鄧傳楷於1912年 ねん 9月 がつ 7日 にち (農 のう 曆 れき 7月 がつ 26日 にち )子 こ 夜 よる ,生 なま 於江蘇 ちぁんすー 省 しょう 江 こう 陰 かげ 縣南 けんなん 門外 もんがい 高橋 たかはし 石子 いしこ 街 がい (今 いま 88號 ごう )老 ろう 宅 たく [ 2] ,其家庭 かてい 為 ため 江南 こうなん 望 のぞむ 族 ぞく 。1926年 ねん ,鄧傳楷就讀於祝 しゅく 丹 に 卿 きょう 發起 ほっき 創 そう 辦的江 こう 陰 かげ 征 せい 存 そん 學院 がくいん ;1930年 ねん 畢業於江陰 かげ 南 みなみ 菁中學 ちゅうがく 高 だか 中 ちゅう ;1933年 ねん 於國立 こくりつ 暨南大學 だいがく 獲 え 法 ほう 學士 がくし 學位 がくい 。由 よし 於成績 せいせき 優 ゆう 異 こと ,經 けい 校長 こうちょう 鄭 てい 洪 ひろし 年 ねん 推薦 すいせん 到 いた 南京 なんきん 進入 しんにゅう 外交 がいこう 部 ぶ 亞 あ 洲 しゅう 司 し 第 だい 一 いち 科 か 任 にん 科 か 員 いん 。1934年 ねん 7月 がつ ,鄧傳楷外派 は 至 いたり 中華民國 ちゅうかみんこく 駐 ちゅう 美國 びくに 西 にし 雅 みやび 圖 ず 總領事館 そうりょうじかん ;駐 ちゅう 美 び 期間 きかん ,除 じょ 進行 しんこう 外交 がいこう 工作 こうさく 外 がい ,還 かえ 進入 しんにゅう 西 にし 雅 みやび 圖 ず 華 はな 盛 もり 頓 ひたぶる 大學 だいがく ,獲 え 經濟 けいざい 系 けい 碩 せき 士 し 、文學 ぶんがく 士 し 學位 がくい 。1936年 ねん 12月畢業後 ご ,調 しらべ 任 にん 駐 ちゅう 巴 ともえ 拿馬公使館 こうしかん 隨員 ずいいん 。
1937年 ねん 8月 がつ ,由 ゆかり 於八 はち 年 ねん 抗戰 こうせん 爆發 ばくはつ ,鄧傳楷攜家 か 兼 けん 程 ほど 返 かえし 回 かい 中國 ちゅうごく 大陸 たいりく ,任 にん 第 だい 九戰區挺進縱隊中校政治指導員,駐 ちゅう 防 ぼう 廣東 かんとん 五華縣大布鄉水寨村。1938年 ねん 部隊 ぶたい 換 かわ 防 ぼう 出 で 任 にん 第 だい 九戰區政治部上校組長,駐 ちゅう 地 ち 在 ざい 廣東 かんとん 省 しょう 興 きょう 甯水口 こう 。1939年 ねん ,遠 とお 戍潮 しお 安 やす 峙溪,後 ご 於役長 ちょう 沙 すな 衡山一帶 いったい ,又 また 轉進 てんしん 桂 かつら 林 はやし 陽 よう 朔 さく 七星 ななえ 岩 がん 。
後 こう 大軍 たいぐん 西 にし 轉 てん ,鄧傳楷赴重慶 たーちん 追隨 ついずい 時任 ときとう 國民黨 こくみんとう 秘書 ひしょ 長 ちょう 朱 しゅ 家 か 驊 ,轉任 てんにん 國民黨 こくみんとう 中央 ちゅうおう 訓練 くんれん 委員 いいん 會 かい 訓練 くんれん 團 だん 浙江 せっこう 省 しょう 訓練 くんれん 團 だん 教務 きょうむ 處 しょ 長 ちょう ,1942年 ねん 任 にん 國民黨 こくみんとう 江蘇 ちぁんすー 省 しょう 黨 とう 部 ぶ 執行 しっこう 委員 いいん 。1944年 ねん 江蘇 こうそ 全 ぜん 告 つげ 淪陷後 ご ,10月轉任 てんにん 教育 きょういく 部 ぶ 蘇 そ 浙戰區 く 巡 じゅん 迴教育 きょういく 團 だん 主任 しゅにん 兼 けん 國民黨 こくみんとう 中央 ちゅうおう 青年 せいねん 部 ぶ 秘書 ひしょ 。
1945年 ねん ,鄧傳楷出任 にん 安徽 あんき 屯 たむろ 溪 けい 私立 しりつ 上海 しゃんはい 法 ほう 學院 がくいん 及遷返 かえし 滬市上海 しゃんはい 法 ほう 學院 がくいん 教授 きょうじゅ ,並 なみ 受委派出 はしゅつ 任 にん 上海 しゃんはい 臨時 りんじ 大學 だいがく 教授 きょうじゅ ,組織 そしき 日 び 偽 にせ 學校 がっこう 的 てき 學生 がくせい 復 ふく 課 か ;又 また 任 にん 教育 きょういく 部 ぶ 青年 せいねん 失 しつ 學 がく 就業 しゅうぎょう 輔導 ほどう 委員 いいん 、中央 ちゅうおう 訓練 くんれん 團 だん 教育 きょういく 人員 じんいん 訓練 くんれん 班 はん 上海 しゃんはい 分 ぶん 班 はん 副 ふく 主任 しゅにん ,10月 がつ 10日 とおか 獲 え 頒抗戰 こうせん 勝利 しょうり 勳章 くんしょう 。1946年 ねん 3月 がつ 任 にん 國民 こくみん 政府 せいふ 上海 しゃんはい 市 し 參 さん 議員 ぎいん 。5月就任 しゅうにん 國民黨 こくみんとう 上海 しゃんはい 第 だい 十 じゅう 八 はち (提 ひさげ 籃橋)區 く 黨 とう 部 ぶ 第 だい 三 さん 屆 とどけ 常務 じょうむ 委員 いいん ,10月 がつ 卸 おろし 任 にん 。同年 どうねん 夏季 かき ,鄧傳楷任教育 きょういく 部 ぶ 上海 しゃんはい 師資 しし 訓練 くんれん 所 しょ 主任 しゅにん ;1948年 ねん 12月轉任 てんにん 教育 きょういく 部 ぶ 總務 そうむ 司 し 第 だい 二 に 任 にん 司 し 長 ちょう 。
1949年 ねん 1月 がつ 政府 せいふ 遷入廣東 かんとん 省 しょう 後 ご ,鄧傳楷於3月 がつ 卸 おろし 任 にん 總務 そうむ 司 し 長 ちょう ,並 なみ 由 よし 教育 きょういく 部長 ぶちょう 朱 しゅ 家 か 驊任命 にんめい 為 ため 國立 こくりつ 英 えい 士 し 大學 だいがく 校長 こうちょう ;時 じ 政治 せいじ 局 きょく 勢 いきおい 動 どう 盪,鄧任校長 こうちょう 期間 きかん 變 へん 賣 うり 家產 かさん 籌措資金 しきん ,致力維持 いじ 校 こう 務 つとむ 運 うん 作 さく 。1949年 ねん 5月 がつ 他 た 帶 たい 領 りょう 一批教授及學生撤離金華抵達上海;25日 にち 上 じょう 午 うま 8時 じ 由 ゆかり 上海 しゃんはい 來 らい 臺 だい 。校友 こうゆう 在 ざい 臺 だい 集會 しゅうかい ,鄧傳楷以當時 とうじ 諸 しょ 同學 どうがく 生活 せいかつ 艱困,聚餐費用 ひよう 均 ひとし 由 よし 其支付 づけ ,當年 とうねん 校友 こうゆう 仍傳為 ため 佳話 かわ [ 3] 。
1949年 ねん 底 そこ ,鄧傳楷出任 にん 臺灣 たいわん 省 しょう 立 たて 師範 しはん 學校 がっこう 1949年度 ねんど 大 だい 專 せん 畢業生 せい 就業 しゅうぎょう 訓練 くんれん 班 はん 第 だい 一 いち 分 ふん 班 はん 主任 しゅにん ,協 きょう 助 すけ 安 やす 頓 ひたすら 全國 ぜんこく 各校 かくこう 流亡 りゅうぼう 來 らい 臺 だい 應 おう 屆 とどけ 畢業生 せい 。
1950年 ねん 11月17日 にち ,於國民黨 こくみんとう 中央 ちゅうおう 改造 かいぞう 委員 いいん 會 かい 第 だい 48次 じ 會議 かいぎ 中 ちゅう ,蔣中正 ちゅうせい 派 は 任 にん 鄧傳楷為改造 かいぞう 委員 いいん 會 かい 第 だい 一 いち 組 くみ 副 ふく 主任 しゅにん ;11月 がつ 20日 はつか 15時 じ ,出席 しゅっせき 中央 ちゅうおう 改造 かいぞう 委員 いいん 會 かい 第 だい 51次 じ 會議 かいぎ 就任 しゅうにん 。後 ご 又 また 任 にん 第 だい 二 に 組 くみ 副 ふく 主任 しゅにん 。1952年 ねん 10月 がつ 31日 にち 兼 けん 青年 せいねん 救國 きゅうこく 團 だん 首 くび 任 にん 副 ふく 主任 しゅにん 。
1953年 ねん 4月 がつ 15日 にち ,鄧傳楷就任 しゅうにん 臺灣 たいわん 省 しょう 教育廳 きょういくちょう 第 だい 三 さん 任 にん 廳 ちょう 長 ちょう 、省 しょう 政府 せいふ 委員 いいん 並 なみ 兼任 けんにん 臺灣 たいわん 省 しょう 黨 とう 部 ぶ 主任 しゅにん 。任 にん 職 しょく 期間 きかん 積極 せっきょく 整頓 せいとん 臺灣 たいわん 省 しょう 之 の 教育 きょういく 工作 こうさく ,包括 ほうかつ 成立 せいりつ 桃園 ももぞの 、新 しん 營 、鳳 おおとり 山 さん 等 とう 省 しょう 立中 たつなか 學 がく 。5月主持 しゅうもち 籌創臺灣 たいわん 省 しょう 立 たて 海事 かいじ 專 せん 科 か 學校 がっこう (現 げん 國立 こくりつ 臺灣 たいわん 海洋 かいよう 大學 だいがく ),廣 こう 植 うえ 航海 こうかい 管理 かんり 專 せん 才 ざい 。還 かえ 相 あい 繼 つぎ 成立 せいりつ 屏 へい 東 ひがし 農 のう 專 せん 、臺灣 たいわん 護 まもる 專 せん 等 とう 職業 しょくぎょう 學校 がっこう 。此時鄧傳楷還親 おや 自 じ 擔任 たんにん 臺灣 たいわん 省 しょう 立 たて 師範 しはん 學院 がくいん 中等 ちゅうとう 學校 がっこう 教師 きょうし 暑 あつ 期 き 講習 こうしゅう 班 はん 班 はん 主任 しゅにん ,加 か 強 きょう 教師 きょうし 培 つちかえ 訓 くん 。任 にん 內又主持 しゅうもち 分 ぶん 區 く 創 そう 辦臺灣 たいわん 省 しょう 立 たて 社會 しゃかい 教育 きょういく 館 かん ,計 けい 有 ゆう 臺東 たいとう 、新 しん 竹 たけ 、彰 あきら 化 か 、臺 たい 南市 みなみいち 等 とう 館 かん ,並 なみ 親 おや 自 じ 擔任 たんにん 臺 だい 南館 みなみたて 籌備委員 いいん 會 かい 主任 しゅにん 委員 いいん ,時 じ 社 しゃ 教 きょう 館 かん 對 たい 宣揚 せんよう 文化 ぶんか 、提 ひさげ 高 だか 民 みん 眾學識 がくしき 頗有裨益 ひえき ;同年 どうねん 6月 がつ 3日 にち 卸 おろし 任 にん 。
