斛ばんこく。」;
    ぞくどおりかん長編ちょうへんまきろくふと乾德けんとくさんねん》 :「おうちょんあきらとう自利じりしゅう趨劍もんえきこう,……しょく人見ひとみ,棄寨而遁。延德えんとくとげいたりあお疆,おうあきらとおとう引兵退すさちゅうかんげん坡,以其へんはたまもりけんもんちょんあきらとう以銳へい奮擊,やぶこれ。及漢げんちょうたかし布陣ふじんさく先登せんとうあきらどおよりどころえびすゆか不能ふのうおこりたかし戰敗せんぱいなおすうにん,乃被あきらどおめんかぶと棄甲而逃。ちょんあきらとうとげつるぎしゅうころせしょくぐんまん餘人よにんあきらどおなげ東川ひがしがわ,匿民くらしゃ,悲嗟流涕りゅうていもくつきしゅおもんみ誦羅かくれ曰『うん英雄えいゆう不自由ふじゆう』,にわかまたためおいしょ。……しょく主知しゅちけんもんやめやぶ太子たいしげん箉亦奔還,惶駭不知ふち所為しょいもん左右さゆう:『けいしょう安出やすいで?」ゆうろうしょうせきたてまつ頵者たい曰:『ひがしへい遠來えんらいいきおい不能ふのうひさし,請聚へい堅守けんしゅ以敝。』しょくぬし歎曰:『われ父子ふし以豐ころも美食びしょくやしなえよんじゅうねん一旦いったんぐうてき不能ふのうためわれ東向こちむきいちこん雖欲閉壁,だれ肯效死者ししゃ!』つかさそらけん武信たけのぶ節度せつど使たいらあきらごとひろしすすむしょくぬしふう以請降,しょく主從しゅうじゅういんいのちひろしくさひょうおのれどおりそう使せん徽北いん使ふとしはらしんちょうたてまつおもてまいぐんまえ。……はつみことのりはつしょくへい赴闕,なみゆうきゅうそうぜにおうちょんあきらとう擅減其數,仍縱きょくおかせたわわしょくへいいきどお怨思らんりょうみちずいぐん使臣ししんほろびおもんばかひゃくすうちょんあきら及王じん贍、ちぇ彥進とうどもまもる恤之,れいおくただしぶんゆだねしょしゅうきばこうしょくへいいたり緜州,はてこうぞくけん以叛。かいぶんしゅう刺史ししぜんゆう挈其ぞく趨京挠州,ゆう嘗為しょくしょうゆうめぐみおそれ叛兵おびえこれ,乃棄其家匿。こう數日すうじつ,叛兵さがせとく江曲えまがりみんしゃとげ推以ためそち,眾十あまりまんごう興國こうこくぐんちょんあきらうまぐんかんしゅひかりいとぐちしょうななひゃく往招なでこれひかりいとぐちつきめつゆうぞくおさめ其愛おんな及納其愛おんな及橐そうゆういかそうゆういかふくゆうこころざし,……ゆうおさむ彭州。刺史ししおうつぎ濤、かんいさおさかえこばめこれかん戰死せんしつぎ濤身はちそう單騎たんきはし成都せいとゆうにゅうよりどころ彭州,成都せいとじゅうけんみなおこりへいおうゆう。……邛、しょくまゆりょう、簡、まさよしみ東川ひがしがわはてとげ、渝、ごうあきらひろしえびすさかえじゅう七州並隨師雄為亂,郵傳不通ふつうしゃ月餘げつよちょんあきらとう懼。」
  56. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまききゅうふとひらきたから元年がんねん》 :「孝和こうわみかど殂,つぎおん使つかいつげおわりしょう嗣於ちぎりちぎりもとしかこう即位そくい。……へいとらいのちきゃくしょう使ふところちゅうとうじゅうにんりょうへいたむろ潞州,はた有事ゆうじ於北かん也。つちのえたつ,以昭節度せつど使どうたいらあきらごとつぎくんため河東かわとうこう營前ぐん都部いちぶしょさむらいまもるぐん指揮しき使とうすすむふくこれせん徽南いん使曹彬ためかん;棣州防禦ぼうぎょ使なんつぎ筠為先鋒せんぽう部署ぶしょふところしゅう防禦ぼうぎょ使やすしのべぬまためかんたてつよし節度せつど使ちょうさんため汾州部署ぶしょ,絳州防禦ぼうぎょ使ちょうふくこれ,隰州刺史ししけん溥為かん。……きたかんしゅつぎおん怨郭無為むいはつあずか其父げんじょおのれ,且惡其專せいよく逐之而未はてこれがつ無為むい守司もりじそらそとしめせゆうれい,內實簄遠也。つぎおんふくおとろえごとしょみなきょつとむせいごう,其左右さゆうおやしん悉留ふとしはら廨,ある請召いれれい翊衛,つぎおんどる聽。於是,文武ぶんぶ百官皆進秩,つぎおんおけ酒宴しゅえんしょ大臣だいじん及宗いんやめごうちゅう供奉ぐぶかんこう霸榮りつ十餘人挺刃入閤,はん扃其つぎおんおどろきおこりにょうしょどう屏風びょうぶたまきはし,霸榮以刃揕其むねころせこれ無為むいへい以梯とう屋入やにゅうころせ霸榮并其とうむかいたてつぎおんおとうとふとはらいんつぎもとつぎおんりつろくじゅうにち。