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尚圓王 - 維基百科,自由的百科全書

なおえん琉球りゅうきゅうなおえんなおえんショーイン Shō In ?;1415ねん—1476ねんこれ琉球りゅうきゅうこくだいしょう王朝おうちょうてきだいいちだい國王こくおう,也是琉球りゅうきゅうこく歷史れきしじょうだいなな國王こくおう。1469ねんいたり1476ねん在位ざいい即位そくいぜん原名げんめい金丸かねまる琉球りゅうきゅう金丸かねまるカナマル Kanamaru),わらわめいおもえとくきん琉球りゅうきゅうおもえとくきんおもえとくきんウムトゥクカニ Umutukukani),かみごう金丸かねまる按司添末續すえつぎおう仁子さとこ琉球りゅうきゅう金丸かねまる按司添末續すえつぎおう仁子さとこ金丸かねまる按司添末続すえつぎおう仁子さとこカナマル アジ シーチギ ヌ ヲーニシ Kanamaru Aji Siichigi nu Wōnishi)。

なおえんおう
だい10代琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
だいしょう王朝おうちょうだい1だい國王こくおう
在位ざいい期間きかん1469ねん-1476ねん
前任ぜんにんなお德王とくおう
つぎにんなおせんおう
尚圓王
なおえんおうてき
こうもと小橋川こばしがわちょうやす於1796ねん
宗主そうしゅこく 明朝みょうちょう
年號ねんごう なり
さつふうねん 1472ねん
せいさつふう使 兵科へいかきゅうごとちゅうかんさかえ[1]
ふくさつふう使 行人こうじん行人こうじんかんあや
姓名せいめい なおえん
わらわめい おもえとくきん
別名べつめい 金丸かねまる
內間金丸かねまる
かみごう 金丸かねまる按司添末續すえつぎおう仁子さとこ
出生しゅっしょう 1415ねん
永樂えいらくじゅうさんねん
出生しゅっしょう 伊是名島いぜなじま諸見しょみむら
逝世 1476ねん(60—61さい
なりじゅうねんなながつ廿にじゅうはち
逝世 くびさとじょう
陵墓りょうぼ 見上みかみもりりょうはらそうしょ
たまりょう(1501ねん改葬かいそう
父親ちちおや なおきび
母親ははおや 瑞雲ずいうん
宇喜也嘉添大御前おんざきこころざしごう月光げっこう
夫人ふじん きみきよらの按司こころざし
まむたおやいもうと內間しゅくおんな
平安へいあんさんしゅくおんな
ちょく王子おうじ なおしん
わき王子おうじ 內間だいおやきみきよし所生しょせい
安谷屋あだにやあきら若松わかまつ(內間しゅくおんな所生しょせい
やま楊昌しん平安へいあんさんしゅくおんな所生しょせい
嫡王おんな 聞得大君おおきみこころざしわらわめいおとさとし殿どのしげきん初代しょだい聞得大君おおきみごうがつきよし

生平おいだいら

編輯へんしゅう

金丸かねまる出生しゅっしょう琉球りゅうきゅうこくてき伊是名島いぜなじま諸見しょみむらいま島尻しまじりぐん伊是名いぜなむら諸見しょみ)。よりどころ中山なかやま記載きさいなま而有けんとく,輔父ためこう。」1434ねん父母ちちははそうほろびあずかおとうとおとうとなおせんあいためいのち金丸かねまる非常ひじょう勤勞きんろう耕作こうさくゆういちねん當地とうち發生はっせいいぬいひでり,其他人たにんてきいぬい涸了,ただどく金丸かねまるてきうら有水ありみず。鄰居們懷疑かいぎ金丸かねまる使用しよう不正ふせいとう手段しゅだんぬすめりょう水源すいげん。1438ねん金丸かねまるせりたい妻子さいしおとうとおとうと逃到りょう國頭くにがみあいだきりいま國頭くにがみぐん國頭くにがみむら)。