1954年 ねん 8月 がつ 18日 にち ,鄧傳楷出任 にん 中央 ちゅうおう 委員 いいん 會 かい 副 ふく 秘書 ひしょ 長 ちょう ,輔佐 ほさ 秘書 ひしょ 長 ちょう 張 ちょう 厲生 。1955年 ねん 6月 がつ 任 つとむ 中國 ちゅうごく 青年 せいねん 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう 訪問 ほうもん 土 ど 耳 みみ 其與西 にし 班 はん 牙 きば ,分別 ふんべつ 會見 かいけん 土 ど 耳 みみ 其總統 そうとう 傑 すぐる 拉 ひしげ 勒·拜 はい 亞 あ 爾 なんじ 及西班 はん 牙 きば 元首 げんしゅ 佛 ふつ 朗 ろう 哥 。歸國 きこく 翌日 よくじつ 蔣中正 せい 召集 しょうしゅう 中央 ちゅうおう 評議 ひょうぎ 委員 いいん 假 かり 臺北 たいぺい 賓 まろうど 館 かん 座談 ざだん ,坐 すわ 甫 はじめ 定 じょう ,蔣中正 せい 即 そく 點 てん 名 めい 「請鄧副 ふく 秘書 ひしょ 長 ちょう 傳 でん 楷同志 どうし 報告 ほうこく 土 ど 西之 にしの 行 ゆき 」,在 ざい 毫無準備 じゅんび 下作 げさく 重點 じゅうてん 報告 ほうこく 20多分 たぶん 鐘 がね ,蔣中正 せい 頗滿意 い 。散會 さんかい 之 これ 後 ご ,葉 は 公 おおやけ 超 ちょう 、鄭 てい 彥棻兩 りょう 委員 いいん 先後 せんご 拍 はく 肩 かた 獎稱「要 よう 得 とく 」、「精彩 せいさい 」。
1956年 ねん 2月 がつ 20日 はつか ,總統 そうとう 府 ふ 秘書 ひしょ 長 ちょう 張 ちょう 群 ぐん 爲 ため 《修訂 しゅうてい 政務 せいむ 軍事 ぐんじ 機關 きかん 年 ねん 終 おわり 考 こう 績呈閱及特 とく 保 ほ 最 さい 優 ゆう 人員 じんいん 晉 すすむ 見 み 辦法》請總統 そうとう 核 かく 示 しめせ ,3月5日 にち 蔣中正親 おうぎ 批「照 あきら 准 じゅん 」、並 なみ 加 か 書 しょ 一 いち 段 だん 「此可問 とい 中央 ちゅうおう 鄧副秘書 ひしょ 長 ちょう 」,由 ゆかり 此可見 み 蔣中正 ちゅうせい 對 たい 鄧傳楷的信任 しんにん 。1957年 ねん 5月 がつ ,鄧傳楷當選 とうせん 為 ため 聯合 れんごう 國 こく 中國 ちゅうごく 同志 どうし 會 かい 1957至 いたり 1958年 ねん 的 てき 理事 りじ ,並 なみ 於1960年 ねん 續 ぞく 任 にん 。1957年 ねん 10月 がつ 26日 にち ,於國民黨 こくみんとう 八屆一中全會連任中央委員會副秘書長。
第 だい 三屆亞運會中國代表團團長鄧傳楷
1956年 ねん 9月 がつ 14日 にち ,鄧傳楷擔任 たんにん 墨 すみ 爾 しか 本 ほん 奧 おく 運 うん 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう ;1957年 ねん 12月接 せっ 任 にん 中華 ちゅうか 全國 ぜんこく 體育 たいいく 協 きょう 進 しん 會 かい 理事 りじ 長 ちょう 、中國 ちゅうごく 奧 おく 林 りん 匹 ひき 克 かつ 委員 いいん 會 かい 主席 しゅせき 。
1958年 ねん 3月 がつ 6日 にち ,鄧傳楷擔任 たんにん 東京 とうきょう 亞 あ 運 うん 會 かい 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 籌備會 かい 主任 しゅにん ,在 ざい 5月 がつ 24日 にち 至 いたり 6月 がつ 1日 にち 賽 さい 事 ごと 期間 きかん ,楊傳廣 ひろ 於5月 がつ 29日 にち 打破 だは 亞 あ 運 うん 紀 き 錄 ろく 蟬聯十項全能運動冠軍金牌。
1959年 ねん 5月 がつ 25日 にち 至 いたり 28日 にち 出席 しゅっせき 在 ざい 西 にし 德 とく 慕尼黑 くろ 召開的 てき 第 だい 55屆 とどけ 國際 こくさい 奧 おく 林 りん 匹 ひき 克 かつ 委員 いいん 會 かい 年會 ねんかい ,6月 がつ 8日 にち 緊急 きんきゅう 召開中國 ちゅうごく 奧 おく 林 りん 匹 ひき 克 かつ 委員 いいん 會 かい 臨時 りんじ 會議 かいぎ 。
1960年 ねん 2月 がつ 18日 にち 至 いたり 28日 にち 斯闊谷 たに 冬 ふゆ 奧 おく 期間 きかん ,鄧傳楷率中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 進行 しんこう 觀 かん 摩 ま ,為 ため 中華民國 ちゅうかみんこく 在 ざい 冬 ふゆ 奧 おく 會 かい 上 じょう 出現 しゅつげん 開 ひらけ 了 りょう 先 さき 河 かわ 。
1960年 ねん 7月 がつ 21日 にち ,鄧傳楷擔任 たんにん 羅 ら 馬 うま 奧 おく 運 うん 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう ,為 ため 中華民國 ちゅうかみんこく 奧 おく 運 うん 代表 だいひょう 團 だん 作 さく 賽 さい 前 ぜん 準備 じゅんび 和 わ 安 やす 排 はい 在 ざい 8月 がつ 25日 にち 至 いたり 9月 がつ 11日 にち 賽 さい 事 ごと 期間 きかん ,楊傳廣 こう 獲 え 十 じゅう 項 こう 全能 ぜんのう 銀牌 ぎんぱい ,不 ふ 僅是中華民國 ちゅうかみんこく 自 じ 1924年 ねん 5月 がつ 首 くび 次 じ 出現 しゅつげん 在 ざい 法 ほう 國 こく 巴 ともえ 黎 はじむ 第 だい 8屆 とどけ 奧 おく 運 うん 會 かい 賽 さい 場 じょう 上 じょう 以來 いらい 獲得 かくとく 的 てき 第 だい 一 いち 枚 まい 奧 おく 運 うん 獎牌,也是本 ほん 屆 とどけ 奧 おく 運 うん 會 かい 上 じょう 亞 あ 洲 しゅう 運動 うんどう 員 いん 獲得 かくとく 的 てき 唯一 ゆいいつ 一枚田 いちまいだ 徑 みち 獎牌。當 とう 奧 おく 運 うん 比 ひ 賽 さい 結束 けっそく ,鄧傳楷率團 だん 回 かい 到 いた 臺北 たいぺい 時 じ ,受到民 みん 眾夾道 どう 歡迎 かんげい ,熱情 ねつじょう 獻花 けんか ,盛大 せいだい 的 てき 場面 ばめん 隆重 たかしげ 而熱烈 ねつれつ ,媒體 ばいたい 接 せっ 連 れん 進行 しんこう 了 りょう 報 ほう 導 みちびけ ,蔣中正 せい 夫婦 ふうふ 特 とく 地 ち 在 ざい 臺北 たいぺい 陽明 ようめい 山 さん 總統 そうとう 官邸 かんてい 召見鄧傳楷、代表 だいひょう 團 だん 高級 こうきゅう 人員 じんいん 與 あずか 楊傳廣 こう 等 とう 選手 せんしゅ 。在 ざい 羅 ら 馬 うま 奧 おく 運 うん 後 ご ,鄧傳楷請辭 じ 體 たい 協會 きょうかい 理事 りじ 長 ちょう 及國家奧 いえおく 會 かい 主席 しゅせき 。
1956年 ねん 7月 がつ 為 ため 彰 あきら 化 か 縣 けん 精 せい 誠 まこと 中學 ちゅうがく 首 くび 屆 とどけ 董 ただし 事 こと 長 ちょう 。1957年 ねん 6月 がつ 14日 にち 原 はら 上海 しゃんはい 私立 しりつ 正德 しょうとく 技術 ぎじゅつ 職業 しょくぎょう 學校 がっこう 在 ざい 臺 だい 復 ふく 校 こう 為 ため 私立 しりつ 南山 なんざん 工業 こうぎょう 職業 しょくぎょう 學校 がっこう ,任 にん 復 ふく 校 こう 董 ただし 事 こと 會 かい 第 だい 一屆首席董事;是 ぜ 年 ねん 在 ざい 臺北 たいぺい 縣 けん 蘆 あし 洲 しゅう 鄉 きょう 建立 こんりゅう 道 どう 南中 なんちゅう 學 がく (後 ご 稱 しょう 國立 こくりつ 僑生大學 だいがく 先 さき 修 おさむ 班 はん )擔任 たんにん 校長 こうちょう 。為 ため 了 りょう 緬 はる 懷 ふところ 吳 ご 稚 やや 暉 あきら ,1958年 ねん 擇 よ 定 てい 其最後 ご 養 やしなえ 病 びょう 之 の 嘉 よしみ 義 よし 市 し 彌 わたる 陀寺北側 きたがわ 為 ため 校 こう 址 し ,和 わ 李 り 石 いし 曾共同 きょうどう 發起 ほっき 籌創私立 しりつ 稚 やや 暉 あきら 初級 しょきゅう 中學 ちゅうがく ;是 ぜ 年 ねん 和 わ 革命 かくめい 實踐 じっせん 研究 けんきゅう 院 いん 中興 ちゅうこう 山莊 さんそう 分 ぶん 院 いん 主任 しゅにん 任 にん 覺 さとし 籌辦「木柵 もくさく 鄉 きょう 基層 きそう 民生 みんせい 建設 けんせつ 中心 ちゅうしん 輔導 ほどう 委員 いいん 會 かい 」,並 なみ 籌辦「木柵 もくさく 中山 なかやま 小學 しょうがく 附設 ふせつ 托 たく 兒 じ 所 しょ 」。1961年 ねん 3月 がつ 3日 にち ,鄧傳楷出任 にん 教育 きょういく 部 ぶ 政務 せいむ 次長 じちょう ,期間 きかん 推動九 きゅう 年 ねん 國民 こくみん 義務 ぎむ 教育 きょういく ,設立 せつりつ 五 ご 年 ねん 制 せい 專 せん 科 か ,興 きょう 辦夜 よる 間 あいだ 部 ぶ ,增 ぞう 列 れつ 體育 たいいく 預 あずか 算 さん 並 なみ 從 したがえ 速 そく 擬 なずらえ 出 で 全 ぜん 民 みん 體育 たいいく 政策 せいさく 。因 よし 表現 ひょうげん 傑出 けっしゅつ ,獲 え 蔣中正 せい 總統 そうとう 親授 しんじゅ 一等 いっとう (特種 とくしゅ 大 だい 綬)景 けい 星 ぼし 勳章 くんしょう 。