……つぎ元始げんしりつ王師おうしやめにゅう其境,乃急使つかい上表じょうひょうちぎり,且請へいため援,りょうぐん扼團柏谷かしやまたさむらいまもるおそれこうりゅうつぎぎょう、馮進珂以しょうさくかんほうためくるる密使みっしかん其軍。……うまみねいたるほらかわあずかつぎ勳等くんとうぐうなにつぎ筠以先鋒せんぽう擊破げきは斬首ざんしゅせんきゅうひゃく疋,とりこ其將ちょうたまきいしあきらとげだつ汾河きょううすきふとし原城はらのじょう,焚延なつもん。……十一月じゅういちがつ……これがつちぎり以兵來援らいえんきたかんつぎ勳等くんとうみな引歸,きたかんいんにゅうおかせだいかすめすすむ、絳しゅうさかい。」
  57. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうふとひらきたからねん》 :「おついのちせん徽南いん使曹彬、さむらいまもるぐん指揮しき使とうしんとうかくりょうへいさき赴太ばらつちのえうまみことのりおやせい。……甲子きのえねくるまはつ京師けいし。……おつ潞州,以霖ちゅう蹕。きたかんさむらいまもるおそれこうりゅうつぎぎょう、馮進珂屯於團柏谷かしやきばたい指揮しき使ひね廷山りょうすうひゃくらい偵邏。かいつぎ勳等くんとうまえぐんいたり,廷山そく以所くだつぎぎょうすすむ珂知眾寡不敵ふてきまたりょうへい奔還すすむきたかんおもいかやめ其兵がらつぎ勳等くんとうとげかこえじょう。……みずのえたつはつ潞州。……つちのえいぬふとしはらかのえ觀兵かんぺい於城みなみはじめいのちちくちょうれんじょう。……おつこう城東じょうとうみなみはじめいのちちく長堤ちょうてい壅汾すい。……丙午ひのえうまけつすすむほこらすい灌城。……うるうがつつちのえさるみずのべなつもんじょういれ穿ほじ外城とじょうりょうじゅうちゅうじょうちゅう城中じょうちゅうだいおどろき擾。うえみゆき長堤ちょうていかん焉。水口みずぐちすすむ闊,きた漢人かんどゆかりじょうしつらえさわため王師おうししょさわとくほどこせにわかゆうせきくさ城中じょうちゅう飄出,ちょく水口みずぐち而止,王師おうしいしゆみ不能ふのうてっきた漢人かんどいんとくほどこせこう水口みずぐちとげふさが。……とき大軍たいぐんひたぶる甘草かんぞう地中ちちゅうかいあつやぶはらびょう,而契またふくへい來援らいえんみずのえふとしつね博士はかせひかりさんじょうげん曰:『陛下へいかおうてんじゅんじんからだもときょくせんかちはかりごと臧,四方しほう恃險くに,僭竊帝王ていおうこれごうしゃむかしあずか中國ちゅうごくため鄰,いまあずか陛下へいかためしん矣。蕞爾すすむあに須親討!じゅうろう輓,怨黔はじむとくあしためしつあしためはずかしめ國家こっかせい天道てんとうあくみつるところおもんばかこうらい恃險くに,聞是やく也,竭府ざいつきせいみんちから中心ちゅうしん踴躍,かくゆう窺覦。つて曰:「鄰之あつきみうす也。」あにわかかい鑾復たむろへいじょうとう使つかいなつ其麥,あき其禾,すんでひろしりょくやくせい便びんとろけ平之ひらのさくおもんみ陛下へいかさいきょうぞくえんふけこうとうあつ,儻或河津かわづ泛濫,道路どうろ阻難,輦運稽遲,おそれろう宸慮。』上覽じょうらんそう,甚喜,ふく以問宰相さいしょうちょうひろしあまねまた以為しかいん使ひろし召光さん慰撫いぶみずのとうしうつりこう城東じょうとう罕山みなみはじめはん也。……みずのえいぬくるまはつたいばら。」
  58. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅういちふとひらきたからさんねん》 :「きゅうがつおのれついたち,以潭しゅう防禦ぼうぎょ使はんよしためしゅう道行みちゆき營兵都部いちぶしょろうしゅうだんねり使鄴人いんたかし珂副どうしゅう刺史ししおうつぎくんためぎょう營馬ぐんかん。仍遣使はつしょ州兵しゅうへい赴賀しゅう城下じょうか。……つちのえうま王師おうし聞彥やわらいたり退すさじゅうせん以奇へいふく南鄉なんごうがん。彥柔よるとまり南鄉なんごう,艤舟がんがわおそあきらはさみだんとうがんうずくまえびすゆか指揮しき,而伏兵卒へいそつおこり,彥柔眾大みだれ死者ししゃじゅうななはちとりこ彥柔,これふくろう其首以示じょうちゅう城中じょうちゅうじんなお堅守けんしゅどるずいぐんうたてうん使おう明言めいげん於潘曰:『とうきゅうげきおそれ援兵えんぺいさいいたりのり為所しどころじょうわがろう矣。』