徒と单克宁(?—1191年ねん),金かね朝あさ莱州(今いま山やま东省莱州市し)人にん,出自しゅつじ女おんな真しん徒と单部,原名げんめい习显。金きむ世よ宗むね、金きむ章あきら宗時むねとき長期ちょうき擔任たんにん宰相さいしょう。
其父汾阳军节度使し徒と单况者しゃ,舅しゅうと舅しゅうと左ひだり丞相じょうしょう完かん颜希尹いん。其先金きん源げん县人,随ずい猛もう安やす迁居到いた山やま东,于是定てい籍せき莱州。
徒と单克宁善于骑射い,有ゆう勇いさみ略りゃく,通つう晓女おんな真ま文ぶん、契ちぎり丹に文ぶん。金きむ熙宗时,充当じゅうとう护卫,历任符ふ宝たから郎ろう、侍さむらい卫亲军马步ふ军都指ゆび挥使,改あらため忠ちゅう顺军节度使し。娶めと完かん颜宗干ひ的てき女おんな儿嘉祥さち县主。完かん颜亮在位ざいい时,降くだ知ち滕阳军,历任宿やど州しゅう防御ぼうぎょ使し、胡えびす里さと改あらため路ろ节度使し,曷懒路ろ兵へい马都总管。
大だい定じょう元年がんねん(1161年ねん),以本路ろ兵へい马会东京辽阳府ふ,迁左翼さよく都と统,大だい定じょう二に年ねん(1162年ねん)从右副ふく元もと帅完颜谋衍镇压移うつり剌窝斡,迁太ふとし原はら府ふ尹いん,驻军平ひら凉。改あらため任にん益えき都と尹いん,兼山かねやま东路兵へい马都总管、行くだり军都统。大だい定じょう四よん年ねん(1164年ねん),徒と单克宁军出で楚すわえ州しゅう、泗州之これ间,攻おさむ克かつ宋朝そうちょう楚すわえ州しゅう,射しゃ杀南みなみ宋そう名将めいしょう魏ぎ胜。回かい军,任にん大名おおな府ふ府ふ尹いん,历任河かわ间府尹いん、东平府ふ尹いん,召为都と点てん检。大だい定じょう十じゅう一いち年ねん(1171年ねん),随ずい丞相じょうしょう纥石烈れつ志こころざし宁北きた伐き,大だい定じょう十じゅう二に年ねん(1172年ねん)为枢密すうみつ副使ふくし,兼けん知ち大名おおな府ふ事ごと。改あらため太子たいし太ふとし保ほ平たいら章あきら政事せいじ,封ふう密ひそか国くに公こう,后きさき来らい罢为东京留守るす。大だい定じょう十じゅう九きゅう年ねん,改あらため为南京なんきん留守るす,兼けん河南かなん统军使し,再さい为平章あきら政事せいじ。世よ袭不扎土河かわ猛もう安やす兼けん亲管谋克。
大だい定じょう十じゅう九きゅう年ねん(1179年ねん),任にん右みぎ丞相じょうしょう,改あらため封ふう谭国公こう。大だい定じょう二に十じゅう一いち年ねん(1181年ねん),为左ひだり丞相じょうしょう,改あらため封ふう定国さだくに公こう。大だい定じょう二に十じゅう二に年ねん(1182年ねん)被ひ赐名克かつ宁,大だい定じょう二に十じゅう四よん年ねん(1184年ねん)留守るす中ちゅう都と辅佐皇太子こうたいし守もり国こく。大だい定じょう二に十じゅう五ご年ねん(1185年ねん),行ぎょう左ひだり丞相じょうしょう事ごと,太子たいし完かん颜允恭きょう卒そつ,上表じょうひょう请立皇すめらぎ太ふとし孙。次つぎ年ねん,为太尉じょう兼けん左ひだり丞相じょうしょう。大だい定じょう二に十じゅう八はち年ねん(1188年ねん),以太ふとし尉じょう兼任けんにん尚なお书令,封ふう延のべ安やす郡ぐん王おう。
大だい定じょう二に十じゅう九きゅう年ねん(1189年ねん),金きむ世よ宗むね驾崩,徒と单克宁受命じゅめい辅佐皇すめらぎ太ふとし孙完かん颜璟即位そくい为金きむ章あきら宗むね。封ふう东平郡ぐん王おう。明あきら昌あきら元年がんねん(1190年ねん),拜はい太ふとし师,封ふう淄王,次じ年ねん正月しょうがつ庚午こうご日び(1191年ねん2月がつ16日にち)去さ世よ[1]。死し后きさき谥号忠ちゅう烈れつ。