1962年 ねん 4月 がつ 任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 首席 しゅせき 代表 だいひょう 出席 しゅっせき 日本 にっぽん 東京 とうきょう 第 だい 1屆 とどけ 亞 あ 洲 しゅう 區域 くいき 教育 きょういく 部長 ぶちょう 會議 かいぎ ,昭和 しょうわ 天皇 てんのう 及皇后 こうごう 特別 とくべつ 召見,中華民國 ちゅうかみんこく 駐 ちゅう 日 び 大使 たいし 張 ちょう 厲生亦 また 前 ぜん 往。8月行 ぎょう 經 けい 美國 びくに 西 にし 雅 みやび 圖 ず ,適 てき 逢舉辦以未來 みらい 歲月 さいげつ 為 ため 主題 しゅだい 的 てき 世界 せかい 博覽 はくらん 會 かい ,美國 びくに 國務 こくむ 院 いん 指 ゆび 派 は 司 し 員 いん 陪同參觀 さんかん ,入門 にゅうもん 處 しょ 萬 まん 千觀眾摩肩接踵,有 ゆう 鵠 くぐい 候 こう 已 やめ 達 たち 兩 りょう 小 しょう 時 じ 者 しゃ ;鄧次長等 ながら 由 よし 貴賓 きひん 室 しつ 進入 しんにゅう ,處處 しょしょ 優先 ゆうせん ,禮遇 れいぐう 甚隆。中華民國 ちゅうかみんこく 館 かん 展 てん 品 ひん 以手工藝 こうげい 及絲茶 ちゃ 名產 めいさん 為 ため 主 ぬし 。應 おう 美國 びくに 國務 こくむ 院 いん 邀請,9月10日 にち 下 か 午 うま 偕臺灣 たいわん 省 しょう 教育廳 きょういくちょう 副 ふく 廳 ちょう 長 ちょう 賴 よりゆき 順 じゅん 生 せい 參加 さんか 中 ちゅう 美文 びぶん 化 か 基金 ききん 年會 ねんかい 、參觀 さんかん 美國 びくに 教育 きょういく 設 しつらえ 施 ほどこせ 、考察 こうさつ 美國 びくに 中等 ちゅうとう 職業 しょくぎょう 教育 きょういく ,之 これ 鑂來迎 らいごう 。在 ざい 紐 ひも 約 やく 參觀 さんかん 海 うみ 德 とく 公園 こうえん 美國 びくに 故 こ 總統 そうとう 羅 ら 斯福之 これ 舊居 きゅうきょ 。參觀 さんかん 美國 びくに 田 た 納 おさめ 西 にし 復興 ふっこう 委員 いいん 會 かい 。參觀 さんかん 白 はく 宮 みや ,訪問 ほうもん 國會 こっかい ,拜 はい 會 かい 密 みつ 蘇 そ 里 さと 州 しゅう 教育廳 きょういくちょう 長 ちょう 。在 ざい 威 い 斯康辛 からし 州 しゅう 十字 じゅうじ 城 じょう 考察 こうさつ 教育 きょういく ,與 あずか 中華民國 ちゅうかみんこく 留學生 りゅうがくせい 聚談。經 けい 芝 しば 加 か 哥時 とき ,曾下榻於希 まれ 爾 しか 頓 ひたぶる 酒 しゅ 店 てん 投資 とうし 之 の 棕樹屋 や 旅館 りょかん 。11月11日 にち 返 かえし 臺北 たいぺい 。後 こう 大力 だいりき 催生專 せん 科 か 技 わざ 職 しょく 體系 たいけい 的 てき 誕生 たんじょう ,成就 じょうじゅ 了 りょう 後來 こうらい 的 てき 「復興 ふっこう 工 こう 專 せん 」、「中國 ちゅうごく 海 うみ 專 せん 」、「世界 せかい 工 こう 商 しょう 」以及「大同 だいどう 商 しょう 專 せん 」四 よん 所 しょ 專 せん 校 こう 。12月31日 にち 被 ひ 行政 ぎょうせい 院長 いんちょう 陳 ちん 誠 まこと 聘為國家 こっか 長期 ちょうき 發展 はってん 科學 かがく 委員 いいん 會 かい 委員 いいん ,以後 いご 又 また 被 かむ 吳 ご 大 だい 猷 聘為該會常務 じょうむ 委員 いいん 、科學 かがく 教育 きょういく 委員 いいん 會 かい 召集 しょうしゅう 人 じん ,1969年 ねん 1月 がつ 22日 にち 辭 じ 。
1963年 ねん 12月21日 にち 被 ひ 蔣中正 せい 總統 そうとう 續 ぞく 任 にん 教育 きょういく 部 ぶ 次長 じちょう ,是 ぜ 年 ねん 被 ひ 國防 こくぼう 部長 ぶちょう 俞大維 聘為文武 ぶんぶ 轉任 てんにん 比 ひ 敍 じょ 研究 けんきゅう 委員 いいん 會 かい 副 ふく 主任 しゅにん 。又 また 任 にん 修訂 しゅうてい 師範 しはん 學校 がっこう 課程 かてい 標準 ひょうじゅん 委員 いいん 會 かい 副 ふく 主任 しゅにん 。
1964年 ねん 4月 がつ 6日 にち 在 ざい 臺北 たいぺい 市 し 南海 なんかい 路 ろ 復興 ふっこう 大 だい 樓 ろう 以觀察 かんさつ 員 いん 身 み 份參加 さんか 中華 ちゅうか 教育 きょういく 文化 ぶんか 基金 ききん 董 ただし 事 こと 會 かい 第 だい 33屆 とどけ 年會 ねんかい 。7月21日 にち 至 いたり 8月 がつ 19日 にち 任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 首席 しゅせき 代表 だいひょう 偕臺灣 たいわん 省議 しょうぎ 會 かい 議長 ぎちょう 謝 しゃ 東 ひがし 閔 、臺灣 たいわん 省 しょう 立 たて 師範 しはん 大學 だいがく 教務 きょうむ 長 ちょう 宗 そう 亮 あきら 東 ひがし 出席 しゅっせき 巴 ともえ 黎 はじむ 世界 せかい 教師 きょうし 組織 そしき 會議 かいぎ 13屆 とどけ 年會 ねんかい 及前往夏 なつ 威 たけし 夷 えびす 參加 さんか 國際 こくさい 文化 ぶんか 經濟 けいざい 中心 ちゅうしん 開幕 かいまく 典禮 てんれい 。路 みち 過 か 印度 いんど 加 か 爾 なんじ 各 かく 答 こたえ ,越 えつ 南 みなみ 教育 きょういく 部 ぶ 長 なが 裴祥勳 くん 聞之,特 とく 囑 しょく 當地 とうち 僑領吳 ご 某 ぼう 約 やく 鄧次長 ちょう 會談 かいだん 。曾偕宗 そう 亮 あきら 東 ひがし 冒險 ぼうけん 進入 しんにゅう 約 やく 旦 だん 與 あずか 以色列 れつ 兩 りょう 軍 ぐん 對 たい 壘 るい 中立 ちゅうりつ 地帶 ちたい ,道 みち 經 けい 耶路撒冷 聖地 せいち 瞻仰耶蘇 やそ 手植 てうえ 之 の 樹 き 。在 ざい 法 ほう 國 こく 參觀 さんかん 凡爾賽 さい 宮 みや 、羅 ら 浮宮 、拿破崙加冕圖 。自 じ 巴 ともえ 黎 はじむ 乘 の 班 はん 機 き 赴蘇 そ 黎 はじむ 克 かつ 。經 けい 羅 ら 馬 うま 近郊 きんこう 勝地 しょうち Tivoli ,參觀 さんかん 維也納 おさめ 奧地 おくち 利 り 國會 こっかい 大廈 たいか 。8月13日 にち 道 どう 經 けい 柏 かしわ 林 りん ,再度 さいど 訪問 ほうもん 西 にし 德 いさお ,由 ゆかり 法 ほう 蘭 らん 克 かつ 福 ぶく 入口 いりくち ,德 とく 政府 せいふ 以貴賓 きひん 之 の 禮 れい 相 しょう 待 まて ,免除 めんじょ 入 にゅう 境 さかい 檢 けん 查之繁 しげる 文 ぶん 縟節,各 かく 報 ほう 記者 きしゃ 蜂 はち 擁 よう 而至,次 じ 日 び 各 かく 大 だい 報 ほう 紙 し 披載訪 おとずれ 德 とく 消息 しょうそく 。又 また 當 とう 日下 くさか 午 うま ,駐 ちゅう 比 ひ 文化 ぶんか 參事 さんじ 郭 かく 有 ゆう 守 もり 陪同至 いたり 國立 こくりつ 博物館 はくぶつかん ,為 ため 張 ちょう 大 だい 千 せん 書畫 しょが 展覽 てんらん 會 かい 揭幕,電 でん 視 し 臺 だい 攝 と 製 せい 新聞 しんぶん ,不 ふ 兩 りょう 小 しょう 時 じ ,返 かえし 抵賓館 かん ,所 しょ 攝 と 新 しん 聞已在 ざい 電 でん 視 し 節目 ふしめ 內播放,在國 ざいこく 外 がい 看 み 本身 ほんみ 鏡 きょう 頭 あたま ,頻 しき 添不少 しょう 樂 らく 趣 おもむき 。在 ざい 德 とく 國 こく 參觀 さんかん 哥德大學 だいがく 。又 また 自 じ 阿 おもね 姆斯特 とく 丹 に 乘 の 火 ひ 車 しゃ 赴海 うみ 牙 きば ,至 いたり 比 ひ 利 り 時 じ 布 ぬの 魯塞爾 なんじ 。8月23日 にち 至 いたり 9月 がつ 1日 にち 任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 首席 しゅせき 代表 だいひょう 出席 しゅっせき 法 ほう 國 こく 南部 なんぶ 格 かく 蘭 らん 諾 だく 堡聯合 れんごう 國教 こっきょう 科 か 文 ぶん 組織 そしき 籌備經年 けいねん 73國 こく 第 だい 一 いち 次 じ 國際 こくさい 青年 せいねん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ ,與 あずか 蘇 そ 聯 れん 代表 だいひょう 團 だん 長短 ちょうたん 兵 へい 相 しょう 接 せっ ,一再 いっさい 鬥爭,雅 まさ 擅詞令 れい ,予 よ 蘇 そ 聯 れん 代表 だいひょう 頗多難 なん 堪 こらえ ,世界 せかい 各國 かっこく 代表 だいひょう 掌 てのひら 聲 ごえ 熱烈 ねつれつ 。