しょしょう頗猶あきら乃躬擐甲冑かっちゅうりつ所部ところぶ護送ごそう輜重しちょうそつひゃく餘人よにんちょうおっとすうせんふご鍤皆さく,堙其塹,ちょく抵城もん城中じょうちゅうじんだい懼,とげ開門かいもん以納王師おうし。……王師おうし長驅ちょうくいたり韶州,みやこみつるうけたまわ渥領へいじゅうあまりまんじん於蓮はなほう山下やましたみなみ漢人かんどきょうぞうためじんまいぞうじゅうすうにんみな兵仗ひょうじょう,凡戰必置じんまえ,以壯ぐん王師おうししゅう勁弩しゃぞう奔踶,じょうしゃみな墜,はん踐承渥軍,ぐんとげ大敗たいはいうけたまわ渥以めんとげ韶州,とりこ其刺からしのべ渥及諫議大夫たいふ鄒文とおのべ渥間どう使つかいすすむみなみかんおもむかえ,六軍觀軍容使李托堅沮其議,こく中震ちゅうしんこわ。」
    ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうふとひらきたからよんねん》 :「はる正月しょうがつ王師おうしかつえいゆうしゅう。……これがつ王師おうし瀧頭たきがしらみなみかんおも使つかい請和,且求なる瀧頭たきがしら山水さんすい險惡けんあくはんよしとううたぐゆう伏兵ふくへい,乃挾其使而速度そくどしょけん甲子きのえねいたり柵口ませぐちおつうしいたりみち,……みなみかんおもふねじゅうそう金寶きんぽう嬪欲入海いりうみ及發,宦官かんがんらくはんあずか衛兵えいへい千餘盜其船以走。みなみかんしゅ懼,乃遣みぎぼくしゃしょう漼、中書ちゅうしょ舍人とねりたくおもんみきゅうたてまつおもてまい軍門ぐんもん乞降,はんよしそくれいおく赴闕,漼等すんでいれはんみなみかんおもえき懼,ふくれいたかしだけ戒嚴かいげん。……庚午こうご,廷曉乃領ぜんほこさきよりどころすい而陣,れいたかしだけ殿どの,禦其奔衝。すんで而王ずみすい,廷曉力戰りきせんかちとげたかしだけ奔還其柵。はんよしいいおうあきら曰:『かれへんちくためしがらみわか篝火かがりび焚之,必擾亂じょうらんよし擾亂じょうらん夾擊きょうげき,此萬全ばんぜんさく也。』とげ分遣ぶんけんひのとおっとにんもち炬,間道かんどうづくり其柵。かい暮夜ぼやまん炬俱はつてん大風おおかぜけむりほこり坌起,みなみかんぐん大敗たいはいたかしだけ於亂へいきょう逃歸にげかえ。龔澄くるるたくあずか內侍ちゅう薛崇ほまれとうはかりごと曰:『きたぐんわれこくちゅう珍寶ちんぽうなんじいまつき焚之,使つかいとく空城そらじょう,必不能久よしひさちゅうとうかえ也。』乃縱焚府宮殿きゅうでん一夕いっせきみなつきからし王師おうしいたり白田しらだみなみかんしゅもとふくはんよしうけたまわせいしゃくとげにゅう廣州こうしゅう,俘其宗室そうしつかんぞくきゅうじゅうななにんあずかみなみかんしゅみな縻於りゅういさおみや。……よし以露布告ふこくとしおのれうしいたり京師けいしかのえとら,眾臣しょうとげたまものえん。凡得しゅうろくじゅうけんひゃくじゅうよんじゅうななまんひゃくろくじゅうさん。」
  59. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうふとひらきたからななねん》 :「きゅうがつみずのといのち潁州だんねり使曹翰りょうへいさき赴荊みなみへいとら復命ふくめいせん徽南いん使曹彬、さむらいまもるうまぐんおそれこう洛陽らくようかん瓊、はん四方館事田欽祚同領兵繼之。……またいのち山南さんなん東道とうどう節度せつど使はんよしさむらいまもるぐんおそれこう清池しょうげりゅうぐう東上とうじょうごうもん使はり迥等どうりょうへい赴荊みなみ。……みずのえたつ,曹彬とうはつ荊南,赴金りょうちょうとり,以吳えつおう俶為のぼりしゅう東南とうなんめんぎょう營招なでせいおけ使,仍賜せんひゃくひききゃくしょう使丁していとくひろし以禁へいせん人為じんい俶前ほこさき,且監其軍。……はつ王師おうしちょく趨池しゅうえんこうたむろ戍皆いい每歲まいさい朝廷ちょうていしょじゅんへいただし閉壁もり使つかいたてまつうししゅらい犒師。ひろさとし于他池州いけす守將しゅしょうほこ彥遂棄城はしうるうじゅうがつおのれとり,曹彬とういれ池州いけすさきうえ八作使郝守濬率丁匠自荊南以大艦載巨竹嶎,なみろうしゅうしょづくりくろりゅうせん,于采せきいそまたがこうため浮梁。あるいいこう水深すいしんゆう浮梁而濟しゃ,乃先ためし于石ぱいこう既成きせいいのちぜんなんじしゅう防禦ぼうぎょ使れい邱陸まんとも往守ちょう,曹彬とう及江南兵みなみへいせん于銅りょうはい戰艦せんかんひゃくそうなまとりこはちひゃく餘人よにん。……みずのえいぬ,曹彬とう至當しとうぬりゆうとおぐん判官ほうがん婺源以城くだゆうとおそくとうぬり也,江南こうなんおけぐん于其けん王師おうしさき拔蕪またかつとうぬりとげたむろさいせきいそ。……みことのりうつりせきぱい鎮浮はり于采せきいそ,繫纜さんにち而成,尺寸しゃくすん王師おうしこれ,如履平地ひらち十二月じゅうにがつかねりょうはじめ戒嚴かいげんしたれいひらきたからこれごう,……」;
    ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうろくふとひらきたからはちねん》 :「道士どうししゅうおもんみ簡者,鄱陽じん隱居いんきょひろししゅう西山にしやま國主こくしゅ召之,たて於紫ごくみやつね以冠褐侍こうしゅうえきるいかんいたりおそれろうちゅう致仕ちし。於是,ちょう洎薦おもんみ簡有とおほぼ談笑だんしょう弭兵ほこさきふく召為きゅうごとちゅうあずかおさむぶんかん學士がくしうけたまわむねじょ鉉同使京師けいしとき國主こくしゅ屢督朱令しゅれい舉湖こうへい來援らいえんいい鉉曰:『なんじすんでぎょうそくとうとめ上江うわえ援兵えんぺい,勿令東下ひがししも。』鉉曰:『しん此行,必能はい難解なんかいまがえ城中じょうちゅうしょ恃者援兵えんぺいみみ奈何いかんどめ!』國主こくしゅ曰:『ほうもとむ和好かずよし而復召兵,あい矛盾むじゅん,於汝あに危乎?』鉉曰:『よう社稷しゃしょくためけいおけしん度外どがいみみ。』國主こくしゅ泣下,そくはいひだりぼくしゃまいり左右さゆう內史ごと,鉉固辭こじ國主こくしゅまた以惟簡雅もと高尚こうしょうきんさかえおやうつしじゅうすうだいためそうれいおもんみ簡乘あいだもとめあいよくしゃせいやしなえびょうふゆじゅうがつおのれついたち,曹彬とう使送しそう鉉及おもんみ簡赴闕。鉉居江南えな,以名しん自負じふ,其來也,はた以口したはせせつそん其國。其日よるけいはかりごと思慮しりょ言語げんご應對おうたいさいしょう矣。於是大臣だいじんまたさき白上しらかみげん鉉博がくゆうざいべんむべゆう以待うええみ曰:『だいなんじしょ知也ともや。』すんで而鉉あさ于廷,おおせ而言曰:『煜無ざい陛下へいか無名むめい。』じょうじょ召之ます殿どの使つかい畢其せつ。鉉曰:『煜以しょう事大じだい,如子ごとちちゆう過失かしつ奈何いかん?』其說るいすうひゃくじょう曰:『しかいい父子ふししゃため兩家りょうけ乎?』鉉不能ふのうたいおもんみ簡尋以奏すすむ上覽じょうらんいい曰:『なんじぬししょげんわがいちあかつき也。』じょう不為ふためなるへいしか所以ゆえんまち鉉等みな如未舉兵みずのえとら,鉉等かえり江南えな。……じょ鉉及しゅうおもんみ簡還江南えないく國主こくしゅふくにゅうそうからしたい於便殿どの。鉉言煜事だいれい甚恭,以被びょうにんあさ謁,敢拒みことのり也,乞緩へい以全いち邦之くにゆきいのち。其言甚切いたりうえあずか反覆はんぷくすうよん,鉉聲いよいよ厲。うえいかいん按劍いい鉉曰:『多言たげん江南こうなんまたゆうなんざいただし天下てんか一家いっか榻之がわあによう他人たにんいびきねむ乎!』鉉惶おそれ而退。……乙未おとみしろおちい。……あきらせいぐんなりれついたり宮城みやぎ國主こくしゅ乃奉ひょうおさめくだあずか群臣ぐんしんむかえはい於門。……十二月じゅうにがつおのれついたち江南こうなんとししょいたり,凡得しゅうじゅうきゅうぐんさんけんいちひゃくゆうはちろくじゅうまんせんろくじゅうゆう。」
  60. ^ そう本紀ほんぎだいさんふと本紀ほんぎさん》 :「みずのとうしゆうみかどくずしまんさい殿どのねんじゅう,殯於殿でん西階にししなおくりな曰英たけきよしぶん神德しんとく皇帝こうていびょうごうふとし太平たいへい興國こうこくねんよんがつおつそう永昌えいしょうりょう大中おおなかさち元年がんねんじょうみことおくりな曰啟うんりつごく英武ひでたけ睿文神德しんとくひじり功至かつじ明大めいだいこう皇帝こうてい。」
  61. ^ 一紀かずのり」:じゅうねんゆう一說いっせつためさんじゅうねん
