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曾國藩 - 維基百科,自由的百科全書

曾國はん

清朝せいちょう政治せいじ

曾國はん(1811ねん11月26にち—1872ねん3がつ12にち),原名げんめいじょうはくごう滌生湖南こなん湘鄉ひと[1]:702なま清朝せいちょうちょうすな白楊はくようつぼげんぞく湖南こなんしょう婁底そうみねけん荷葉かよう天子てんしつぼ),めいつてそうきよし曾子ななじゅうせいまごけい曾氏みなみむね[2]ばんきよし時期じきてき重臣じゅうしんめいしん功臣こうしん,湘軍創始そうしじん領袖りょうしゅう,也是中國ちゅうごく近代きんだい重要じゅうよう政治せいじ軍事ぐんじ理學りがく書法しょほう思想家しそうか文學ぶんがく詩人しじん外交がいこう實業じつぎょう改革かいかく儒生じゅせいあずかえびすはやしつばさ並稱へいしょう曾胡あずかばんきよし另一重臣じゅうしん鴻章こうしうゆう關係かんけいみちこう進士しんし,曾任四川鄉試正考官、翰林院かんりんいん侍講じこう學士がくし、內閣學士がくしとう,擢禮みぎさむらいろうれきしょへい、吏部さむらいろう[1]:702。1852ねんたてまつむねぐみ辦湘ぐん以平いたいらてい太平たいへい天國てんごくみだれ,其所創立そうりつてき湘軍さらなりためばんきよしてきはた,曾國はんまたいん此地大幅おおはばじょうますなりためきよししんくび同時どうじまた擴大かくだいりょう地方ちほう權力けんりょく,其門せい朋友ほうゆうさらあまね佈天勢力せいりょくはば及整かんじょう。1860ねん8がつ,授曾りょうこう總督そうとく欽差大臣だいじんとく辦江みなみ軍務ぐんむ[1]:703ひろ太子たいしふとしふう一等いっとう侯爵こうしゃく[1]:703翌年よくねん開始かいし曾國はん支持しじきょう親王しんのう奕訢主持しゅうもちてきようつとむ運動うんどう大力だいりき支持しじ地方ちほうきょう辦實ぎょうつつみ倡以平等びょうどう外交がいこう方式ほうしきたいまちようじんしたがえ而成ため慈禧ふとしきさきてき重臣じゅうしん。1871ねんたてまつむね處理しょり天津てんしん教案きょうあん」,ただしいんあずかようじんふく而遭到天下でんかつばののし,甚至諷為「曾國賊こくぞく」,いん此積ろうなりやまし結果けっか翌年よくねん3がつ病死びょうし南京なんきん享年きょうねん61さいおくりな文正ふみまさ[3]。曾國はんあずか徒弟とてい鴻章こうしうひだりはじめちょうほら並稱へいしょうばんきよよん大名だいみょうしん」,かんいたり武英たけひで殿どのだい學士がくしどう年間ねんかんふう一等いっとうあつしいさみこうまた世襲せしゅう罔替ゆう曾文せいおおやけ全集ぜんしゅう[1]:703

曾國はん
だいきよしおくふとでん武英たけひで殿どのだい學士がくしりょうこう總督そうとくいちとうあつしいさみこう
爵位しゃくい一等いっとうあつしいさみこう
せきぬき湖南こなんしょう湘鄉けん
ぞくかんぞく
原名げんめいはつまことめいつて
ごうはくごう滌生
諡號しごう文正ふみまさ
出生しゅっしょうよしみけいじゅうろくねんじゅうがつじゅういちにち
(1811ねん11月26にち
湖南こなんしょうちょうすな湘鄉けん
逝世どうじゅういちねんがつはつよんにち
(1872ねん3がつ12にち
江蘇ちぁんすーしょうこうやすしけん
はかそう曾國はんはか
配偶はいぐうおう
おやぞくちち)曾麟しょ
おとうと曾國荃 曾國葆(曾貞みき)
曾紀さわ曾紀おおとり
おんな曾紀芬
出身しゅっしん
  • みちこうじゅう四年湖南鄉試三十六名舉人
  • みちこうじゅう八年戊戌科三甲第四十二名同進士出身
著作ちょさく
  • 《曾文せいおおやけ全集ぜんしゅう

1864ねん7がつ,曾國はんかず曾國荃りつ湘軍おさむやぶ當時とうじてき太平たいへい天國てんごく首都しゅとてんきょういま南京なんきんほふしろ死傷ししょう無數むすう南京なんきん百姓ひゃくしょういたりこん仍以「曾剃あたま」、「曾屠とう稱呼しょうこ曾國はん、曾國荃兄弟きょうだいまたゆう一說いっせつ,「曾剃あたま」此一外號來自曾國藩治軍極嚴,しょうそくごうしょう「以霹靂へきれき手段しゅだんあらわ菩薩ぼさつこころちょう」。

中國ちゅうごく近代きんだいうえりょう著名ちょめい人物じんぶつ中正ちゅうせい毛澤東もうたくとう高度こうど評價ひょうか曾國はん青年せいねん時代じだいてき毛澤東もうたくとう曾說「所謂いわゆる本源ほんげんしゃ,倡學而已矣。博學はくがく基礎きそいまじん無學むがく基礎きそあつしん懼傾於近じんどくふく曾文ただしかん收拾しゅうしゅうひろしいちやくかん滿まん無缺むけつ使つかい以今じんえき其位,其能如彼かん滿まん[4]?」そく使つかいざい晚年ばんねんかえ曾說:「曾國はんただし地主じぬし階級かいきゅうさい厲害てき人物じんぶつ。」蔣中正ちゅうせいたい曾國はんさらいただきれいまくはいみとめため曾國はんためじんみち,「あしためわれじん師資しし」,「其著作為さくいにんなん政治せいじしょ必讀ひつどく」。曾胡へい語錄ごろくとうさく教導きょうどう高級こうきゅう將領しょうりょうてき教科書きょうかしょ[5]自己じこまたはた《曾文せいおおやけ全集ぜんしゅう常置じょうちあんつくり終生しゅうせい拜讀はいどく輟。

生平おいだいら

編輯へんしゅう

早年そうねん

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曾國はんきょ

よしみけいじゅうろくねんじゅうがつじゅういち(1811ねん11月26にち),曾國はんせい湖南こなんしょうちょうすな湘鄉けんちちめい寬一かんいち祖父そふ曾玉へい(1774—1849)雖少文化ぶんかただし閱歷豐富ほうふ父親ちちおや曾麟しょ(1790—1857)長子ちょうし母親ははおやこう(1785—1852),そだてゆう54じょ,其中よん先後せんごさんぐんとめいちざい家事かじのうただしまいりぐんよん兄弟きょうだい也有やゆう二人ふたり殉職じゅんしょく。曾國はんはいぎょうだい長子ちょうし上面うわつらゆういちあねあね。曾麟しょじゅく,屢試だいねんきん50ぽうざいちゅう秀才しゅうさいなりためなまいん[註 1]。曾麟しょ忖功めい僅能及此,したがえ此在家鄉かきょう一心一意栽培長子曾國藩科考。

曾國はん5さい啓蒙けいもうねんいれじゅくとき」。みちこうろくねん(1826ねんはるおうちょうすな童子どうじこころみめいれつだいななめいみちこうじゅうねん(1830ねん),ぜん衡陽とうむねほこら讀書どくしょ,一年後轉入湘鄉漣濱書院。みちこうじゅうさんねん(1833ねんあきおう湘鄉けんこころみかんがえ秀才しゅうさいみちこうじゅうよんねん(1834ねん),曾國はん進入しんにゅうちょうすな著名ちょめいてきたけふもと書院しょいん演習えんしゅう同年どうねん參加さんか南鄉なんごうためしちゅうだいさんじゅうろくめい舉人なみどういれ京師けいし準備じゅんび來年らいねんてきかいためしみちこうじゅうねん(1835ねん),曾國はんかいこころみなか寓居ぐうきょ京師けいしちょうすな會館かいかん讀書どくしょつぎねんおんかいこころみさいつぎ落第らくだい,於是かえしかいちょうすな,於同鄉どうきょうりゅうかくたかしとうきょ於湘きょう會館かいかん