時 とき 列席 れっせき 有 ゆう 國際 こくさい 勞 ろう 工 こう 組織 そしき 、國際 こくさい 兒童 じどう 福利 ふくり 組織 そしき 、國際 こくさい 體育 たいいく 協會 きょうかい 、童子 どうじ 軍 ぐん 國際 こくさい 總 そう 部 ぶ 聯合 れんごう 國 こく 總 そう 部 ぶ 、聯合 れんごう 國 こく 同志 どうし 會 かい 國際 こくさい 總會 そうかい 、國際 こくさい 紅 べに 十 じゅう 字 じ 會 かい 等 とう 30個 こ 團體 だんたい ,極 きょく 一 いち 時 じ 之 の 盛 もり 。經 けい 檀 だん 香山 かやま ,市長 しちょう 白 はく 蘭 らん 特 とく 斯維夫婦 ふうふ 在 ざい 夏 なつ 威 たけし 夷 えびす 大 だい 飯店 はんてん 招待 しょうたい 晚餐 ばんさん 。10月10日 にち 至 いたり 24日 にち 第 だい 18屆 とどけ 東京 とうきょう 世 よ 運 うん 會 かい ,時 じ 為 ため 國際 こくさい 奧 おく 林 りん 匹 ひき 克 かつ 委員 いいん 會 かい 會議 かいぎ 代表 だいひょう ,10月16日 にち 出席 しゅっせき 東京 とうきょう 亞 あ 洲 しゅう 體育 たいいく 會議 かいぎ 及國際 こくさい 奧 おく 委 い 會議 かいぎ ,17日 にち 到 いた 亞 あ 運 うん 村 むら 參觀 さんかん 。是 ぜ 年 ねん 紐 ひも 約 やく 舉行世界 せかい 博覽 はくらん 會 かい ,亦 また 適 てき 逢其會 かい ,偕總領事 りょうじ 游 ゆう 建 けん 文 ぶん 前 ぜん 往參觀 かん ,亦 また 系 けい 處處 しょしょ 優先 ゆうせん 。中華民國 ちゅうかみんこく 館 かん 系 けい 三 さん 樓 ろう 宮殿 きゅうでん 式 しき ,紅 べに 牆綠瓦 かわら ,頗為別 べつ 致,且地點 てん 適中 てきちゅう ,遊 ゆう 人 じん 如織。展 てん 品 ひん 以漆、銅 どう 、絲 いと 茶 ちゃ 、宮 みや 燈 とう 手 しゅ 工藝 こうげい 品 ひん ,書畫 しょが 瓷器等 とう 藝術 げいじゅつ 品 ひん 為 ため 主 ぬし 。是 ぜ 年 ねん 路 ろ 過 か 新 しん 加 か 坡適逢當地 ち 發生 はっせい 動亂 どうらん 受阻機 き 場 じょう 。是 ぜ 年 ねん 在 ざい 丹 に 麥 むぎ 哥本哈根運河 うんが 艇 てい 中 ちゅう 遊覽 ゆうらん 。
1965年 ねん 5月 がつ 15日 にち 被 ひ 各界 かくかい 紀 き 念 ねん 國父 こくふ 百年誕辰籌備委員會主任王 おう 雲 くも 五 ご 聘為紀 き 念 ねん 館 かん 建築 けんちく 委員 いいん 會 かい 委員 いいん 。6月24日 にち 奉 たてまつ 薹 とう 教 きょう 字 じ 4447號 ごう 院 いん 令 れい 任 にん 中華民國 ちゅうかみんこく 首席 しゅせき 代表 だいひょう ,於7月 がつ 21日 にち 啓 けい 程 ほど ,赴東 ひがし 非 ひ 衣 ころも 索 さく 比 ひ 亞 あ 首都 しゅと 阿 おもね 迪 すすむ 斯阿貝 かい 巴 ともえ 非 ひ 洲 しゅう 館 かん ,出席 しゅっせき 7月 がつ 31日 にち 至 いたり 8月 がつ 7日 にち 世界 せかい 教師 きょうし 組織 そしき 聯合 れんごう 會 かい 61國 こく 第 だい 14屆 とどけ 代表 だいひょう 大會 たいかい 。自 じ 馬 うま 達 いたる 加 か 斯加至 いたり 肯尼亞 あ ,肯尼亞 あ 首都 しゅと 奈洛比 ひ 郊外 こうがい 國立 こくりつ 野獸 やじゅう 公園 こうえん ,曾雇車 しゃ 前 ぜん 往探勝 たんしょう 。7月 がつ 底 そこ 由衣 ゆい 索 さく 比 ひ 亞 あ 赴羅馬 ば ,路 みち 過 か 嚮往已 やめ 久 ひさ 的 てき 勝 かち 境 さかい 位 い 於瑞 みず 士 し 與 あずか 義 よし 大利 おおとし 交界之 の 科 か 摩 ま 湖 みずうみ ,鄰近尚 ひさし 有 ゆう 三 さん 湖 こ 更 さら 勝 しょう 一籌 いっちゅう ,湖 こ 中 ちゅう 有島 ありしま 曰「美麗 びれい 之 の 島 しま 」。經 けい 世界 せかい 聞名之 の 遊 ゆう 樂勝 らくしょう 地 ち 義 よし 大利 おおとし 拿波里 さと 城 しろ 對 たい 海 うみ Capri 島 しま 。8日 にち 道 どう 出 で 澳洲潘 はん 司 つかさ ,班 はん 機 き 凌 しのげ 晨4時 じ 始 はじめ 達 たち ,寄寓 きぐう 皇后 こうごう 飯店 はんてん 。9月8日 にち 至 いたり 19日 にち 出席 しゅっせき 中東 ちゅうとう 地區 ちく 伊 い 朗 ろう 首都 しゅと 德 とく 黑 くろ 蘭 らん 第 だい 一次召開聯合國科學教育文化組織各國教育部長會議,共 ども 到 いた 85國 こく 。伊 い 朗 ろう 國王 こくおう 巴 ともえ 勒維二 に 世 せい 爲 ため 萬 まん 王 おう 之 の 王 おう ,珍 ちん 珠 たま 八寳擁有世界第二大鑽石三百克拉,接見 せっけん 於波 なみ 斯皇宮 こうぐう ,一再 いっさい 握手 あくしゅ 。是 ぜ 月下 げっか 逹教育 きょういく 部 ぶ 薹 とう (54)高 こう 字 じ 第 だい 18249號令 ごうれい 准 じゅん 予 よ 籌設五 ご 年 ねん 制 せい 學校 がっこう ,主持 しゅうもち 籌創中國 ちゅうごく 海事 かいじ 專 せん 科 か 學校 がっこう (臺北 たいぺい 海洋 かいよう 技術 ぎじゅつ 學院 がくいん 前身 ぜんしん ),設 しつらえ 於薹北市 きたいち 士 し 林 はやし 區 く 中洲 なかず 里 さと 。12月1日 にち 被 ひ 蔣中正 ちゅうせい 派 は 任 にん 為 ため 中央 ちゅうおう 知識 ちしき 青年 せいねん 黨 とう 部 ぶ 第 だい 6屆 とどけ 委員 いいん 會 かい 委員 いいん 、主任 しゅにん 委員 いいん 。
1966年 ねん 9月 がつ 9日 にち 獲 え 頒一等 いっとう 實踐 じっせん 獎章 。12月9日 にち 至 いたり 20日 にち 第 だい 五 ご 屆 とどけ 亞 あ 洲 しゅう 運動會 うんどうかい 在 ざい 泰 たい 國 こく 曼谷國家 こっか 運動 うんどう 場 じょう 舉行,時 じ 為 ため 亞 あ 洲 しゅう 運動 うんどう 協會 きょうかい 委員 いいん 。1967年 ねん 7月 がつ 28日 にち 聘為中華 ちゅうか 文化 ぶんか 復興 ふっこう 運動 うんどう 推行委員 いいん 會 かい 首 くび 任 にん 委員 いいん 。7月 がつ 任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 首席 しゅせき 代表 だいひょう 出席 しゅっせき 加 か 拿大溫 ゆたか 哥華世界 せかい 教師 きょうし 組織 そしき 聯合 れんごう 會 かい 16屆 とどけ 代表 だいひょう 大會 たいかい 。11月26日 にち 又 また 被 ひ 中華 ちゅうか 文化 ぶんか 復興 ふっこう 運動 うんどう 推行委員 いいん 會 かい 會長 かいちょう 蔣中正 せい 聘為該會教育 きょういく 改革 かいかく 促進 そくしん 暨國民 こくみん 生活 せいかつ 輔導 ほどう 委員 いいん 會 かい 研究 けんきゅう 委員 いいん ,12月22日 にち 再 さい 聘為該會基金 ききん 委員 いいん 會 かい 研究 けんきゅう 委員 いいん 。1968年 ねん 2月 がつ 26日 にち 再 さい 聘為文化 ぶんか 復興 ふっこう 會 かい 學術 がくじゅつ 研究 けんきゅう 出版 しゅっぱん 促進 そくしん 委員 いいん 會 かい 研究 けんきゅう 委員 いいん 。6月22日 にち 下 か 午 うま 國際 こくさい 大學 だいがく 校長 こうちょう 協會 きょうかい 主席 しゅせき 薩瑪丁 ひのと 諾 だく 博士 はかせ 拜 はい 訪 おとずれ 鄧次長 ちょう 。9月1日 にち 主持 しゅうもち 教育 きょういく 部 ぶ 正式 せいしき 實施 じっし 九 きゅう 年 ねん 國民 こくみん 義務 ぎむ 教育 きょういく ,蔣中正親 おうぎ 自 じ 提出 ていしゅつ ,再 さい 次 つぎ 頒景 けい 星 ぼし 勳章 くんしょう 。12月4日 にち 被 ひ 教育 きょういく 部長 ぶちょう 閻振興 しんこう 聘為教育 きょういく 部 ぶ 學術 がくじゅつ 審議 しんぎ 委員 いいん 會 かい 委員 いいん 。12月5日 にち 卸 おろし (鍾皎光 こう 繼 つぎ )任 にん 教育 きょういく 部 ぶ 次長 じちょう 。
