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庞统 - 维基百科,自由的百科全书

龐統(179ねん—214ねんなつ(农历4がつ[1]),もとひがしかんすえねんじょうぐんじょうけん[2]所在しょざいいま湖北こほくしょうじょうじょうしゅうにん地方ちほうじょうしょう其「鳳雛ほうすう」,あずか臥龍がりょうしょかずらあきら同門どうもんあずかひとしめい。龐統またしょかずらあきら二姐夫龐山民的堂兄弟,あずかしょかずらあきらまたゆう親戚しんせき關係かんけい當時とうじ俗語ぞくごゆううん:「臥龍がりょう鳳雛ほうすうしゃ得一とくいちやす天下でんか。」みなみぐん太守たいしゅしゅう任命にんめいためこうしゅう瑜死扶送靈柩れいきゅうかい江東こうとうちょうなりためりゅう重臣じゅうしんはかりごときょうじょりゅう征伐せいばつてんくにてき四川しせんこれともえしょくざいおさむ首府しゅふ成都せいと附近ふきん重要じゅうよう據點きょてんささえじょう雒城どき流矢ながれやしゃ中身なかみほろび享年きょうねん36さい[3]ちんひさしほまれ其可なずらえためこくてき荀彧荀攸叔侄。歷任れきにん耒阳れいちゅう從事じゅうじかんいたり軍師ぐんしちゅうろうしょう死後しごよしぬしりゅうぜんついふうためせき內侯ついおくりなためやすしこう

龐統
耒阳れい軍師ぐんしちゅうろうしょうちゅう從事じゅうじせき內侯
庞统
後人こうじんしょせいてき庞统畫像がぞう
軍師ぐんしちゅうろうしょう
國家こっかひがしかん
時代じだいひがしかんまつねん
主君しゅくんしゅうりゅう
せい龐姓
みつる
もと
ごう鳳雛ほうすう
しょくかん軍師ぐんしちゅうろうしょう
ふうせき內侯(追贈ついぞう
せき荊州じょうぐんいま湖北こほくしょうじょうじょうしゅう
出生しゅっしょう179ねん
逝世214ねんなつ(4がつ
雒縣いま四川しせんしょうこうかん
谥号やすしこう
はかそう龐統ほこら

經歷けいれき

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みなみしゅうかんむり

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龐統出身しゅっしん荊州名門めいもんねん少時しょうじ質樸しつぼく魯鈍ろどん有人ゆうじん識。叔父おじ龐德こうじゅう潁州ひと司馬しば清高きよたかまさただしゆう知人ちじん鑒。龐統弱冠じゃっかんこれねん二十歲はたち司馬しば徽。當時とうじ司馬しば徽在じゅじょうくわ,龐統すわざい樹下じゅか,二人由早談到夜。司馬しば徽甚奇異きいしょう龐統ため荊南士人しじんかんむりひょうため盛德せいとく」,さら讚歎さんたん龐德公知こうち人的じんてき才能さいのう,龐統名望めいぼうややややでんひらく

まさこうひとりゅう

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けんやすじゅうよんねん(209ねんしゅうざいみなみぐん爭奪そうだつせん戰勝せんしょう曹仁,佔領みなみぐんりょうため太守たいしゅ。龐統ざいしゅう瑜南ぐん太守たいしゅにん擔任たんにんこう[4]こうしゅう瑜病そつ,龐統ぜん江東こうとうとむらいぐういた聞名而來てき陆绩顧邵ぜんひとし。龐統みとめためぜん琮:「你好ほどこせ、慕賢明けんめいゆうてんぞうなんじみなみひと樊子あきら。雖然智力ちりょくただし仍是一時いちじてき佳話かわ。」またみとめため:「陆绩ゆう馱馬てき腳力,而顧邵のりゆう馱牛のうまけおもはし遠路えんろてき能力のうりょく。」有人ゆうじん便びんとい:「如你所見しょけんりく勣較優勝ゆうしょう?」龐統解釋かいしゃく:「馱馬雖厲がいただしただのうおこりいちにんただし馱牛いちにちのうはしさんひゃくさとしょまけまたあにとめいちにん!」於是顧邵招待しょうたい龐統とめ宿やどなみといどう:「你評價ひょうか如此名人めいじんわがあずか你如なに?」庞統せつ:「陶冶とうや世俗せぞく,甄綜人物じんぶつわれ及卿;ろん帝王ていおう秘策ひさく,攬倚ふくようさいわれゆういちにちこれちょう。(教化きょうか世俗せぞくこも舉人ぶつわが及你;ただしろん帝王ていおうてき秘策ひさく,攬、倚、ふくてきせいようわがのり有利ゆうり。)」

