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一期一振 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

一期いっきいち

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一期いっきいち一期いっきいち/いちごひとふりこれあわ田口たぐち吉光よしみつ所作しょさてき日本にっぽんがたな太刀たち[1]とおる名物めいぶつちょう燒失しょうしつしょ記載きさいてき名物めいぶつ[1]みや內廳はた其編ごうため御物ぎょもつ番号ばんごう28『山城やましろ国吉くにきちこう御太刀みたち』。かたなめいてき意思いし一生只作一振的太刀[1]

由來ゆらい[编辑]

粟田口あわだぐち吉光よしみつ鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきざい山城やましろこく活躍かつやくてき刀工とうこう,其鍛造たんぞう日本にっぽんがたなあずか正宗まさむねごう義弘よしひろとうみとめため名物めいぶつさんさくいにしえ以來いらい受到珍藏ちんぞう粟田口あわだぐち吉光よしみつてき作品さくひんだい多數たすうため短刀たんとう,而太がたな卻僅ゆういちため日本刀にっぽんとうてきりょう),いん細川ほそかわ幽齋ゆうさいはた命名めいめいため一期いっきいち[2]

由來ゆらいゆう越前えちぜん朝倉あさくら傳來でんらいほん阿彌あみゆうとくざいさかいようぎんさん十枚買入並被豐臣とよとみ秀吉ひでよし用金ようきん10まい要求ようきゅうじょうきょう天正てんしょう18ねん(1590ねん)ゆかり毛利もうりじょうきょう豐臣とよとみ秀吉ひでよしとう各種かくしゅ不同ふどう說法せっぽう[1]

豊臣とよとみこしぶつちょう記載きさいりょう豐臣とよとみ收藏しゅうぞうてき名刀めいとうよし一之箱至七之箱分門別類,而一期一振被收納在最前的「一之かずゆきばこちゅう,而其中也ちゅうや記載きさいりょうこつくえふじ四郎被收藏在接著的第二把[3][1]。此外,目貫めぬき(めぬき)あずか笄(こうがい)やめけい後藤ごとうゆうじょう製作せいさくてきはいけんかえかわ[1]

大坂おおさかなつじんときだい坂城さかき陷落かんらくきわしょう毀,初代しょだい越前えちぜんやすしつぎ下坂しもさかやすしつぎはた其重しん鍛造たんぞう[1][4]。此時原本げんぽんしゃくはちすんさんふんてきがたなすりせいためしゃくすんさんふんめい變更へんこうためがくめいじなみ記錄きろくざいとおる名物めいぶつちょうちゅう[1][註釋ちゅうしゃく 1]根據こんきょ駿府すんぷ政事せいじろくしょじゅつ大阪城おおさかじょう陷落かんらくへだたがつてき16にちゆかり京都きょうと下坂しもさかじゅうしん鍛造たんぞう遭毀てきかたな[1]。其後ほんさく保存ほぞん名古屋なごやじょう,「名物めいぶつちょう」也分別記べっきろくりょう此刀ため將軍家しょうぐんけ尾張おわりもの[1]

どきいたり幕末ばくまつ文久ぶんきゅう3ねん1863ねんだい15だい尾張おわりはんあるじ徳川とくがわ茂徳しげのりはたいちいち獻上けんじょうきゅう孝明天皇こうめいてんのう。此後便びんなりため御物ぎょもつ[1]ゆかり歷代れきだい天皇てんのう繼承けいしょう上皇じょうこう明仁あきひとざい繼承けいしょうれつため由緒ゆいしょぶつぞく日本にっぽん相続そうぞく税法ぜいほうだい12じょうだい1こうだい1ごうしょ規定きていてき非課稅ひかぜい繼承けいしょう財產ざいさん

作風さくふう[编辑]

ちょう68.78おおやけぶんはん2.58おおやけぶんくきはんいく乎沒ゆうもとはば3.18おおやけぶんさきはば2.36おおやけぶん元重もとしげ0.76おおやけぶんさきじゅう0.67おおやけぶんくきちょう17.27おおやけぶん切先きっさきちょう3.48おおやけぶん[7]。鎬造、あんとう、豬首切先きっさき

作為さくい由緒ゆいしょ物的ぶってき刀劍とうけんうけたまわ擔許宮中きゅうちゅう祭祀さいしとうこうのう由緒ゆいしょ物的ぶってきいちいちあずか1909ねん明治めいじ42ねん公爵こうしゃく伊藤いとうひろしくに獻上けんじょうてき相州あいしゅう行光ゆきみつ太刀だち由緒ゆいしょぶつ共同きょうどうざい毎年まいとし10月17にち進行しんこうてき宮中きゅうちゅう神嘗祭かんなめさい使用しよう

腳註[编辑]

註釋ちゅうしゃく[编辑]

  1. ^ 1615ねん元和がんわ元年がんねん)5がつ7にち戦利せんりひんとして徳川とくがわ家康いえやすもとわたり、よろこんだ家康いえやす明石あかしぜんとう所持しょじしていたこのかたなをどうやって入手にゅうしゅしたかを権田ごんだ太夫たゆうたずねたところ、ぜんとう消息しょうそくについては確認かくにんれなかったとする異説いせつげられている[5]福永ふくながは『光徳みつのりがたな絵図えず』のぶんろく3ねん1594ねん)、ぶんろく4ねんの押形は一致いっちし、大阪城おおさかじょう落城らくじょうのちとなる元和げんな元年がんねんのものは帽子ぼうし状態じょうたいことなるものであったことから、落城らくじょう半年はんとし以内いないほんさくなおしされた証拠しょうことして1657ねんあかりれき3ねん)の大火たいかけたとするせつあやまりとして否定ひていした[5]。また福永ふくながぜんとう逃亡とうぼうのため意図いとてきいてのがれたとの憶測おくそくべている[6]

出典しゅってん[编辑]

  1. ^ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 福永ふくなが 1993.
  2. ^ 柴田しばた, 光男みつお; 大河内おおこうち, つねひらめ, 趣味しゅみ日本にっぽんがたな, 雄山閣ゆうざんかく出版しゅっぱん: 255, 2005, ISBN 4-639-01881-9 
  3. ^ ほん阿弥あみ光徳みつのり, 本間ほんま順治じゅんじ , 编, 光徳みつのりがたな絵図えず集成しゅうせい, 便利べんりどう, 1943 
  4. ^ 佐藤さとう貫一かんいち, かんつぎ大鑑たいかん, 日本にっぽん美術びじゅつ刀剣とうけん保存ほぞん協会きょうかい: 101–102, 1960 
  5. ^ 5.0 5.1 福永ふくなが 1993だい87ぺーじ.
  6. ^ 福永ふくなが 1993だい87-88ぺーじ.
  7. ^ 本間ほんま順治じゅんじ; 佐藤さとう貫一かんいち, 日本にっぽんがたな大鑑たいかん 古刀ことうへん1【図版ずはん】, 大塚おおつかたくみげいしゃ: 50, 1968-07 

参考さんこう文獻ぶんけん[编辑]

關聯かんれん文獻ぶんけん[编辑]