1969年 ねん 4月 がつ 25日 にち 被 ひ 教育 きょういく 部長 ぶちょう 閻振興 しんこう 聘為當年度 とうねんど 公 こう 自費 じひ 留學 りゅうがく 考試 こうし 委員 いいん 會 かい 委員 いいん 。9月9日 にち 續 ぞく 聘為中華 ちゅうか 文化 ぶんか 復興 ふっこう 運動 うんどう 推行委員 いいん 。1970年 ねん 1月 がつ 當選 とうせん 為 ため 中華民國 ちゅうかみんこく 國際 こくさい 教育 きょういく 研究 けんきゅう 會 かい 第 だい 10屆 とどけ 理事 りじ 。10月3日 にち 受聘當年度 とうねんど 中山 なかやま 獎學金 きん 考試 こうし 委員 いいん 會 かい 委員 いいん 。12月被 ひ 體 からだ 協會 きょうかい 理事 りじ 長 ちょう 楊森聘為第 だい 六屆亞洲運動會中華民國代表團籌備委員。1971年 ねん 4月 がつ 11日 にち 上 じょう 午 うま 中華民國 ちゅうかみんこく 孔 あな 孟 はじめ 學會 がっかい 在 ざい 臺北 たいぺい 市 し 中山 なかやま 堂 どう 光 こう 復 ふく 廳 ちょう 舉行11次 じ 會員 かいいん 大會 たいかい 並 なみ 改選 かいせん 12屆 とどけ 理 り 監事 かんじ 當選 とうせん 為 ため 常務 じょうむ 理事 りじ 。4月14日 にち 當選 とうせん 為 ため 中華民國 ちゅうかみんこく 國際 こくさい 教育 きょういく 研究 けんきゅう 會 かい 第 だい 11屆 とどけ 常務 じょうむ 理事 りじ 。4月28日 にち 受聘為 ため 中印 なかいん 緬 はる 文化 ぶんか 經濟 けいざい 協會 きょうかい 名譽 めいよ 副 ふく 理事 りじ 長 ちょう 。1972年 ねん 2月 がつ 當選 とうせん 為 ため 國際 こくさい 教 きょう 研 けん 會 かい 12屆 とどけ 理事 りじ 。是 ぜ 年 ねん 兩次 りょうじ 見 み 泰 たい 國 こく 國王 こくおう ,11月29日 にち 赴泰國 こく 曼谷接受 せつじゅ 國王 こくおう 贈 おく 勳 くん 。1973年 ねん 兼任 けんにん 中國 ちゅうごく 教育 きょういく 學會 がっかい 常務 じょうむ 理事 りじ 。是 ぜ 年 ねん 成 なり 為 ため 華僑 かきょう 協會 きょうかい 總會 そうかい 會員 かいいん 、並 なみ 當選 とうせん 監事 かんじ 、常務 じょうむ 監事 かんじ 。1975年 ねん 12月12日 にち 被 ひ 中華 ちゅうか 文化 ぶんか 復興 ふっこう 運動 うんどう 推行委員 いいん 會 かい 秘書 ひしょ 長 ちょう 谷 たに 鳳 おおとり 翔 しょう 繼續 けいぞく 聘為該會學術 がくじゅつ 研究 けんきゅう 出版 しゅっぱん 促進 そくしん 委員 いいん 。
1968年 ねん 11月27日 にち 被 ひ 蔣中正 せい 任 にん 為 ため 國民黨 こくみんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 會 かい 設計 せっけい 考 こう 核 かく 委員 いいん 會 かい 主任 しゅにん 委員 いいん 。12月5日 にち 上 じょう 午 うま 卸 おろし 任 にん 教育 きょういく 部 ぶ 繼 ままし 黃 き 季 き 陸 りく 就任 しゅうにん 設 しつらえ 考 こう 會 かい 主任 しゅにん 委員 いいん 。事前 じぜん 承 うけたまわ 蔣經國 こく 相 しょう 告 つげ ,略 りゃく 謂 いい 「總裁 そうさい 對 たい 傳 つて 楷以往任職 しょく 副 ふく 秘書 ひしょ 長期間 ちょうきかん ,非常 ひじょう 器 き 重 じゅう ,現 げん 有意 ゆうい 派 は 長 ちょう 設 しつらえ 考 こう 會 かい 」。中央 ちゅうおう 設 しつらえ 考 こう 會所 かいしょ 奉 たてまつ 延 のべ 攬之委員 いいん ,多 た 屬 ぞく 九州 きゅうしゅう 之 の 宿 やど 彥,當代 とうだい 名家 めいか 。越年 えつねん 蔣中正 ただし 在 ざい 陽明 ようめい 山 さん 中央 ちゅうおう 全會 ぜんかい 時 じ ,明言 めいげん 設 しつらえ 考 こう 會 かい 為 ため 中央 ちゅうおう 智 さとし 囊團者 しゃ 三 さん 次 じ 之 の 多 た 。1971年間 ねんかん 蔣經國 こく 邀鄧傳 でん 楷同乘 どうじょう 四人座小飛機自嘉義北返。1972年長 ねんちょう 設 しつらえ 考 こう 會 かい 爰曆五 ご 載 の ,5月15日 にち 設計 せっけい 考 こう 核 かく 委員 いいん 會 かい 、紀律 きりつ 委員 いいん 會 かい 合併 がっぺい 組成 そせい 中央 ちゅうおう 委員 いいん 會 かい 考 こう 核 かく 紀律 きりつ 委員 いいん 會 かい ,首 しゅ 任 にん 主任 しゅにん 委員 いいん ,敷 じき 陳 ひね 讜論,嚴肅 げんしゅく 紀律 きりつ ,獻 けんじ 替 がえ 群 ぐん 倫 りん ,謀 はかりごと 過 か 諸 しょ 卿 きょう 。1973年 ねん 4月 がつ 因 いん 督 とく 導 しるべ 增額 ぞうがく 中央 ちゅうおう 公職 こうしょく 人員 じんいん 及臺灣 たいわん 省 しょう 議員 ぎいん 縣 けん 市長 しちょう 輔選工作 こうさく ,圓滿 えんまん 達成 たっせい 任務 にんむ ,卓 たく 著 ちょ 功績 こうせき ,獲 え 頒三 さん 等 とう 實踐 じっせん 獎章。1976年 ねん 11月16日 にち 被 ひ 總統 そうとう 特 とく 聘為總統 そうとう 府 ふ 國策 こくさく 顧問 こもん 。1977年 ねん 4月 がつ 15日 にち 卸 おろし 考 こう 核 かく 紀律 きりつ 委員 いいん 會 かい 任 にん 。鄧傳楷分別 べつ 於1957年 ねん 10月 がつ 10日 とおか 、1963年 ねん 11月21日 にち 、1969年 ねん 4月 がつ 8日 にち 、1976年 ねん 11月17日 にち 、1981年 ねん 4月 がつ 3日 にち 任 にん 國民黨 こくみんとう 第 だい 8至 いたり 12屆 とどけ 全國 ぜんこく 代表 だいひょう 大會 たいかい 中央 ちゅうおう 委員 いいん ;1988年 ねん 7月 がつ 12日 にち 、1993年 ねん 8月 がつ 18日 にち 、1997年 ねん 8月 がつ 任 にん 國民黨 こくみんとう 13至 いたり 15屆 とどけ 全國 ぜんこく 代表 だいひょう 大會 たいかい 中央 ちゅうおう 評議 ひょうぎ 委員 いいん 。
1977年 ねん 4月 がつ 15日 にち 總統 そうとう 令 れい 特 とく 任 にん 考 こう 紀 き 會 かい 鄧主委 い 繼 つぎ 任 にん 第 だい 五 ご 屆 とどけ 銓敘部 ぶ 部長 ぶちょう ,事前 じぜん 自己 じこ 未 み 有 ゆう 所 しょ 聞,嗣承嚴 いむ 家 か 淦 あか 告知 こくち ,係 かかり 蔣經國 こく 推薦 すいせん ,並 なみ 力 りょく 言 げん 鄧傳楷有三 さん 大 だい 優 ゆう 點 てん ,足 そく 以勝任 にん 。而蔣經國 けいこく 始終 しじゅう 未 み 向 こう 鄧傳楷齒及。18日 にち 9時 じ 在 ざい 銓敘部 ぶ 禮 れい 堂 どう 舉行交接 こうせつ 典禮 てんれい ,由 ゆかり 考試 こうし 院 いん 副 ふく 院長 いんちょう 劉 りゅう 季 き 洪 ひろし 監 かん 交,院長 いんちょう 楊亮功 こう 、考試 こうし 委員 いいん 丁 ちょう 淑 よし 蓉在 ざい 場 ば 觀 かん 禮 れい ,前任 ぜんにん 部長 ぶちょう 韓 かん 忠 ただし 謨親 おや 自 じ 移 うつり 交。29日 にち 上 じょう 午 うま 在 ざい 臺北 たいぺい 市 し 三軍軍官俱樂部舉行總統府國父紀念月會上就職宣誓,總統 そうとう 嚴 げん 家 か 淦 あか 監 かん 誓 ちかい ,行政 ぎょうせい 院長 いんちょう 蔣經國 こく 握手 あくしゅ 致賀。乃增加 ぞうか 進 しん 修 おさむ 管 かん 道 どう ,修訂 しゅうてい 任 にん 職 しょく 辦法,玉 たま 尺 じゃく 量 りょう 才 ざい ,拔擢 ばってき 多士 たし ,蔚為國 こく 用 よう ,改革 かいかく 銓政,研 けん 訂 てい 有 ゆう 關 せき 條例 じょうれい 規 ぶんまわし 章 あきら ,嘉 よしみ 惠 めぐみ 退 すさ 休 きゅう 人員 じんいん 及其眷屬 けんぞく 。對 たい 於公教 きょう 人員 じんいん 的 てき 福利 ふくり 與 あずか 權益 けんえき 極度 きょくど 重視 じゅうし ,如起草 きそう 「公務 こうむ 人員 じんいん 眷屬 けんぞく 保險 ほけん 條例 じょうれい 」,提案 ていあん 修 おさむ 改 あらため 「公務 こうむ 人員 じんいん 退 すさ 休 きゅう 法案 ほうあん 」,以及私立 しりつ 學校 がっこう 教職員 きょうしょくいん 及其眷屬 けんぞく 參加 さんか 公 こう 保 たもて ,退 すさ 休 きゅう 後 ご 可 か 兼 けん 領 りょう 月 がつ 退 すさ 休 きゅう 金 きん 及一 いち 次 じ 退 すさ 休 きゅう 金 きん ,以及退休 きゅう 後 ご 再任 さいにん 職 しょく 不 ふ 必繳回 かい 退 すさ 休 きゅう 金 きん 等 とう 法案 ほうあん ,均 ひとし 在 ざい 他 た 任 にん 內完成 かんせい 。保險 ほけん 施行 しこう 後 ご ,曾陸續 ぞく 將 しょう 保險 ほけん 對象 たいしょう 擴大 かくだい 至 いたり 父母 ちちはは 及子女 おんな ,德澤 とくさわ 永留 ながどめ 全 ぜん 民 みん 。為 ため 便利 べんり 各 かく 類 るい 保險 ほけん 被 ひ 保險 ほけん 人 じん 就醫,廣 こう 設 しつらえ 醫療 いりょう 院 いん 所 しょ 及開辦夜間 あいだ 門 もん 診 み ,鄧部長 ちょう 還 かえ 在 ざい 晚 ばん 上 じょう 親 おや 自 じ 到 いた 門 もん 診 み 中心 ちゅうしん 巡視 じゅんし 。鄧部長 ちょう 對 たい 於各項 かくこう 銓審業務 ぎょうむ 之 これ 審 しん 查,曾有原則 げんそく 性 せい 指示 しじ :即 そく 有 ゆう 關 せき 公務 こうむ 人員 じんいん 權益 けんえき 者 しゃ ,如果在 ざい 可否 かひ 之 の 間 あいだ ,則 のり 儘量從 したがえ 「可 か 」的 てき 方面 ほうめん 去 さ 研究 けんきゅう ,融 とおる 其先世 よ 仁義 じんぎ 之 の 心 こころ 於國家 こっか 管理 かんり 之 の 中 なか ,留 とめ 恩澤 おんたく 於億 おく 萬 まん 之 これ 家 か 。惟 おもんみ 鄧部長 ちょう 對 たい 銓衡 せんこう 原則 げんそく ,往往 おうおう 堅持 けんじ 不 ふ 墮。某 ぼう 君 くん 為 ため 省 しょう 府廳 ふちょう 長 ちょう ,轉任 てんにん 部 ぶ 常務 じょうむ 次長 じちょう ,因 いん 其無公務員 こうむいん 任用 にんよう 資格 しかく ,一 いち 未 み 經 けい 考試 こうし ,二 に 未 み 經 けい 銓敘,一直均為聘任職務,雖位高 だか 薪 たきぎ 優 ゆう ,但 ただし 與 あずか 事務 じむ 官 かん 之 の 要件 ようけん 不 ふ 合 ごう ,兩人 りょうにん 均 ひとし 系 けい 熟 じゅく 友 とも ,磋商至 いたり 再 さい ,由 ゆかり 於法令 れい 明文 めいぶん 規定 きてい ,礙難破 なんぱ 例 れい ,鄧部長 ぶちょう 堅持 けんじ 原則 げんそく 。