眾人受到龐統てんひょうじゅうふん滿まんさらあずかゆいため朋友ほうゆうせつどう:「とう天下てんか太平たいへい,一定與您談盡四海之士。」

だいざい小用しょうよう

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りゅうとくかん荊州よう龐統ため耒阳れいただし在任ざいにん內无ほうはた职务做好,免官めんかん鲁肃よせ書信しょしんきゅうりゅう備為龐統引薦なみ勸告かんこく:「龐士もと管理かんりひゃくさとしょうけんてき人才じんさいいのちためちゅうべつまとしょくにん才能さいのう展示てんじ傑出けっしゅつてきざいはな。」しょかずらあきらまた推薦すいせん,於是りゅう備召龐統一番いちばん談論だんろん開始かいしじゅうふんじゅう龐統,任命にんめいためちゅう從事じゅうじ。其待遇たいぐう僅次於諸かずらあきらこうますにんため軍師ぐんしちゅうろうしょう

ゆういちりゅう備與龐統あいだだんもん:「你曾けい擔任たんにんしゅう瑜的こう曹。聽説わがいたくれこくしゅうりょはん曾上しんきゅうまごけんゆずるまごけん扣留わが不知ふちいやゆう此事?ざいだれてき麾下きか,就該こうただしだれかくため其主,你不必隱瞞。」龐統回答かいとう:「かくゆう此事。」りゅう慨然がいぜん嘆息たんそく:「當時とうじわがただしざい危急ききゅうなかゆうもとめ於孫けん所以ゆえん不能ふのう京口きょうぐちりょう,竟差一點落入周瑜手中!」りゅう備還せつ:「天下てんか智謀ちぼう所見しょけんりゃくどうしょかずらあきら也勸わが不要ふよう,而且いちさい堅持けんじそうらい也是怕孫けん扣留わが當時とうじ卻認ためまごけん所要しょようひさげぼうてき北面ほくめんてき曹操そうそうおう希望きぼう有我ありが做他てき援手,所以ゆえんざい堅持けんじ,一點也沒有疑慮。現在げんざいそうらい,這確實かくじついちけん棋,なみ萬全ばんぜんけい。」

歷史れきし小說しょうせつさんこく演義えんぎだい五十七回描述龐統任耒阳縣令,はりとべ監視かんし期間きかん,龐統就將百餘日所累積的公務全按部處理。這事件じけんてき藍本らんぽん就是ざい三國志さんごくし·しょくこころざしじゅういち·楊洪つて》裴注引ちんひさし另一著作ちょさくえき耆舊でん雜記ざっきうらてきなに[5]