はついれつかまつ

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みちこうじゅうはちねん(1838ねん),曾國はんさいつぎ參加さんかかいこころみおわり於中こころみ殿しんがりためしくらいれつ三甲さんこうだいよんじゅうめいたまものどう進士しんし出身しゅっしんなみなりためはやしのりじょ政敵せいてき主張しゅちょう鴉片あへんうえぜいめんきんてき滿まんじん軍機ぐんき大臣だいじんきよしあきらおもねてき得意とくい門生もんせい[註 2]あさこうれつ一等いっとうだいさんめいみちこうみかどしん拔為だいせんため翰林院かんりんいん庶吉みちこうじゅうねん(1840ねんかん考試こうしめいれつとうじゅうきゅうめい,授翰林院かんりんいん檢討けんとうみちこうじゅうさんねん(1843ねんます侍講じこう同年どうねんにん四川鄉試正考官。としそこたかし文淵ぶんえんかくこうみちこうじゅうねん(1845ねん),ます侍講じこう學士がくしひさ同年どうねん進士しんしぶんやす之子ゆきこ鴻章こうしう入京にゅうきょうかいこころみとう門下もんか補習ほしゅう受業じゅぎょうなみ投宿とうしゅく曾國はん北京ぺきんたくていいたりしょういちねんみちこうじゅうななねん(1847ねん),ますにん內閣學士がくしれいさむらいろう銜。みちこうじゅうきゅうねん(1849ねん)授れいみぎさむらいろうひさしょ兵部ひょうぶみぎさむらいろうため軍機ぐんき大臣だいじんきよしあきらおもね門生もんせいまたしたがえやまとひとしから講習こうしゅうほどしゅ道學どうがく[1]:702

かこえ太平たいへいぐん

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みちこうさんじゅうねん正月しょうがつじゅうよんにち(1850ねん2がつ25にち),みちこうみかどざい圓明えんめいえんみちこうさんじゅうねん正月しょうがつじゅうろくにち(1850ねん3がつ9にち咸豐みかど即位そくいざい處理しょりどうこうみかどせき於「はいてん祔廟、けん功德くどくてき遺命いめい,曾國はんてき上奏じょうそう頗得咸豐みかど滿まんあかりはつみことのりむねしょうさむらいろう曾國はんしょかなで,頗有しょ[6]同年どうねんじゅうがつじゅうにち(1851ねん1がつ11にち),洪秀全こうしゅうぜんざい廣西ひろせ發動はつどう金田かねだおこりよし太平たいへい天國てんごく運動うんどう正式せいしき爆發ばくはつ

咸豐つぎはつため塑造けんみかどてき形象けいしょうした文廣あやひろひらきげんつづみ大臣だいじん直言ちょくげんしん諫,みちこうさんじゅうねん(1850ねん)よんがつ,曾國はんじょうけいひね聖德せいとく三端預防流弊疏》,指出さしで咸豐さんけん,咸豐みかどはたかなでいか擲於さいわいよしみ軍機ぐんき大臣だいじん祁雋かいかこえたい咸豐せつ:「しゅせいしん啊,。」 接着せっちゃくざいいちねんあいだれんじょうおうみことのりひねげん疏》、《じょうひねこうごとむべ疏》、《汰兵しょ》、《備陳民間みんかんやまし疏》かずひらぎん疏》とうみちそう疏,全面ぜんめん深入ふかいり指出さしでりょう清朝せいちょうめん臨的種種しゅじゅ危機きき問題もんだい建議けんぎ咸豐大刀たち闊斧,徹底てってい改革かいかく。1852ねんちょうははかいせき[1]:702生母せいぼこう。此時太平たいへいぐんやめけいおさむにゅう湖南こなん氣勢きせいせいもり

咸豐ねんそこ(1853ねん1がつ),曾國はんせっいた幫辦湖南こなんだんねりむねけいかくたかしちからすすむはなれぜんちょうすなあずか湖南こなんめぐなでちょうあきらもとしょうだんねりことよろし。曾奉いのち幫辦だんねり擴編ため湘軍[1]:702いちがつ太平たいへいぐんおさむこうやすしいま江蘇こうそ南京なんきん),てい於此,改稱かいしょうてんきょう

曾國はんもたれ親戚しんせきこうともとう複雜ふくざつてきじんさい關係かんけい,以湖南こなん同鄉どうきょうためぬし,仿傚やめけいなりぐんてきすわえいさむ建立こんりゅうりょういちささえ地方ちほうだんねりなみ整合せいごう湖南こなん各地かくち武裝ぶそうしょう湘軍

咸豐さんねん(1853ねんはちがつ,曾國はんじゅんざい衡州練兵れんぺい,「凡槍炮刀いかりしき檣槳位置いち自演じえんこころみ,殫竭おもえりょく」,[7]なみじん廣東かんとん購買こうばい西洋せいよう,籌建みず

咸豐よんねん(1854ねん)2がつ,湘軍ねりなりかいしゅう湘潭,曾發佈《討粵匪檄》,攻擊こうげき太平たいへい天國てんごく運動うんどうひらき以來いらいめい教之のりゆきへん」,開始かいしりょうへい進攻しんこう太平たいへいぐん[1]:702-703;4がつ24にち太平たいへいぐんはやし紹璋ぶんへいけいやすしきょうおさむよりどころ湘潭,なずらえ南北なんぼく夾擊きょうげきちょうすな。4月25にちおこりゆかりとうひとしぬのおびたいりつ陸軍りくぐん彭玉麟おびたいりつみず,一齊攻打湘潭的はやし紹璋,湘潭戰役せんえき正式せいしきひびき期間きかん,曾則おやりつ40じょうせんせんあずか800めい湘軍出征しゅっせい,卻在やすしこうみず戰中せんちゅうふく太平たいへいぐんせきさちただし大敗たいはい,曾國はん悲憤ひふんかおとうすいひろ幕僚ばくりょうあきらことぶき麟救おこりただしこう其部とうひとしぬの彭玉麟於4がつ27いたり30にちざい湘潭大敗たいはいはやし紹璋太平たいへいぐん水陸すいりくみなくじけ損失そんしつ將士しょうしきんまんめい。湘潭戰役せんえき太平たいへい天國てんごく西にしせいちゅう太平たいへいぐんあずか湘軍てきくび戰略せんりゃく決戰けっせんすんで湘軍なりぐん出兵しゅっぺいてきくび大捷たいしょう,也是太平たいへいぐん西にしせい以來いらいくび嚴重げんじゅうつぶせはい湖南こなん戰局せんきょく於是逆轉ぎゃくてん,湘軍氣勢きせい大盛おおもりとげよし防禦ぼうぎょてんため進攻しんこうまたうらないたけしゅうそくさかい作戰さくせん [1]:703。10月,曾攻おちい湖北こほく武漢ぶかん[1]:703咸豐みかど大喜だいぎもちたい曾國はんおん免罪めんざいなみれい曾署湖北こほくじゅんなでますとうひとしぬのため湖南こなみ提督ていとくしか而,だい學士がくし祁雋進言しんげんしょう「曾國はん以侍ろう在籍ざいせきなお匹夫ひっぷみみ匹夫ひっぷきょ閭里,いちよび蹶起けっきしたがえこれしゃまん餘人よにんこわ國家こっかぶく也。」咸豐みかどおさむかいなりいのち接着せっちゃく兵部ひょうぶさむらいろうりつ東下ひがししもやぶ田家たや[1]:703

1855年初ねんしょ,曾攻江西えにしきゅうみずうみこうひさすいはい績,武漢ぶかんため太平たいへいぐん克復こくふくとげこまもりみなみあきら[1]:703

咸豐ろくねん(1856ねんあき太平たいへい天國てんごく發生はっせい楊韋事變じへん,曾乘指揮しき湘軍はんなぐ,12月さいおさむおちい武漢ぶかん[1]:703

咸豐ななねん(1857ねん),父親ちちおや曾麟しょちょうゆうかいせき

咸豐はちねん(1858ねん)5がつ,曾國はん佔領きゅう[1]:703曾國はんざい太平たいへいぐん將士しょうし17000にん戰死せんし佔領きゅうつきほふ城中じょうちゅうのこみん2まん[らいみなもと請求せいきゅう]。11月,曾所ぞくまろうどざい安徽あんき三河そうご鎮被殲[1]:703こう一度受困於安徽祁門[1]:703