1978年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 在 ざい 全國 ぜんこく 人事 じんじ 會報 かいほう 閉幕 へいまく 典禮 てんれい 演 えんじ 講 こう 。2月15日 にち 下 か 午 うま 國民黨 こくみんとう 11屆 とどけ 2中 ちゅう 全會 ぜんかい 任 にん 提案 ていあん 審 しん 查委員 いいん 會 かい 第 だい 三 さん 審 しん 查(黨 とう 的 てき 建設 けんせつ )組 ぐみ 第 だい 一 いち 會場 かいじょう 召集 しょうしゅう 人 じん 。9月1日 にち 連 れん 任 にん 第 だい 六 ろく 屆 とどけ 銓敘部 ぶ 部長 ぶちょう 。1979年 ねん 12月14日 にち 下 か 午 うま 國民黨 こくみんとう 11屆 とどけ 4中 ちゅう 全會 ぜんかい 舉行中 ちゅう 常 つね 委 い 選 せん 舉獲得 かくとく 提 ひさげ 名 めい 。1980年 ねん 2月 がつ 攜眷薄 うす 雲 くも 前 ぜん 往美國 こく 探 さがせ 親 おや ,會 かい 晤胞妹 いもうと 鄧慧文 ぶん 及幼女 おんな 鄧之玉 だま ,並 なみ 爲 ため 內眷七 なな 秩稱觴祝壽 ことぶき 。在 ざい 國民黨 こくみんとう 11屆 とどけ 5中 ちゅう 全會 ぜんかい 任 にん 決議 けつぎ 案 あん 整理 せいり 委員 いいん 會 かい 委員 いいん 、召集 しょうしゅう 人 じん 。1981年 ねん x月 つき 1日 にち 當選 とうせん 為 ため 中華 ちゅうか 倫理 りんり 教育 きょういく 學會 がっかい 第 だい 一 いち 屆 とどけ 常務 じょうむ 理事 りじ 。1982年 ねん 7月 がつ 7日 にち 被 ひ 教育 きょういく 部長 ぶちょう 朱 しゅ 滙森 聘為1982年 ねん 7月 がつ 1日 にち 至 いたり 1984年 ねん 6月 がつ 30日 にち 年度 ねんど 教育 きょういく 部 ぶ 學術 がくじゅつ 審議 しんぎ 委員 いいん 會 かい 第 だい 15屆 とどけ 名譽 めいよ 委員 いいん 。政務 せいむ 官 かん 原 はら 無 む 年齡 ねんれい 之 の 限 きり 制 せい ,但 ただし 鄧部長 ちょう 為 ため 提 ひさげ 攜後進 こうしん ,使 つかい 人事 じんじ 局長 きょくちょう 陳 ちん 桂 かつら 華 はな 有 ゆう 升 ます 遷機會 かい ,乃自向 こう 當局 とうきょく 引退 いんたい ,並 なみ 言 げん 不 ふ 必為其後路 ろ 費 ひ 心 しん 。不 ふ 計 けい 名 な 位 い ,不 ふ 願 ねがい 戀 こい 棧,自 じ 求 もとめ 引退 いんたい ,在 ざい 一般 いっぱん 官 かん 場 じょう 中 ちゅう ,尚 なお 不 ふ 多 た 見 み 。1983年 ねん 7月 がつ 18日 にち 前 まえ 往美國 こく 陪內眷薄雲 くも 治療 ちりょう 肺癌 はいがん 。1984年 ねん 6月 がつ 28日 にち 上 じょう 午 うま 在 ざい 考 こう 選 せん 部 ぶ 禮 れい 堂 どう 獲 え 考試 こうし 院長 いんちょう 劉 りゅう 季 き 洪 ひろし 頒服務 ふくむ 獎章。8月29日 にち 再度 さいど 受聘總統 そうとう 府 ふ 國策 こくさく 顧問 こもん ,備為諮詢 しじゅん 國事 こくじ 之 の 智 さとし 囊,輔弼 ほひつ 匡 ただし 襄 じょう ,獻策 けんさく 良 よ 多 た ,卓 たく 著 ちょ 勳 くん 猷。9月1日 にち 上 じょう 午 うま 卸 おろし 銓敘部長 ぶちょう (陳 ちん 桂 かつら 華 はな 繼 つぎ )任 にん ,任 にん 《中央日報 ちゅうおうにっぽう 》常駐 じょうちゅう 監察 かんさつ 人 じん 。退 すさ 休 きゅう 後 ご ,李 り 煥 以當年 ねん 蔣經國 こく 親筆 しんぴつ 手書 しゅしょ 「團 だん 務 つとむ 請示鄧副主任 しゅにん 」一文 いちぶん 公 こう 佈於《中央日報 ちゅうおうにっぽう 》。1988年 ねん 7月 がつ 赴美探 さがせ 親 しん 及歐州 おうしゅう 觀光 かんこう ,蒙 こうむ 趙 ちょう 克明 かつあき 巴 ともえ 黎 はじむ 款待 かんたい 、滕永康 やすし 英 えい 倫 りん 款待 かんたい 、傅 でん 維新 いしん 伉儷 こうれい 陪同遊覧 ゆうらん 比 ひ 、法 ほう 、瑞 みず 士 し 、西 にし 德 いさお ,盛 もり 情 じょう 至 いたり 感 かん 。1996年 ねん 5月 がつ 19日 にち 後 ご 未 み 續 ぞく 國策 こくさく 顧問 こもん 。
1961年 ねん 11月4日 にち 被 ひ 行政 ぎょうせい 院長 いんちょう 陳 ちん 誠 まこと 聘為國立 こくりつ 故 こ 宮 みや 博物 はくぶつ 院 いん 、中央 ちゅうおう 博物 はくぶつ 院 いん 共同 きょうどう 理事 りじ 會 かい 第 だい 6屆 とどけ 理事 りじ 。1964年 ねん 3月 がつ 7日 にち 被 ひ 行政 ぎょうせい 院長 いんちょう 嚴 げん 家 か 淦 あか 續 ぞく 為 ため 故 こ 宮 みや 、中央 ちゅうおう 博物 はくぶつ 院 いん 共同 きょうどう 理事 りじ 會 かい 第 だい 7屆 とどけ 理事 りじ 。1967年 ねん 8月 がつ 26日 にち 被 ひ 嚴 げん 院長 いんちょう 續 ぞく 為 ため 國立 こくりつ 故 こ 宮 みや 博物 はくぶつ 院 いん 管理 かんり 委員 いいん 會 かい 第 だい 2屆 とどけ 委員 いいん 。1969年 ねん 被 ひ 嚴 げん 院長 いんちょう 續 ぞく 為 ため 故 こ 宮 みや 管 かん 委 い 會 かい 第 だい 3屆 とどけ 委員 いいん 。1971年 ねん 10月 がつ 8日 にち 被 ひ 嚴 げん 院長 いんちょう 續 ぞく 為 ため 故 こ 宮 みや 管 かん 委 い 會 かい 第 だい 4屆 とどけ 委員 いいん 。1973年 ねん 10月 がつ 2日 にち 被 ひ 行政 ぎょうせい 院長 いんちょう 蔣經國 こく 續 ぞく 為 ため 故 こ 宮 みや 管 かん 委 い 會 かい 第 だい 5屆 とどけ 委員 いいん 。1978年 ねん 11月17日 にち 被 ひ 行政 ぎょうせい 院長 いんちょう 孫 まご 運 うん 璿續 ぞく 為 ため 故 こ 宮 みや 管 かん 委 い 會 かい 第 だい 7屆 とどけ 委員 いいん 。該職系 けい 無 む 薪 たきぎ 職位 しょくい ,甚至連 れん 開會 かいかい 時 じ 之 の 交通 こうつう 工具 こうぐ 也須自 じ 備。但 ただし 鄧委員 いいん 為 ため 維護國寶 こくほう ,不 ふ 遺 のこ 餘力 よりょく 。為 ため 避免國家 こっか 歷史 れきし 文物 ぶんぶつ 重寶 ちょうほう 古典 こてん 年 ねん 久 ひさ 風化 ふうか 、蟲 むし 咬腐蝕 ふしょく 、黴 かび 爛 ただれ 變質 へんしつ 、粘 ねば 連 れん 黏附等 とう 等 とう 情 じょう 形 がた ,鄧委員 いいん 特別 とくべつ 提議 ていぎ 須作成紀 しげのり 錄 ろく 、拍 はく 成 なり 照 あきら 片 へん 、分 ぶん 門別 もんべつ 類 るい 、裝 そう 訂 てい 成 なり 冊 さつ ,始 はじめ 免 めん 國寶 こくほう 滅失 めっしつ 、將 しょう 後 ご 成 なり 為 ため 無 む 所 しょ 依據 いきょ ,以為後 ご 來者 らいしゃ 作 さく 一 いち 交代 こうたい 。使 つかい 五 ご 千 せん 年 ねん 文化 ぶんか 結晶 けっしょう 垂 たれ 諸 しょ 久遠 くおん 。
鄧傳楷除了 りょう 公務 こうむ 外 がい ,也熱心 しん 投入 とうにゅう 童 わらわ 軍 ぐん 活動 かつどう 。1947年 ねん ,經 けい 中國 ちゅうごく 童子 どうじ 軍 ぐん 理事 りじ 會 かい 第 だい 5屆 とどけ 理事 りじ 長 ちょう 朱 しゅ 家 か 驊推薦 すいせん ,任命 にんめい 為 ため 中國 ちゅうごく 童子 どうじ 軍 ぐん 監事 かんじ 會 かい 第 だい 5屆 とどけ 執行 しっこう 秘書 ひしょ 。1953年 ねん 5月 がつ 17日 にち ,由 よし 教育 きょういく 部長 ぶちょう 程 ほど 天 てん 放 ひ 聘為中國 ちゅうごく 童子 どうじ 軍 ぐん 全國 ぜんこく 理事 りじ 會 かい 第 だい 6屆 とどけ 理事 りじ 。1958年 ねん 8月 がつ 出席 しゅっせき 菲律賓 まろうど 碧 あお 瑤 よう 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 運動 うんどう 組織 そしき 亞 あ 太 たい 區 く 第 だい 1屆 とどけ 教育 きょういく 國際 こくさい 會議 かいぎ 。1959年 ねん 7月 がつ 任 にん 菲律賓 まろうど 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 大 だい 露營 ろえい 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう ,於菲律 りつ 賓 まろうど 國家 こっか 公園 こうえん 馬 ば 奇 き 嶺 みね 營地舉辦,共 きょう 計 けい 536名 めい 代表 だいひょう 成員 せいいん ,並 なみ 於21日 にち 舉行盛大 せいだい 宴會 えんかい ,以中國 ちゅうごく 菜 さい 餚款待 かんたい 各國 かっこく 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 及舞龍 りゅう 弄 ろう 獅表演 えんじ 。