經學けいがくおもえはかりごと

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けんやすじゅうろくねん(211ねんちょうまつ舉薦法正のりまさ法正のりまさたてまつえきしゅうまぎりゅうあきらこれめいじいた荊州,迎接げいせつりゅう備進入川にゅうがわしょくどもこばめかんちゅうちょう暗中あんちゅう卻請りゅう備藉はかりごとかわしょくりゅう備猶再三さいさん不能ふのう決斷けつだん。龐統しん諫,せつ:「荊州荒蕪こうぶざんはい人才じんさい物資ぶっし流失りゅうしつ殆盡。而且ひがしゆうまごけんきたゆう曹操そうそうためかなえあし而計,なん以有だいてき發展はってんえきしゅうこく富民とみんいん戶口とぐちひゃくまん沃野よくや千里せんり土地とち肥沃ひよく物產ぶっさん豐饒ほうじょうよん兵馬へいばよう調ちょうよう一定いっていのうひとししゅうたまたから財貨ざいかもとめ於境がいわが們可以以此來成就じょうじゅ自己じこてき大業おおわざ。」りゅう備仍しか擔心:「如今あずかわが水火すいかようしゃ曹操そうそう曹操そうそうたかしきゅう便びん寬厚かんこう曹操そうそう暴虐ぼうぎゃくわが便びん仁慈じんじ曹操そうそう詭譎,わが便びん忠誠ちゅうせい。凡事あずか相反あいはん事業じぎょうざいゆうこんてんてき成就じょうじゅ。如今わかためとくえきしゅう,而失しん於天わが不能ふのう這麼做。」龐統せつ:「當今とうぎん腐亂ふらん,凡事不能ふのうかかわつね墨守ぼくしゅなりぶんまわしようむべしたがえけんへんざいぎょうきょう且吞併弱しょうけんじゃくおさむ昧,ぎゃく順守じゅんしゅほう以義,せい古人こじんしょ重視じゅうしてきただ要事ようじ定之さだゆきぜんまちりゅうあきらあつふうおくかえゆうだれのう你說しつ於義呢?現在げんざいおさむえきしゅういたときかい他人たにんおさむ佔,つい悔莫及。」りゅう備認ため龐統說得せっとく有理ゆうり[6]決定けっていとめしょかずらあきらせきはねちょうちょうくもとう鎮守ちんじゅ荊州,而自己じこそくたいりょう法正のりまさ龐統ただしのべ霍峻とうひとりつりょうすうまん兵士へいし進入しんにゅうえきしゅうえきしゅうまきりゅうあきらかずりゅう備在涪城しょうかい,龐統すすむりゅう備於えん席上せきじょうころせりょうりゅうあきら,這樣將軍しょうぐん需勞どう眾即すわとくえきしゅうちょうまつ法正のりまさ紛紛ふんぷん贊同さんどうただしりゅう備以自己じこはつらいしょくちゅうおんしんじたてためよし拒絕きょぜつりゅうあきら隆重たかしげ款待かんたいりゅう備及其部ぞうばちきゅうりゅう備不しょうへい馬糧ばりょうくさ軍用ぐんよう物資ぶっし連戰れんせんりゃくせき白水しろみずせき也交きゅうとくかんいのちりつへい抵禦ちょう魯。りゅうあきら交代こうたいかん畢,ずいそく返還へんかん成都せいとしか而劉備到かやもえせき便びんとめまえなみ貫徹かんてつ北上きたかみおさむちょう魯的請求せいきゅう,而是廣樹ひろきおんとくおさむかい人心じんしん

せいしょくさんさく

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けんやすじゅうななねん(212ねんちょうまついん事跡じせきはいりゅう備與りゅうあきら正式せいしき決裂けつれつ,龐統提出ていしゅつじょうなかしたさんさくしょく