  62. ^ ぞく山野さんやろく》 :「そうせん耀日,嘗與一道士游於關河,てい姓名せいめい混沌こんとんあるまた曰真まいゆうとぼしのりさがせ囊金,いよいよさがせいよいよだし。三人者每劇飲爛醉。なまぜんきょためおどけのう引其のど於杳めい間作かんさくきよしほろこれごえあるいちずい天風てんぷう飄下,おもんみそう聞之,曰:『きむ猴虎あたまよんりゅうとくしん。』いたり醒詰のり曰:『よいゆめあにあし憑耶?』いたり膺圖受禪じゅぜんにち,乃庚さる正月しょうがつはつよん也。きょくさいしもみことのりくささわへんおとずれこれある於轘ながえ道中どうちゅうあるかさらくあいだこうじゅうろく,乃開たからおつとし也,上巳じょうしはらいみそぎ幸西さいわいにしぬまなまよいすわ於岸木陰こかげわらい揖太曰:『べつらい喜安きやす。』じょう大喜だいぎ,亟遣ちゅうじんみつ引至わきおそれ其遁,きゅうかい蹕與これ一如いちにょ平時へいじ,抵掌ひろしいんうえいいせい曰:『わがひさよくなんじけつかつ一事いちじわがことぶきかえとく幾多いくたざい?』なま曰:『ただし今年ことしじゅうがつ廿にじゅう日夜にちやはれのりのべいちなんじのりとうそく措置そち。』じょうこくとめ,俾泊えんえん吏或宿やど於木まつ鳥巢とりすちゅうとめ數日すうじつみかど切切せつせつ其語。いたり所期しょきゆううえ禦太きよしかくよんもちゆうはてはれほしあかり燦,うえしんかたにわか而陰霾四おこり天氣てんき陡變,ゆき雹驟降,うつり仗下かくきゅうつてみや鑰開はしもん,召開封かいふうおうそくふとそう也。のべいれだいしゃくしゅたいいん宦官かんがんみやわらわ悉屏ただしはるかしょく影下かげしたふとし宗時むねときある避席,ゆう不可ふか勝之かつゆきじょういん訖,きんさん殿しんがりゆきやめすうすんみかど引柱おの戳雪,顧太むね曰:『こう做,こう做!』とげかいたい就寢しゅうしん鼻息はないき雷霆らいていゆうふとしそうとめ宿やどきん內,はたしゅういおりしゃさびしょ聞,みかどやめくずし矣。ふとしそう受遺みことのり於柩ぜん即位そくい。」
  63. ^ かん」:宋朝そうちょう宮廷きゅうていたい皇帝こうていてき稱呼しょうこ
  64. ^ 《涑水記聞きぶんまきいち》 :「ふとしはつ晏駕,やめよん孝章たかあきそうきさき使內侍おうつぎたかしあやまおうためおうつぎおん)召秦おう德芳とくぼうつぎたかし以太でんすすむおうこころざしもとじょう,乃不まい德芳とくぼう,而以おやごと一人徑趨開封府召晉王。かん賈德げんあやまおうためほどとくげんさきすわ於府もんもん其故,とくげん曰:『よるゆうよびわがもんしゃ,曰『すすむおう召』,だしのり無人むじん如是にょぜしゃさんわれおそれすすむおうゆうやましらい。』つぎたかしこと,乃告以故,叩門,あずかこれ俱入おう,且召おうだいおどろき猶豫ゆうよ敢行かんこう,曰:『われとうあずか家人かじん。』にゅうひさ不出ふしゅつつぎたかしおもむき,曰:『ことひさしはたため他人たにんゆう矣。』とげあずかおうゆきちゅう步行ほこういたり宮門きゅうもんよび而入。つぎたかし使つかいおう且止其直いおり,曰:『おう且待於此,つぎたかしとう先入せんにゅうごと。』とくげん曰:『便びんおう直前ちょくぜんなにまちゆう?』とげあずか俱進。いたり寢殿しんでんそうきさき聞繼りゅういたるとい曰:『德芳とくぼうらいよこしま?』つぎたかし曰:『すすむおういたる矣。』きさきおう愕然がくぜん,遽呼『かん』,曰:『われ母子ぼしめいじみなたくかん。』おう泣曰:『共保きょうほ富貴ふうきゆう也。』」
  65. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうななふとひらきたからきゅうねん》 :「うええき召守いたり闕下。みずのえいのち內侍おうつぎおん就建たかしかんしつらえ籙醮,れいもりくだかみかみごと:『天上てんじょうみや闕已なりたまくさりひらけすすむおうゆうじんしん。』げん訖不ふくくだ上聞じょうぶん其言,即夜そくや召晉おうぞく以後いごごと左右さゆうみなとく聞,ただしはるかしょく影下かげしたすすむおうあるはなれせきわかゆうしょへりくだ避之じょうすんで而上引柱おの戳地,大聲おおごえいいすすむおう曰:『こう為之ためゆき。』みずのとうしうえくずしまんさい殿どの。」
  66. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうななふとひらきたからきゅうねん》 :「蔡惇直筆ちょくひつうんふとし召陳摶入朝にゅうちょうせんといことぶきすうたい以丙としじゅうがつじゅうにちよるあるゆきとう辦行けいわかはれ霽須てんいちいたりまえゆううえはつ宮人みやびとかいそうぼしぞうあかり燦。交更,さいれい,乃奏てんかげつぎげんゆきとげきん鑰,ちゅう使つかい召太むねいれたいいのちおけしゅづけ宸翰しんかんぞく以繼夜分やぶん乃退。うえ就寢しゅうしんさむらいしゃ聞鼻いきごえこときゅうやめくずしふとしそう於是にゅうつぎ。按惇所載しょさいあずかぶん瑩略どうただしそく以道しゃためひね摶耳。」