咸豐じゅうねん(1860ねん),湘軍かこえこまあんけい。1861ねん9がつ,曾國はんとく其弟曾國荃おさむおちいやすけい[1]:703やすけいやぶしろ劫掠ごうりゃく殆盡,ほふよんまんあまり[8][9]。1861ねん9がつ,湘軍じゅんこう而下。11月,曾奉いのち統轄とうかつ江蘇ちぁんすー安徽あんき江西えにし浙江せっこうよんしょう軍務ぐんむじゅんなでつつみ鎮以悉歸節制せっせい[1]:703。1862ねんはる,曾為きょう辦大學士がくしひだりむね棠與外國がいこくじん進攻しんこう浙江せっこう鴻章こうしう勾結外國がいこくじんおさむみなみ地區ちく,曾國荃部かこえおさむてんきょう[1]:703おさむやぶかぶらみずうみ。1863ねん11月25にち,曾國荃進扎城てんきょうひがしこうりょうまもる

どうさんねん(1864ねん)7がつ,曾破てんきょう[1]:703。19にち,湘軍おさむやぶてんきょうたい無辜むこ平民へいみん展開てんかい屠殺とさつあずか搶掠當時とうじてき南京なんきんじょうやき毀,平民へいみん死傷ししょう無數むすう南京なんきんじん咸恨湘軍,しょう曾國はんため「曾剃あたま」、「曾屠」,曾國荃被喚為「曾老饕」。[10]

中央ちゅうおう研究けんきゅういんいん中央ちゅうおう研究けんきゅういん近代きんだい研究所けんきゅうじょそうしょ所長しょちょうかく廷以ざい其所ちょ近代きんだい中國ちゅうごくつな》引ちょうれつぶんのうせいきょ日記にっき記載きさい曾國はんおとうと曾國荃率湘軍おさむにゅう南京なんきんじょうてき情景じょうけい:「湘軍『むさぼ掠奪りゃくだつ,頗亂ちゅうぐんかくいさみとめ營者みなさがせくく』,……『沿街死屍ししじゅうきゅうみなろうしゃ。其幼孩未滿みまん、三歲者亦被戳以為戲,匍匐ほふくどうじょう婦女ふじょよんじゅうさい以下いかしゃいちにん俱無(ひとしとりこ),ろうしゃ負傷ふしょうあるじゅうあまりがたなすうじゅうがたなあいごうこえたち四方しほう。』凡此ひとしため曾國荃幕ともちょうれつぶん目睹もくとしょ總計そうけい死者ししゃやくさんじゅうまんにん。」[11][12][13][14][15]

7がつ,曾國荃賞太子たいししょう一等いっとう伯爵はくしゃく,此起曾與平定へいてい太平たいへい天國てんごく戰功せんこうきょみずうみこう總督そうとくかんぶん雙方そうほう形成けいせい集團しゅうだん政爭せいそう白熱はくねつ。8月,そうじゅんさい撤湘ぐん25000にん

曾國はんおさむ南京なんきんひだりはじめえびすはやしつばさ彭玉麟おう闓運曾國荃あわびちょうとうひと曾勸曾國はん造反ぞうはんただし曾國はん一概いちがい拒絕きょぜつかえうつしたいれん「倚天あきらうみはな無數むすう流水りゅうすい高山こうざんこころ表明ひょうめい立場たちば[16]

つよ運動うんどう

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曾國はん畫像がぞう

咸豐じゅうねんじゅうがつ,曾國はんせっいたみつむねにわか使臣ししん會見かいけんきょう親王しんのう奕訢ときたたえ太平たいへいぐん在江あるえみなみ等地とうち橫行おうこうにわかこくねがい出兵しゅっぺいさんひゃくにんざい水路すいろ與清ともきよちょう陸軍りくぐん聯合れんごう作戰さくせんなみしたがえ南方なんぽう辦米かてうん抵京。咸豐みかど舉棋不定ふてい特發とくはつろく百里快遞徵求曾國藩等大臣意見。咸豐じゅういちねんじゅういちがつはつはちにち(1861ねん12月19にち),曾國はんじょうてい《遵旨ふくそうにわかへいじょ剿逆以代うんみなみこげおり》,みとめためにわかこく派兵はへい幫忙這いちてんよう斷然だんぜん拒絕きょぜついたり於幫せわし運輸うんゆまいかて接受せつじゅ建議けんぎ以暫藉洋じんちから引用いんようげんてきえびすちょうわざ以制えびす思想しそう」,つつみ醒「將來しょうらいえびすさとし以造炮製せんゆう永遠えいえん」。

咸豐みかどれん兩道りょうどう聖旨せいしいち在京ざいきょうじょう新設しんせつ總理そうり各國かっこく事務じむ衙門同意どうい曾國はんじん外國がいこく購買こうばい機器ききようやりようほう,以便學習がくしゅう。1861ねん,曾國はんざい安徽あんきそうあんけい內軍械所自主じしゅ製造せいぞうようやりようほう。1863ねん,曾國はんあずかよう商議しょうぎそう機器ききしょうごとむべゆだね派出はしゅつこく購買こうばい機器ききそう辦學どう派遣はけん幼童ようどう赴美留學りゅうがくとうようつとむ運動うんどう[17]。1865ねんいたり1866ねん,曾與鴻章こうしうもたれ外國がいこくじんざい上海しゃんはいそう江南こうなん製造せいぞう總局そうきょくとう軍事ぐんじ工業こうぎょう[1]:703

ちょく隸總とく

編輯へんしゅう

1865ねん5がつ,曾奉いのちとく辦直隸、山東さんとう河南かなん三省みつよし軍務ぐんむ鎮壓ちんあつねじぐん[1]:703。7月,曾進ちゅう安徽あんき臨淮,旋移ちゅう江蘇こうそじょしゅう[1]:703。曾先提出ていしゅつ以靜制動せいどうざい臨淮、すみやすししゅうこうじょしゅうとう重點じゅうてん地區ちく駐兵ちゅうへいしつらえぼうれい地主じぬししん修築しゅうちく圩寨,實行じっこうけんかべ清野きよの徹底てっていしん查;建立こんりゅうたいとう策略さくりゃく[1]:703。1866ねんなつ主張しゅちょうひがし運河うんが西にし以沙かわ、賈魯かわみなみ以淮かわためぼうせんきたしゅせん鎮至汴梁黃河こうが南岸なんがん挖濠しつらえぼう,以圍こまねじぐん[1]:703。9月,開封かいふう南面なんめんあし花岡はなおかつつみ墻為ねじぐん衝破,かわぼうけい破滅はめつ;12がつかいりょうこう總督そうとくはらつとむ[1]:703

どうななねん(1868ねん)8がつ,曾改にんちょく隸總とく[1]:703どうきゅうねん(1870ねん)6がつ天津てんしん教案きょうあん,曾奉いのちぜん往查辦,屈從くつじゅうほう國人くにびと殺害さつがい良民りょうみん20にんたかしぐん25にん,受到社會しゃかい輿論よろん譴責けんせき[1]:703。曾國はんじゅうふんおどろきおそれ,甚至出發しゅっぱつぜんだてのこしょくふか當時とうじちゅう國遠くにとお西方せいほう列強れっきょうたいいん主張しゅちょう對外たいがい讓步じょうほ

曾國はんはつ佈《さとし天津てんしん士民しみんてき告示こくじたい天津てんしん人民じんみんおおかたゆびせめ,誡其勿再起さいき事端じたんずい釋放しゃくほうはんほうきょうみんかずわたるあん拐犯,引起天津てんしんしんみんてき不滿ふまん處理しょり天津てんしん教案きょうあん」,しょうひとののしうり國賊こくぞく全國ぜんこく輿論よろんだい嘩,「京師けいし及各しょうみな斥為謬論,けん肯信」,朝廷ちょうてい官吏かんり及民眾輿ろんひとし甚為不滿ふまん,「詬詈こえ大作たいさく賣國ばいこくぞく徽號竟加於國はん京師けいし湖南こなみ同鄉どうきょうゆう引為きょうじんだいはじ」,甚至直接ちょくせつしょう其為「曾國賊こくぞく」。

かいにんりょうこう

編輯へんしゅう

どうきゅうねん(1870ねん)9がつ,曾調にんりょうこう總督そうとく[1]:703りょうこう總督そうとくうましん平民へいみんちょう汶祥刺殺しさつ於後,慈禧ふとしきさきいのち曾國はん再任さいにんりょうこう總督そうとくぜん南京なんきん審理しんり該案。