  • 上策じょうさく:「たてそく秘密ひみつ挑選精兵せいびょうきょうはた晝夜ちゅうやけんほどきゅう行軍こうぐん襲擊しゅうげきおさむ成都せいとりゅうあきらぼつゆう軍事ぐんじ才幹さいかんまたらいぼつゆうあずかぼう戒備,突然とつぜん大軍たいぐんあつさかい便びんいち舉攻成都せいと,這就上策じょうさく。」
  • ちゅうさく:「楊懷こう乃是りゅうあきら手下てしたてき名將めいしょう們倚仗手ちゅうてき強兵きょうへいよりどころもり白水しろみずせき,聽說們曾いく上書うわがきすすむ諫劉あきらようりゅうあきらぬしおおやけはつかい荊州。しゅおおやけ到達とうたつ白水しろみずせきじん告知こくち們,就說荊州ゆう緊急きんきゅう軍務ぐんむ準備じゅんびかいぐん救援きゅうえんどう時下じかれいわがぐん將士しょうし整理せいり行裝こうそう,佯裝そくはた撤還てき樣子ようす。楊、こう二人既欽佩主公的英名,またこうきょうぬしおおやけ撤離えきしゅうりょうおもえ們一定會輕裝前來拜送主公,しゅおおやけじょうれいはた們捉拿,しん而奪佔白すいせきおさむへん們的眾,揮軍おさむ成都せいと,這就ちゅうさく。」
  • 下策げさく:「たてそく退すさかえしろみかどじょう聯絡れんらく荊州へい馬入ばにゅうしょくあずか荊州軍隊ぐんたいごうへいいちしょじょ進取しんしゅ,慢慢蠶食さんしょくえきしゅう,這就下策げさく。」

さらみとめため:「如果猶豫ゆうよけつ滯留たいりゅう此地,大軍たいぐん必然ひつぜんおちいにゅう嚴重げんじゅうてきこまさかい不可ふか拖延りょう。」りゅう備認ため上策じょうさくきゅう下策げさくまたふとなる採取さいしゅちゅうさく而行。さき楊懷、こう沛,奪取だっしゅ人的じんてき眾,南下なんか進軍しんぐん佔領涪城,確保かくほとおるどおりかい荊州みちさいおさむ成都せいとところこう披靡[7]

君臣くんしんみなしつ

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とう大軍たいぐん經過けいか涪城ときりゅう備設えん款待かんたい眾人,飲酒いんしゅ作樂さくらなみたい龐統せつ:「今日きょうてき宴會えんかいらくごと。」ただし龐統せめ備:「おさむ別人べつじんてき領土りょうどかえざい飲酒いんしゅ作樂さくら,此非仁義じんぎ所為しょい。」道破どうはりゅう備的野心やしん當時とうじさけよいてきりゅう憤怒ふんぬせつ:「當年とうねんしゅうちょうたけおうぜんうたまえなんみち仁義じんぎ嗎?你說ばなし不當ふとう,請你趕快はなれひらく!」於是龐統はなれせき引退いんたい

後來こうらいりゅうややほろさけ醒後,たい龐統かんいた悔意,じん請龐すべかえせき,龐統便びんかいいたすわくらい,龐統ぼつゆう多謝たしゃりゅう備請かいらい,卻自おのれざい飲食いんしょく神色しんしょく自若じじゃくりゅう備問せつ:「你認ためつよしざい何人なんにんてき過失かしつ?」龐統こたえどう:「君臣くんしんみな錯。」りゅう備大わらい繼續けいぞく宴樂えんらく

鳳雛ほうすう落坡

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りゅう備調荊州援軍えんぐんしょかずらあきらちょうちょうくもりゅうふうぎゃくこう而上りつぐんおさむかつしろみかどしゅう江陽こうようりゅう進攻しんこう雒城とき,龐統率とうそつぐんおさむじょう不幸ふこうしろぼうもりぐんりゅう指揮しきしも流矢ながれやしゃちゅう而身ほろびねん僅36さいりゅう為之ためゆき痛惜つうせきながれなみだしょかずらあきら也親自前じまえ往拜さい,龐統死後しごそう落鳳坡さらます其父ため諫議大夫たいふのちついたまものせき內侯,260ねんきゅうがつついおくりなためやすしこう