  67. ^ そう列傳れつでんだいひゃくじゅう韶傳》 :「きゅうねんふゆじゅうがつじゅうきゅうにちすんでゆう,韶忽づくりとくげんとくげんおそれ甚,つめ其所以來いらい,韶曰:『明日あした乃晉おうとしみるたつ,韶故以相つげ。』とくげん惶駭,とめいちしつ,遽入白太しらたむねふとしそういのちとく玄以げんいじんぼう守之もりゆきはた聞於ふとし。及詰だんふとしそうにゅう謁,はて受遺踐阼。韶以赦獲めん。」;
    《涑水記聞きぶんまきいち》 :「ふとしはつ晏駕,やめよん孝章たかあきそうきさき使內侍おうつぎたかしあやまおうためおうつぎおん)召秦おう德芳とくぼう,……かん賈德げんあやまおうためほどとくげんさきすわ於府もんもん其故,とくげん曰:『よるゆうよびわがもんしゃ,曰『すすむおう召』,だしのり無人むじん如是にょぜしゃさんわれおそれすすむおうゆうやましらい。』つぎたかしこと,乃告以故,叩門,あずかこれ俱入おう,且召。」
  68. ^ 《燼餘ろく》 :「ふとしそうもりしょう花蕊かずい夫人ふじんしょくぬし薨,乃入ふとしみやゆうもりちょうふとしやましちゅうよるふとそうよびおうじょうあいだ挑費ふとしさとし,遽以だまおの斫地。皇后こうごう太子たいしいたりふとしぞく縷,ふとしそう遽歸ていよくゆうふとしくずし。」,みなみそうじょだい焯撰;
    たいそうふとしむねうけたまわくらい剖析〉 ,せいせん,1970ねん
    そうふとしむねあずかそうはつ兩次りょうじ篡位〉 ,りゅうけんせん,1988ねん
    竺沙まさあきらちょはやしすぐるあきらやく, 《ちょうただしたねでん》 ,國際こくさい文化ぶんか事業じぎょう有限ゆうげん公司こうし,1989ねん6がつ
    蔡東はんちょ, 《人文じんぶん帝國ていこくそう演義えんぎじょう》 ,しょう兆文化股份有限公司,2006ねん5がつISBN 957-0381-44-2
    蔚著, 《そううたぐくも》 ,本家ほんけ文化ぶんか事業じぎょう有限ゆうげん公司こうし出版しゅっぱん,2008ねん1がつISBN 9789867315656
    杰著, 《歷史れきしざいしのべぼそ讀的あん真相しんそう》 ,遼寧りょうねい教育きょういく出版しゅっぱんしゃ,2009ねん4がつISBN 9787538282344
    ゆうぴょうちょ, 《せいせつ宋朝そうちょうじゅうはちみかど》 ,れんけい出版しゅっぱん事業じぎょうまた份有げん公司こうし,2009ねん6がつISBN 978-957-08-2944-0
    ひゃくいえ論壇ろんだん編輯へんしゅうちょ, 《歷史れきししのべぼそ讀‧》 ,だい都會とかい文化ぶんか事業じぎょうまた份有げん公司こうし,2010ねん12月。ISBN 978-986-6234-08-8
    王立おうりつぐんちょ, 《王立おうりつぐん讀〈そうそうふとし下部かぶ》 ,じょうくに文化ぶんか事業じぎょうまた份有げん公司こうし,2013ねん9がつISBN 986-173-973-1
  69. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきふとたてたかしねん》 :「ろくがつかぶとうま皇太后こうたいごうくずし。……やましかわ,召普にゅう受遺いのちきさきといじょう曰:『なんじ所以ゆえんとく天下でんか乎?』じょう嗚咽おえつ不能ふのうたいきさき曰:『われ老死ろうし,哭無えき也,われかたなんじ大事だいじ,而但哭耶?』とい如初。うえ曰:『此皆こう及太きさき餘慶よけい也。』きさき曰:『しか政由まさよししば使幼兒ようじぬし天下でんかぐんこころみみわかしゅうゆうちょうくんなんじやすとくいたり此?なんじあずか光義みつよしみなわが所生しょせいなんじとうつてなんじおとうと四海しかいいたるこうのう立長りっちょうきみ社稷しゃしょくぶく也。』じょう頓首とんしゅ泣曰:『敢不如太きさききょう。』いんいいひろし曰:『なんじどうわれごと不可ふかたがえ也。』ひろしそく就榻ぜんため誓書せいしょ,於紙しょ曰『しん』。うえぞう其書きん匱,いのち謹密宮人みやびとてのひら。」