1964年 ねん 出席 しゅっせき 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 運動 うんどう 組織 そしき 亞 あ 太 たい 區 く 第 だい 4屆 とどけ 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ ;1965年 ねん 1月 がつ 任 つとむ 中國 ちゅうごく 童子 どうじ 軍 ぐん 總會 そうかい 第 だい 10屆 とどけ 常務 じょうむ 理事 りじ 。同年 どうねん 9月 がつ 26日 にち 至 いたり 10月 がつ 3日 にち 任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 首席 しゅせき 代表 だいひょう 出席 しゅっせき 墨 すみ 西 にし 哥城第 だい 20屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 教育 きょういく 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。1966年 ねん 至 いたり 1970年 ねん ,就任 しゅうにん 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 運動 うんどう 組織 そしき 亞 あ 太 たい 區 く 委員 いいん ,是 ぜ 中華民國 ちゅうかみんこく 擔任 たんにん 亞 あ 太 たい 區 く 委員 いいん 的 てき 第 だい 一人 ひとり 。同年 どうねん 10月 がつ ,於臺北市 きたいち 舉行世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 運動 うんどう 組織 そしき 亞 あ 太 たい 區 く 第 だい 5屆 とどけ 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ ,鄧傳楷任中華民國 ちゅうかみんこく 首席 しゅせき 代表 だいひょう 。1967年 ねん 8月 がつ 11至 いたり 17日 にち ,任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう 出席 しゅっせき 美國 びくに 西 にし 雅 みやび 圖 ず 第 だい 21屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。1968年 ねん 10月 がつ ,任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう 出席 しゅっせき 韓國 かんこく 漢 かん 城 じょう 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 運動 うんどう 組織 そしき 亞 あ 太 たい 區 く 第 だい 6屆 とどけ 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ ,並 なみ 當選 とうせん 亞 あ 太 たい 區 く 委員 いいん 會 かい 主席 しゅせき 兼 けん 財務 ざいむ 委員 いいん 會 かい 主席 しゅせき ,是 ぜ 中華民國 ちゅうかみんこく 擔任 たんにん 亞 あ 太 たい 區 く 主席 しゅせき 的 てき 第 だい 1人 ひとり 。1969年 ねん 7月 がつ 連 れん 任 にん 中國 ちゅうごく 童子 どうじ 軍 ぐん 總會 そうかい 11屆 とどけ 常務 じょうむ 理事 りじ 。8月1日 にち 上 じょう 午 うま 飛 ひ 泰 たい 國 こく 曼谷,主持 しゅうもち 亞 あ 太 たい 區 く 委員 いいん 會 かい ,並 なみ 偕亞太 たい 區 く 辦事處 しょ 主任 しゅにん 菲籍巴 ともえ 鐸列那 な (Padolina )視察 しさつ 東南 とうなん 亞 あ 各國 かっこく 童 わらわ 軍 ぐん 業務 ぎょうむ 。8月8日 にち 前 まえ 往吉隆 たかし 玻拜會 かい 馬 ば 來 らい 西 にし 亞 あ 童 わらわ 軍 ぐん 總會 そうかい 長 ちょう 薩通。8月21日 にち 至 いたり 27日 にち 以亞太 たい 區 く 主席 しゅせき 身 み 份、中華民國 ちゅうかみんこく 首席 しゅせき 代表 だいひょう 出席 しゅっせき 芬蘭奧 おく 它尼密 みつ (Otaniemi )第 だい 22屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ ,訪問 ほうもん 英國 えいこく 及美國 こく 童 わらわ 軍 ぐん 總會 そうかい 。
1970年 ねん 6月 がつ 30日 にち ,中國 ちゅうごく 童子 どうじ 軍 ぐん 總會 そうかい 理事 りじ 長 ちょう 鍾皎光 こう 任命 にんめい 鄧傳楷為第 だい 4次 じ 全國 ぜんこく 大 だい 露營 ろえい 籌備委員 いいん 。7月16日 にち 受聘為 ため 救國 きゅうこく 團 だん 暑 あつ 期 き 青年 せいねん 育 そだて 樂 らく 活動 かつどう 三 さん 民主 みんしゅ 議 ぎ 研究 けんきゅう 會 かい 主任 しゅにん 。同年 どうねん 8月 がつ ,以亞太 たい 區 く 主席 しゅせき 身 み 份赴瑞 みず 士 し 日 び 內瓦世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 局 きょく 出席 しゅっせき 專 せん 案 あん 審 しん 查會議 かいぎ ,並 なみ 赴紐西 にし 蘭 らん 威 い 靈 れい 頓 ひたぶる 主持 しゅうもち 亞 あ 太 たい 區 く 第 だい 7屆 とどけ 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。在任 ざいにん 內,每 まい 2年 ねん 赴海外 かいがい 參加 さんか 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。為 ため 感謝 かんしゃ 10餘 よ 年 ねん 先後 せんご 多 た 次 つぎ 率 りつ 領 りょう 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 參加 さんか 國際 こくさい 會議 かいぎ ,1971年 ねん 3月 がつ 5日 にち ,美國 びくに 童 わらわ 軍 ぐん 於臺北 たいぺい 市 し 中山 なかやま 堂 どう 致贈鄧傳楷最高 だか 榮譽 えいよ 銅 どう 豹 ひょう 獎一座 いちざ 。同年 どうねん 8月 がつ 2日 にち 至 いたり 10日 にち ,組 くみ 團 だん 至 いたる 日本 にっぽん 參與 さんよ 第 だい 13次 じ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 大 だい 露營 ろえい 。8月12日 にち 至 いたり 17日 にち 任 つとむ 中國 ちゅうごく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう 出席 しゅっせき 首 くび 次 じ 在 ざい 亞 あ 太地 たいじ 區 く 舉行的 てき 日本 にっぽん 第 だい 23屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。1972年 ねん 11月,任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう 出席 しゅっせき 菲律賓 まろうど 馬 ば 尼 あま 拉 ひしげ 亞 あ 太 たい 區 く 8屆 とどけ 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。1973年 ねん 1月 がつ 30日 にち ,教育 きょういく 部長 ぶちょう 蔣彥士 し 聘鄧傳 でん 楷為中國 ちゅうごく 童子 どうじ 軍 ぐん 第 だい 13屆 とどけ 常務 じょうむ 理事 りじ 。7月16日 にち 至 いたり 21日 にち 任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう ,出席 しゅっせき 首 くび 次 じ 在 ざい 非 ひ 洲 しゅう 地區 ちく 舉行的 てき 肯亞第 だい 24屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ ,對 たい 《童 わらわ 軍 ぐん 憲章 けんしょう 》作 さく 重大 じゅうだい 修訂 しゅうてい 。