逸聞いつぶん

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  • 龐統年少ねんしょうあらわとく比較ひかくじゅんしらき魯鈍ろどんあいゆい朋友ほうゆう朋友ほうゆう眾多。認定にんていひとしてき重要じゅうようゆうきゅうざい,於涪城うえ諫時いた
  • 甚有修養しゅうよう評價ひょうか他人たにんかい誇大こだい讚美さんびべつ人的じんてきゆうてん有人ゆうじんたい好奇こうき便びんとい,龐統回答かいとうどう:「當今とうぎん天下でんか大亂たいらん雅道まさみちりょうおそ善人ぜんにんしょう而惡じんかたよくきょう風俗ふうぞく長道ながみちぎょう不美ふみ其譚そく聲名せいめい不足ふそく慕企,不足ふそく慕企而為ぜんしゃしょう矣。こんじゅうしつなおとく其半,而可以崇邁世きょう使つかい有志ゆうししゃ勵,また乎?(方今ほうこん天下てんか大亂たいらん正義せいぎみち逐漸衰退すいたい善人ぜんにんしょう而惡じんわがそう興起こうき這樣てき風俗ふうぞく以達いた助長じょちょう正道せいどうてき目的もくてき所以ゆえんよう宣揚せんようこのみてき榜樣,改善かいぜんふう,如果這樣做,善人ぜんにんかい越來ごえくえつしょう。十個人當中如果可以改善五個人,就可以將此事完成かんせい一半いっぱんしん而達いた教育きょういく世人せじんてき目的もくてき使つかいゆう志向しこうてきじん自己じこ勉勵べんれい自己じこ,這樣なんどうくだり嗎?)」大意たいいそう通過つうか讚美さんびじん勵、指導しどう世人せじんこうぜん
  • りゅう備另いちぞくちょうそんごく不服ふふく龐統,龐統ちゅうじんほろびちょう存在そんざいりゅう備面ぜん詆毀龐統,りゅう備震いか黜免りょうちょうそん[8]

家庭かてい

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ちちやから

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  • 其名しょうざい龐統はいためろう後來こうらいまた遷為諫議大夫たいふ
  • 龐德こう,龐統てきしたがえちちかんまつじょう一帶いったいてき名士めいしぜん品評ひんぴょう人物じんぶつ

同輩どうはい

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  • 龐林,龐統おとうと,以荊州ちゅう從事じゅうじ加入かにゅうけんせいのちえびすりょうたたかえ大敗たいはいずいけんくだふう列侯れっこうかんいたり鉅鹿太守たいしゅ。其妻習氏いんけんよし聞名。
  • 龐山みん,龐德おおやけ,龐統どう兄弟きょうだいゆう令名れいめいめとしょかずら亮二りょうじ姊為つまためこく黃門こうもん吏部ろうはやそつ

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  • 龐宏きょためじん剛直ごうちょく簡樸,傲視尚書しょうしょれいちんためひね袛所そもそもそつ時任ときとう涪陵太守たいしゅ