  70. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうふとそう太平たへい興國こうこくろくねん》 :「うえ召問ひろしひろしたい曰:『しんねがい備樞じく以察かんへん。』退すさふく密奏みっそう:『しん開國かいこく舊臣きゅうしんためけん倖所沮。』いんごと昭憲しょうけん顧命及先あさ愬之ごとうえ於宮ちゅうおとずれあまねまえしょじょうあきら,并發きん匱,とげだいかん寤,そくとめうけたまわそう京師けいし,召普いい曰:『ひとだれちんまちじゅうやめつきよんじゅうきゅうねん矣。』からし,以普ためけんさむらいちゅう。」
  71. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきふとたてたかしねん》 :「司馬しばひかり記聞きぶんたたえぶときさきほっでんおとうと,其意いいふと宗及そうきゅうしんおう美也みやいましたがえ正史せいし及新ろく,而舊ろくぶたごと。」
  72. ^ 《涑水記聞きぶんまきいち》 :「昭憲しょうけんふとしきさき聰明そうめいゆうさとし,嘗與太よたさんけつ大政たいせい,及疾あつしふとしさむらい藥餌やくじ不離ふり左右さゆうふとしきさき曰:『なんじ所以ゆえんとく天下でんか乎?』ふとし曰:『此皆こう與太よたきさき餘慶よけい也。』ふとしきさきわらい曰:『しか正由まさよししば使幼兒ようじぬし天下でんかみみ。』いん敕戒ふとし曰:『なんじまんさいとう以次でんおとうとのりなみなんじ之子ゆきこまたやすみみ。』ふとし頓首とんしゅ泣曰:『敢不如母きょう!』ふとしきさきいん召趙ひろし於榻まえためやく誓書せいしょひろし於紙自署じしょめいうん:『しんしょ。』ぞうきむ匱,いのち謹密宮人みやびとてのひら。」;
    ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうふとそう太平たへい興國こうこくろくねん》 :「ある昭憲しょうけん及太本意ほんいぶたほっじょうふくでん廷美,而廷はたふくでんとくあきらうえ即位そくいごくいのち廷美いん開封かいふうとくあきら授貴しゅう防禦ぼうぎょ使じつしょう皇子おうじみなえん昭憲しょうけん及太也。」;
    そう列傳れつでんだいさんおう廷美でん》 :「あるいい昭憲しょうけん及太本意ほんいぶたよくふとしそうつたえ廷美,而廷ふくでんとくあきらふとしそうすんでりつそくれい廷美いん開封かいふうとくあきらじつしょう皇子おうじ。」
  73. ^ そうふとしそうつぎすべこう〉 ,ちょうかげ麟撰,1941ねん
    そうふとしふとそう皇位こうい授受じゅじゅ問題もんだいべん析〉 ,鄧廣めいせん,1944ねん
    そうはつ二帝傳位問題之剖析〉 ,ひろしはくきんせん,1966ねん
    竺沙まさあきらちょはやしすぐるあきらやく, 《ちょうただしたねでん》 ,國際こくさい文化ぶんか事業じぎょう有限ゆうげん公司こうし,1989ねん6がつ
    薩孟たけしちょ, 《西遊せいゆうあずか中國ちゅうごく古代こだい政治せいじだいいちしょう菩薩ぼさつあずか妖精ようせい〉,ぺーじ2-3,三民書局股份有限公司,2003ねん3がつISBN 9789571412979
    ゆうぴょうちょ, 《せいせつ宋朝そうちょうじゅうはちみかど》 ,れんけい出版しゅっぱん事業じぎょうまた份有げん公司こうし,2009ねん6がつISBN 978-957-08-2944-0
    王立おうりつぐんちょ, 《王立おうりつぐん讀〈そうそうふとし下部かぶ》 ,じょうくに文化ぶんか事業じぎょうまた份有げん公司こうし,2013ねん9がつISBN 986-173-973-1
  74. ^ ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうななふとひらきたからきゅうねん》 :「じゅうがつきのえとらうえいぬいはじめ殿どの受朝,かか而不らく大赦たいしゃ改元かいげん。」
  75. ^ そうふとしくずれ逾年而改もとこう〉 ,蔣復璁撰,1962ねん
  76. ^ そうふとし赵匡たねせき问题がく术研讨会”综述--《そう研究けんきゅう论丛 だい5辑》2003ねん. cpfd.cnki.com.cn. [2019-11-20]. (原始げんし内容ないようそん档于2021-04-21). 