どうじゅういちねん(1872ねん正月しょうがつ,腳部抽筋なみ且有失語しつご異狀いじょう自覺じかくだいかぎりはたいたり」,がつはつよん(3がつ12にち)曾國はんざいきむりょう總督そうとくながえもんやまい逝,とおることぶきろくじゅういちさい[18]がつじゅうにち朝廷ちょうていたてまつ上諭じょうゆ追贈ついぞうふとしでん諡號しごう文正ふみまさ [3]。其家族かぞく後代こうだいだしかん宦,如曾紀さわ曾廣ひとしひとし

曾國はん善用ぜんよう人才じんさいばんきよし一些名臣如ひだりはじめ鴻章こうしうあずかゆうみつきり關係かんけい鴻章こうしうとう稱呼しょうこため老師ろうし。曾國はん曾說「しょう拚命さくかん俞蔭はじめ拚命著書ちょしょ」。

儒學じゅがく

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曾國はん一生いっしょう奉行ぶぎょうほどしゅ理學りがくただしまたしょ汲取くみとそうあきら儒學じゅがく其他ささえてき思想しそうそうあきら理學りがく實際じっさい上分かみぶんためがく理學りがく心學しんがくさん學術がくじゅつべつ

曾國はんざいしたがえ政和せいわしたがええびす生涯しょうがい中也ちゅうやややややいたりょうほどしゅ理學りがく指示しじかたりあるしつ於隘」、あるやまい於瑣」、あるへん於靜」てき局限きょくげんうたて比較ひかく接受せつじゅ心學しんがくたい於程しゅ理學りがくあずかりくおう心學しんがくこれ學術がくじゅつそうべんみとめためおう其同,避其ことあげ其長,けんおさむなみ蓄,あげちょう避短,推進すいしん儒學じゅがくてき發展はってん

曾國はんかえがくざい生成せいせいろん方面ほうめんてき資源しげんらいわたる理學りがく局限きょくげんいい張子はりここれせいこうむ》,あつしあつ正大せいだい,邈焉寡儔」。ちゃく學的がくてきおもえ,曾國はんみとめため天地てんち萬物均因稟氣而生,構成こうせい天地てんちまん物的ぶってき最終さいしゅうもともとざい稟氣而生這個意義いぎじょう天地てんち萬物ばんぶつ同體どうたいてき

,曾國はん同時どうじみとめため,雖太絪緼流行りゅうこうとめ天地てんち萬物ばんぶつ最初さいしょ所得しょとくひとしみみ」,ただしひとあずかもの聖人せいじんあずか常人じょうじんしょ稟有なみあいどう。就人あずか物相もっそうたい而言,にんぜんぶつ卻僅へん故人こじんゆう知性ちせい,而物僅得物性ぶっせい。就人類じんるい而言,聖人せいじんしょ稟之きよし且厚,常人じょうじんしょ稟之卻濁而薄。

其初而言ふとし絪緼流行りゅうこう而不いきにん也,もの也,聖人せいじん也,常人じょうじん也,はじめ所得しょとくしゃひとしみみひととく其全,ものとく其偏,聖人せいじんしゃ既得きとく其全,而其氣質きしつまたさいきよし且厚……」

文學ぶんがく

編輯へんしゅう

曾國はん繼承けいしょうきりじょうほうつと姚鼐自立じりつ風格ふうかく創立そうりつばんきよし古文こぶんてき湘鄉」。

くにはんろん古文こぶんこうもとめ聲調せいちょう鏗鏘,以包蘊不盡ふじんため能事のうじ所為しょい古文こぶんふかひろし駿しゅん邁,のううん以漢氣象きしょうゆう一種雄奇瑰瑋的意境,のう一振桐城派枯淡之弊,ため後世こうせいしょしょう。曾氏宗法しゅうほうきりじょうただしゆうしょ變化へんか發展はってんまたせんへんりょう一部いちぶけいひゃくいえざつ》以作為さくいぶんてき典範てんぱんきり城所きどころ囿,せいたたえため湘鄉

清末きよすえ及民はついむふくはやし,以至たん嗣同りょうあきらちょうとうひとし受其ぶんふう影響えいきょう著作ちょさくおさむ於《曾文せいおおやけ全集ぜんしゅうちゅう

著作ちょさく

編輯へんしゅう

生前せいぜん出版しゅっぱん曾國はんしょ》,另還ちょゆうていけい》、《冰鑒》、《こころけいとう書籍しょせき

書法しょほう

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曾國はんざい書法しょほうじょうてき突出とっしゅつ成就じょうじゅ一直為他歷史上的重大影響所掩蓋。曾國はんたい於書ほう理論りろんてき闡述,ひとし其《日記にっきかずいえしょ》。くびさきたい當時とうじ阮元拋出てき南北なんぼくしょろんゆうどくいたてき認識にんしきすんで贊成さんせいまた提出ていしゅつ批評ひひょう主張しゅちょう南北なんぼくけん而有たい書法しょほうてき本源ほんげん提出ていしゅつ乾坤けんこんだいげんせつ:「天下てんか萬事萬理皆出於乾坤二卦。そく以作ろんじゅん以神ぎょう大氣たいき盪,脈絡みゃくらくしゅうどおり潛心せんしん內轉,此乾道也みちや結構けっこう精巧せいこう向背こうはいゆうほうおさむたんごう,此坤道也みちや;凡乾以神ごと,凡坤以形質けいしつごと禮樂れいがくひつじさるさく而化ゆう自得じとく力彌りきや滿まんろうそくらく也;いと絲入いといり扣轉折合おれあいほうそく利之としゆき也。」[19] ざい用筆ようひつじょう強調きょうちょういぬいみち」,そくごうせつ:「ろん古文こぶんそう須有倔強馴之……ろんまた傲兀ぐんしゃろんまたしか。」[20] またせつ:「さくそう須得ぜいつとむ使いちぴつ以走千里せんり。」[21] ざいゆいじょう,曾國はんちゅうじゅうひつじさるどう」,そくかげやわらよしせつ: 「無論むろん古今ここん何等なんら書家しょか,其落筆らくひつゆいたいまた以珠えんだまじゅんよんためぬし。」[22] またせつ:「さくさきもとめえん勻。」[23] なみみとめため:「剛健ごうけん婀娜あだしゃかけいち不可ふか。」[24] よし此可,曾國はん書法しょほうてき整體せいたい風格ふうかくつよしあずかかげやわらなみずみ概括がいかつせつ就是「ぐうえんじゅん於秀勁,ごうゆう於淡とお」。[25] とめりょうきん130まんてき日記にっき中國ちゅうごく古代こだい罕見てき一部いちぶきょがた書法しょほう作品さくひんてき楷書かいしょ勁健つよし拔,つよしやわらしょうずみてき行書ぎょうしょ勁健遒俊而華てきしょう楷與しょう行書ぎょうしょせいきよしだいてき典範てんぱんおうあずかどうだいつつみしんなに紹基ひとしめいてき大書たいしょ

曾國はんてき輓聯,其用てんきりじょうぶんなみしげる,頗為時人じじんしょ推重すいちょう

  • 挽乳ははれん:「いちめしなおめいおんきょうだきひさげ攜,ただしょう懷胎かいたいじゅうがつ;千金せんきんなん報德ほうとくろん人情にんじょう物理ぶつり,也應泣血さんねん。」
  • 莫友しばれん:「きょうはな一見いっけん便びんかたぶけしん當時とうじ書肆しょしてい交,はや欽宿がくひょうじゅうねんつね聚首,今日きょう酒樽さかだるなみだらいつるしたましい。」
  • 挽湯うみあきれん:「著書ちょしょなりじゅうまんことざいつき也;そしあまね九州きゅうしゅう四海しかいめいまたずい」。曾與詩人しじんかいあき曾為莫逆ばくぎゃく交,いん"せい輓"事件じけん(就是さききゅう身邊しんぺんてきかつじんあずかうつし輓聯),あずか絕交ぜっこう
 