評價ひょうか

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  • 庞统评:「论王霸之馀策,览倚仗之要害ようがいわれゆういちにち长。」
  • 司馬しば:「みなみしゅうかんむり冕。(龐)とくこうまこと知人ちじん,此實もり德也とくや。」「识时务者ざい乎俊杰。此间ゆうふく龙、凤雏。」
  • 魯肅しょあずかりゅう:「龐士もとひゃくさとざい也,使つかいしょちゅうべつにんはじめとうてん驥足きそくみみ。」
  • 楊戲てきかん輔臣さんちゅうさん龐士もと:「軍師ぐんしいたりまさ曄曄。致命ちめい明主めいしゅちゅうじょうはつおくおもんみ此義むねほろび報德ほうとく。」
  • 習鑿曰:「おっと霸王しゃ,必體仁義じんぎ以為ほん,仗信じゅん以為むね一物いちもつ不具ふぐのり其道乖矣。こんりゅう備襲だつあきらけん以濟ぎょうしんたがえじょう德義とくぎ俱愆,雖功よしたかしむべだいきず其敗,たとえだんしゅぜん軀,なにらくゆう?龐統懼斯ごと泄宣,其君必悟,眾中ただし其失,而不おさむつね謙之けんじどう,矯然ふととうつき其蹇諤之ふうおっとじょうしつ而能ただしゆうしん也,おさめしょう而無したがえ也;ゆうしんそく陛隆どうだかしたがえそくぐんさく畢舉;一言而三善兼明,暫諫而義あきらひゃくだいいいたち大體だいたい矣。わか惜其しょうしつ而廢其大えき,矜此過言かごん絕遠ぜつえん讜,のう成業せいぎょうずみつとむしゃこれゆう也。しんまつ以為はかりごとかさねりゅうあきらけい雖出於統,しかたがえ成功せいこうもとゆかり詭道,こころすんで內疚,のり歡情戢,聞備しょうらくげん不覺ふかく率爾そつじ而對也。備宴たけなわしつことどうらくたけおう,曾無愧色,此備ゆう而統しつ,其云『君臣くんしん俱失』,ぶたぶんそしこれげんみみ。習氏所論しょろん,雖大むね乖,しか推演やめきんためりゅう宕也。」
  • 袁宏さん國名こくめいしん頌》:「元弘もとひろちょうみやびせい內融。たかしぜんあいぶつかんはじめおわりらん備矣,しょうぬりたかし先生せんせいしるべ振起しんき清風せいふう。綢繆あきらきさき妄惟。夙夜匪懈,よしざい緝熙。さんりゃくすんでひね,霸業やめもと。」
  • 裴松:“谋袭刘璋,计虽于统,しか违义成功せいこうもとゆかり诡道,こころすんでないやまし,则欢じょう戢,闻备しょう乐之ごと觉率尔而对也。备酣えんしつ时,ことどう乐祸,たけおう,曾无愧色,此备ゆう而统无失。其言‘君臣くんしんみなしつ’,盖分谤之げんみみ。”
  • 刘祁:“やめ而诸ごうわりすえ大夫たいふかくよく择主りつ功名こうみょう,如荀攸贾诩ほどかくよしみ、诸葛あきら、庞统、鲁肃、しゅう瑜之そう智能ちのうこう。”
  • ほうたかし:“しか徽以孔明こうめい、庞统并称,われ窃有うたぐ焉。论者惜统早死はやじにこう业不及孔明こうめいあまり谓使统不,终非孔明こうめい也。孔明こうめいまなべ,庶乎王道おうどう;而统げんみな矫诈功利こうり习。刘璋むかいあきられつある说昭れつ就取えきしゅうあきられつおそれしつしん于天,统则请就其来迎らいごう而袭杀之;あきられつそく从,所以ゆえん坚益しゅうみんふく从之こころざし,犹有王者おうじゃ用心ようじん也;统独切切せつせつ焉欲夺璋くらい,其器りょうなにあさ哉?王者おうじゃ患孚とくひろしみちひろし患土せまみんほろ也。”(《孔明こうめいまなべ庶乎王道おうどう》)
  • ひかり:“庞士もと人才じんさい肯求ぜん责备,这个こころむね便びん以称‘凤雏’。”(《ようむら语录》)

艺术形象けいしょう

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さんこく演義えんぎ

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しゅう曰校插图ばん《三国志通俗演义》ちゅうてき庞统けんじ连环计
 
しゅう曰校插图ばん《三国志通俗演义》ちゅうてき张飞举荐庞统

さんこく演義えんぎちゅう龐統てき形象けいしょうあずか史書ししょじょうてき龐統ゆうしょ不同ふどう。《演義えんぎちゅう描寫びょうしゃ龐統容貌ようぼうみにく陋,ざいあかかべたたかえどきしゅうこれたく而向曹操そうそうけんじ連環れんかんけい曹操そうそういん此將せん船用せんよう鐵索てっさく連接れんせつおこりらいりゅうにゅうしょくざい龐統てき輔佐ほさ奪取だっしゅ涪城りょう泠苞これあずか龐統ぶんへい進取しんしゅ雒城出發しゅっぱつまえ,龐統しつぜん蹄,請求せいきゅうかわりゅう備座白馬はくば--てきなみつげ奮勇擔任たんにんまえぐんぎょういたり一地勢逼窄之山谷處,聽說此地めいさけべ落鳳坡」,大呼たいこ此乃上天じょうてんたまものさいけい墓地ぼちとげ埋伏まいふく於此てきちょうつとむぐんみとめさくりゅう備,らんしゃ