  77. ^ そう本紀ほんぎだいいちふと本紀ほんぎいち》 :「ふとしせん仲子なかご也,はは杜氏とうじこうから天成てんせいねんなま於洛夾馬營,あかこうにょうしつこうけい宿やどからだ有金ありかねしょくさんにち不變ふへんすんでちょう容貌ようぼう雄偉ゆういうつわ豁如,識者しきしゃ其非常人じょうじんがく騎射きしゃ,輒出じんじょう,嘗試あくほどこせ銜勒,うまいつ上城かみしろはすどうがくさわもん楣墜にん以為くび必碎,ふとしじょおこりさらついうまあがじょういちしょきずまた嘗與かんれいひつじさるはくしつちゅうすずめ鬬戶がいいんきおいおこり掩雀,而室ずい壞。」
  78. ^ うたいことわざ》引《神仙しんせんでん》 :「はつへいまがえふとしはは,挑太ふとしそう於籃以避らんひね摶遇即吟そくぎん曰:『莫道當今とうぎん天子てんしみやこすすむ天子てんしじょう擔挑。』」
  79. ^ ひがしのきひつろくまきいち》 :「ひね摶,みなみゆう經世けいせいざいなまとうまついやだいみだれにゅう當山とうざんがく神仙しんせんしるべやしなえこれじゅつのう辟穀,ある一睡いっすいさんねんかくれ於華やますすむかんやめまい一朝いっちょう革命かくめいのり嚬慼數日すうじつにんゆう問者もんじゃ,瞪目こたえいちにちぽうじょううさぎうまゆうはなかげ人相にんそう曰:『ちょう點檢てんけんさくかん。』摶驚喜きょうきだいわらいにんとい其故,またわらい曰:『天下てんか這迴ていたたみ也。』ふとしごとしゅうため殿どのまえ點檢てんけん,摶嘗天日てんじつひょう太平たいへい此始みみ。」
  80. ^ そう本紀ほんぎだいいちふと本紀ほんぎいち》 :「そうざいみち,閱四方しほう文書ぶんしょとく韋囊,中有ちゅううさんしゃくあまりだいうん點檢てんけんさく天子てんし』,これときちょうひさしとくため點檢てんけんせいそうかえ京師けいしおがめぶと檢校けんぎょうふとでん殿しんがりまえ點檢てんけん,以代えいいさお。」;
    きゅうだいしゅうしょだいじゅうむね本紀ほんぎろく》 :「いちにちゆるがせ於地ちゅうとくいちちょうさんしゃく,如人揭物しゃ,其上ぜんだいくも:『點檢てんけん做』,かんしゃ莫測なんぶつ也。いたり今上きんじょうはじめ點檢てんけんめいじ明年みょうねんはるはて此職以副人望じんぼうのり點檢てんけん做』げん乃神也。」
  81. ^ 《邵氏聞見ろくまきいち》 :「とう以來いらい大臣だいじんきみのりれつすわ殿上てんじょうしかこうしょ進呈しんていごとぶたすわ而論どうげい即位そくいいちにちおさむはんしつとうなおすわげい曰:『われ昏,文書ぶんしょらい。』しつとうおこり進呈しんていやめよく復位ふくいやめみつれいちゅう使つかい其坐矣。とげため故事こじ。」,きたそう邵博せん
  82. ^ 避暑ひしょ漫抄》 :「げい受命じゅめいさんねんみつ鐫一たて於太びょう寢殿しんでん夾室,いいちかいよう銷金幔蔽もん錀封閉甚げんよし敕有とおる及新天子てんし即位そくい,謁廟れい畢,奏請そうせいきょう誓詞せいしこれねんあきとおるれいかん奏請そうせい如敕。うえまいしつまえ再拜さいはいますかいどくしょう黃門こうもん識字しきじしゃいちにんしたがえみなとおたてにわちゅう黃門こうもんけんふうけい錀,先入せんにゅう焚香あかりしょく,揭幔,亟走階下かいか敢仰うえいたりぜん再拜さいはい,跪瞻默誦訖,ふく再拜さいはい而出。群臣ぐんしん近侍きんじみな不知ふちしょちかい何事なにごと後列こうれつせい相承そうしょうみなかかと故事こじとしふく謁,きょう讀如敢漏泄。雖腹こころ大臣だいじん,如趙かんおうおうたかしおおやけかんたかしおおやけとみていこうおう荊公、ぶん潞公、司馬しばあつしおおやけりょもとこうさるこうみなてん下重しもしげのぞむるいあささいところ倚任,また知也ともややすし康之やすゆきへんいぬえびすにゅうびょう,悉取禮樂れいがく祭祀さいし諸法しょほうぶつ而去。もんみなほらひらけにんとくたてかんいしぶみとめだかななはちしゃく,闊よんしゃくあまり誓詞せいしさんぎょういちうん:『しば子孫しそん有罪ゆうざいとくけいたてはんはかりごとぎゃくとめ於獄ちゅうたまものつきとく曹刑戮,またとく連坐れんざささえぞく。』いちうん:『とくころせ大夫たいふ上書うわがきげんごとじん。』いちうん:『子孫しそんゆう渝此ちかいしゃてん必殛。』けんえんちゅう,曹勳とりこちゅうかいふとしじょうよせうん祖宗そそうちかいざいふとしびょうこわこん天子てんし及知云云うんぬん。」,みなみそうりくゆうせん
  83. ^ まつかくれ文集ぶんしゅうまきじゅうろくしんまえじゅうことさつ》 :「奏上そうじょうげいゆうやくぞう於太びょうちかい大臣だいじんげんかんたがえしゃ不祥ふしょうななしょうかさね嘗輒えき。」;
    そう列傳れつでんだいいちひゃくさんじゅうはち‧曹勛でん》 :「したがえ徽宗きた遷,かわじゅうにち,……またげんげいゆう誓約せいやくぞうふとしびょうころせ大臣だいじん及言ごとかんたがえしゃ不祥ふしょう。』」

参考さんこう书目

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延伸えんしん阅读

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 そうふみ/まき001》,出自しゅつじだつだっそうふみ
 そう·まき002》,出自しゅつじだつだっそうふみ
 そう·まき003》,出自しゅつじだつだっそうふみ
  ざい维基どもとおる资源阅览影像えいぞう

外部がいぶ链接

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まいり

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赵匡たね
出生しゅっしょう于:927ねん逝世於:976ねん
統治とうちしゃあたま
前任ぜんにん
こうしゅうきょうみかど
しばそうさとし
中國ちゅうごく皇帝こうてい
960ねん-976ねん
つぎにん
そうふとしむね
ちょう光義みつよし
おとうと
しんあたま
宋朝そうちょう皇帝こうてい
960ねん-976ねん