曾家よん兄弟きょうだい

咸豐ねん(1852ねんじゅういちがつ太平たいへいぐん湖南こなん北出きたいでおさむかつかん。1853ねん曾國はん建立こんりゅう地方ちほうだんねり,仿傚ぜんえびすはやしつばさけん湖北こほくだんねりそくすわえいさむ湖南こなんそくしょうため湘軍,ふん陸軍りくぐんみずりょうたねへいそく招募湘鄉一帶いったい農民のうみんためぬしがつぐん餉朝廷約ごとへいさんりょうはんぎん,湘軍そくりょうはん,湘軍採用さいよう兵員へいいんつのけん主將しゅしょうてき做法,はたへいため國有こくゆうへんためへいためはたゆう」,たきぎ俸為一般いっぱんみどりてきさんばい左右さゆうぜんぐんただ服從ふくじゅう曾國はんいちにん

1854ねん總計そうけいゆう陸軍りくぐんじゅうさんろくせんひゃくにんみずじゅう營五せんにんかいしゅう湘潭ちかい出征しゅっせい初戰しょせんざいたけしゅうやすしこうはい太平たいへいぐんせっ連戰れんせんはい,曾國はんいくとべすい自盡じじんざい上書うわがきただのう以「屢敗屢戰」自嘲じちょう

こうじゅうせい軍備ぐんびふく佔岳しゅうたけあきら太平たいへいぐん勢力せいりょく退出たいしゅつりょうみずうみ。1858ねん5がつおさむ佔九こう氣勢きせい很盛;1860ねん曾國荃包圍ほういあんけい,以「扎硬寨,ほけ仗」[26]聞名。1864ねん,湘軍おさむやぶてんきょうじょうこうやすししろ)。

太平たいへいぐん抵抗ていこう湘軍,ゆずる湘軍どもあしあたまてんきょうじょうやぶとき,曾國はんせつ:「こん粵匪へん,蹂躪竟及じゅうろくしょう,淪陷いたりろくひゃくあまりじょう,而其ちゅう兇酋悍黨,如ひらくかおるもり馮官たむろはやしあきらさかえもりきゅうげいらいもりあんけいみな堅忍けんにん不屈ふくつ。此次きんりょうじょうやぶじゅう萬餘賊無一降者,いたり聚眾焚而悔,じつため古今ここん罕見げき寇」[註 3]

曾國はんいれ南京なんきん湘軍だい肆焚かすめ,「……分段ぶんだんさがせころせさんにちあいだ斃賊どもじゅうあまりまんにんはたちょうかわかばねくび如麻,……さんにちよるこういき。」南京なんきん文士ぶんしけいみち:「いたり官軍かんぐんいちめんのりつぶせはいとりこかすめある戰勝せんしょう焚殺,ゆうみみにん聞,にん睹,其慘どくじつ較『ぞくまたゆうこれ及,よくごとまた敢言也。」[27]太平たいへい天國てんごくきょう盛時せいじ南京なんきん最多さいたゆうひゃくまんにんほふしろのちじゅう多年たねんはし逃亡とうぼういたひかりいとぐちみかどのぼりはじめ南京なんきんただあまいたじゅうまんにん

おさむおちいてんきょう,曾國はん巧言こうげん上書うわがきにせみやぞくかんいち炬成はい並無ならびな所謂いわゆるしゃしか克復こくふくろう而全貨物かもつじつほろしんけいこれがいまたため從來じゅうらい罕見こと」。

曾國はん就地しょ太平たいへいぐんくだはた秀成ひでなり原因げんいん可能かのう秀成ひでなりそうこうほうきょういつわりくだ,也不そう押解北京ぺきん以遭受酷けいちょうれつぶん記述きじゅつ秀成ひでなりざい臨死りんし前說ぜんせつ中堂なかどうあつしとくめいこく忘,こんやめあやま來生きすぎほう」。よりどころせつ曾先要求ようきゅううつし太平たいへいぐん失敗しっぱい原因げんいん一周いっしゅううつしまん,曾再きゅうすももいち小瓶こびん毒藥どくやく,請李たっ,也因此曾抗拒こうきょ交押いたる北京ぺきん受極けいとくざい慈禧ふとしきさき立大りつだいこうただし官途かんとなみ不順ふじゅんとげ

どうよんねん(1865ねんがつそうかくりんねじぐんげき斃,慈禧ふとしきさきれい曾國はん剿捻。曾國はん採取さいしゅ「以有定之さだゆきへいせい定之さだゆき寇,せんごときん剿,ことおいてき方針ほうしんざい河南かなんしゅうこう山東さんとうわたるやすし江蘇こうそじょしゅう安徽あんき臨淮せきぶんおけよん鎮,ちゅう淮軍かず湘軍はちまんはたねじ包圍ほういざい、皖邊またざい淮北ねじぐんてき根據地こんきょち修築しゅうちく墟寨,きよし查戶こう實行じっこうかぶと連坐れんざほうただしねじぐん突破とっぱ湘軍、淮軍てき包圍ほうい進入しんにゅう湖北こほくまた突破とっぱ開封かいふうしゅせん鎮間てき賈魯かわぼうせんひがしはし山東さんとう。曾國はん撤欽大臣だいじん鴻章こうしうつぎにん

曾國はん剿捻以來いらい,屢受慈禧てきゆびせめなりため晚年ばんねんてき一大いちだいしんびょう事實じじつじょう,這時湘軍大部たいぶ份裁撤,曾國はんただのうよう鴻章こうしうてき淮軍,如湘ぐん容易ようい差遣さけん各部かくぶ協調きょうちょうちからちょうはじめりつねじぐんざい賈魯かわ一帶いったい突破とっぱ進入しんにゅう山東さんとう

修身しゅうしん

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曾國はんうつし很多せき於為じん處世しょせいてきしょてき部分ぶぶんしょいた很多讀者どくしゃてきあお睞。

ため自己じこりつ課程かていじゅうじょう

  1. しゅけい整齊せいせい嚴肅げんしゅく清明せいめいざい躬,如日ます
  2. 靜坐せいざ每日まいにちかかわなん靜坐せいざよんこくせいしこりいのち,如鼎鎮。
  3. おこり黎明れいめいそくおこり,醒後勿沾こい
  4. 讀書どくしょ不二ふじいちしょ未完みかんしょ
  5. 讀史どくしねんさんゆび史記しき》、《漢書かんしょ》、《こう漢書かんしょ》),每日まいにち圈點けんてんじゅうぺーじ,雖有事ゆうじ間斷かんだん
  6. 謹言きんげん刻刻こくこくとめしんだいいち工夫くふう
  7. やしなえぞう丹田たんでん不可ふか對人たいじんごとこと
  8. 保身ほしんふしろうふしよくふし飲食いんしょく
  9. にち其所每日まいにち讀書どくしょ記錄きろく心得こころえ
  10. つき忘其しょのう每月まいつき作詩さくしぶんすうしゅ,以驗せきてき多寡たかやしなえもり
  11. さくめし寫字しゃじ半時はんとき
  12. よる不出ふしゅつもん

[らいみなもと請求せいきゅう]

評價ひょうか

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正面しょうめん

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曾國はん一生いっしょうあつこう學問がくもん作文さくぶん每日まいにち輟,めいふく其實てき儒家じゅか大夫たいふ[註 4]おうちょうくませつ曾國はん一生いっしょうさんへん早年そうねんこう理學りがく;辦理だんねり軍務ぐんむこうさるかん後學こうがくろうそう[28]

曾國はん處理しょり天津てんしん教案きょうあんちから,曾被からし革命かくめいこうてき部分ぶぶん革命かくめいとうひと斥為「ひらく就地正法しょうぼうこれさきかわ」。中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつゆかり各種かくしゅ政治せいじ原因げんいんたい曾國はんとう封建ほうけん時期じきてき人物じんぶつだい斥責。ただし文化ぶんかだい革命かくめいこう學術がくじゅつかい政治せいじ下降かこうたい曾國はんてき評價ひょうか活躍かつやくとぼしたたえほまれこえ天津てんしん教案きょうあん發生はっせいとき,曾國はんやめ患重びょうようみとめため「曾國はん實際じっさいうえ處理しょり天津てんしん教案きょうあんしるべ致的精神せいしん打擊だげきざい如履うす冰的對外たいがい關係かんけい處理しょりちゅうてきちゅうしんじあつしけいよん秘訣ひけつのう挽救自己じこてき名聲めいせい乃至ないし生命せいめい。」[29]