1974年 ねん 6月 がつ 任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう 出席 しゅっせき 新 しん 加 か 坡童軍 ぐん 遠東 とおひがし 區 く 9屆 とどけ 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ ,由 ゆかり 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 委員 いいん 會 かい 榮譽 えいよ 主席 しゅせき 康 やすし 貝 かい 爾 しか 贈 おく 予 よ 鄧主席 しゅせき ——The Bronze Wolf 世界 せかい 銅 どう 狼 おおかみ 獎章 ,是 ぜ 中華民國 ちゅうかみんこく 獲 え 此殊榮 さかえ 的 てき 第 だい 一人 ひとり 。1975年 ねん 8月 がつ 8日 にち 至 いたり 15日 にち 任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう 攜眷薄 うす 雲 くも 出席 しゅっせき 丹 に 麥 むぎ 倫 りん 透 とおる 夫 おっと 特 とく (Lundtofte )87國 こく 25屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。1977年 ねん 7月 がつ 18日 にち 至 いたり 23日 にち 出席 しゅっせき 加 か 拿大蒙 こうむ 特 とく 婁81國 こく 26屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。1983年 ねん 7月 がつ 18日 にち 至 いたり 22日 にち 任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 團長 だんちょう 出席 しゅっせき 美國 びくに 密 みつ 歇根州 しゅう 底 そこ 特 とく 律 りつ 90國 こく 29屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 及陪內眷治 ち 病 びょう ,會議 かいぎ 主題 しゅだい :童 わらわ 軍 ぐん 運動 うんどう ——是 ぜ 促進 そくしん 國際 こくさい 彼此 ひし 瞭 あきら 解 かい ,增進 ぞうしん 友誼 ゆうぎ 的 てき 一種 いっしゅ 教育 きょういく 。1984年 ねん 10月 がつ 以貴賓 きひん 身 み 份赴紐 ひも 西 にし 蘭 らん 威 い 靈 れい 頓 ひたぶる 出席 しゅっせき 在 ざい 紐 ひも 西 にし 蘭 らん 國會 こっかい 舉行的 てき 童 わらわ 軍 ぐん 亞 あ 太 たい 區 く 14屆 とどけ 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。1985年 ねん 7月 がつ 15日 にち 至 いたり 19日 にち 任 つとむ 中華民國 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう 團 だん 顧問 こもん 出席 しゅっせき 德 とく 國 こく 慕尼黑 くろ 93國 こく 30屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。1986年 ねん 11月出席 しゅっせき 泰 たい 國 こく 曼谷童 わらわ 軍 ぐん 亞 あ 太 たい 區 く 15屆 とどけ 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 及訪問 ほうもん 瑞 みず 士 し 日 び 內瓦世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 總 そう 部 ぶ 。1987年 ねん 12月31日 にち 至 いたり 1988年 ねん 1月 がつ 9日 にち 組 ぐみ 團 だん 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 澳洲雪 ゆき 梨 なし 98國 こく 第 だい 16次 じ 15000人 にん 11天 てん 「滙集世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 於一堂 いちどう 」大 だい 露營 ろえい 。1月11日 にち 至 いたり 15日 にち 出席 しゅっせき 首 くび 次 じ 在 ざい 南半球 みなみはんきゅう 舉行的 てき 澳洲墨 すみ 爾 しか 本 ほん 77國 こく 31屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ ,會議 かいぎ 主題 しゅだい :生活 せいかつ 教育 きょういく 。1989年 ねん 7月 がつ 出席 しゅっせき 曼谷童 わらわ 軍 ぐん 亞 あ 太 たい 區 く 17屆 とどけ 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ 。1990年 ねん 7月 がつ 23日 にち 至 いたり 27日 にち 出席 しゅっせき 巴 ともえ 黎 はじむ 法 ほう 國 こく 總理 そうり 密 みつ 特 とく 朗 ろう 親臨 しんりん 主持 しゅうもち 的 てき 130國 こく 1120人 にん 32屆 とどけ 世界 せかい 童 わらわ 軍 ぐん 領袖 りょうしゅう 會議 かいぎ ,會議 かいぎ 主題 しゅだい :建設 けんせつ 未來 みらい 。9月出席 しゅっせき 德 とく 國法 こくほう 蘭 らん 克 かつ 福童 ふくどう 軍 ぐん 會議 かいぎ ,東西 とうざい 德 とく 合併 がっぺい 前 まえ ,再度 さいど 訪問 ほうもん 西柏 さいかし 林 りん ,圍 かこえ 牆已拆,與 あずか 東柏 ひがしかしわ 林 りん 已 やめ 通 どおり ,乃偕傅 でん 維新 いしん 驅 か 車 くるま 前 ぜん 往東德 とく 一 いち 行 ぎょう 。繞 にょう 道 どう 赴美國 こく 西 にし 雅 みやび 圖 ず 訪 おとずれ 舊 きゅう ,幺子之 これ 嘉 よしみ 駕 が 車 しゃ 隨行 ずいこう 。1994年 ねん 11月5日 にち 改 あらため 任 にん 中國 ちゅうごく 童 わらわ 軍 ぐん 總會 そうかい 18屆 とどけ 監事 かんじ 、常務 じょうむ 監事 かんじ 。
1974年 ねん 2月 がつ 鄧傳楷受世界 せかい 鄧氏宗 そう 親 ちかし 總會 そうかい 創 そう 會 かい 會長 かいちょう 鄧定遠 どお 將軍 しょうぐん 聘為世界 せかい 鄧氏宗 そう 親 ちかし 總會 そうかい 名譽 めいよ 理事 りじ 長 ちょう 。同時 どうじ 鄧傳楷也曾擔任 たんにん 世界 せかい 社 しゃ 、中華民國 ちゅうかみんこく 民意 みんい 測 はか 驗 けん 協會 きょうかい 、中馬 ちゅうま 文化 ぶんか 經濟 けいざい 協會 きょうかい 、暨南大學 だいがく 同 どう 學會 がっかい 等 とう 各 かく 組織 そしき 常務 じょうむ 理 り 監事 かんじ ,還 かえ 有 ゆう 華僑 かきょう 協會 きょうかい 總會 そうかい 監事 かんじ 長 ちょう [ 4] 、江 こう 陰 かげ 縣 けん 旅 たび 臺 だい 同鄉 どうきょう 會 かい 理事 りじ 長 ちょう 、江蘇 ちぁんすー 省 しょう 長江 ちょうこう 兩 りょう 岸 きし 旅 たび 臺 だい 縣 けん 市 し 敦 あつし 睦 むつみ 聯 れん 誼 よしみ 會 かい 永遠 えいえん 榮譽 えいよ 會長 かいちょう 、公務員 こうむいん 保險 ほけん 監理 かんり 委員 いいん 會 かい 主任 しゅにん 委員 いいん 與 あずか 《公 おおやけ 保 ほ 月刊 げっかん 》發行 はっこう 人 じん 。
全 ぜん 世界 せかい 各地 かくち 華僑 かきょう 分會 ぶんかい 開會 かいかい 時 じ ,必定 ひつじょう 風雨 ふうう 無 む 阻,準 じゅん 時 じ 出席 しゅっせき 。抑 そもそも 且週遊 ゆう 全 ぜん 球 たま 13次 じ ,單 たん 程 ほど 往返尚 ひさし 不 ふ 計 けい 在 ざい 內,歐 おう 、美 よし 、澳、紐 ひも 、東 ひがし 非 ひ 、西 にし 非 ひ 、東北 とうほく 亞 あ 、東南 とうなん 亞 あ 各國 かっこく 均 ひとし 有 ゆう 他 た 的 てき 足跡 あしあと ,促進 そくしん 中華民國 ちゅうかみんこく 外交 がいこう 。
1980年 ねん 秋 あき ,江 こう 陰 かげ 南 みなみ 菁書院 いん 將 しょう 屆 とどけ 百 ひゃく 齡 よわい ,於是南 みなみ 菁高中在 なかざい 臺灣 たいわん 校友 こうゆう ──祝 しゅく 樞 くるる 壽 ことぶき 、向 むかい 英華 えいか 、鄧傳楷、鄭 てい 長 ちょう 齢 よわい 、莊 そう 漢 かん 開 ひらく ──等 とう 五人組成江蘇公立南菁中學校友會籌備委員會。1983年 ねん 10月 がつ 2日 にち 上 じょう 午 うま ,在 ざい 臺北 たいぺい 市 し 自由 じゆう 之 の 家 いえ 博愛 はくあい 廳 ちょう 正式 せいしき 成立 せいりつ 大會 たいかい ,向 むかい 英華 えいか 、鄧傳楷致辭 じ ,產 さん 生 せい 校友 こうゆう 會 かい 幹事 かんじ 向 むかい 英華 えいか 、祝 しゅく 樞 くるる 壽 ことぶき 、鄧傳楷等9人 にん 。2002年 ねん 10月 がつ 27日 にち ,又 また 逢南菁建校 こう 120週 しゅう 年 ねん ,鄧傳楷長公子 こうし 鄧之鑂 代表 だいひょう 父親 ちちおや 赴母校 こう 贈 おく 送 おく 了 りょう 父親 ちちおや 親筆 しんぴつ 題 だい 的 てき 《景 けい 印 しるし 江 こう 陰 かげ 縣 けん 誌 し 》,表 ひょう 達 たち 了 りょう 鄧傳楷對母校 ぼこう 的 てき 一片 いっぺん 心願 しんがん 和 わ 思念 しねん 。
1999年 ねん 1月 がつ 3日 にち ,鄧傳楷病逝[ 1] ,並 なみ 於2月 がつ 6日 にち 公 おおやけ 祭 さい ,安 やす 奉 たてまつ 南港 なんこう 富 とみ 德 とく 墓 はか 園 えん 。同年 どうねん 3月 がつ 26日 にち ,由 ゆかり 時任 ときとう 總統 そうとう 李 り 登輝 とうき 明 あかり 令 れい 褒揚[ 5] 。