1441ねん正統せいとうろくねん),ねん27さいてき金丸かねまるあずか妻子さいしおとうとおとうと經過けいか久志ひさし等地とうちらいいたりょうくびさととう越來ごえく王子おうじ後來こうらいてきなお泰久やすひさおう),なおたい久見くみ其舉どう凡,こもなおおもえたちおうふうため家來けらいあかあたまためかんつとむつとむこんこんふか同僚どうりょう尊敬そんけいせい金丸かねまる如此工作こうさく使つかい逐漸てん頭角とうかくしたがえ下級かきゅう役人やくにん逐漸ますしょく。1452ねん,38さいてき金丸かねまるひさげ拔為高級こうきゅう官員かんいん[2]

1453ねん琉球りゅうきゅう國王こくおうなおかねぶく死去しきょ世子せいしこころざしあずかなおかねぶくてきおとうとおとうと布里ふり爭奪そうだつ王位おういしょうこころざし魯布さとみだれ」。こころざし魯、布里ふりざい內亂ちゅう死去しきょざい金丸かねまるてき推薦すいせん越來ごえく王子おうじなお泰久やすひさようじょうりょう王位おういつぎねん金丸かねまる便びんいん功績こうせきなりためりょう西原にしはらあいだきりてき內間領主りょうしゅよりどころ中山なかやま記載きさい,「僅歷いちねん百姓ひゃくしょうだいふく名聞みょうもん於世」。而因其出しょくてき能力のうりょく和尚おしょう泰久やすひさおうたい其的ちょうしんじ金丸かねまるざいせい壇上だんじょうじゅんます遷。1459ねんてんじゅんさんねん),陞任しょうにん御物ぎょもつじょうくさりがわかんてのひらかん對外たいがい貿易ぼうえきてき事務じむ御物ぎょもつじょうくさりがわかん也是國王こくおう身邊しんぺんてき取次とりつぎしょく」,也就せつ群臣ぐんしんこう國王こくおう上書うわがき必須ひっす經過けいか金丸かねまるてき轉送てんそう

1460ねんなお泰久やすひさおう逝世,世子せいし尚德なおのり即位そくい尚德しょうとくなみぞうなお泰久やすひさおうさま信任しんにん金丸かねまる,而是たい金丸かねまるじゅうふん疏遠。《中山なかやま記載きさいなお德王とくおう暴君ぼうくん金丸かねまるみる尚德しょうとくおう無道むどう,屢次はんがおしん諫,なお德王とくおうみな聽。於是金丸かねまる退すさかくれ於內あいだねん54さい

なお德王とくおうこう大喜だいぎこう,屢次遠征えんせい喜界島きかいじまだいきょう土木どぼくれい國人くにびとじゅうふん不滿ふまん金丸かねまる職務しょくむ便びんぶん散財さんざい帛收かい人心じんしんとくいたりょう百姓ひゃくしょうてき擁護ようご

1469ねん尚德なおのりぜん久高島くだかじま祭祀さいし突然とつぜん死去しきょほうよくりつ世子せいしただしとまりむらてき老人ろうじんもうきょうぶん安里あさとだいおや清信きよのぶ)於朝堂上どうじょう斥責尚德しょうとくおう無道むどう昏君,並稱へいしょうさん金丸かねまるゆうけんとく。於是群臣ぐんしんころせ世子せいし人前ひとまえ往內あいだむかえ立金たつがねまるつぎねん金丸かねまる即位そくい改名かいめいなおえんなみ於1471ねん世子せいし份向明朝みょうちょうむくい明朝みんちょうそくさつふう使ふうためおう

なおえんおう即位そくい建立こんりゅうりょう天王寺てんのうじりゅうぶくてらたかしもとてらなみあずか明朝みょうちょう確定かくていりょうねんいちみつぎてき朝貢ちょうこう制度せいど

 
琉球りゅうきゅうこく金丸かねまるぬし書狀しょじょう(1471ねん
  1. ^ 明朝みんちょうげんよく遣戶やりどきゅうごとちゅうおかひろしためせいさつふう使おかひろし於途ちゅう病死びょうしあらためゆかりかんさかえ代替だいたい
  2. ^ 中山なかやましょうますためかんむり」,ただしかんむり1524ねん琉球りゅうきゅう制定せいてい位階いかいこうざいゆうてきしょういい
なおえんおう
初代しょだいだいしょう王朝おうちょう國王こくおう
1469ねん—1476ねん
つぎにん
なおせんおう
前任ぜんにん
なお德王とくおう
だいじゅうだい琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
1469ねん—1476ねん
つぎにん
なおせんおう