りょうあきらちょうざい《曾文せいおおやけ嘉言かげん鈔》じょ內指曾國はんあにおもんみ近代きんだいぶた有史ゆうし以來いらい一二睹之大人也已;あにおもんみ我國わがくにそもそもぜん世界せかいいち睹之大人おとな也已。しか而文ただしかたゆうちょうぐん絕倫ぜつりん天才てんさいざいなみ諸賢しょけんすぐるちゅうたたえさいどんつたな;其所遭值ごとかいまた終生しゅうせいざいゆびぎゃくちゅうしか乃立とくたてこう立言りつげんさん不朽ふきゅうしょ成就じょうじゅふるえ鑠今而莫與きょうしゃ,其一生得力在立志自拔於流俗,而困而知,而勉而行,れきひゃく千艱阻而不挫屈,もとめきんこう,銖積すんるい,受之以虛,將之まさゆき以勤,うえ以剛,貞之さだゆき以恆,そち以誠,勇猛ゆうもう精進しょうじんけん卓絕たくぜつ。」[30]

ひだりはじめたい曾國はんてき輓聯:「知人ちじんあきらはかりごとこくちゅう愧不如元輔;同心どうしんわかきんこう錯若せきそうまけ平生へいぜい[31]。」

みんこく著名ちょめいてききよし史學しがくしょういちやまはた曾國はんあずかひだりむね棠對:「くにはん謹慎きんしんしょうそう棠以ごう邁勝。」[32]

雲南うんなんてき蔡鍔將軍しょうぐんたい曾氏以愛へいらいづくり仁義じんぎてきへい思想しそう推崇備至:「おびへい如帶子弟していいちさいため慈仁きりのう以此そんしんのり古今ここんたいへい格言かくげん千言萬語せんげんばんごみなづけいち炬。」[33]

じょちゅうやくざい中國ちゅうごく近代きんだいちゅう如此評價ひょうか曾:「曾國はんてき政治せいじ家風かふう品格ひんかく個人こじん修養しゅうよう很少有人ゆうじんのう匹敵ひってきあるもとじゅう九世紀中國最受人敬仰、さい偉大いだいてき學者がくしゃがた官員かんいん」,ずいせついたただし卻被うまかつおもえ主義しゅぎ學者がくしゃ斥責ため漢奸かんかん劊子しゅためりょう滿まんきよしぞく統治とうちしゃてき利益りえき背叛はいはん屠殺とさつりょう同胞どうほう。」[34]じょ評論ひょうろんどう「曾國はん雖然なみ非才ひさいはな橫溢おういつただし卻是いち堅持けんじ信念しんねん孜孜しし倦的士人しじん」,「ざい居留きょりゅうきょうじょう其間,あずか一些宋派理學的首要人物交友,なみしたがえ們那うらりょうたいせい」、「たいかずやくてきりょうさとる,這些信念しんねん運用うんよういた實際じっさい事務じむちゅうそく意味いみしょへんおどろき、臨危懼和つとむじつ克己こっき在日ざいにちてき生涯しょうがい中將ちゅうじょうだいだい利益りえき於這些品格ひんかく。」[35]

中國ちゅうごく現代げんだいうえりょう著名ちょめい人物じんぶつ中正ちゅうせい毛澤東もうたくとう高度こうど評價ひょうか曾國はん青年せいねん時代じだいてき毛澤東もうたくとう曾說「所謂いわゆる本源ほんげんしゃ,倡學而已矣。博學はくがく基礎きそいまじん無學むがく基礎きそあつしん懼傾於近じんどくふく曾文ただしかん收拾しゅうしゅうひろしいちやくかん滿まん無缺むけつ使つかい以今じんえき其位,其能如彼かん滿まん[4]?」そく使つかいざい晚年ばんねんかえ曾說:「曾國はんただし地主じぬし階級かいきゅうさい厲害てき人物じんぶつ。」蔣中正ちゅうせいたい曾國はんさらいただきれいまくはいみとめため曾國はんためじんみち,「あしためわれじん師資しし」,「其著作為さくいにんなん政治せいじしょ必讀ひつどく」。曾胡へい語錄ごろくとうさく教導きょうどう高級こうきゅう將領しょうりょうてき教科書きょうかしょ[5]自己じこまたはた《曾文せいおおやけ全集ぜんしゅう常置じょうちあんつくり終生しゅうせい拜讀はいどく輟。

まけめん

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曾國はんきょかんみつるぐんこころ狠手辣[註 5],其指揮しきてき湘軍しょうころせ搶掠とう情事じょうじ屢見鮮。

曾國荃おさむかつあんけいときいちにち屠殺とさついちまんめいせん平民へいみん事後じご曾國荃頗ゆう顧慮こりょうつししんきゅう其兄曾國はん。曾國はん竟回しょしょう以殺ぞくためこころざしなに必以ころせため悔。」[36]

曾國はんてき幕僚ばくりょうちょうれつぶんざいのうせいきょ日記にっきちゅう詳細しょうさい記載きさい,曾國荃率湘軍おさむやぶ太平たいへい天國てんごく都城みやこのじょうてんきょう南京なんきんだい肆殺かすめ:「……沿街死屍ししじゅうきゅうみなろうしゃ。其幼孩未滿みまん三歲者亦斫戮以為戲,匍匐ほふくどうじょう婦女ふじょよんじゅうさい以下いかしゃいちにん俱無,ろうしゃ負傷ふしょうあるじゅうあまりがたなすうじゅうがたな……」。湘軍大將たいしょう彭玉麟じょう不滿ふまん先後せんご(1861ねんあん慶之よしゆきかこえあずか1864ねんかねりょうかこえ)致函曾國はん要求ようきゅう大義たいぎめつおや當時とうじきむりょう大夫たいふゆう隱語いんご:「昨夜さくや諸侯しょこうこん庶人,こうやすし民家みんかつき死人しにん!」[註 6][37][38]南京なんきん百姓ひゃくしょういたりこん仍以「曾剃あたま」、「曾屠[註 7]とう稱呼しょうこ曾國はん曾國荃兄弟きょうだい太平たいへい天國てんごくてんきょうしろやぶさんじゅうねんたん嗣同ざい南京なんきん仍聽當地とうちじんせつ:「(湘軍)いちやぶしろじんそくころせそくしょう子女しじょだま帛掃すうにゅう於湘ぐん,而金りょうとげえいきゅう矣。いたりいま父老ふろうごとなおふかいきどお恨。」[39]

1870ねん爆發ばくはつ天津てんしん教案きょうあん,曾氏處理しょり失當しっとう,一味指責天津民眾,しょうはん法的ほうてききょうみん釋放しゃくほうなみ且親こうほう國道こくどう歉,全國ぜんこく輿論よろんだい嘩,「京師けいし及各しょうみな斥為謬論,けん肯信」,輿論よろん甚為不滿ふまんしょう其為國賊こくぞく使つかい曾國はんてき聲譽せいよだい影響えいきょう,曾國はんただこう屢屢どう歉,自稱じしょう:「そと慚清,內疚神明しんめい」,曾國はん後來こうらい隱蔽いんぺい不出ふしゅつ,避免ちょく人民じんみん詬罵。此事ゆずるいきどおなりやまし身體しんたい江河こうが日下くさか兩年りょうねんそく病死びょうし

歷史れきしがく范文瀾しょう其為屠殺とさつ同胞どうほうこび滿まんこびがいてき漢奸かんかん劊子しゅ[40]

きのねん建築けんちく

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  • 曾國はん全身ぜんしん患有嚴重げんじゅうてきうし皮癬ひぜん[41]傳說でんせつ蟒蛇うわばみうたて[42]曾國はん最愛さいあいどもただしまたさい怕雞曾國はんいた「雞毛れいそうこつ悚然しょうぜん[らいみなもと請求せいきゅう]よりどころせつへび很怕焚燒雞毛てきあじどう[43]ただし曾喜あいども雞屁またつねざい勝戰かちいくさあるなま日時にちじ,廚房かいうずたか雞屁,一盤如壽桃今蛋糕供他享用,しょ以曾しょいたこれしょ太平たいへいぐん沒頭ぼっとう,雞沒またおもむきだん,以致曾之めい學生がくせい鴻章こうしうきょうじょ曾平太平たいへい不學ふがく曾趕つきころせぜっ作法さほう俘虜ふりょれつ出自しゅつじ挑選なり清新せいしんぐんそく淮軍はじめただし曾吃雞屁てきかい嗜好しこう後來こうらい曾直きょうつとむ大官たいかん,竟授與じゅよ西にしふとしきさきどもにかわあぶらやしなえがお美容びよう
  • かんじょう現形げんけいてき作者さくしゃはくもとざいみなみてい筆記ひっきまき八記載了一則關於曾國藩的趣事:曾與詩人しじんかい秋原あきばるため莫逆ばくぎゃく交。ぼうとし元旦がんたん曾國はんしょはいねん書房しょぼうてきしょ桌硯あついちはり閱之,はららい曾國はんあいだひま舉其平日へいじつともみなあずかさく輓聯(此為せい輓),またざい其中。だいいかはらいころも而去。兩人りょうにんしたがえ斷交だんこう