歇后语

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  • 庞统当知とうち县——だいざい小用しょうよう

かげ形象けいしょう

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どう漫遊まんゆうおどけ

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  • さんこく無雙むそう系列けいれつ / 無雙むそうOROCHI系列けいれつ光榮こうえい公司こうし開發かいはつかわ內孝はくはいおん
  • 三國志さんごくし
  • さんこく演義えんぎ
  • 蒼天そうてん航路こうろ》(おう欣太ちゅうてき龐統一個足智多謀的美男子。
  • おおとり燎原りょうげん》(ちんぼうちゅうてき龐統臉上有刺ゆうしあおみぎしろぜんくろ。擅長さんけいぬのきょくさん賈詡しょうため怪物かいぶつ」,司馬しばてき弟子でしさら名聞みょうもん天下でんかてき軍師ぐんし集團しゅうだん水鏡みずかがみはちちゅうてきろく」,ざい關東軍かんとうぐんひら兵營へいえい中在なかざい短時間たんじかんやぶかいただしたくぐんちゅうけいはかりごと而得「鳳雛ほうすうこれめいざいあてじょうたたかえ中出なかでさんなみ使曹操そうそうはしうわぜっ及司いんはん曹而めつもんじつためりゅうちょうおこり而鋪よしりゅうちょう於司暗殺あんさつ失敗しっぱいざいじょしゅうぐうじょうりゅう備後びんごたいりゅう備作おもしんひょう估並ゆうとうりゅう備之かんわたりたたかえ曾助まごさくひら于吉及進はん曹操そうそう(じつため袁方舉薦,以分化ぶんかしゅう瑜和まごさく),あかかべ戰前せんぜん曾遊そうゆうせつあまやすし投降とうこうまごけんざいしょかずらあきら江東こうとう曾遊そうゆうせつ其投りゅう備,あかかべ戰後せんご正式せいしきなげりゅう備。
  • 王者おうじゃ荣耀ちゅうてき庞统设定为一位刺客和傀儡师,のう操作そうさ傀儡かいらい,释放くら进行战斗。ただし正因まさより为该形象けいしょうあずか史上しじょうてき同名どうめい谋士形象けいしょう严重ごうさこ于各かた压力,《王者おうじゃ荣耀》制作せいさく组将旗下きか设计英雄えいゆう“庞统”改名かいめいもとうた”。