曾氏家族かぞく

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先祖せんぞ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父こうそふ曾輔しん
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父そうそふ曾竟まれ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖父そふ曾玉へい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母そうそぼ彭氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちち曾麟しょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖母そぼおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
曾國はん(1811-1872)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふこうけい
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふこうひろしてる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖父がいそふこう霈霖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ははこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖母がいそぼくま
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ちょうやから

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  • ちち:曾麟しょ(1790—1857)
  • ははこう
  • 岳父がくふおうしこり(1784—1869),原名げんめい鰲,まためい滄溟そうめい福田ふくだ
  • たけはは:邱氏
  • なか叔:曾鼎みこと
  • さん叔:曾驥くも

同輩どうはい

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  • ちょう姊:曾國らんちょう姊夫おうほうとお
  • いもうと曾國蕙おっとおうまちそうとうしょ吏不なり
  • いもうと曾國しばおっとしゅひさしはる
  • 滿まんいもうと:痘殤。
  • おとうと曾國潢(1820-1886),原名げんめいこくえいきよしこう,曾麟しょ次子じしぞくちゅうはいぎょうだいよんいん此被曾國はんしょうためよんおとうと,曾氏兄弟きょうだいあいだみな以族ちゅうはいぎょう相稱そうしょう
  • さんおとうと國華こっか(1822-1858),ぬるはじめ,曾麟しょだいさんぞくちゅうはいぎょうだいろく鎮壓ちんあつ太平たいへい天國てんごく戰死せんし三河みかわ
  • よんおとうと曾國荃(1824-1890),沅甫,曾麟しょだいよんぞくちゅうはいぎょうだいきゅうにんたたえ「曾老きゅう」。鎮壓ちんあつ太平たいへい天國てんごくまとようりょくはたかんいたりりょうこう總督そうとく
  • ようおとうと曾國葆(1829-1862),ひろしこうさらめいさだみきごとつねざい兄弟きょうだいにんちゅう年紀としのり最小さいしょう病死びょうしあめ花臺かだい
  • おもておとうと彭毓たちばな
  • つまおう
  • わらわちんはるつばめこうやすしひと嗣。

めいやから

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  • 侄子:曾紀はりたかし)(1842—1925),曾國潢之子ゆきこ。「やから中年ちゅうねんことぶき最高さいこうしゃため湘鄉だいかい曾氏[45]族長ぞくちょう
    • めいまご:曾廣祚
      • めい曾孫そうそん曾昭掄(1899-1967)。
  • 侄子:曾紀みぞしゅ
  • 侄子:曾紀みずこう),曾國荃之子ゆきこ兵部ひょうぶいん外郎ういろう
  • 侄子:曾紀かんおうりゅう),曾國荃之子ゆきこ戶部とべいん外郎ういろう
    • めいまご:曾廣こう(1868—1921),安徽あんきこうどう,誥授つう大夫たいふすすむせい大夫たいふ
      • めい曾孫そうそん:曾昭和しょうわ(1888—1957),湖南こなん公立こうりつ法政ほうせい專門せんもん學校がっこう畢業。曾任湖北こほくなつこう地方ちほうほういん推事
  • 侄子:曾紀湘えき
  • 侄子:曾紀ことぶきろう)(1855—1930),國華こっか次子じし
    • 侄孫:曾廣錡(1918—?)曾紀ことぶきだいなな著名ちょめい化學かがく中國科學院ちゅうごくかがくいん上海しゃんはい化學かがく研究所けんきゅうじょふく研究けんきゅういん

まごやから以下いか

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包括ほうかつまごやから曾孫そうそんやから玄孫げんそんやから
  • 曾紀さわけい
    • 孫子まごこ曾廣銓,曾紀さわ撫子なでしこ,曾紀おおとりよんつま
    • 孫子まごこ:曾廣めいじ,曾紀さわよう殤。
    • 孫子まごこ曾廣鑾,曾紀さわ三子みつこ
    • 孫子まごこ:曾廣,曾紀さわよん,8さいびょうほろび
    • まごおんな曾廣璇,曾紀さわ長女ちょうじょよめけい鴻章こうしうおとうとおとうとつるあきらてきだいよん
    • まごおんな曾廣珣,曾紀さわ次女じじょよめひさし
    • 曾孫そうそん曾約のう(曾昭檆)[註 8],曾廣銓長子ちょうし台灣たいわん東海大學とうかいだいがくくびにん校長こうちょう
    • 曾孫そうそん:曾昭ほとび,曾廣銓次子じし,20さいびょうほろび
    • 曾孫そうそん:曾昭揆,曾廣鑾撫曾廣鎔だい三子みつご,20さいびょうほろび
    • 曾孫そうそんおんな曾寶荀,曾廣銓側しつもと所生しょせいよめさざなみげんじんすすむ
    • 曾孫そうそんおんな曾寶:曾廣鑾側しつあまね所生しょせいよめえきじん蔡聲みず
  • 曾紀おおとりけい
    • 孫子まごこ曾廣ひとし,曾紀おおとり長子ちょうし
    • 孫子まごこ曾廣鎔,曾紀おおとりさん
    • 孫子まごこ曾廣鍾,曾紀おおとりだい
    • まごおんな曾廣珊,曾紀おおとり獨女どくじょてき俞明頤ぜん中華民國ちゅうかみんこく國防こくぼう部長ぶちょう俞大維これはは
    • 曾孫そうそん曾昭くい,曾廣ひとし次子じし
    • 曾孫そうそん曾昭かば,曾廣ひとしだい三子みつご
    • 曾孫そうそん曾昭柯,曾廣ひとしだいよん中央ちゅうおう陸軍りくぐんぐんかん學校がっこう15畢業,國民こくみん政府せいふ軍政ぐんせい外事がいじきょくしょうこう參謀さんぼう[46]
    • 曾孫そうそん曾昭おく,曾廣鎔次
    • 曾孫そうそん曾昭楗,曾廣鎔第さん
    • 曾孫そうそん曾昭わた,曾廣鎔第
    • 曾孫そうそん曾昭諫,曾廣鎔第ろく
    • 曾孫そうそん曾昭けん,曾廣鍾長子ちょうし美國びくにあさしょう理工りこう大學だいがく電機でんき工程こうてい學士がくし[47]湖南こなん大學だいがく電機でんきけい主任しゅにん教授きょうじゅ[46]
    • 曾孫そうそん曾昭桓,曾廣鍾次
    • 曾孫そうそん曾昭よう,曾廣鍾第よん
    • 曾孫そうそんおんな曾寶菡,曾廣鍾元はいしょう所生しょせい
    • 曾孫そうそんおんな曾寶,曾廣鍾元はいしょう所生しょせい
    • 曾孫そうそんおんな曾寶蓀,曾廣ひとし側室そくしつちん所生しょせい
    • 曾孫そうそんおんな曾寶ひし,曾廣鎔元はい所生しょせい
    • 曾孫そうそんおんな曾寶しば,曾廣鎔繼しつあまね所生しょせい
    • 曾孫そうそんおんな曾寶蘅,曾廣鎔繼しつあまね所生しょせい
    • 曾孫そうそんおんな曾寶葹,曾廣鎔繼しつあまね所生しょせい
    • 曾孫そうそんおんな曾玉莎,曾廣鎔繼しつあまね所生しょせい
    • 玄孫げんそん曾憲ぶん,曾昭揆撫,曾昭けんだい
    • 玄孫げんそん曾憲衡,曾昭くい長子ちょうし
    • 玄孫げんそん曾憲,曾昭柯長子ちょうし
    • 玄孫げんそん曾憲はな,曾昭わた長子ちょうし
    • 玄孫げんそん曾憲さかえ,曾昭けん
    • 玄孫げんそん曾憲もり,曾昭けん
    • 玄孫げんそん曾憲怡,曾昭よう撫子なでしこ,曾昭けんだいろく
  • 曾紀琛系
  • 曾紀芬系
    • 外孫そとまご:聶緝槼さん聶其すぐる(1880ねん-1953ねん),くもだい法號ほうごうとしすぐる企業きぎょう
    • 外孫そとまごおんな:聶緝槼女聶其とく(1885ねん-1971ねん),ぎょうろくてきみん國政こくせいようちょう其鍠
    • 曾外まごおんな:聶緝槼外まごおんなちょうこころ(1915ねん-),てき中華民國ちゅうかみんこく財政ざいせい部長ぶちょう
    • 曾外まご:聶緝槼外まごちょうこころあまね(1920ねん-1972ねん),曾任中華ちゅうか開發かいはつ信託しんたく公司こうしそう經理けいり
    • 曾外まご:聶緝槼外まごちょうこころ (1923ねん-2004ねん)。
    • げん外孫そとまご:聶緝槼外曾孫そうそんちょうたかしたけし(1951ねん-),現任げんにん台灣たいわんだい哥大そう經理けいりちちちょうこころあまね
  • どう玄孫げんそんおんな曾憲うえ,曾國荃玄孫げんそんおんなつるぎえいぜん夫人ふじん
  • どう曾孫そうそん曾昭掄,曾國潢曾孫子まごこ
  • 曾侄まご曾昭りん

參考さんこう資料しりょう:《たかしとく老人ろうじんはちじゅう年譜ねんぷ

かげ形象けいしょう

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えんじいん 作品さくひん とし 類型るいけい
りゅうこう 太平たいへい天國てんごく 1988 でんげき
ちょうこくきょう じょうおうそうすぐる 1997
まごとら 太平たいへい天國てんごく 2000
もり雨露うろ 大國たいこくせんゆめ 2013

註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ 此事つね歷史れきしがく拿來あずか洪秀全こうしゅうぜんてきよんだい對比たいひゆういちたいたからわらいがら
  2. ^ なにかつらきよし曾國はんとも同年どうねん進士しんし名次なつぎりゃく於曾こくはん,22ねんとうとためりょうこう總督そうとく,卻與太平たいへいぐん二破江南大營時躲至上海,清朝せいちょう處決しょけつあらためはい曾國はんりょうこう總督そうとく
  3. ^ 歷史れきしがくはじむ東方とうほううつし此說出自しゅつじそうかくりんおうじいたてまつれい巡視じゅんし南京なんきんしるしおさむ戰果せんか嘆語,曾國はんしょ
  4. ^ 重光しげみつろん曾國はん》:「おっと近代きんだい中國ちゅうごく,內罹かみねじこれみだれそと夷狄いてきおかせ此方こちら危急ききゅうあき也。一時いちじ豪傑ごうけつなみおこり,內亂迭生,天下てんか趨於不治ふちはじむみんげん乎不せいくにはん也,剿滅そうめつひろしぎゃくじつやすみんきゅう需;倡行ようつとむ,奠強こく根本こんぽん,此皆たれ勛功,れき來世らいせ人稱にんしょうしかひと以為曾國はんこうころせとげ以『曾剃あたまいいあきら以為しか也。なに也?ぶた曾國はんいずるしょ書生しょせいゆう武將ぶしょうころせ以樹ころせ以懾ぎゃく,且髮ぎゃく太平たいへいぐん不屈ふくつころせとう乎聚てき也。曾國はん善用ぜんようじん,其幕府ばくふ人才じんさい濟濟せいせい,如ひだりはじめえびすはやしつばさ彭玉嶙とう其步ひとしみないち代將だいしょうざい,曾國はんぐう子弟してい用人ようにんうたぐいたり蕩盡とうじんひろしぎゃくよう精兵せいびょうすうじゅうまんひかえ江山えやまきんはんかべ,苟聽はかりごとげんのり南面なんめんしょうおう朝廷ちょうてい莫能せい也。曾國はんはじ曹莽ためこばめ其教ごとはた湘軍つきすう解散かいさん,乃成ちゅうめい處世しょせいねり猾,城府じょうふいたりふか喜怒きどかたち於色,紛擾ふんじょうるい於懷,しょあずかはつぎゃくごとせんきたすう殆覆ぐんさら朝臣あそん構怨,きみじょう猜測,此時也,曾國はん老子ろうしこれじゅつ清心せいしん寡欲かよくつとむ勵,使つかい此堅こころざしなんいさお自律じりつごくいむふけ聲色こわいろあい金錢きんせん不逞ふていおごはな行軍こうぐん起居ききょただ麻衣まいたけ也,為當ためとうだいかん罕見也,教子きょうこ以慈,とくおとうと以嚴,家法かほう縷析,雖行ぐん匆忙あいだゆうわたる而不はい一生いっしょうあつこう學問がくもん作文さくぶん每日まいにち輟,其文也稱於時也。」
  5. ^ 曾國はんてきこころ狠手辣還以從こく製造せいぞう冤案,濫殺無辜むこ充分じゅうぶん了解りょうかい性格せいかくはやしあきらこう冤案そく曾氏早年そうねん故意こい誤判ごはんてき冤案,曾國はんざい審理しんり此案也知どう疑點ぎてん頗多,ただし仍將りん明光めいこうしょ晚年ばんねんてき曾國はん仍然惜犯錯,にん恆俊つねとし非常ひじょう規則きそくばんきよし社會しゃかいてき真實しんじつ遊戲ゆうぎいちしょだいろくしょうつかれ軟的監督かんとくひさげいた曾國はんざいちょく隸總とくにんじょう,一位民婦的丈夫出外長期未歸,曾國はん按照はかりごとがい親夫ちかおていりょうあん最後さいごしょ以極けいだれみんりょうこれ丈夫じょうぶ竟然歸來きらい知道ともみち妻子さいしやめけいがえ自己じこつぐなえりょういのち憤然ふんぜんよう上訴じょうそ。其時曾國はんやめけい調ちょうにんりょうこう總督そうとく後任こうにんてきちょく隸總とく此事あつりょうらいせき於曾こくはんつとむちょく隸總とく期間きかんしょ製造せいぞうてきはかりごとがい親夫ちかおあん」,參考さんこうはやしかつこうおう道成みちなりあなさちきちぬしへん:《近代きんだいきょうはな史跡しせき》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんねんばんだい146-148ぺーじ
  6. ^ 昨夜さくや諸侯しょこうこん庶人,ゆび「曾經」擔任たんにんくにはん」,そく曾國はん
  7. ^ しばがくざい梵天ぼんてんいおりくさむらろく記載きさい一日曾國藩路過,うりももじんあずか顧客こきゃくそう吵,うれしゃせつかえぼつづけ款,かいしゃ說付ときつけりょう後來こうらい證明しょうめいうりしゃ撒謊,曾國はんたてそくれいはた斬殺ざんさつ,「いちがいだい嘩,みん眾驚よび:『欽差殺人さつじんりょう!』いん而得めい曾屠。」
  8. ^ えんうらない」 / 「檆」;「檆」,拼音shanちゅうおとㄕㄢおとどうすぎ

參考さんこう文獻ぶんけん

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引用いんよう

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  1. ^ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 1.20 1.21 1.22 1.23 1.24 1.25 1.26 1.27 1.28 1.29 ちんあさひふもとほうめいじけん猷主へん (へん). 《中國ちゅうごく近代きんだいてん》. 上海しゃんはい辭書じしょ出版しゅっぱんしゃ. 1982. 
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  43. ^ きよし袁枚せんずいえん隨筆ずいひつ記載きさいせつ:「焚雞おさむへびきょ虺,聞氣即死そくしみずち蜃之るいまたかしこ此氣。」そん
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らいみなもと

編輯へんしゅう

まいり

編輯へんしゅう
かん
前任ぜんにん
なにかつらきよし
りょうこう總督そうとく
咸豐じゅうねんどうななねん
(1860ねん-1868ねん
つぎにん
うましん
前任ぜんにん
賈楨
武英たけひで殿どのだい學士がくし
どうななねんどうじゅういちねん
(1868ねん-1872ねん
つぎにん
鴻章こうしう
前任ぜんにん
かんぶん
ちょく隸總とく
どうななねんどうきゅうねん
(1868ねん-1870ねん
つぎにん
鴻章こうしう
前任ぜんにん
うましん
りょうこう總督そうとく
どうきゅうねんどうじゅういちねん
(1870ねん-1872ねん
つぎにん
なに