ちゅう

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  1. ^ どおりかん かんじゅうきゅう こうけんじ皇帝こうていみずのえけんやすじゅうきゅうねんきのえうまおおやけもといちよんねんなつよんがつ りゅう備圍雒城且いちねん,龐統ため流矢ながれやしょちゅうそつ
  2. ^ こう漢書かんしょ·逸民いつみん列傳れつでん》:“庞公しゃみなみこおりじょう阳人也。”よりどころ其叔はくてきせきぬき
  3. ^ からかのえ曰:“庞德こう孔明こうめい为卧龙,以士もと为凤雏,则士元之もとゆき齿当しょう孔明こうめい孔明こうめいそつ时年じゅうよん,而士もとさきそつじゅうねん,则士もと物故ぶっこなおさんじゅう也,岂不惜哉!”そくからかのえ认为“卧龙”“凤雏”てき说法意味いみ庞统诸葛あきらねん轻,认为庞统去时其实不いたさんじゅう岁。
  4. ^ 太平たいへい御覽ごらん·まき264◎しょくかんろくじゅうこう曹參ぐん》引《荊州さきとくでんさくしゅう瑜逼龐統にん其部:“しゅう瑜領みなみぐん,以龐士もとめいじゅうしゅうさと所信しょしん,乃逼ためこう曹,にん大事だいじ。瑜垂拱而やめ。”
  5. ^ 祗字くん肅,はつつかまつぐんためとくぐん從事じゅうじときしょかずらあきら用法ようほうたかしひそかかげ聞祗遊戲ゆうぎ放縱ほうしょうつとむしょしょく,嘗奄往錄ごく。眾人咸為祗懼。祗密聞之,よるちょう燈火ともしびしゅう,讀諸かいじょうしょかずら晨往,祗悉やめやみ誦,とうたい解釋かいしゃくしょ凝滯ぎょうたいあきら甚異
  6. ^ 九州きゅうしゅう春秋しゅんじゅう曰:すべせつ備曰:「荊州あらざん人物じんぶつ殫盡,あずまゆうまごきたゆう曹氏,かなえあしけいなん以得こころざしこんえきしゅうこく富民とみんつよし戶口とぐちひゃくまんよん兵馬へいば所出しょしゅつ必具,たから貨無もとめ於外,こんけん以定大事だいじ。」備曰:「こんゆびあずかわれため水火すいかしゃ曹操そうそう也,みさお以急,われ以寬;みさお以暴,われ以仁;みさお以譎,われ以忠;ごとあずかみさおはんこと乃可なりみみこん以小而失信義しんぎ於天しゃわれしょ也。」みつる曰:「けんへんこれかた一道所能定也。けんじゃくおさむ昧,はくことぎゃく順守じゅんしゅほう以義,こと定之さだゆきふう大國たいこくなに於信?今日きょうおわりためじんみみ。」備遂行すいこう
  7. ^ 三國志さんごくし·しょくしょ·龐統ほう正傳せいでんみつるふくせつ曰:「かげせん精兵せいびょう晝夜ちゅうやけんみちみちかさね成都せいとあきらすんでまたもとあずか備,大軍たいぐんそついたりいち舉便じょう,此上けい也。楊懷、こう沛,あきら名將めいしょうかくつえつよしへいよりどころもり關頭かんとう,聞數ゆう牋諫あきら使つかいはつ將軍しょうぐんかえ荊州。將軍しょうぐんいたりあずか相聞そうもんせつ荊州ゆうきゅうほしかえすくいなみ使裝束しょうぞくそとさくがた;此すんでふく將軍しょうぐん英名えいめい又喜またき將軍しょうぐんけい必乘けい來見くるみ將軍しょうぐんいん此執進取しんしゅ其兵,乃向成都せいと,此中けい也。退すさかえしろみかどれん引荊しゅうじょかえ,此下けい也。わか沈吟ちんぎんはた致大こま不可ふか乆矣。」さきぬししか其中けいそくなつけ、沛,かえこう成都せいとところ輒克。
  8. ^ 三國志さんごくし·まきよんじゅう·しょくしょじゅう·鄧張むね楊傳だいじゅう》:以荊しゅう從事じゅうじずいさきしゅいれしょくみなみいたり雒,以為こうかん太守たいしゅそんもと不服ふふく龐統,みつる中矢なかやそつさきぬし發言はつげんよしみ歎,そん曰:「みつる盡忠じんちゅう惜,しかたがえだい雅之まさゆき。」さきおもいか曰:「みつるころせ身成みなりじんさらため也?」めんそんかんころやまいそつしつ行事ぎょうじ不為ふためでん
  9. ^ でん》:(でんたつみざい荊州,もく龐統ためはん英雄えいゆうあかし裴潛おわり以清ぎょうあらわすべとげりゅう備,まち於諸かずらあきらせんいたり尚書しょうしょれいなみ有名ゆうめいとく

參考さんこう資料しりょう

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延伸えんしん阅读

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 三國志さんごくし/まき37》,出自しゅつじちんひさし三國志さんごくし
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